奥羽*温故知新

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遠野南部氏関係史料[7]

遠野南部氏関係史料[7]
 
 
              『八戸御家二十二代 弥六郎直栄様御代大概之覚書』  
 
 遠野村替の顛末「Ⅶ」
 
「八戸(遠野)南部家文書」の概要
 近世に編纂された松前藩の正史「新羅之記録」は、南部・安藤両氏の抗争を三戸南部氏と下国安藤氏の争いと描いているが、安藤氏惣領家の相伝文書が「八戸(遠野)南部文書」の一部をなす「新渡戸文書」の中に収められており、それによると南部方勢力の実体は「二つの南部」ともいうべき三戸・八戸家の連合軍であり、十三湊攻略の主体を担ったのは八戸南部家であった可能性を示唆している。
 
 そのことは、康正三年(1457)に下北半島で起こった「蠣崎の乱」(東北太平記参照)鎮圧の賞として与えられた18点にのぼる奥州探題大崎教兼の官途推挙状や八戸家による田名部(下北半島)支配の事実からも言える事である。
蠣崎蔵人が本拠とした錦帯城本丸跡(むつ市川内町)   本丸跡に建つ蠣崎蔵人の供養塔
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 のち八戸家は、この官途推挙状を山科教兼のものと解釈し、「蠣崎蔵人の朝廷に対する反乱」と「後花園天皇の勅命による蠣崎追討」の物語を創作して、田名部(下北半島)を「朝廷から直々の拝領地」として主張するようになった。
 (しかし、この田名部(下北半島)も元和三年(1617)「田名部貸上」として、事実上三戸南部家に取り上げられてしまう事になる。)

 
 
 さて、話は変わり近世文書『弥六郎直栄様御代大概之覚書』の続き。
 前回は、三戸南部家の理不尽な村替えの命令に対し憤りを感じながらも断ることが出来ず利直の意向に添う形になり、もう一泊してから八戸に帰ることになった直栄でした。
 
 今回はページ最後から4行目...
 一、翌26日(寛永四年2月26日です)、またまたお城(三戸城)へ招かれ、利直が言うことには「遠野に引っ越ししたならば、家臣たちに公用馬を30匹ほど持たせることは出来ないだろうか?」と打診された。
 そこで直栄は、「このたび私を遠野に派遣されるのは仙台藩との藩境として重要な地だからだと思います。遠野は山林に恵まれ草地にも不自由しない所だと聞いていますので、
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(次ページ)
 八戸家中の公用馬は60匹ほどを持たせようと思っています。」と答えたら、利直曰く、「それは思ってもみなかった馬数ですね。しかし、それでは禄高の少ない家臣は難儀するでしょう。持たせるために何かいい考えでもあるのですか?」と、不審に思い尋ねた。
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 直栄曰く、「ご不審はごもっともですが、下級武士たちの知行地の周りに耕作地を割り出し、耕作権を与えます。田畑を作るには馬数がなくてはどうにもなりません。必要な馬数を持たせ、常時は物を運ぶための馬として使い。万が一、有事の際には乗用馬として使えるようにさせ、駄馬は母駄にし、(盛岡藩では上等な馬や牡馬を「駒」、牝馬を「駄」とも呼んでいた。 その中で繁殖能力を備えた牝馬を「母駄」と呼んだ。)
 
 生まれた牡馬の良し悪しを見極め、公用馬として訓練する馬はそのように心がけて飼っていけば、「駄」「駒」共に無駄飼いすることはなく、三十石以上の家士共、並びに寄進地を持つ寺院にも馬を飼育するように申し付けるつもりです。」と、答えたならば、利直は大変満足し、遠野に引っ越しした後は牛馬、山川共に三戸南部家より口出ししないので自由に務めを果たしてくれるべき事、そして、この度大勢での引っ越しに付き、不自由、気がかりな事があると思うので...
 
