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『老子』の第四章の翻訳の後半です。
合計で 5,000 文字を超えていますので、
記事を前半と後半の二つに分けています。
この後半は現代語訳(意訳)と、さらに補足と感想を述べた部分です。
前半では原文と書き下し文と、個々の文章への解説をまとめています。
前半の記事
コメント欄は、この後半の記事の方にのみ設けています。
この点についてご了承願います。宜しくお願いいたします。
「道、つまり自然の道理というものは、どこまで究めていっても
さらに奥が広がっていて、海の水を汲み尽くすことができないように、
究め尽くしたりすることができないように思われます。
そういう自然の道理とは、奥深くて、
まるであらゆるものの中心となる大切なもののようです。
その自然の道理をうかがい知るためには、
欲望を抑える必要があります。
そのために、外部の物事に心が引かれてしまうのを抑え、
外部の物事がやってきても、心がそれともつれ合うことが
ないようにします。
そうして欲望が少なくなってきたところで次第に自然の道理の
明らかところをうかがい知ることになり、
自分自身から発する光、知恵の光を放つようになります。
しかしその知恵の光によって、かえって目の前の塵のような
俗世間を見る目が曇らされてしまうので、
その光を和らげて、俗世間と自分自身を分けるようなことを
しないようにしていけば、
自分自身の知恵の光を保ったままで、俗世間においても
きちんと生きていけるのです。
このようにしてうかがい知る自然の道理とは、
ある清らかな何かとして存在するのかもしれない、
そんな風にも感じられるのです。
私はそれが何によって作られたものなのか、
それを知ることはできないのです。
まるでこの自然の道理というものは、万物を主宰する帝王の
さらに先のようなもの、つまりその自然の道理の前には何も存在しない、
そんな風に思われるのです。」
●さらに補足です:
この四章では、なぜ「思われる」とか、「ひょっとすると」と
なっているのかというと、
第一章でも述べたところですが、聖人ではない私たちには、
「妙(みょう)」、つまり自然の道理の大きな道の真ん中を
見ることはできないのです。
その道の周辺の細い部分、「徼(きょう)」を見るに過ぎないのです。
この第四章に書いてあるように、欲望を少なくすることによって
うかがい知ることのできる「徼」ですが、
それは第一章では源流をたどってみると、「妙」と同じもので、
同じ性質を持つものでありながら、別々の名前が
ついているだけだとわかります。
日常の生活の中で「徼」を見つめ、身につけていくことは、
それは「妙」を見つめ、身につけることと他ならない、つまり、
自然の道理を見極め、体得することにつながる、ということです。
「妙」というものを見つめる、という共通のゴールがあるのではなくて、
それぞれが「徼」を見きわめることによって、
それをもってそれぞれが異なるところから「妙」をうかがい見て、
個人個人がそれぞれの完成を遂げていくこと、
これを「道を体(たい)する」、自然の道理を身につける、
ということになるのだと思っています。
こういうものは、それぞれの人の見ている日常、
その具体的なものを通して少しずつわかるものだと思っています。
何かの職業に就いている人は、その職業を通じて、
書道をする人は書道、詩歌を作る人は詩歌、
たとえそういうものが無くても、日常を生きる上でのいろんな状況を通じて、
そこにその状況に見合った学習なり工夫なりによって
少しずつ道理がわかってきて、その人その人としての完成に近づくこと、
これが道を体得するということではないか、僕はそう思っています。
こういう気持ちを持って、
僕も日々しっかりと勉強していきたいなと思います。
●感想:
何年か前に漢詩の記事を書いたときにも述べているのですが、
この第四章で出てくる「和光同塵(わこうどうじん)」という言葉は、
僕の漢文と漢詩を学ぶ上での原点です。
亡くなった僕の叔父はとても僕をかわいがってくれて、
とてもお世話になっていました。
僕と同じ病気であったこともあって、僕もとても慕っていました。
家族もとてもこの叔父を愛していました。本当に尊敬できる人でした。
僕が高校生の頃に突然叔父が亡くなって、お葬式に出かけました。
その時の僕や家族の悲しみは、言葉に言い尽くせないものがありました。
そしてその時にやってきたお坊さんが、
叔父につけた戒名の説明をしていました。
そのお坊さんの説明は全く頭の中に入ってこなかったのですが、
その戒名に「和光」の文字があったことだけは覚えていました。
僕は期末試験のために一足先に自宅に帰ったときに、
この言葉の意味を国語辞典で調べてみました。 すると「和光同塵(わこうどうじん)」という言葉が出て来て、
和光同塵には、老荘と仏教で二つの意味があることが分かりました。
老荘の意味では、
「自分の才能を隠して、俗世間の中に混じって生きていくこと」
