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蚶満寺参詣

 
皇宮山 蚶満寺
                                    秋田県にかほ市象潟町
 
    御本尊 釈迦三尊      
              左より普賢菩薩、釈迦如来、文殊菩薩
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曹洞宗のお寺さんですが、慈覚大師円仁の開山と伝えられ、 始めは天台宗だったのが、後に真言宗、そして曹洞宗に改宗し現在に至っているそうです。
 
                境内入り口の参道
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  ところがすでに慈覚大師開山伝説以前、壮大なドラマを含んでいるお寺さんでもあるんです
            本堂                  寺号額には『蚶満珠禅寺』とある。
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時は紀元859年、日本武尊の子、第14代仲哀天皇は筑紫国熊襲征討の折、橿日宮に詣で、天照大神と住吉神より三韓を先に討つべし、との神託を授かったがこれを無視したために病没。この時、妻の神功皇后は懐胎中であったが腰に石を二つ押し込み、出産を抑えて仲哀9年4月、筑紫より新羅に向かい、たちまちにして三韓を征討した。
 
10月下旬凱旋帰国の際、大時化が続いたあくる日、象潟の沖合いに千匹の鰐に守られながら皇后の乗る船が漂着。臨月近い玉体は仮宮を営み御遷り願った。その地は今の蚶満寺の境内袖掛地蔵尊の位置であり、天明年中までは「袖掛の松」があった。
                現在の木は新たに植えられたもの。
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皇后はこの仮宮で、霜月15日、第15代応神天皇を出産され、翌年4月吉日、筑紫の香椎宮に向かわれた。応神天皇は八幡神社の御祭神とされ、象潟の地には古より、船着八幡、腰掛八幡、若宮八幡、袖掛八幡が祀られている
                              本堂内に祀られた八幡神「応神天皇像」
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慈覚大師開山
天台宗三代座主慈覚大師円仁は仁寿三年(853)、象潟に巡錫し、一宇を建立して皇后山干満珠寺と名付け、一刀三拝の下に地蔵菩薩を刻み袖掛地蔵堂に安置した。
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大師がここに寺を建立したのは、象潟は神功皇后漂着、応神天皇出生の聖地であり、景観の美しさに感じ
入り、八幡宮に奉納した潮干る珠と潮満る珠の由縁にちなんだものであったという。
 
まだまだこれで終わりではない。
 
なんと、ここにはあの時頼廻国伝説もある...
 
鎌倉幕府北条五代執権時頼と蚶満寺。
「正嘉年中(1257〜59)、得宗領廻国のため時頼はこの地に来たりて象潟の景色を感歎し、久しく留まりて数多の詠歌を残されたり。鎌倉へ帰りて後、田園を寄付し、寺塔を修理して荘厳の霊地となし、景勝を添えたりしも、その後、星移り衰廃し継続の者もなく、ただ末葉十四員にて輪番なるのみ」『出羽風土記』
また、明治38年当山三十七世植木石英の『象潟誌』には「時頼、象潟に来たり、その風光を愛しここに越年
し、放生島の放生会を済まして、ここに殺生禁断の制札を建つ。時に蚶満寺頽廃して観るべからず、時頼これを再興し、その奉ずる所の禅宗に改め、且つ象潟一円、寺領たるの朱印を付けし、手ずから躑躅を植え、又十種の詠歌あり』と記されている。
                           時頼手植えの躑躅
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時頼は京の仁和寺において某法親王に「蚶満」のニ大字の書をいただき現在の寺名になったとも伝えられており、これが縁なのか蚶満寺の寺紋は北条家家紋と同様の「三ツ鱗紋」を用いている。
                                                                              鬼瓦に見える「三ツ鱗紋」
                                      菊の紋章は、閑院宮家祈願所となったことによる。
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                浄土真宗の開祖親鸞聖人も訪れたというのか腰掛の石
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にかほ市指定史跡「芭蕉句碑」                猿丸太夫姿見の井戸...夜中自分の姿を井戸に映したら                                    将来の姿が映ったという。三十六歌仙の一人。
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あれかと思いきや...........
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この瘤かと思ったが、どうやらその陰に隠れているらしい..........
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                       きりがないので新しくなった十王堂を紹介してお開きといたします........
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