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最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
この四番目の記事の現代語訳から読んでみて下さい。
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。
この漢文は『老子』の第八章の翻訳です。
合計で 5,000 文字をはるかに超えていますので、
記事を四つに分けています。
この四つ目の記事は、現代語訳(意訳)と補足の部分になっています。
コメント欄はこの四つめの、現代語訳と補足の
記事の方にのみ設けています。
この点についてご了承願います。宜しくお願いいたします。 ●現代語訳(意訳):
あらゆる物事を生み出すもととなる道、つまり自然の道理をもとにして、
聖人が人間の日々の行いへと適用していったもの、
これを「善(ぜん)」と言います。
その「善(ぜん)」の最も優れたもの、つまり「上善(じょうぜん)」とは、
水のような謙譲(けんじょう)の徳のことです。
「謙譲(けんじょう)」とは、「態度を控えめにして自分を低めることで
相手を高めて敬意を表すこと」です。
水はもともと高いところ(山地や雲)に存在しているのに、
高いところを望まずに低いところにいて満足しているのです。
その様子を、本来高いところにいるべき人が、
慎ましい態度で周囲への礼儀を尽くして低いところにいる、
という「謙譲の徳」にたとえているのです。
さて、水はあらゆる物事の役に立っています。
それは「善」とも言い換えられます。
そのとき普通、物事の役に立つ際には、
それをめぐって競争ごとが生まれてしまいます。
これでは「上善(じょうぜん)」、「この上なく素晴らしい善」とは
必ずしも言えないのです。
(企業同士のコンペティション(競争)や公共事業の入札など、
引き受けるところと引き受けられないところが生まれるようなものです。
これらは「(競争という)争い事が生まれる」とは言いましても、
とても立派な善です。あくまでも申し添えておきます。)
しかし水は、そのような争い事が生まれないのです。
なぜならば、本来、「何かの物事の役に立つ」という
高い場所にいながらも、
多くの人は高いところにいるのに対して、
彼(水のこと)はただ一人、多くの人の好まない、
低いところにいるからです。
つまり、「本来は尊い地位にあるべき人が、相手に礼儀を尽くして
低いところにいるからこそ、誰も争う人がいない」ということです。
そんな水のような謙譲の徳を持つ人がなし遂げる七つの徳があります。
その徳によって、私たちがどのように過ごしていけば 良いかがわかるのです。
それは何かと言いますと、
(一)谷の水が海へ下っていくように、いる場所としては、
安定した低い場所がよいのです。
(二)心は静かな流れの川の淵(ふち)のように
もの静かで奥深いのがよいのです
(三)海の水をいくら汲んでも尽きることがないように、
相手の役に立っても、その見返りを求めない、
そんな人と一緒にいるのがよいのです。
(四)言葉を話すときは、水が円を描くときは
必ずぐるぐると回って描き、四角形を描くときは必ず折れ目ができ、
水をせき止めると必ず止まり、そのせき止めた部分が破れてしまうと、
必ず流れていきます。そんな一定した流れに従って動く水のように、
信頼のできる言葉で話すのがよいのです。
(五)政治を行う際には、水の流れが谷間の川を流れて、
そしてついには清らかな海にたどり着くように、
落ち着くところに落ち着くような、そんな政治をすればよいのです。
(六)物事を行うには、水のようにやわらかくて弱々しいけれども、
そうでありながら、堅くて強いものをうまく攻めることができる、
というように、あらゆる物事に応じた対応をすることによって、
うまく事を運ぶようにすればよいのです。
(七)動くときには、わき出る水が次々に溢れて尽きることが無く、
昼も夜も関係なくわき出ていて、途中でくぼみに出会うと そこを水で満たしていき、そうしてさらに進んでいく、 そんな風に問題に出会うとそこに柔軟に対応するような、 その時その時に応じた動き方をすればよいのです。 という七つの事に気をつけて、過ごしていくとよいのです。
水がどんな物事とも争うことが無く、本来いた高いところから
最後に落ち着くような低い所にいるということを根本の考えとして、
本来は尊い地位にあるべき人が、相手に礼儀を尽くして
低いところにいるからこそ、誰も争う人がいないので、 誰かからその失敗や災いの原因として、責められることもない、
そんな謙譲の徳が導き出されるのです。
●訳者(玄齋)からの補足:
現代語訳から読まれる方のために、補足をしておきます。
解説の中に入れている謙譲の徳の説明の部分を、再掲して説明します。
第八章は水を使って謙譲(けんじょう)の徳をたとえる、そんな一節です。