仏教の意味では、
「仏さんが衆生(しゅじょう)を救うために、自分の知恵の光を隠して、
塵のような人間界に姿を変えて現れること」
という二つの意味があったのがわかりました。その二つの意味は、
どちらも叔父を思い浮かべられる言葉であることに驚きました。
そのときから『老子』を始め、いろんな漢文を
個人的に勉強していきました。
大学は工学部へ進んだので、試験勉強にも大学生活にも
あまり関係がなかったのですが、
それでも漢文の勉強を続けていきました。
最初は叔父への供養のように考えていましたが、
次第に漢文を勉強すること自体が好きになってきました。
そうしてこの漢文が本当に苦しいときに僕自身を何とか支えて、
漢詩にも出会い、そのことにもさらにプラスになって
さらに勉強が進んできて、今日に至っています。
ただの勘違いかもしれませんが、
これは叔父が結びつけた縁だと勝手に思っています。
その縁に対して、僕なりの答えを出すために、
今こうして『老子』を訳しています。
最後の章まで、絶対に訳し通そう、本気でそう思っています。
そのためにも、これからもきちんと努力していこうと思います。
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老子
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『そのときから『老子』を始め、いろんな漢文を個人的に勉強していきました。』
↑
そうだったのですか、玄齋さんの丁寧な論述が生まれる原点をお伺いし、とても嬉しいです(^^)。ポチ☆ポチ☆ポチ☆
今回の現代語訳で好きな表現があります。
老子自身が自分に言い聞かせるような箇所なんですが・・・
↓
『私はそれが何によって作られたものなのか、それを知ることはできないのです。』
岩波文庫では「わたしは、それが誰の子であるのか知らない。」となり、表現としては突き放したような印象をうけてしまうのです(^^ゞ
2012/1/30(月) 午後 10:04 [ 56rinyahoo ]
『いろんな註釈がありますが、僕はその都度わかりやすいものを選んで訳していくことにしています。』
↑
玄齋さんが長年勉強された成果を、このように分かりやすく解説していただくことに感謝しています。
御自分が納得できるまで考え抜く姿勢に拍手拍手です(^^)v
2012/1/30(月) 午後 10:11 [ 56rinyahoo ]
『和光同塵には、老荘と仏教で二つの意味があることが分かりました。』
↑
老荘思想は、中華意識の強烈な貴族知識人が外来の宗教である仏教を受容する際に大きな役割を果たしたといわれています。<森 三樹三郎著「老子・荘子」(講談社学術文庫 375ページ〜)>
同じ熟語でも内容は異なるということに、改めて気付かされました。とても勉強になります。ありがとうございます。
2012/1/30(月) 午後 10:28 [ 56rinyahoo ]
自然の道理に近づくために欲望を静める、というのは禅の思想に類似するものがあるようにも感じます。
俗世間と自分自身を分けるようなことをしないようにして、この部分はもしかしたら行うことがいちばん難しい部分のようにも感じます。
俗世で道理を自然体で観る・聞くというのは想像もつきません。
傑作。
2012/1/31(火) 午前 0:15
私は無学ですので難しい事は判りませんが、優しく訳して下さる部分から少しなりとも伺ええ知ることが出来ました。我が家の家計は本当に普通人で無学ですが、ただ祖父だけは凄い信仰心が有り、子供心に仏門の話をよく聞かされたようです。ぼち☆〜〜
2012/1/31(火) 午前 6:53 [ - ]
56rinyahoo さん、コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
漢文や漢詩をわかりやすく書いているのは、始めたきっかけもありますが、
漢詩をできる限り平易に作るということも、役立っているように思います。
それ以来ブログ記事の書き方も変わってきたように思います。
> 「わたしは、それが誰の子であるのか知らない」
ですと、『子』という表現がわかりづらいと僕自身も思っていましたので、
できる限りわかりやすい形で訳を書いていこうと思いました。
(その2へ続く)
2012/1/31(火) 午前 8:05
(その2)
高校生の頃から今まで読んでいく間に、「なぜ」が大量に出てきていましたので、
それに対して僕が考え、理解してきたことを今後も説明していこうと思っています。
(その3へ続く)
2012/1/31(火) 午前 8:06
(その3)
仏教が伝来した当初は、仏教の「空」の概念も、
老荘を通じて解釈されていましたが、
後に亀茲国(きじこく)に生まれた鳩摩羅什(くまらじゅう)という
僧侶による経典の漢訳によって、
ようやく正しく空の概念が理解されたと、その本にありましたね。
同じ言葉でこれだけ意味が異なるというのは、僕も調べたときに驚きました。
