奥羽*温故知新

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           公儀御預人京極丹後守高国
 
 昨日、江戸時代初期、筑前福岡藩黒田家に起こった黒田騒動に関わったとして幕府より南部藩盛岡に配流となった栗山大膳利章の墓所を参詣した。
 
 場所は盛岡の愛宕山中腹で、現在愛宕下と呼ばれる地域です。
地図
 
 江戸時代この山一帯は広福寺(現在は廃寺)というお寺さんで、たくさんの塔頭が建ち並ぶお山だったとされ、その中の法輪院という場所を訪ねました。
 古絵図...愛宕山中腹に法輪院と記されています。(上から二番目)
イメージ 1
 
 
 実はこの広福寺の墓所には他に公儀御預人「京極丹後守高国」のお墓もあるというので探して見ましたがとうとう発見できなかった。

 江戸幕府は御目見以上の武士で5百石以上の者は原則として未決中牢屋に収監せずに大名に預けたそうで、預けられた大名はそれら身分ある人物を管理するのも一つの役負担だったようです。
 
 「京極丹後守高国」もその中の一人ですが、京極家と言ったら宇多源氏の流れを汲む名族です。
 
 その出自は山城国京都京極で、足利尊氏に仕えた京極高氏の活躍で一大勢力を築くも応仁の乱後、内訌などにより一時期衰退するが戦国時代、京極高次(正室は淀殿の妹「初」)・高知兄弟が信長・秀吉・家康に仕えて家を再興して外様大名としての地位を固めた。
 
 弟京極高知は関が原合戦での軍功により丹後12万3000石を家康に与えられ、宮津城を本拠とする。
 その後、領地を三人に分け、嫡男高広に丹後京極家の宗家として、丹後宮津藩7万8千2百石を継がせた。
 
 高広は承応3年(1654)、嫡男高国に家督を譲って隠居し、安智斎と号していたが、隠居後も藩政に介入し息子高国と対立。
 激しい親子喧嘩の末、三代藩主である息子高国を武家諸法度の「不孝」の条項と領民に対する悪政で提訴する。
 
 幕府の裁定は父に対する不孝、一類中への「不和・不通」、家臣・領民に対する「困窮の仕置」を理由とし、将軍家綱政権下では最大石高の改易処分となる。
 
  高広は流浪の末、京都東山に閑居しそこで死去。
 
 丹後宮津藩7万8千2百石藩主高国は盛岡藩預かりの身になり、延宝三年(1675)死去、享年60歳。
 
...で、「公儀御預人京極丹後守高国死去」として『盛岡藩雑書』に記録が残っている。
盛岡藩にとっては幕府から預かっている謂わば罪人です。勝手に遺体を処分するわけにはいかず幕府より使わされる検使を待ち、死骸の検分を受けてから土葬することを命じられたようですが......
イメージ 2
.....このあと、顛末はまだまだ続き、思わぬ展開が待っています....が、きりがないのでやめときます(^^;
でも、ちらっとだけ(笑)........高国は死に際し家来に遺言を残していたのです....して、その遺言とは・・・
あ〜、やめよう.....時間ばっかり過ぎていく(^^;(笑)
 

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NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」ゆかりの品
 
             黒田官兵衛所用の兜
 
         銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)
 
桃山期の作と伝わる鉄六枚張椎形の内鉢の上に合子という蓋付きの椀を被せたような兜で戦国変わり兜の一種である。(もりおか歴史文化館所蔵)
 
  大河ドラマの影響で全国各地の博物館から引っ張りだこで日本列島を飛び回っているそうだ。
イメージ 1
 
 ところで稀代の軍師として名高く、今年の大河ドラマの主人公として登場している「黒田官兵衛孝高」の兜が何故か盛岡の歴史文化館が所蔵している。
 
 ドラマは播磨国を舞台にしている。播磨国といえば兵庫県...関西だ。田舎者の私には遠すぎる。
 
 道の奥「盛岡」からはかなり離れている。
 
 昨晩の放送で官兵衛は信長と秀吉に会った。
 
 この後、官兵衛が仕える小寺氏は信長配下として西国侵攻を開始、官兵衛は秀吉とともにその先陣をきることになりそうだ。
 
 後に秀吉から軍功に対する恩賞として東北地方の地を与えられ盛岡に近づいたかというと、逆に豊前六郡12万石を与えられた。豊前六郡...現在の福岡県東部から大分県の北部すなわち九州だ。
 
  官兵衛の跡を継いだ長政は関が原合戦の結果豊前六郡12万石から筑前一国に52万石を与えられている。   福岡県だ..一向に盛岡の名はでてこない......。
 
 官兵衛所用の「合子形兜」は筑前福岡藩初代藩主となった官兵衛の嫡子長政に譲られたのか?
 
