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『淮南子(えなんじ)』の原道訓(げんどうくん)の続きです。
今回で三回目になります。
道を体得して、自由自在の境地に立ってあらゆることを
把握できるようになる、その時の様子を仙人の世界を
たとえ話にしながら述べています。
今回の記事は三つの記事でセットですので、
こちらにはコメント欄を設けていません。
コメント欄は解説の記事のところに設けてあります。
この点をご了承下さい。よろしくお願いいたします。
ブログ記事: (三)『淮南子』・巻一・原道訓・其の三
(原文と書き下し文と語注です)
ブログ記事: (三)『淮南子』・巻一・原道訓・其の三
(解説です)(コメント欄はこちらに設けてあります)
●現代語訳 太古の昔には馮夷(ひょうい)という川の神や、
大丙(たいへい)という仙人が移動するときには、
仙人の雲の車に乗り、雲と虹の中に入っていって、
細かい霧の中で自由に動き、
ぼんやりしていて見定めにくい中で力強く駆け回り、
そうやって遠くまで行く中でますます高い所へ登っていって、
そして高い所の果てまで移動していくのです。
霜や雪の上を通っていってもその痕跡を残さず、
日の光に照らされてもその影を映すことはないのです。
つむじ風が互いにもつれ合って転がり回り、
羊(ひつじ)の角(つの)のようにいろんな物を巻き上げて上っていき、
山や川を通り過ぎて、仙人が住むという崑崙山(こんろんさん)という山を
踏み越えて、天の西の果てにあるという門を押しのけて、
天の支配者である天帝(てんてい)の宮殿である紫微宮(しびきゅう)の
門の周りを回っていました。
今のような道がすたれてきた末の世では、移動するときには、
動きの身軽な車や、足の速い馬がいるとしても、
たとえ強く鞭(むち)をふるってよく鍛えたとしても、
太古の時代のものとは全く比較にならないのです。
ですから、堂々とした立派な人は安らかでのんびりとした気持ちで
いろんな事を細かく考えることもなく、静かで安らかな気持ちで
あれこれと考えることもなく、
大空を屋根として考え、地面を乗り物として考え、
春夏秋冬の季節の移り変わりを馬として考え、
天と地の間に存在する陰と陽の気を移動の手段と考えれば、
雲に乗って空の上まで上っていき、天地や自然を作り出す神(かみ)と
一緒に過ごすことができるのです。
心を自由気ままにして気持ちを緩やかにして大空を駆け回るのです。
歩こうと思えば歩き、走ろうと思えば走る。そんな気ままな気持ちで
いるのです。
雨の神には汚れた道をすすいで掃除してもらい、
風の神には道に落ちた塵を払ってもらうと考えるのです。
稲妻を馬の鞭と考えて、雷を馬車の車輪と考えます。
すると空を上っていって静かで奥深い野原を自由に動き回り、
地面を下っていって果てのない門から出て行き、
あらゆる方向を眺め回して、あらゆる方向を照らし、
自分の自然のままの本来の性質を欠けることなく保って、
その性質を本来の自然の道理に立ち返るようにしていくのです。
心をあらゆる方向に行き来させながら、
また車輪の軸のような道の中心の部分に立ち返っていくのです。
天を屋根と考えれば、あらゆるものを覆うことができるのです。
地面を車と考えれば、あらゆるものを乗せることができるのです。
春夏秋冬などの時節の移り変わりを馬と考えれば、
あらゆるものを使うことができるのです。
天と地の間に存在する陰と陽の気を御者(ぎょしゃ)と考えると、
あらゆる事に備えることができます。
ですから、心をすばやく動かしても気持ちが揺らぐことはなく、
心を遠くまで思いめぐらしても疲れることはなく、
肉体を動かすこともなく、目や耳の感覚を損なうこともなく、
それでいて天地のあらゆる世界の境界までも知ることができるのです。
それはどうしてでしょうか。
それは、自然の道理の要(かなめ)となる柄(え)のような部分を
手にとって動かすことで、無限で永遠の世界で自由に
動き回ることができるからなのです。
ですから天下の物事というのは、
自然の道理にそむいて何かをするということはできないのです。
その自然の道理に従って物事を推し進めていくのです。
万物の変化というのは、その変化の突き詰めた所を
理解することはできないのです。
その自然の道理の要点となる部分の向かう所、
つまり万物が自然の道理に立ち返る部分
(いわゆる、目的)をしっかりと把握すればよいのです。
そもそも鏡のように静かで澄んでいる水面に万物の姿を映す場合には、
自然の道理のほかに何かを思いはかるようなことがないからこそ、
その万物の形の四角いことと丸いこと、曲がっていることまっすぐなこと、
あらゆる姿をとらえて放すことがないのです。
ですから、何か外部からの問いかけがあっても
それに気持ちが反応しようとして無駄に動くことはなく、
光と影のような物事の境目を一つに定めることのない自由な境地でいて、
ぼんやりとはっきりしない状況から叫び声を聞くように、
はっきりとした形で物事を把握することができ、
口を閉じて何も言わない様子でいながら、
自分の心身を通じてきちんと理解することができるのです。
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淮南子
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