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ギリシャのメテオラ
Photo by : Amano Kazaoto
『老子』の第二章の翻訳です。
合計で 5,000 文字を超えていますので、
記事を前半と後半の二つに分けています。
この前半では原文と書き下し文と、
個々の文章への解説をまとめています。
次の後半の記事では、現代語訳(意訳)と、さらに補足を付けています。
後半の記事
コメント欄は後半の記事の方にのみ設けています。
この点についてご了承願います。宜しくお願いいたします。
●原文: 『老子』 第二章
天下皆知、美之為美、斯悪已。皆知、善之為善、斯不善已。
故有無相生、難易相成、長短相形、高下相盈、声音相和、前後相随。
是以聖人、処無為之事、行不言之教。
万物作焉而不辞、生而不有、為而不恃、功成而不居。
夫唯不居、是以不去。
●書き下し文:
天下 皆(みな)美の美たるを知るも、斯(こ)れ悪なる已(のみ)。
皆 善の善たるを知るも、斯れ不善(ふぜん)なる已。
故(ゆえ)に有無(うむ)相い生じ、難易(なんい)相い成し、
長短(ちょうたん)相い形(あらわ)れ、高下(こうげ)相い盈(あらわ)れ、
声音(せいおん)相い和し、前後(ぜんご)相い随う。
是を以て聖人は、
無為(むい)の事に処(お)りて、不言(ふげん)の教えを行う。
万物(ばんぶつ)作(おこ)りて辞(おさ)めず、生じて有(たも)たず、
為(な)して恃(たの)まず、功(こう)成りて居(お)らず。
夫(そ)れ唯(た)だ居(お)らず、是(ここ)を以(もっ)て去らず。
●解説:
老子のテキストは最近の遺跡の発掘によって、さらにもとのオリジナルに
近い原文を再生させるような研究が進んでいます。
近年の発見として二件があります。
一つは 1973 年の冬に湖南省の長沙市の馬王堆(ばおうたい)という
前漢の時代の墳墓の第三号漢墓から、絹の布に書かれた
二種類の『老子』のテキストが出土されたもので、
「馬王堆帛書(ばおうたいはくしょ)」の甲本と乙本と呼ばれています。
二つ目は 1993 年の冬に湖北省の荊門市の郭店(かくてん)という
ところで、秦の前の時代の南方にあった楚の国の墳墓の中の
第一号楚墓から発見された竹簡と、その各地で発見された竹簡を
合わせて「郭店楚簡(かくてんそかん)」と呼ばれるものです。
この二章も一部、文字が違っているものがあります(後述します)が、
意味が大きく食い違うということはないので、今の訳しているところでは、
まだ大きな影響はありません。
本文に入ります。
「天下皆知、美之為美、斯悪已。皆知、善之為善、斯不善已。」 「天下 皆(みな)美の美たるを知るも、斯(こ)れ悪なる已(のみ)。
皆 善の善たるを知るも、斯れ不善(ふぜん)なる已。」 ※「悪」は「醜悪」、つまり「醜い」と訳します。
この部分は、
「天下の人々はみな、美しいものを美しいと認識していますが、
実はこれは醜いだけのものなのです。人々はみな、善を善として
認識していますが、実はその認識は、善とは言えないのです」
という風に訳せるわけですが、なぜそうなのかというのが
問題になってきます。
それは何かを「美しい」「善い」と言うということは、
その反対の「醜い」「善くない」という物を作り出してしまうからなのです。
自然の道理である道の観点からすれば、
すべては美しく、すべては善いものなのです。
これは俗に言う「あばたもえくぼ」や、
『荘子』の言う「無用の用」とは異なります。
あらゆる物、あらゆる人の美点、長所をきちんと見つめることで、
すべての物、すべての人を良いとしなければならないということです。
唐の陸希声(りくきせい)の註釈に、次のように解説されています。
「用無棄物、教無棄人。在物無悪、在人無不善。
而天下不治者、未之有也」
(書き下し文)
「用いて物を棄(す)つること無く、教えて人を棄つること無(な)かれ。 物に在りては悪無く、人に在りては不善(ふぜん)無し。
而(しこう)して天下の治(おさ)まらざる者は、
未(いま)だ之(こ)れ有らざるなり」
(現代語訳)
「あらゆる物を使って捨てる物がないようにし、
あらゆる人を教えて不用な人が出て来ることはないように しなければならないのです。
あらゆる物に悪い物はなく、あらゆる人に善くない人は
いないようにしていくのです。
そうすることができて、それでいて天下を治めることのできない者は、
まだいないのです」
陸希声の発想はやや儒学的ですが、自然の道理の目指すところは、
「物に在りては悪無く、人に在りては不善(ふぜん)無し」なのです。
道の観点に立てば捨てる物、不用な人が存在することはないのです。
そのためにこそ「美しい」と「醜い」、「善い」と「善くない」の
区別を立てるのはよくない、そう述べているのです。
かなり厳しい考え方です。
「故有無相生、難易相成、長短相形、高下相盈、声音相和、前後相随」
「故に有無 相い生じ、難易 相い成し、 長短 相い形(あらわ)れ、
高下 相い盈(あらわ)れ、声音 相い和し、前後 相い随う。」
※「盈」はもとの原文では、前漢の恵帝(けいてい)の諱(いみな)の
劉盈(りゅうえい)の「盈」を避けて「傾」となっていますので、
ここの部分を戻します。「盈」は「あらわれる」と読み、
もともと「溢(あふ)れる」の意味で、器から水があふれ出るように
物事があらわになることを指しています。
この部分は、