今後もこういう点もきちんと学んでいきたいなと思います。
いつも丁寧なコメント、本当に感謝します。嬉しいです。
2012/1/31(火) 午前 8:07
ひろちんさん、コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
今回の章は、訳しているうちに禅と同じようなものを感じていました。
一休さんと大徳寺の華叟(かそう)禅師の会話のやりとりを、
補足の文章を書いているときに思いだしていました。
高い修養をしてきていて、俗世間と自分自身を分けない、
これは結構難しいことだと僕も思います。
日々の生活の中でよりよく生きていこうと学習や工夫をしていくことが、
道、つまり自然の道理を感得・体得することにつながるのではと思っています。
志賀直哉の『暗夜行路』の最後の辺りを読んでいくと、
自然から得るものもとても多いのではと改めて思いました。
これからもきちんと学びながら訳していきます。
2012/1/31(火) 午前 8:21
みなよさん、コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
できる限りわかりやすく説明していければと思っています。
理想としては、日本語が読める人には理解できるくらいに
していきたいなと思っています。
みなよさんのお祖父様は信仰心が高かったのですね。
僕も少しずつ仏教の勉強もしています。
『法華経』を漢文で読破すると、他のお経も読めるようになってきました。
これからもきちんと勉強しながら訳していきます。
2012/1/31(火) 午前 8:31
> その自然の道理をうかがい知るためには、 欲望を抑える必要があります
欲望にもいろいろありますが・・・
仏教聖典を読んで、お釈迦様も色気から開放されたのは七十?だった
知って、みんなおんなじなんだなー・・・と思いました
お釈迦様も人間だったのですね・・
2012/1/31(火) 午後 6:42 [ 夢想miraishouta ]
無理して自分を抑えすぎても良くないってことでもあるようにも思いましたけど、果たして?
2012/1/31(火) 午後 6:43 [ 夢想miraishouta ]
昨日発送しましたので遅くとも明日には届くと思います・・・
2012/1/31(火) 午後 6:44 [ 夢想miraishouta ]
玄さんの真摯な姿勢にポチっ
2012/1/31(火) 午後 6:45 [ 夢想miraishouta ]
夢想miraishouta さん、コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
欲望を断つというのは、とても難しいことだと改めて思いました。
この一節では自分を抑えて欲望を断つというよりは、
欲望に心を動かされないことが大切だということだと思います。
そのために、「その鋭を挫き、その紛を解く」、つまり
物事に対して、心を自分の内からその外の物事に逃がさないようにして、
物事がやってきても、心がその物事ともつれ合うことが
ないようにする、ということだと思います。
欲望が少なくなる状態とは、こうした後に得られる心の安定を指すのだと思います。
(その2へ続く)
2012/1/31(火) 午後 7:38
(その2)
今回の夢想さんのお心遣いに心打たれました。ありがとうございます。
僕ももっと明るく生きていこうと思います。
そして日々きちんと学んでいこうと思います。
2012/1/31(火) 午後 7:38
玄様。1*31 [負けるが勝]=[相手に勝をゆずると、かえって良い結果になるということ]. 誰=マムシ、蝮。 エスペラント=英=独=仏=西=mamushi.学名=Gloydius blomhoffii 1*31 謎=ウ冠、漢字の空の字の最初に打つ、[点]、シの音[そらシど]。 二つとも正解です。回答コメント有難うございました。
2012/1/31(火) 午後 10:40
漢文は叔父さんの影響が大きいのですね。「和光」そんな深く尊い
意味があるのは 知りませんでした。
そしてアタシの名前の一文字「妙」はそんなに大きい深い意味を
持っていたなんて 少し恥ずかしいです。
でも、少しでも近づけるように・・・今、玄さんから学べて嬉しいです。
有難う!! P!
2012/2/1(水) 午前 10:14
えすちゃんさん、こめんとありがとうございます。
英語の単語を調べて、ヘビの生態を調べて、ようやく答えにたどり着きました。
そういう風に調べていくのも楽しいですね。またクイズに挑戦していきます。
2012/2/1(水) 午前 11:03
ある おかんさん、コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
「和光」の深い意味を、これからもまだまだ探求していきます。
「妙」は「大きな」、という意味ですね。
これからもきちんと学んでいって、そうして訳していこうと思います。
2012/2/1(水) 午前 11:06