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最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
四番目の記事の現代語訳から読んでみて下さい。
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。
この漢文は『老子』の第八章の翻訳です。
合計で 5,000 文字をはるかに超えていますので、
記事を四つに分けています。
この二つ目の記事では、個々の文章への解説の続きです。
次の三つ目の記事では、文章の解説のさらに続きになっています。
三つ目の記事
コメント欄は四つめの、現代語訳と補足の記事の方にのみ設けています。
この点についてご了承願います。宜しくお願いいたします。 ●解説の続きです:
本文に戻ります。 「水善利萬物而不爭。」
「水は善(よ)く万物(ばんぶつ)を利して而(しか)も争わず、」
「水はよくあらゆる物事の役に立って、そうでありながら
他の物事と争うことがありません。」
「處衆人之所惡。」
「衆人(しゅうじん)の悪(にく)む所に処(お)る。」
「衆人(しゅうじん)」は多くの人、「悪(にく)む」は嫌がる、という意味で、
「多くの人が嫌だと思っているところにいるからです。」となります。
『多くの人が嫌がるところ』、ここを誤解している人も
ことのほか多いのです。ここを解釈し間違えると、
「障害者や病人など、苦しい立場にいる人は、道に近いところにいる」
そんな風に、安易に考えてしまう人も多いのです。
ブログなどで障害者であることをことさらに強調して、
悟ったようなふりをしている人たちの心の中です。
僕も障害者として、このようにならないように気をつけています。
そもそも障害や病気がその人のためになるかどうかは、
一概には言えないところです。
もちろんすぐれた方もおりますが、大抵の人は病気の苦しみに飲まれて、
周囲に当たり散らしたり、あるいは心が幼いままでいたりする人も
います。僕もきちんと気をつけなければと思うところです。
僕個人の経験を言えば、向上努力の余地、
僕にとっては学問や漢詩がなければ、
今よりもさらにひどい状況になっていたと思います。
「高いところに行こうと向上努力する」ということが、
困難な中ではとても大切だと、そう思っています。さて、註釈です。
ここは明の時代の学者の李贅(りし)の註釈が見事です。
彼はとても興味深い人ですが、今回の訳とは関係ありませんので
彼についての説明は省略します。
清の時代の思想家の魏源(ぎげん)は、彼の註釈を採用しています。
以下に註釈を示します。
(原文)
凡利物之謂善。而利物者。又不能不争。非上善也。
惟水不然。衆人処上。彼独処下。
衆人処易。彼独処険。衆人処潔。彼独処穢。
所処尽衆人之所悪。夫誰与之争乎。
(書き下し文)
凡(およ)そ物(もの)を利(り)する、
之(これ)を善(ぜん)と謂(い)う。
而(しこ)うして物(もの)を利(り)するは、
又(ま)た争(あらそ)わざる能(あた)わず。
上善(じょうぜん)に非(あら)ざるなり。
惟(た)だ水(みず)のみ然(しか)らず。
衆人(しゅうじん)は上(うえ)に処(お)り、
彼(かれ)は独(ひと)り下(しも)に処(お)る。
衆人(しゅうじん)は易(やす)きに処(お)り、
彼(かれ)は独(ひと)り険(けわ)しきに処(お)る。
衆人(しゅうじん)は潔(きよ)きに処(お)り、
彼(かれ)は独(ひと)り穢(けが)れたるに処(お)る。
所処(しょしょ)尽(ことごと)く衆人(しゅうじん)の
悪(にく)む所(ところ)なれば、
夫(そ)れ誰(だれ)か之(これ)と争(あらそ)わんや。
(現代語訳)
そもそも、何かの物事の役に立つと言うことを、
「善(ぜん)」と言うわけですが、
何かの物事に役に立つということには、
必ず、争い事が生まれてくるのです。
ですから、これだけでは、「上善(じょうぜん)」、つまり
「この上なく素晴らしい善」とは(必ずしも)言えないのです。
ただ、水だけはそのような争い事が生まれないのです。
なぜならば、本来、「何かの物事の役に立つ」という
高い場所にいながらも、
多くの人は高いところにいるのに対して、
彼(水のこと)はただ一人低いところにいるのです。
多くの人は楽なところにいるのに対して、
彼はただ一人、険(けわ)しく困難なところにいるのです。
多くの人は清らかなところにいるのに対して、
彼はただ一人、汚れたところにいるのです。