「ですから、そういう区別を立てるところから、
『有る』と『無い』とがお互いに存在してしまい、 『難しい』と『易しい』というものがお互いに成立してしまい、 『長い』と『短い』とがお互いの特徴として現れ出てしまい、 『高い』と『低い』とがお互いの存在からあらわになってしまい、 『声』と『音』とがお互いに調和する、ということが成り立ってしまい、 (調和とは、お互いが異なっているからこそ成り立ちうるものなのです) 『前』と『後ろ』とがお互いに並ぶことで区別がついてしまうのです」
となります。道の観点からすれば、
こういう区別を立てることはないということです。
「是以聖人、処無為之事、行不言之教。」
(書き下し文)
「是(ここ)を以(もっ)て聖人(せいじん)は、
無為(むい)の事に処(お)り、不言(ふごん)の教えを行う。」
「このことから知恵と徳にすぐれた聖人(せいじん)は、・・・」
その先をどう訳すかですが、
北宋の呂吉甫(りょきつほ)の註釈では、
『老子』の第一章の言葉から説明をしています。
「以常道処事、而事出于無為、以常名行教、而出于不言事」
(書き下し文)
「常道(じょうどう)を以て事に処(お)り、事を無為(むい)に出(いだ)し、
常名(じょうけい)を以て教えを行い、不言(ふげん)の事に出(いだ)す」 まず前半部分、
「常道(じょうどう)、つまりあらゆるところにある道を使って物事に対処し、 無為(むい)によって物事を進めていき、」 つまりどういうことかと言いますと、
「常道」、つまり「あらゆるところにある道」を使うということは、
「目的のために必要な、あらゆる物、あらゆる人を用いる」ということです。
個々の普通の人々も、狭い範囲ながらもきちんと見ている道、
それをきちんと活用して、全体として大きな道として物事を行おう、
ということです。
「無為(むい)」とは、自然の道理、この場合、政治であれば
その時々の政治の道理に従って、必要なことのみに全力を傾けて
目的に向かう、ということです。
そのために先ほどの「あらゆる物、あらゆる人」をすべて動員していこう、
ということです。
そして後半部分、
「常名(じょうめい)、つまりあらゆるところにある道の
それぞれに付けられた名前のついた物事を用いて人を教えることで、
不言(ふげん)によって教育を進めていくのです」
「不言(ふげん)」は「無為」を言葉の観点からいう場合の言葉です。
つまり、教えるという目的にふさわしい物事を、
あらゆるところから見つけ出していく、
さらに言えば、あらゆる物、あらゆる人を手本に、
物事を教えさせ、学ばせる、ということです。
「万物作焉而不辞、生而不有、為而不恃、功成而不居。」
「万物(ばんぶつ)作(おこ)りて辞(おさ)めず、
生じて有(たも)たず、為して恃(たの)まず、
功(こう)成りて居(お)らず。
※「辞」は「理」、つまり「理(おさ)める」、治める、ということです。
「あらゆる物事が起こってきてもそれを治めることはなく、
物事を生み出すために人を所有することはなく、
物事を行ってもそれを誇りとすることもなく、
物事が成功しても、その場に自分の成果を認めさせようと
居座ることもないのです」
これもまた誤解の多いところです。
「為して恃(たの)まず、功成りて居らず」はそのままでも通じますが、
その前の文は、「何もしなくていい」ように見えてしまいますが、
そんな魔術のようなことはありません。
これは陸希声の注に、次のように説明されています。
「自行使万物、各遂其性、若無使之然者、如天地之生物、
而不有其用、如百工之為器。」
(書き下し文)
「自(みずか)ら万物(ばんぶつ)を行使(こうし)するに
各々(おのおの)其(そ)の性を遂(と)げしめ、 之(これ)をして然(しか)らしむる者無きが若(ごと)くにして、
天地の物を生ずるが如(ごと)し。
其の用を有(たも)たざること、百工(ひゃっこう)の器(うつわ)を
為(つく)るが如し。」 (現代語訳)
「あらゆる物事に対処させるために、多くの物や人を用いる際には、 その個々が持っているもともとの特徴や美点を発揮させるようにして、
それはちょうど天地が万物を作り出すような自然な形で行い、
為政者のこうさせていくのだという意思さえも気づかせないほどに
するのです。
人を用いる際には、多くの職人が一つになって器を作るように、
誰がそれを統治したかということも意識させないほど
自然に行うようにするのです」
それぞれの人たちにそれぞれの仕事を行わせる中で、
為政者の意図、はからいというものを意識させない、ということです。
つまり、それぞれがそれぞれの仕事に集中させるために、
個々の人に適切な目的を割り振って、無理なく物事を進めさせる、
ということです。
「夫唯不居、是以不去」
「夫(そ)れ唯(た)だ居(お)らず、是(ここ)を以(もっ)て去らず」
「為政者の存在を意識させることなく、各人が個々の仕事に集中させて
能力を十分に発揮させるようにすることで、
常に立派に天下を治めるという状況を離れることはないのです」 ということです。
以上をまとめますと、一部繰り返しになりますが、
以下のような現代語訳になります。(後半へ続きます) 後半の記事
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老子
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