 福岡市博物館所蔵の黒田長政肖像を見る限り、長政は合子形兜とはまったく形状の違う源平合戦の一の谷をかたどったとかいう兜を被っている。
 
 では官兵衛の「合子形兜」は?
 
 実は官兵衛がその死に臨んで嫡子長政の補佐を託そうと、家老である栗山備後利安にこの兜と虎革威の甲冑を与えていたのだ。
 
 やがて時代はくだり、元和9年(1623)長政の跡を嫡子忠之が継ぎ福岡藩二代目藩主となった。
 
 一方、家老職であった栗山備後利安は嫡子大膳利章にその職を譲っていたようだが、利章は父の期待に応え筆頭家老を務めていた。
 
 しかし、二代藩主忠之は次第に新参者の倉八十太夫正俊らを側近として重用し、古参の家臣をないがしろにするようになってきた。
 
 決定的となったのは黒田二十四騎の一人として忠之の祖父官兵衛孝高に仕えその名を知られた大膳利章の父栗山備後利安が寛永8年(1631)死去してからだ。
 
 備後利安の死を知った二代藩主黒田忠之は幕閣に大膳利章処罰の内諾を取り付け、翌年帰国後に大膳利章の知行を没収した。
 
 さあ、黙っていられない大膳利章は仕返しに主君忠之に謀叛ありと幕府に出訴。
 
 訴えを受けた幕府はすぐさま厳重な調査協議を行った結果、寛永10年(1633)忠之謀叛は大膳利章の虚言とされて黒田家は改易を免れ、栗山大膳利章は盛岡に配流、倉八十太夫正俊は高野山に追放された。
 
 世に言う「黒田騒動」、ここでやっと盛岡の名が登場。
 
 盛岡藩に預けられた栗山大膳利章は父備後利安が黒田官兵衛より拝領した「合子形兜」を持参して盛岡に来たんですね。
 
 栗山大膳は承応元年(1652)盛岡の地で没した後、盛岡藩士となった子孫から南部家に献上された...という事でした。
 
 今日、時間を見つけ、「栗山大膳」の墓所を探してお参りしてきました。
 
イメージ 2
 
私の前にも誰かお参りしに来たようです....。ハハハハ^^)
イメージ 3
 
大膳の嫡男 大吉の墓.....。
    他に大吉の弟吉次郎も盛岡に流されてきたはずですが、墓はわかりませんでした。
イメージ 4
 
ここには明治初期廃寺となった法輪院広福寺があったといいます。
 
現在、墓所を管理している開田院恩流寺
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遠野南部氏関係史料[8]

遠野南部氏関係史料[8]
 
 
              『八戸御家二十二代 弥六郎直栄様御代大概之覚書』  
 
 遠野村替の顛末「Ⅷ」
 
  「八戸(遠野)南部家文書」の概要
 家伝文書の戦国・織豊時代
○十六世紀に入ると北奥でも戦国の動乱が激化。
○八戸家は、16代義継・17代勝義(義継の弟)と短命な家督が続き、それに加え一族田中宗祐の反  乱などもありその勢力を大きく後退させた。
○17代勝義の死後、一族新田行政の子政栄(まさよし)が5歳で18代を継ぎ、祖父の新田盛政が後  見を行う。
○この時代、八戸家は「二つの南部」の一翼から、三戸南部氏の「目下の同盟者」へと、その立場を大 きく変化させていったと見られ、こうした関係は天正十六年(1588)、政栄の子直栄の元服に際して三  戸家当主信直から偏諱を受けて「彦次郎直栄」と名乗り、信直の娘千代子を妻にするなど、十六世紀 後半の元亀・天正年間にかけて一層進行した。
 
○八戸南部氏18代政栄(天文17〜天正19年当主)と19代の子息直栄(天正19〜文禄4年当主)の 時代以降、遠野南部家(八戸家)は相伝文書を飛躍的に増大させる。
○この時代は、三戸南部氏でいえば、晴政ー晴継ー信直の時代に相当するが、前半は男子に恵まれ  ない晴政が叔父(弟とも)石川高信の庶長子田子九郎信直を養嗣子としながら、実子晴継誕生を契機 に信直と対立し、「三戸家中」を大混乱に陥れた時期である。
○信直が三戸家を継承した天正10年(1582)以降の後半は信直が八戸政栄との同盟を背景に糠部・岩手・志和・閉伊地方の平定を進め、天正18年の奥羽仕置によって豊臣大名として認められるが、八戸家は三戸南部家の付庸の地位に甘んじざるを得なくなる。
 
