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『日本外史』の九回目は、
平将門(たいらのまさかど)と平貞盛(たいらのさだもり)との決戦の場面です。
●原文
三年。朝廷拜參議藤原忠文。爲征東大將軍。率諸將東伐。
發東海東山兵。募以重賞。而任貞盛常陸掾。發兵討將門。
將門聞之。率兵索貞盛於常陸。不得。乃散其衆。獨以千餘人至下野。
下野有押領使藤原秀郷。爲大族。及將門起兵。往見之。將門方梳髪。
捉髻而出。欵接之。命食共食。飯粒隨前。拾而食之。
秀郷知其輕率不足與有爲也。乃從貞盛。
貞盛窺將門無備。與秀郷。合兵四千餘人。急襲之。將門遽出拒之。大敗。
貞盛乘勝疾攻。將門欲誘之險阻。走據島廣山。貞盛火其營。大戰于山北。
將門以見兵四百騎死鬪。貞盛麾兵蹙之。將門獨身出走。貞盛叱咤追馳。
射中其右額墮馬。秀郷斬其首。興世王以下。悉伏誅梟于京獄。八州皆定。
而純友尋平。忠文等皆途還。貞盛以功叙從五位上。後遷從四位下。
任鎭守府將軍。兼陸奥守。世呼平將軍。
●書き下し文
三年、朝廷は参議の藤原忠文を拝して、
征東大将軍と為して、諸将を率いて東伐せしむ。
東海東山の兵を発して、募るに重賞を以てす。
而して貞盛を常陸掾に任じ、兵を発して将門を討たしむ。
将門は之を聞き、兵を率いて貞盛を常陸に索むるも得ず。
乃ち其の衆を散じて、独り千餘人を以(ひき)いて下野に至る。
下野に押領使の藤原秀郷有り。大族たり。
将門に及んで兵を起すに、往きて之を見る。
将門は方に髪を梳(くしけず)り、髻(もとどり)を捉えて出でて之を款接し、
食を命じて共に食う。飯粒前に随い、拾うて之を食う。
秀郷は其の軽率にして与(とも)に為す有るに足らざるを知るや、乃ち貞盛に従う。
貞盛は将門が備え無きを窺い、秀郷とともに、
兵の四千餘人を合わせて、之を急襲す。
将門は遽に出でて之を拒(ふせ)ぎ、大いに敗る。貞盛は勝に乗じて疾く攻む。
将門は之を険阻に誘わんと欲し、走りて島広山に拠る。
貞盛は其の営を火(や)き、大いに山北に戦う。
将門は見兵四百騎を以て死闘す。貞盛は兵を麾(さしまね)きて之に蹙(せま)る。
将門は独り身出でて走る。貞盛は叱咤して追い馳す。射て其の右額に中(あ)つ。
馬より墮ちて、秀郷は其の首を斬る。
興世王以下、悉く誅に伏し、京獄に梟す。八州皆な定まる。
而して純友も尋(つい)で平らぐ。
忠文等は皆な途より還る。貞盛は功を以て従五位の上に叙せらる。
後に従四位の下に遷る。鎮守府将軍に任ぜられ、陸奥守を兼ぬ。
世は平将軍と呼ぶ。
●現代語訳
天慶三年(940 年)、朝廷は参議の地位にいた藤原忠文(ふじわらのただふみ)を、
関東の反乱を鎮圧する征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)に任命して、
多くの司令官を率いて関東を征伐させることにしました。
忠文は東海道や東山道から兵士を派遣させました。
その兵士の募集をするときには、手厚い褒美を約束しました。
さらに平貞盛(たいらのさだもり)を常陸掾(ひたちのじょう)に任命して、
同様に兵士を派遣させて将門を討伐させることにしました。
将門はこのことを聞いて、兵士を率いて貞盛を常陸で捜索させましたが見つからず、
その結果、将門は自身の大量の兵士を分散させてしまい、
ただ一人で千人余りの兵士を率いて下野(しもつけ)にやってきました。
下野には押領使(おうりょうし)の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)がおりました。
彼も勢力のある一族の者でした。
将門が反乱を起こしたので、彼は将門に会いに行くことにしました。
そのときちょうど将門は櫛(くし)で髪の毛を整えていたので、
将門は髻(もとどり: ちょんまげで頭髪を束ねた部分)を持ちながら出て来て、
秀郷に対して心からうち解けた応対をして、
家来に食事の用意を命じて秀郷と共に食事をしました。
食事中にご飯粒が前に落ちてしまったときには、
将門は拾ってそのまま食べるという不作法な振る舞いをしました。
ここで秀郷は将門が軽率な性格で、同じ志を持って行動するのには
不適切な人間であることを知ると、今度は貞盛に従うことにしました。
貞盛は将門の防備の隙を窺っていて、秀郷とともに、
兵士四千人余りを合わせて、将門に不意に襲いかかりました。
将門はあわただしく出て来てこの襲撃を防ごうとしましたが、大敗しました。
さらに貞盛は勝機につけこんで、素早く攻撃を仕掛けました。
将門は貞盛の軍を地形の険しい場所に誘い込もうとして、
島広山(しまひろやま)に走っていって、そこを拠り所としました。
貞盛はその将門の営(えい: 軍隊が寝泊まりするところ)を焼いて、
