奥羽*温故知新

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遠野南部氏関係史料[8]

遠野南部氏関係史料[8]
 
 
              『八戸御家二十二代 弥六郎直栄様御代大概之覚書』  
 
 遠野村替の顛末「Ⅷ」
 
  「八戸(遠野)南部家文書」の概要
 家伝文書の戦国・織豊時代
○十六世紀に入ると北奥でも戦国の動乱が激化。
○八戸家は、16代義継・17代勝義(義継の弟)と短命な家督が続き、それに加え一族田中宗祐の反  乱などもありその勢力を大きく後退させた。
○17代勝義の死後、一族新田行政の子政栄(まさよし)が5歳で18代を継ぎ、祖父の新田盛政が後  見を行う。
○この時代、八戸家は「二つの南部」の一翼から、三戸南部氏の「目下の同盟者」へと、その立場を大 きく変化させていったと見られ、こうした関係は天正十六年(1588)、政栄の子直栄の元服に際して三  戸家当主信直から偏諱を受けて「彦次郎直栄」と名乗り、信直の娘千代子を妻にするなど、十六世紀 後半の元亀・天正年間にかけて一層進行した。
 
○八戸南部氏18代政栄(天文17〜天正19年当主)と19代の子息直栄(天正19〜文禄4年当主)の 時代以降、遠野南部家(八戸家)は相伝文書を飛躍的に増大させる。
○この時代は、三戸南部氏でいえば、晴政ー晴継ー信直の時代に相当するが、前半は男子に恵まれ  ない晴政が叔父(弟とも)石川高信の庶長子田子九郎信直を養嗣子としながら、実子晴継誕生を契機 に信直と対立し、「三戸家中」を大混乱に陥れた時期である。
○信直が三戸家を継承した天正10年(1582)以降の後半は信直が八戸政栄との同盟を背景に糠部・岩手・志和・閉伊地方の平定を進め、天正18年の奥羽仕置によって豊臣大名として認められるが、八戸家は三戸南部家の付庸の地位に甘んじざるを得なくなる。
 
 家伝文書の利直以降・近世文書
 19代直栄ー20代直政ー21代清心尼ー22代直義(のち直栄)
○この時期は、盛岡藩政の確立期であり、八戸家が中世以来の独立性を奪われ、寛永四年(1627)、遠 野への移封を強いられるが、八戸南部氏20代直政後室清心尼(祢々)のもと、利直の強圧を乗り切  り、12,000余石の家臣として生き延びていった時代でもある。
 
 さて、このようにして生き延びてきた遠野南部家(八戸家)に関する
     近世文書『弥六郎直栄様御代大概之覚書』の続き。
 
前回。。。三戸南部家当主利直(盛岡藩2代藩主)からの強い移封の命により遠野へ引っ越した
遠野南部家(八戸家)22代当主直栄は、遠野に着いた寛永四年3月12日の晩、供回りの者から部屋住みの者たちまでも招いて祝宴を催したのでした。

今回はこのページの五行目(寛永四年3月13日)からです。
イメージ 1
一、同13日(寛永四年3月13日)、利直から引っ越しの手助けとして頂いた御蔵米を家臣に分け与えた。(但し100石取りには28駄、30石取りには9駄、20石取りには7駄、10石取りには5駄ずつを与える。)
一、同15日(寛永四年3月15日)、直栄は利直との話に出てきた4ヶ所の仙台藩との境(鱒沢村の遊井名田、小友村の新谷・鮎貝、佐比内村の赤羽根)を見て廻り、三戸から派遣されていた番人から遠野よりの番人へ番所を引き継ぎ、三戸から来ていた番人たちには横田の町で慰労の接待を行い、三戸に帰ってもらった。
    小友村新谷番所跡(赤い屋根の家)。現遠野市小友町荒谷(現在末裔の方が住んでいます。)
イメージ 2

一、拝領村々の代官を指名した。遠野上・下郷は作田主水・是川豊前 志和佐比内村・上宮守村は岡野安助(この二つの村の住民は特に気性が激しく代官は安助に頼みたいとの直栄の意思) 岩手郡平舘村・巻堀村は二階野助左ェ門(この先祖は天正19年の秋に仕官し、その後子孫代々仕えている)
(次ページ)
イメージ 3
 