 家伝文書の利直以降・近世文書
 19代直栄ー20代直政ー21代清心尼ー22代直義(のち直栄)
○この時期は、盛岡藩政の確立期であり、八戸家が中世以来の独立性を奪われ、寛永四年(1627)、遠 野への移封を強いられるが、八戸南部氏20代直政後室清心尼(祢々)のもと、利直の強圧を乗り切  り、12,000余石の家臣として生き延びていった時代でもある。
 
 さて、このようにして生き延びてきた遠野南部家(八戸家)に関する
     近世文書『弥六郎直栄様御代大概之覚書』の続き。
 
前回。。。三戸南部家当主利直(盛岡藩2代藩主)からの強い移封の命により遠野へ引っ越した
遠野南部家(八戸家)22代当主直栄は、遠野に着いた寛永四年3月12日の晩、供回りの者から部屋住みの者たちまでも招いて祝宴を催したのでした。

今回はこのページの五行目(寛永四年3月13日)からです。
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一、同13日(寛永四年3月13日)、利直から引っ越しの手助けとして頂いた御蔵米を家臣に分け与えた。(但し100石取りには28駄、30石取りには9駄、20石取りには7駄、10石取りには5駄ずつを与える。)
一、同15日(寛永四年3月15日)、直栄は利直との話に出てきた4ヶ所の仙台藩との境(鱒沢村の遊井名田、小友村の新谷・鮎貝、佐比内村の赤羽根)を見て廻り、三戸から派遣されていた番人から遠野よりの番人へ番所を引き継ぎ、三戸から来ていた番人たちには横田の町で慰労の接待を行い、三戸に帰ってもらった。
    小友村新谷番所跡(赤い屋根の家)。現遠野市小友町荒谷(現在末裔の方が住んでいます。)
イメージ 2

一、拝領村々の代官を指名した。遠野上・下郷は作田主水・是川豊前 志和佐比内村・上宮守村は岡野安助(この二つの村の住民は特に気性が激しく代官は安助に頼みたいとの直栄の意思) 岩手郡平舘村・巻堀村は二階野助左ェ門(この先祖は天正19年の秋に仕官し、その後子孫代々仕えている)
(次ページ)
イメージ 3
 
二戸郡女鹿村・奥友村は松橋形部、円子村・軽米村は小笠原弥三郎
(これらのうち、助左ェ門、形部、弥三郎は遠隔地の代官なので遠野への供はしなかった。これから後、円子村・軽米村は寛文4年、山城守様(盛岡藩三代藩主重直)が後継を定めないで死去したため、幕府は南部藩10万石のうち、2万石を左ェ門佐様(重直の弟直房)へ分配相続(直房は初代八戸藩主となる)した時、この2ヶ村は八戸藩の領地に譲り、この代替地として下宮守を拝領する。ちなみに残りの8万石は、やはり重直の弟重信が盛岡藩四代藩主として引き継ぐ。)
 
一、この度遠野に引っ越ししたので、代々行ってきた吉例の正月1日の櫛引八幡宮、並びに八戸籠田村月山への参詣・精進など、以後名代として西沢三郎左ェ門は奥友村に住み役目を果たす様命じたので、これにより三郎左ェ門は奥友村に住居し、代々その役目を遂行した。
 
一、八戸からじょじょに遠野に引っ越ししてきた家臣たちは下の通り。
新田弥市郎・中館勘兵衛・新田九左ェ門・中館金右ェ門・小向掃部・沢里(次ページ)
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弥次郎・飛内市左ェ門・小笠原右市・同次郎右ェ門・同左平次・工藤久左ェ門・田中丹都(『三翁昔語』では「丹部」)・中居村(林)兵部・十日市平兵衛・鳥屋部弥右ェ門・正部家作兵衛・金浜右ェ門・脇山覚内・坂本善助・橘勘五郎・野沢民部・金浜数右ェ門・大橋平左ェ門・高坂雅楽・松田雅楽・河野治兵衛・
田面木佐内・工藤右市之助・石懸小三郎・松橋茂右ェ門・木下
  上の他にもいると思うが聞いた通り書き出しました。
 
今回はこのページの6行目まで......。

参考文献 
           吉井功兒『中世南部氏の世界』『地方史研究』 ・『青森県史中世南部氏関係資料』』
           ・『源氏南部八戸家系』・『八戸家伝記』・『三翁昔語』・『遠野古事記』
           新版『漢語林』・新編『古文書「解読字典」』・福武『古語辞典』・角川『国語辞典』
                                  ※史料の無断転用厳禁