「謙譲(けんじょう)」とは、「態度を控えめにして自分を低めることで、
相手を高めて敬意を表すこと」です。
今の時代は謙譲の徳という考え方には、
ある種の困難が生まれています。
今の時代は自分をアピールして人に認めてもらうということが、
とても大切なのです。ですから第一線で活躍されている方々にも、
謙譲という言葉が大嫌いな人も多いのです。
そういう人に下手にへりくだった態度を取ると、
こてんぱんにやりこめられることもあります。
一体、謙譲とは何なのか、さらにいえば今の時代での
謙譲の位置づけはどうなるのか、
僕も儒学を学びながら常に意識してきたことです。
ここをとてもうまく例を取って説明しているのが、
元の時代の学者の呉澄(ごちょう)の註釈です。
その註釈の中では、水のたとえによって、
謙譲とは「本来高いところにいる人が、周囲への礼儀を尽くして
低いところにいることを指している」、と説明しています。
ここで大事なのは、「本来高いところにいる人が」というところです。
高いところにいない人は、自分に謙譲の徳があることを
周囲に伝えるのが難しいのです。
『韓非子(かんぴし)』の中では、このことを
「勢(せい)」という概念として説明しています。
勢とは「権勢(けんせい)」、つまり他人を押さえつける
権力と勢力のことです。
国を治める君主は、これを持っているために他の者たちよりも
優位に事を進めることができると、そう説明しています。
だからこそ、たとえ聖人の孔子であっても、
君主に自分の必要性を説いて、
大臣や官僚として登用してもらわなければならないのです。
孔子はこの上なくすぐれた人ですが、その君主にあった説得をしないと、
君主から相手にされないのです。そして政治には参加できないわけです。
君主は反対に、孔子が有用であるかどうかを見定める側です。
君主は君主であるというだけで、これだけの優位があるのです。
そんな立場にある君主は、少し自分の行いを正しただけで、
周囲の反応ががらっと変わるのです。周囲への影響が大きいのです。
高みにいる君主が少し謙虚に振る舞うだけでも、
孔子の聖人としての素晴らしい徳を上回ることができるのです。
だからこそ孔子もそれに望みを託して、
君主に説得を試みていったのです。
孟子も同じ考え方で、遊説を続けていったと思います。
これをもう少しわかりやすい例でどのように解説しようかと思っていました。
高いところにいる人の例として、メジャーリーグの野球選手の
イチロー選手を例にすると分かりやすいかなと思いました。
イチロー選手は誰もが認める成果を出した人です。
この方が嫌いな人もおりますが、多くの日本人の憧れの的です。
僕も憧れています。そんな選手ですから、
たとえ我が物顔で日本中を練り歩いたとしても、
文句を言う人は他の人たちと比べれば比較的少ないと思います。
でもイチロー選手はそういう人ではないわけです。
少年たちに気さくに話しかけ、後輩たちにもうち解けた感じで
アドバイスを伝えようとする、そういうところに、
少年たちは自分の目標とし、後輩たちからは慕われ、
多くの人たちの憧れの的になると、そう思います。
謙譲の徳などという、大それたものでなくても、
人の評価は「とてもすぐれた人だ」となるわけです。
一方で、私たち普通の人は、懇切丁寧に謙譲や礼節を尽くしても、
信用されることがないということもよくあります。それは普段、
地位や実績などがそれほど高いところにいないことも原因なのです。
高低差を生み出すことが謙譲なのですから、謙譲の徳を身につけるには、
礼節を尽くすこととともに、努力して高い地位や実績を積むことも
大切なのです。
今の若い方に謙譲を語るには、謙虚な態度で他の人と接することも
もちろん大事ですが、それと同時に今はとにかく向上して
高いところを目指して下さい、
そしてもし、高いところにたどり着いたときには、
この議論を思い出して下さい、高みにいる人は、
ほんの少し謙虚な態度を取るだけでも、
周囲の反応が一変していくのです。と、
そんな風に説明をしていけば、謙譲という考え方も、
多くの人に理解してもらえるのではないか、そんな風に考えています。
謙譲の徳に関して、現代ではどのように考えるべきか、ということを、
今回の『老子』の第八章の翻訳の中で、真剣に考えてみました。
こういうところこそ、私が『老子』の翻訳の中で、
これからも真剣に考えていくべき所ではないかと、
そう考えています。これからもしっかりと、学んでいきます。
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老子
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自分の主体性と考えをしっかり持って、それでいて謙虚に過ごすというのは大変難しいことでしょうね。傑作。
2012/4/3(火) 午前 0:01