水は、(本来は高いところにいるべきなのに)
居るところはすべて多くの人の嫌がるところなのですから、
そもそも誰がこれと争うことができるでしょうか。
(ここまでが現代語訳です)
「本来は尊い地位にある人が、相手に礼儀を尽くして低いところに
来ているからこそ、誰も争う人がいない」というたとえになっているのです。
本来は高いところにいるからこそ、謙譲の徳はさらに強力に
相手に働きかけることができる、というところがポイントだと思います。
「故(ゆえ)に道(みち)に幾(ちか)し。」
「幾(ちか)し」は「近い」という意味です。
「善」は道そのものではなく道に近いものだというのは、
前の記事の、『易経(えききょう)』の中に出て来た話です。
さらに北宋の政治家の呂吉甫(りょきつほ)の注では、
この『易経』の文章を引いたあとで、さらに、
「つまり、まだ道、つまり自然の道理に基づいて行動することは
まだできていないけれども、それに近いものだと言えるのです」
と説明しています。
さて、このあと、そんな謙譲の徳を持つ水がなし遂げる
七つの徳についての部分です。三文字が七つですが、
その三文字それぞれが意味を持って、
それぞれがひとつの文章として成立しています。
こういうものを「一句一解(いっくいっかい)」と言いまして、
昔の漢詩にも良くある形です。ここからの解説が長いです。
この三文字の七つの句は、油断ならないです。
まずは原文を示します。
「居善地。心善淵。与善仁。言善信。政善治。事善能。動善時。」
これを一つ一つ解説していきます。
まず、「居善地。」は「居(お)るには地(ち)を善(よ)しとす。」となり、
直訳すると「いる場所としては地面がよい」となって、
当たり前のことになりますが、そうではないです。
呂吉甫の注では、『老子』の第六十六章を引いて説明しています。
その六十六章の該当部分を示します。
(原文)
江海所以能為百谷王者。以其下之也。
(書き下し文)
江海(こうかい)の能(よ)く百谷(ひゃくこく)の王たる
所以(ゆえん)の者は、其(そ)の之(これ)に下(くだ)るを以(もっ)てなり。
(現代語訳)
川と海が、多くの谷の王である理由は、谷の水がさらに下っていって
川となり、海へと注いでいくからなのです。
谷の水はすべて、海へと注がれていくからです。
(ここまでが註釈の現代語訳です)
ですから、「居善地。」、「居(お)るには地(ち)を善(よ)しとす。」は、
「谷の水が海へ下っていくように、いる場所としては、安定した
低い場所がよいのです」となります。
次です。「心善淵。」ここは、「心(こころ)は淵(ふか)きを善(よ)しとす。」
と読みます。「淵」は「深い」という意味です。
ここは北宋の詩人の蘇軾(そしょく)の弟である、蘇轍(そてつ)の註釈を
採用します。この七つの徳の所は、蘇轍と呂吉甫の二人の註釈のうち、
どちらかを採用しています。
(原文)
空処湛静。深不可測。
(書き下し文)
空(むな)しくして湛静(たんせい)に処(お)り、
深(ふか)くして測(はか)るべからず。
(現代語訳)
(聖人の心は)心が空っぽなように水は静かな流れをたたえていて、
心は奥深くて、その深さを測ることができないのです。
(ここまでが註釈の現代語訳です)
ですから、「心善淵。」、「心(こころ)は淵(ふか)きを善(よ)しとす。」は、
「心は静かな流れの川の淵(ふち)のように
もの静かで奥深いのがよいのです」 となります。
次です。「与善仁。」これは「与(とも)にするには
仁(じん)なるを善(よ)しとす。」となります。
「与」は「一緒にいる」という意味で、
「仁」は「相手への思いやりのある人」のことです。
ここは蘇轍の注を採用しています。
(原文)
把而不竭。施不求報。
(書き下し文)
把(と)りて竭(つ)きず、施(ほどこ)して報(むく)いを求めず。
(現代語訳)
海の水をいくら汲んでも尽きることがないように、
人の役に立っても、その見返りを求めることがないのです
(そんな人と一緒にいるのがよいのです)。
(ここまでが註釈の現代語訳です)
ここから、「与善仁。」、「与(とも)にするには 仁(じん)なるを善(よ)しとす。」は、
「海の水をいくら汲んでも尽きることがないように、相手の役に立っても、
その見返りを求めない、そんな人と一緒にいるのがよいのです。」
となります。
(三つ目の記事に続きます。)
三つ目の記事
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