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遠野南部氏関係史料[7]

遠野南部氏関係史料[7]
 
 
              『八戸御家二十二代 弥六郎直栄様御代大概之覚書』  
 
 遠野村替の顛末「Ⅶ」
 
「八戸(遠野)南部家文書」の概要
 近世に編纂された松前藩の正史「新羅之記録」は、南部・安藤両氏の抗争を三戸南部氏と下国安藤氏の争いと描いているが、安藤氏惣領家の相伝文書が「八戸(遠野)南部文書」の一部をなす「新渡戸文書」の中に収められており、それによると南部方勢力の実体は「二つの南部」ともいうべき三戸・八戸家の連合軍であり、十三湊攻略の主体を担ったのは八戸南部家であった可能性を示唆している。
 
 そのことは、康正三年(1457)に下北半島で起こった「蠣崎の乱」(東北太平記参照)鎮圧の賞として与えられた18点にのぼる奥州探題大崎教兼の官途推挙状や八戸家による田名部(下北半島)支配の事実からも言える事である。
蠣崎蔵人が本拠とした錦帯城本丸跡(むつ市川内町)   本丸跡に建つ蠣崎蔵人の供養塔
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 のち八戸家は、この官途推挙状を山科教兼のものと解釈し、「蠣崎蔵人の朝廷に対する反乱」と「後花園天皇の勅命による蠣崎追討」の物語を創作して、田名部(下北半島)を「朝廷から直々の拝領地」として主張するようになった。
 (しかし、この田名部(下北半島)も元和三年(1617)「田名部貸上」として、事実上三戸南部家に取り上げられてしまう事になる。)

 
 
 さて、話は変わり近世文書『弥六郎直栄様御代大概之覚書』の続き。
 前回は、三戸南部家の理不尽な村替えの命令に対し憤りを感じながらも断ることが出来ず利直の意向に添う形になり、もう一泊してから八戸に帰ることになった直栄でした。
 
 今回はページ最後から4行目...
 一、翌26日(寛永四年2月26日です)、またまたお城(三戸城)へ招かれ、利直が言うことには「遠野に引っ越ししたならば、家臣たちに公用馬を30匹ほど持たせることは出来ないだろうか?」と打診された。
 そこで直栄は、「このたび私を遠野に派遣されるのは仙台藩との藩境として重要な地だからだと思います。遠野は山林に恵まれ草地にも不自由しない所だと聞いていますので、
イメージ 3
(次ページ)
 八戸家中の公用馬は60匹ほどを持たせようと思っています。」と答えたら、利直曰く、「それは思ってもみなかった馬数ですね。しかし、それでは禄高の少ない家臣は難儀するでしょう。持たせるために何かいい考えでもあるのですか?」と、不審に思い尋ねた。
イメージ 4
 直栄曰く、「ご不審はごもっともですが、下級武士たちの知行地の周りに耕作地を割り出し、耕作権を与えます。田畑を作るには馬数がなくてはどうにもなりません。必要な馬数を持たせ、常時は物を運ぶための馬として使い。万が一、有事の際には乗用馬として使えるようにさせ、駄馬は母駄にし、(盛岡藩では上等な馬や牡馬を「駒」、牝馬を「駄」とも呼んでいた。 その中で繁殖能力を備えた牝馬を「母駄」と呼んだ。)
 
 生まれた牡馬の良し悪しを見極め、公用馬として訓練する馬はそのように心がけて飼っていけば、「駄」「駒」共に無駄飼いすることはなく、三十石以上の家士共、並びに寄進地を持つ寺院にも馬を飼育するように申し付けるつもりです。」と、答えたならば、利直は大変満足し、遠野に引っ越しした後は牛馬、山川共に三戸南部家より口出ししないので自由に務めを果たしてくれるべき事、そして、この度大勢での引っ越しに付き、不自由、気がかりな事があると思うので...
 