(次ページ)
遠野の城にある御蔵米3,500駄余りを手助けとして贈ってくれることを言ってくれたので利直にお礼を言い、八戸根城へ帰り遠野へ引っ越しすることを家中の皆に説明し、出発日の「吉日」「吉方」を東善寺へ吟味して調べるように申し付けたところ、3月2日が「吉日」、西の方角が「吉方」ということなので、西沢三郎左ェ門居宅が「吉方」に当たり、3月2日三郎左ェ門宅へ出立なされた。
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 一、3月6日、遠野の御城受取人御家老岡前宮内、家臣の屋敷受取人坂本内蔵、町の受取人町奉行服部図書、目付悪虫若狭、米内仁兵衛等が八戸を出立。
 
 一、同7日、お台所役人小笠原喜兵衛出立、翌8日、道中の宿舎を割り当てる役目の木村藤次郎、遠野城の加持祈祷のために東善寺、常福寺が出立。
 
 一、同9日、直栄が八戸根城を出立。但し、今日はあまり日が良くないと言う者もいましたが、先日旅立ちのお祝いも済ませましたので出立することになりました。
 
 
(次のページ)
 一、同日(3月9日)、騎馬でのお供、御家老比巻沢市兵衛(後の松崎大学)・御家老中館兵部少・御もり役作田主水(後の新田内匠)・是川豊前・小笠原六蔵(13歳、後の九右ェ門)・御文証附(祐筆?)西沢三郎左ェ門・橘甚兵衛・工藤四郎左ェ門・長崎藤兵衛・四戸傳内・類家勘左ェ門・新田正兵衛(後の右京)・沢里主膳、これらの内、市兵衛・兵部少・主水・三郎左ェ門は毎日お供。その他は日替わりお供。この他のお供、御目付け目内沢田内膳・塗田子民部・道中御宿払い(宿の手配?)小笠原三之丞・奥寺惣右ェ門。
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 一、同日(3月9日)、根城のお城を渡す人番頭新田九左ェ門・物頭西沢権八・目付け小笠原忠右ェ門、あとに残る受取人工藤主膳(三戸南部家臣)へ首尾よく引き渡し、早速八戸を出立。
 
 一、同日(3月9日)の休憩場所、観音林(これらの地を地図上で確認するのも面白いだろう。)・宿泊地福岡。 10日、休憩地中山・宿泊地巻堀。 11日、休憩地盛岡・宿泊地佐比内、この夜岡前宮内から遠野のお城を間違いなく受け取ったことを知らせる飛脚が着いた。 12日、休憩地宮守・坂本内蔵がこの地までお迎えに来た。同日(12日)昼1時半ごろ遠野横田城に着き、その夜、お祝いの席にはお供の騎馬衆が招かれ、
 
(次のページ)その他お供の者たちには扶持米を支給部屋住みの者まで次の間にて料理をご馳走し、酒が振る舞われたとき直栄様が次ぎの間にお出でになり、祝儀の酒なので呑みなさいと末座まで酒を注ぎ、その後それぞれ居間に招かれて盃を下されました。
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長くなるので今回はこの辺で終わり、次回はこのページの五行目(寛永四年3月13日)からです。
 
      参考文献 
           吉井功兒『中世南部氏の世界』『地方史研究』 ・『青森県史中世南部氏関係資料』』
           ・『源氏南部八戸家系』・『八戸家伝記』
           新版『漢語林』・新編『古文書「解読字典」』・福武『古語辞典』・角川『国語辞典』
                                        史料の無断転用厳禁

 

閉じる コメント(12)

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こんばんは(*^_^*)
マニアが泣いて喜ぶ記事ですね!
少し期間が空くとまた解らなくなってきます(笑)
いつもビヤナカさんの知識の広さには凄いとしか言えません
ナイス!