清水太郎さん、おはようございます。コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
昨日の Yahoo! ブログは、更新をしようとするとエラーが出て、
なかなか UP ができませんでしたが、何とか完了して安心しました。
免許の更新ですか。身分証明書でもありますから、とても大切ですね。
僕も今日もきちんとがんばっていきます。
2012/4/3(火) 午前 6:44
56rinyahoo さん、おはようございます。
コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
体調を崩していましたので、そちらのブログに訪問できていませんでした。
きちんと訪問いたします。今日もしっかりとがんばっていきます。
今日もよろしくお願いいたします。
2012/4/3(火) 午前 6:46
ひろちんさん、おはようございます。コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
おそらく僕が言いたいのはそれと反対のことだと思っています。
ノブレス・オブリージュのような、高い地位や実力を身につけた人に
さらに無理を強いるようなことではないのです。
我々一般の人が身を苦しめるほどに謙虚に振る舞っても信用される程度は
限定されるのに対して、そういう高みにいる人は、ほんの少しの
周囲への配慮を示すだけで、相手の対応がとても大きく変化する、
そういうことを述べているのです。
具体的な例で言えば、ある格闘技のチャンピオンとなっている方が
とても横暴に振る舞うような態度を見ていると、とても残念に思うわけです。
そこでほんの少し普通に振る舞うだけで、その方を尊敬する人が
もっと増えるのにといつも思うのです。せっかくの高い地位を、
そういうところへのほんのちょっとした配慮を欠くだけで、
自分のステータスの及ぶ範囲を限定させてしまっているのは、
いつも残念に思うところです。
こういうところを考えていくのも面白いですね。
これからもきちんと地道にがんばっていきます。
2012/4/3(火) 午前 6:56
こんばんは。
御身体大切にして下さいね。
56rinのブログなど気になさらないで御静養ください。お願いたします。
2012/4/3(火) 午後 11:20 [ 56rinyahoo ]
≪我々一般の人が身を苦しめるほどに謙虚に振る舞っても信用される程度は限定されるのに対して、そういう高みにいる人は、ほんの少しの周囲への配慮を示すだけで、相手の対応がとても大きく変化する、そういうことを述べているのです。≫
↑
玄齋さんのコメントをお借りする横着をお許しください。
今日、貴論説の全文を印刷して拝読しておりました。「謙譲」について、これほど深く考えた論述を初めて読みました。すばらしいです。ポチ☆ポチ☆ポチ☆
また、「善」についても全体の流れ・構成のなかで捉えているのが印象的です。とても勉強になります。ありがとうございます。
2012/4/3(火) 午後 11:30 [ 56rinyahoo ]
素晴らしい学びでありますね、とにかく高い地位につくそれには並大抵の努力が必要かと思います。

しかしそうした地位について謙虚な気持ちを持つと言う事は、はっきり言って今の政治家等には無に等しいとさえ思います。平民にしてもおなじです。 ちょいと人より優れていると思うと直ぐうのぼれる
そう言う方々又そうでない方でも、ちょっと控えると言う心がけががあるとと世の中が、とても良い関係になるのですけれどね。れは漢文や漢詩だけでなく全ての学びの中でも含まれて居て、学んでいるうちに何ものかに気づかされ生されています。大事な事だとつくづ思います。ぽち
2012/4/4(水) 午前 6:09 [ - ]
56rinyahoo さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
今はすっかり回復しております。この今回の『老子』の翻訳も、
体調が戻ってから急ピッチで仕上げていました。
何とか完了することができて嬉しいです。
これからも体調管理には気をつけていきます。
(その2に続く)
2012/4/4(水) 午後 2:20
(その2)
>> 我々一般の人が身を苦しめるほどに謙虚に振る舞っても
>> 信用される程度は限定されるのに対して、
>> そういう高みにいる人は、
>> ほんの少しの周囲への配慮を示すだけで、
>> 相手の対応がとても大きく変化する、
>> そういうことを述べているのです。
この部分に、今回僕の言いたいことが詰まっています。
自分をへりくだって謙虚にすることが大事ですが、
それ以上に向上して高みへと登っていくことが大切なのではないか、
そう思っています。
印刷をして丁寧に読んで頂いてとても嬉しいです。感謝しています。
(その3へ続く)
2012/4/4(水) 午後 2:21