(次ページ)
遠野の城にある御蔵米3,500駄余りを手助けとして贈ってくれることを言ってくれたので利直にお礼を言い、八戸根城へ帰り遠野へ引っ越しすることを家中の皆に説明し、出発日の「吉日」「吉方」を東善寺へ吟味して調べるように申し付けたところ、3月2日が「吉日」、西の方角が「吉方」ということなので、西沢三郎左ェ門居宅が「吉方」に当たり、3月2日三郎左ェ門宅へ出立なされた。
イメージ 5

 一、3月6日、遠野の御城受取人御家老岡前宮内、家臣の屋敷受取人坂本内蔵、町の受取人町奉行服部図書、目付悪虫若狭、米内仁兵衛等が八戸を出立。
 
 一、同7日、お台所役人小笠原喜兵衛出立、翌8日、道中の宿舎を割り当てる役目の木村藤次郎、遠野城の加持祈祷のために東善寺、常福寺が出立。
 
 一、同9日、直栄が八戸根城を出立。但し、今日はあまり日が良くないと言う者もいましたが、先日旅立ちのお祝いも済ませましたので出立することになりました。
 
 
(次のページ)
 一、同日(3月9日)、騎馬でのお供、御家老比巻沢市兵衛(後の松崎大学)・御家老中館兵部少・御もり役作田主水(後の新田内匠)・是川豊前・小笠原六蔵(13歳、後の九右ェ門)・御文証附(祐筆?)西沢三郎左ェ門・橘甚兵衛・工藤四郎左ェ門・長崎藤兵衛・四戸傳内・類家勘左ェ門・新田正兵衛(後の右京)・沢里主膳、これらの内、市兵衛・兵部少・主水・三郎左ェ門は毎日お供。その他は日替わりお供。この他のお供、御目付け目内沢田内膳・塗田子民部・道中御宿払い(宿の手配?)小笠原三之丞・奥寺惣右ェ門。
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 一、同日(3月9日)、根城のお城を渡す人番頭新田九左ェ門・物頭西沢権八・目付け小笠原忠右ェ門、あとに残る受取人工藤主膳(三戸南部家臣)へ首尾よく引き渡し、早速八戸を出立。
 
 一、同日(3月9日)の休憩場所、観音林(これらの地を地図上で確認するのも面白いだろう。)・宿泊地福岡。 10日、休憩地中山・宿泊地巻堀。 11日、休憩地盛岡・宿泊地佐比内、この夜岡前宮内から遠野のお城を間違いなく受け取ったことを知らせる飛脚が着いた。 12日、休憩地宮守・坂本内蔵がこの地までお迎えに来た。同日(12日)昼1時半ごろ遠野横田城に着き、その夜、お祝いの席にはお供の騎馬衆が招かれ、
 
(次のページ)その他お供の者たちには扶持米を支給部屋住みの者まで次の間にて料理をご馳走し、酒が振る舞われたとき直栄様が次ぎの間にお出でになり、祝儀の酒なので呑みなさいと末座まで酒を注ぎ、その後それぞれ居間に招かれて盃を下されました。
イメージ 7
 
長くなるので今回はこの辺で終わり、次回はこのページの五行目(寛永四年3月13日)からです。
 
      参考文献 
           吉井功兒『中世南部氏の世界』『地方史研究』 ・『青森県史中世南部氏関係資料』』
           ・『源氏南部八戸家系』・『八戸家伝記』
           新版『漢語林』・新編『古文書「解読字典」』・福武『古語辞典』・角川『国語辞典』
                                        史料の無断転用厳禁

 

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迷の「仕○塚」

 
                                迷の「仕○塚」
 
「仕○塚」....○は「灰」だろうと思われるが、そうすると意味がわからん(;´・ω・)
 
「灰」ではないのだろうか?....「筆塚」・「針塚」・「鰻塚」なんていうのもあったなぁ(;^^)
 
何という塚だろう.....お分かりの御人はいらしゃらないだろうか.....(_¨_)....
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「目出度さも 中くらいなり オラが春」
 
年が明けてから、朗報と訃報が交互にやってきた。
 
当然ブログの更新は儘ならず、諸兄への訪問も滞り、(;´・ω・`)ゞごめんなさい、気が付けば1月も後半となってしまった。
 
連載中の「古文書・『八戸御家二十二代 弥六郎直栄様御代大概之覚書』」も中途半端な状態だ(;^ω^)......まだまだ先がある頑張らねば...(汗)
 
 
 
「梅が香や 出羽には古き 石仏」
 
「馬頭観音像」
仏法の六道のうち畜生道を担当するという、家畜の無病息災を願ったものだろうか....観音様の頭上に馬の顔が見える。
....素朴なお顔が実にいい^^).......、いじけた素振りの様な胸前の手は馬頭印だ(^^)
誰が供えたのか真新しい茶のみ茶碗が信仰の深さを物語っているようだ
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文字塔「青面金剛塔」
言わずと知れた庚申信仰の主尊名だ。
「庚申」と記された文字塔や、「一面六臂」又は「三面六臂」の像塔は見かけるが、そのものズバリの主尊名は、神道系の「猿田彦命」同様この辺では珍しい........(´゚Д゚`)ンマッ!!
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