猿島北山(さしまきたやま)の地で激しく戦いました。
将門は近くにいた手勢の騎兵(馬に乗った兵士)四百騎で
死に物狂いの戦いをしました。
貞盛は兵士を呼び寄せて将門のもとへ迫っていきました。
すると将門は一人でそこを逃れて走っていきました。
そこで貞盛は兵士に大声で命じて、馬を走らせて追いかけました。
追いかけながら貞盛が弓を射ると、矢が将門の右の額に当たりました。
将門は馬から落ちて、秀郷に首を切られました。
興世王(おきよおう)を初めとする将門の配下の者たちは、
すべて死刑に処せられて、京の都の牢獄で、さらし首にされました。
こうして関東の八つの国の反乱は収められました。
その後、純友の反乱も引き続いて収められました。
藤原忠文らはみな、遠征に向かった道から帰ってきました。
貞盛は将門らを討伐した功績により、従五位の上の官位を授けられました。
後には従四位の下の位まで上がりました。
さらに貞盛は東北鎮圧のための鎮守府(ちんじゅふ)の将軍に任命されて、
陸奥守(むつのかみ)を兼任しました。
世の人は彼を平将軍と呼んでいました。
●語注
※参議(さんぎ): 太政官(だいじょうかん)に置かれた
令外の官(りょうげのかん: 律令で規定されていない官職)の一つです。
大臣・大納言・中納言とともに朝議に参与する重職で、
四位以上の中から有能な者が任命されました。
平安時代初期に定員八人と定まりました。
「宰相(さいしょう)」とも呼ばれます。
※太政官(だいじょうかん): 律令制度のもとでの、行政の最高機関のことです。
八省(はっしょう: 太政官に属する八つの中央官庁)や諸々の役所、
および諸国を統括して国政を処理しました。太政大臣および左大臣・右大臣を
長官とし、大納言・中納言・参議で構成されていました。
※藤原忠文(ふじわらのただふみ): 平安中期の公卿(くぎょう: 参議または
三位以上の貴族)で、民部卿(民部省の長官)になった人です。
平将門の乱では征東大将軍、藤原純友の乱では征西大将軍に
任ぜられましたが、その手柄に恩賞が与えられなかったのは
藤原実頼の反対のためと恨み、死後も実頼の子女に祟ったという
言い伝えが残っており、悪霊民部卿という異名があります。
※民部省(みんぶしょう):八省の一つで、戸籍・租税・厚生・土木・交通などを
つかさどった官庁のことです。
※東海道(とうかいどう): 昔の七道の一つで、現在の近畿、中部や関東地方の
太平洋岸沿いの地域を指していいます。伊賀(いが)・伊勢(いせ)・
志摩(しま)・尾張(おわり)・三河(みかわ)・遠江(とおとうみ)・
甲斐(かい)・駿河(するが)・伊豆(いず)・相模(さがみ)・
上総(かずさ)・下総(しもうさ)・武蔵(むさし)・安房(あわ)・
常陸(ひたち)の十五か国です。
※東山道(とうさんどう): 昔の七道の一つで、近江(おうみ: 滋賀県)から
東海・北陸の山間部をへて奥羽(おうう)地方に至る地域のことです。
近江(おうみ)・美濃(みの)・飛騨(ひだ)・信濃(しなの)・
上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・陸奥(むつ)・出羽(でわ)の八国です。
※重賞(じゅうしょう): 手厚い褒美(ほうび)のことです。
※常陸(ひたち): 昔の国名の一つで、現在の茨城県の大部分を指しています。
※掾(じょう): 四等官で、地方の国の長官である国司(こくし)の
第三官のことです。特に大きな国に設置された官職です。
※下野(しもつけ): 昔の国名の一つで、現在の栃木県に当たります。
「野州(やしゅう)」とも言います。
※押領使(おうりょうし): 令外の官の一つで、平安時代に地方の反乱を抑えて
治安を維持するために、各国におかれた官職のことです。
初めは臨時におかれた役職ですが、のちには常に置かれました。
鎌倉時代になって自然に消滅しました。
※款接(かんしょう): 「宋史(そうし)」に出てくる言葉で、
心からうち解けた様子で相手に接することです。
禅語の「款接(かんせつ)」ではありません。
※急襲(きゅうしゅう): 隙をついて不意に襲いかかることです。
※険阻(けんそ): 地形の険しい場所です。
※島広山(しまひろやま): 茨城県岩井市にあった地名で、
平将門と平貞盛が戦った場所として有名なところです。
※山北(やまきた): 将門が討ち取られた
猿島北山(さしまきたやま: 現在の茨城県岩井市)の地のことです。
※見兵(げんぺい): 現在近くにいる兵士のことです。
※梟(きょう): さらし首にされることです。
※八州(はっしゅう):昔の関東の八つの国の総称です。その八つの国とは、
武蔵(むさし)・相模(さがみ)・安房(あわ)・上総(かずさ)・