(その3)
「善」についても、『易経』の中の易の哲学を論じている
「繋辞伝(けいじでん)上」の第五章を引いて、
そこから細かく注釈を引きながらまとめてみました。
聖人が道を参考に日々の行いへと適用していったものが善であると、
さらに注釈から人に利益を与えることが善であると言うことがわかり、
善を「上善」、「この上ない善」とするには、
そんな偉大で高い位置にいるはずの善が、
へりくだって低いところにいる事が必要で、
それはまるで水のようであるということ、
この部分が今回の重要な点だと思っています。
こういう文章に接していると、
僕自身の心もしっかりと養っていこうと、改めて思いました。
これからも体調に気をつけながら、日々しっかり頑張っていきます。
2012/4/4(水) 午後 2:22
みなよさん、こんにちは。コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
高い地位に就くのはものすごい向上努力のたまものだと僕も思います。
その上で少しでも控えめに振る舞うことがとても大切だと訳す中で思いました。
今の人は少し勉強するだけですっかり大先生のように振る舞って、
慎みどころか、でかい態度で接してくる人も少なからずいます。
表面上は慎ましやかでも、中身はどこまでも傲慢、そんな人も見かけています。
僕自身も十分に気をつけなければと思うところです。
身分や実力の上下にかかわらず、お互いに譲り合うということが
ほんの少しできるだけでも、ぎすぎすした世の中の状態を
少しは脱することができるのではないかとも、改めて思いました。
(その2へ続く)
2012/4/4(水) 午後 2:33
(その2)
『観音経』で観音さんが三十三の姿になりかわって法を説く、
その一節を思い出しました。その部分を読むと、
あらゆるところに学ぶ機会や、何かに気づく機会がある、
それをきちんと把握していくことが大切だと、そう思います。
漢文や漢詩の勉強だけではなくて、
そういう個々の気づきの機会を得られるように、
あらゆる状況を捉えて学んでいこうと改めて思いました。
これからも日々きちんと努力をしていきます。
2012/4/4(水) 午後 2:34
> あらゆる物事を生み出すもととなる道、つまり自然の道理をもとにして、聖人が人間の日々の行いへと適用していったもの、
これを「善(ぜん)」と言います
仏教を含めた東洋思想の基本ですね
なるほどー・・・
善とは自然の道理から発するのですね・・
2012/4/14(土) 午前 5:05 [ 夢想miraishouta ]
> 「謙譲(けんじょう)」とは、「態度を控えめにして自分を低めることで相手を高めて敬意を表すこと」です
これさえ出来れば、人生を明るく楽しく送ることが出来ます
出来そうで出来ませんね
ポチ
2012/4/14(土) 午前 5:08 [ 夢想miraishouta ]
拝見しました。年齢の所為でしょうか、部分的には異論がありますが、素晴らしいお説です^^ポチ^^
老子はもっとアッポちゃんだと思います。アッポちゃんだから凄いのだと思います。無心なんでしょね^^
fukoちゃんは老子様などとは別の何の役にも立たないアッポちゃんです。もうすぐ徘徊老人になるでしょうハイ^^
2012/4/14(土) 午前 10:16 [ f u k o ]
漢詩投稿たのんまっさ^^
2012/4/14(土) 午前 10:17 [ f u k o ]
夢想miraishouta さん、コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
「自然の道理にならって」というのは、その『易経』の中で、
易の占いのしるしである卦をもとに昔の帝王がいろんな物を
発明していった事に、さらにつなげています。
自然にならって色んな物事を作っていくという発想が、
「善」という言葉の根底にあることがわかりました。
(その2へ続く)
2012/4/14(土) 午後 3:55
(その2)
謙譲をそのまま行うことは難しくても、お互いに少しずつ譲り合うだけで、
もう少し円滑に世の中が進んでいきそうにも思いました。
こういう部分もしっかりと僕自身の心にも身につけていこうと思います。
これからもきっちりとがんばっていきます。
2012/4/14(土) 午後 3:57
不孤さん、コメント + 傑作ポチ、ありがとうございます。
今の訳は現時点での僕の認識と、昔の注釈を照らし合わせたものですので、
これから先に生きていく上で新たな解釈ができていくかもしれない、
そんな風に思っています。これからもきちんと昔の人の解釈に当たりながら、
自分で納得した訳をしていこうと思います。これからもがんばります。
2012/4/14(土) 午後 4:00
不孤さん、コメントありがとうございます。
漢詩の投稿もしっかりとがんばっていきます。
2012/4/14(土) 午後 4:14