二戸郡女鹿村・奥友村は松橋形部、円子村・軽米村は小笠原弥三郎
(これらのうち、助左ェ門、形部、弥三郎は遠隔地の代官なので遠野への供はしなかった。これから後、円子村・軽米村は寛文4年、山城守様(盛岡藩三代藩主重直)が後継を定めないで死去したため、幕府は南部藩10万石のうち、2万石を左ェ門佐様(重直の弟直房)へ分配相続(直房は初代八戸藩主となる)した時、この2ヶ村は八戸藩の領地に譲り、この代替地として下宮守を拝領する。ちなみに残りの8万石は、やはり重直の弟重信が盛岡藩四代藩主として引き継ぐ。)
 
一、この度遠野に引っ越ししたので、代々行ってきた吉例の正月1日の櫛引八幡宮、並びに八戸籠田村月山への参詣・精進など、以後名代として西沢三郎左ェ門は奥友村に住み役目を果たす様命じたので、これにより三郎左ェ門は奥友村に住居し、代々その役目を遂行した。
 
一、八戸からじょじょに遠野に引っ越ししてきた家臣たちは下の通り。
新田弥市郎・中館勘兵衛・新田九左ェ門・中館金右ェ門・小向掃部・沢里(次ページ)
イメージ 4
 
弥次郎・飛内市左ェ門・小笠原右市・同次郎右ェ門・同左平次・工藤久左ェ門・田中丹都(『三翁昔語』では「丹部」)・中居村(林)兵部・十日市平兵衛・鳥屋部弥右ェ門・正部家作兵衛・金浜右ェ門・脇山覚内・坂本善助・橘勘五郎・野沢民部・金浜数右ェ門・大橋平左ェ門・高坂雅楽・松田雅楽・河野治兵衛・
田面木佐内・工藤右市之助・石懸小三郎・松橋茂右ェ門・木下
  上の他にもいると思うが聞いた通り書き出しました。
 
今回はこのページの6行目まで......。

参考文献 
           吉井功兒『中世南部氏の世界』『地方史研究』 ・『青森県史中世南部氏関係資料』』
           ・『源氏南部八戸家系』・『八戸家伝記』・『三翁昔語』・『遠野古事記』
           新版『漢語林』・新編『古文書「解読字典」』・福武『古語辞典』・角川『国語辞典』
                                  ※史料の無断転用厳禁

閉じる コメント(6)

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こんばんは(*^_^*)
ナイス!しか言えません(笑)
ビヤナカさんはマニアではなく教授ですね。
ナイス!

2014/1/29(水) 午後 7:50 [ リップ ] 返信する

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ビナヤカさん毎度ながらご苦労様です♪

利直の意の通り、遠野は阿曽沼氏から、南部氏(八戸家)への時代へと、利直はほくそ笑んだことでしょうなぁ

関が原合戦時、利直の領内では、ゲリラ戦が多発し「和賀一揆」へと翌年に和賀を平定し、20数年後、伊達勢の北進を防禦する役目をも八戸家(直義)に、最前線に立たされた感もしないでは(笑)

その間に八戸家が残してくれた「美味しい」部分を頂きし完全に陪臣の立場へ、

直義の家臣たちも続々遠野入りし、荒れ果てていた遠野を再建及び復興が開始されたのでしよう♪ 削除

2014/1/29(水) 午後 9:19 [ 阿久道 ] 返信する

簡単に位封、と言ってもただ引っ越すだけでなく、それに付随して色々やることがあるんですねぇ。これはもう、大変な「事業」ですね。

2014/1/30(木) 午前 4:54 ばばちゅ 返信する

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あっははは、リップさん、( =゚∀゚)ノ毎度ありがとうございます(^^)
リップさんも教授ですヨ^^)
私もちょっとした古文書にでてきた、明治期の神道教院について教えていただきたいと思っています。

2014/1/30(木) 午前 9:41 ビナヤカ 返信する

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阿久道さん、おはようございます♪

まったく仰る通りですね〜^^。仙台藩との政争に失敗したら責任を押し付け遠野領をも取り上げる所存だったかもね^^;)
しかし、利直の思惑とは違い遠野は静謐となり、仙台藩との確執も収まり、当てがはずれることになっていく過程が面白いですね(^^。
まぁ、どっちに転んでも良いように画策した利直は一級の策士だったのかもしれませんね^^;

2014/1/30(木) 午前 10:02 ビナヤカ 返信する

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ばばちゅさん、おはようございます♪
幕府もそうでしたが、命令はするが金は出さずで、八戸家も大変な出費を要したと思います^^;ただ、利直は宗家筋の八戸家に対して村替えを命じたことに後ろめたさを感じたのでしょうか、お蔵米を支給していますね(^^)

2014/1/30(木) 午前 10:14 ビナヤカ 返信する

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