下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)
のことです。「関八州(かんはっしゅう)」とも言います。
※鎮守府(ちんじゅふ): 平安時代に、東北地方の蝦夷(えぞ)を鎮圧するために、
陸奥(むつ: 当時は東北の奥羽地方を漠然と指す言葉です)に
置かれた役所のことです。
※守(かみ): 四等官で、地方の国の長官である国司(こくし)の第一官のことです。
●解説
六話目の貞盛は弓が得意であったというのは、今回の話の伏線のようですね。
実際にはどこかから飛んできた矢が将門に当たって討ち死にしたそうです。
将門らが獄門(ごくもん: さらし首)にされたのは、
日本の歴史の確認できる上では最初のこととされています。
それだけに後世の人は、祟りをおそれていたのでしょうね。
次回は貞盛の子孫の話になります。
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やはりこのころの時代の話興味深いですね^^ぽち
2009/11/9(月) 午後 6:20
まいさん、コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
この頃の武士同士の対立の話は、とても面白いですね。
迫力のある漢文を、わかりやすく訳していければいいなと思います。
2009/11/9(月) 午後 6:34
やはり将門はやんちゃなだけの面が感じられますね。将門の軍を分散させたのも貞盛の巧みな作戦かもしれません。まあ戦は時の運という側面もあるのでしょうが。楽しく読ませていただきました。ポチ。
2009/11/10(火) 午前 2:31
おはようございます。
戦いの毎日ですね、頭を使い戦いをする、生きるか死にかですね
打ち首ですね。歩くコースに、ビルの谷間にあります。大手町の平将門の首塚を見ます。ポチ
楽しく読ませて頂きました、ありがとう〜〜続き楽しみに。。
2009/11/10(火) 午前 10:04
ひろちんさん、コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
ご飯粒の話など、将門にも子供っぽいところがあったのかなと思いました。
将門の軍を分散する処などは、『将門記』などで
後世の人が批判しているところですね。
ここも貞盛の巧妙な策なのかなとも思います。
戦ではどちらが有利かという局面がくるくる変わるのも特徴的ですね。
とても興味深く思いながら、戦の場面を訳していました。
2009/11/10(火) 午後 2:33
ほしさん、コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
とっさの判断力で戦をして生き残る、厳しい時代だと思いました。
東京の町中に将門の首塚があるのですね。とても不思議なものですね。
ここから先も、楽しく訳していければいいなと思います。
いつもありがとうございます。これからもがんばります。
2009/11/10(火) 午後 2:37
拝見しました。この調子で頑張って下さい。ポチ
2009/11/10(火) 午後 9:10 [ f u k o ]
不孤さん、コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
今週は漢詩にも取り組みます。がんばって訳していきます。
2009/11/11(水) 午後 2:31
私もしばしばのぞかせていただいておりますが、何を書いていいものやらと迷いつつ、そのまま失礼しています。玄さまの向学心にただただ頭が下がります。
2009/11/12(木) 午後 2:42
akiko さん、コメントありがとうございます。
もっとわかりやすい種類の記事を書こうと思ってはいますが、
かえってわかりやすい記事の方が難しいと思うようになってきました。
個人的に俳句などにも挑戦していますが、記事にするのが恥ずかしくなっています。
何とかいろんなことを勉強して、わかりやすい記事を書きたいなと思います。
2009/11/13(金) 午後 2:07
将門の首が京まで飛んで行って、呪ったというような話もあったように記憶しています。だんだんと武士の力が侮れなくなってくる時代ですね。
2009/11/15(日) 午後 1:00
ウィルさん、コメントありがとうございます。
Wikipedia を検索すると、将門の首の伝説がいろいろあるのを見つけました。
「太平記」など他の歴史物語にも登場していますね。
武士の力が強くなってきて、武家中心の社会につながっていくところを
これからも訳していこうと思います。少しずつでもがんばります。
2009/11/15(日) 午後 2:20