2014/1/22(水) 午後 7:48 [ リップ ] 返信する

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ビナヤカさん 御苦労さまです♪
現 青森県八戸市〜岩手県遠野市への引越ですので、筆舌に託せぬ苦労の連続だったと想像されますねェ〜、

車で八戸から遠野まで、文章どおり辿った思い出がありますが、想像以上の難儀だったでしょう、現在の道路状況と違い、殆どが山道だと思われます、奥中山峠など徒歩で、

落伍者も居たのではと、一人妄想しています(笑)
長編の古文書のようですので、じっくり取り組んでUPして戴ければと、勝手なおねがいです♪ 削除

2014/1/22(水) 午後 9:55 [ 阿久道 ] 返信する

ビヤナカさんは本当に良く調べられておいでます。そちらに足を伸ばして歴史散策に及んだ節にはこれらの膨大な資料を是非参考にしたいと思います。執筆お疲れ様でした。

2014/1/23(木) 午前 4:56 横町利郎 返信する

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リップさん、おはようさんです♪

そうですね^^、期間が空くと登場人物も変わってきますからね(^^
知識っていうより、物好きの域を脱し得ません(笑)

2014/1/23(木) 午前 9:15 ビナヤカ 返信する

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阿久道さん、おはようございます♪

そうでしたか、八戸〜遠野まで辿ったことがあるのですね^^)
私は意識して辿ったことはなのですが、休憩・宿泊場所はわかります。ルートは別としましても当時一日に40km歩いたとして四泊五日、大人数での移動は大変だったでしょうね♪

はい、100ページほどありますから、私のライフワークとして解読していきたいと思っています^^、よろしくお付き合いください♪
尚、ド素人の読み下しですので、誤読・意味の取り違いがあるかもしれませんので、そのときは一緒に考えていただければ幸いです(^^;

2014/1/23(木) 午前 9:42 ビナヤカ 返信する

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ミックさん、おはようございます♪

かなりマニアックな記事で、ブログの記事には相応しくない内容になっております(。・w・;)

当初は広く、東北地方の歴史ブログとして掲載しておりましたが、次第に浅く深くに興味が移ってきました(^^;、そうしますと、他の人が書いた文献より、自分なりの解釈が出来る古文書を解読しての歴史分析が面白くなってきました(^^)。
仙台藩領・南部藩との藩境塚などは日本はおろか世界でも類をみないものなそうですヨ♪

2014/1/23(木) 午前 10:01 ビナヤカ 返信する

公用馬ですか。公用車と同じ様なものでしょうか?
それにしても30頭という問い合わせに対し、60頭とはすごい経済力です。
単なる直栄様の見栄でもなさそうですね〜。

2014/1/23(木) 午後 11:16 まんま 返信する

駒と駄にそんな意味の違いがあったんですね。出発に吉日と吉方を占うとか、当時の習慣が面白いです^^。

かけはしの会、入会申し込みしてきました。よろしくお願いいたします。

2014/1/24(金) 午前 4:53 ばばちゅ 返信する

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まんまさん、おはようございます♪
ちょっとご無沙汰してしまいました(^^;

役馬を公用馬と訳しましたが、仰るとおり藩・領主家所有の馬ということで、家臣は飼育を委託されたわけです。後、時代が下ると家禄の少ない者は負担が大きく困窮しこの制度は廃止となってしまいますがね...^^;)。

2014/1/24(金) 午前 9:23 ビナヤカ 返信する

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ばばちゅさん、おはようございます♪

駒と駄については馬産地南部藩特有の呼び方のようですから間違えないように(^^; 全国的には駿馬を駒、駄を駄馬などと呼んだようです。
「入会」確認しましたヨ(^^)、...初めてのことなんですが、1、2、3月に計3回 特別歴史講座が開かれることを お知らせしなかったようで電話いくと思います♪ 今月は明日なので、急なことですが予定が入っていませんでしたら...^^)

2014/1/24(金) 午前 9:47 ビナヤカ 返信する

今日、ですか^^;。ちょっと予定を入れてしまいました。
昨日会則などの封書が届き、一緒に3月の予定が書いてあったものですから、次はてっきり3月かと・・。次回は是非^^。

2014/1/25(土) 午前 5:52 ばばちゅ 返信する

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了解です(^^)

2014/1/25(土) 午前 9:04 ビナヤカ 返信する

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