玄齋詩歌日誌

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老子

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最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
六番目の記事の現代語訳(意訳)から読んでみて下さい。
 
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。
 
イメージ 1
 
パイプ
Photo by : clef
http://street34.mond.jp/clef
 
この漢文は『老子』の第十章の翻訳です。
合計で 19,000 文字を超えていますので、
記事を七つに分けています。
 
 
この一つ目の記事では、原文と書き下し文と、
個々の文章への解説の部分です。
 
今回の現代語訳(意訳)は六つめの記事にあります。
 
 六つめの記事
 
コメント欄は七つめの記事の方にのみ設けています。
 
 七つ目の記事
 
この点についてご了承願います。宜しくお願いいたします。
 
 
 
●原文:
 
 
 『老子』第十章
 
載営魄抱一、能無離乎。専気致柔、能嬰児乎。滌除玄覧、能無疵乎。
 
愛民治国、能無為乎。天門開闔、能無雌乎。明白四達、能無知乎。
 
生之畜之、生而不有、為而不恃、長而不宰、是為玄徳。
 
 
 
●書き下し文:
 
 
営魄(えいはく)を載(の)せて一(いち)を抱(いだ)く、
能(よ)く離(はな)るる無(な)からんか。
 
気(き)を専(もっぱ)らにして柔(じゅう)を致(いた)す、
能(よ)く嬰児(えいじ)ならんか。
 
玄覧(げんらん)を滌除(てきじょ)す、能く疵(きず)無からんか。
 
民(たみ)を愛し国を治(おさ)む、能(よ)く無為(むい)ならんか。
天門(てんもん)開闔(かいこう)、能く雌(めす)たらんか。
明白(めいはく)四達(したつ)、能く無知(むち)ならんか。
 
之(これ)を生(しょう)じ之を畜(やしな)い、
生じて有(たも)たず、為(な)して恃(たの)まず、
長(ちょう)じて宰(つかさど)らず、是(これ)を玄徳(げんとく)と為(な)す。
 
 
 
●解説:
 
 
この章は欲望を取り除いて心を安らかにして曇りのない目を持って、
物事の道理を見通しながら国を治めていき、
 
目の前の状況、解決すべき物事を見通す偉大ですぐれた心である、
「玄徳(げんとく)」にたどり着く、そういう章です。
 
 
ここでは特に後半部分は明の太祖、つまり明の帝国の初代皇帝である
朱元璋(しゅげんしょう)の注釈を中心に解説していきます。
 
直訳するだけならものすごく短い文章で済みますが、
実際に意味を検討していきますと、
長い文章になっていきますので、この点をご了承下さい。
 
 
以下の文章の中の「道」とは「自然の道理」のことで、
これでは自然のもとで道理を習うというように思われてしまいますので、
さらに分かりやすく述べますと、

「道の目指すところ、つまりその個々の目的の達成のために
 要求される道理」
のことです。目的を見据えて、そのために何をすべきかという時に
必要とされる道理のことです。
 
 
もっと具体的に言えば、詩を作る人はよりよい詩を作るための道理、
書道であればよりよい字を書くための道理、
 
政治家であればよく国や天下を治めるための道理、
社会人であればそれぞれの職業でよい成果を上げるための道理、
 
そういうものが特別にない人でも、日々の生活を工夫して、
よりよく生きるために考えなければならない道理のことです。
 
 
そのどれもが単なる人に教えられる学習だけではなく、
さらに独自の工夫によってきちんと把握し活用できるようになるものです。
 

では本文に入ります。
 

「載営魄抱一、能無離乎」
 
「営魄(えいはく)を載(の)せて一を抱く、
能(よ)く離(はな)るる無(な)からんか」
 
 
「営魄(えいはく)」に「一を抱く」など、難しい言葉が並んでいますが、
決して難しくはないのです。このような言葉遣いをしているのは、
イメージをさせやすいための配慮なのです。
 
 
道を理解するのは難しいと言いながらも、
老子は本当にわからないところは推測であることを
はっきりと述べています。ここは老子が丁寧に答えているのです。
 
時折、漢詩をしている若い方で、簡単なことを必要もないのに
わざわざ難しい言葉を使って、人が理解してくれないことで
自分は偉いのだと勘違いをしている人もいるのですが、
そのようなことを老子は決しないのです。
 
老子は易しく説いていても相手にしてくれない、そのことへの嘆きは
あっても、理解されないことで思い上がっているわけではないのです。
 
 
まず、「一を抱く」、つまり「抱一(ほういつ)」という言葉は、
「道、つまり自然の道理を大切に守ってそこから離れないこと」
を指しています。
 
『老子』第二十二章では、「聖人抱一、為天下式」
「聖人は一を抱いて、天下の式(のり)となる」、となり、
この訳は「知恵と徳にすぐれた聖人は、その時々で要求される道理を
守ってそこから離れることがないからこそ、
天下の人々の模範となるのです」となります。
 
 
この二十二章の「抱一」の、最初の例としてこの十章に出て来ます。
ここで疑問となるのは、わざわざ「一」とするのはなぜか、と言うことです。
 
道を大切に守るのならば「抱道」でも良いわけです。
わざわざ「一」としているのは、
 
「本来一つのものが二つになりそうになるのを防ぐ」
ということを示すためです。
 
その「本来一つのもの」とは「たましい」、
つまり「魂魄(こんぱく)」のことです。
 
「魂魄」の「魂(こん)」はたましいの精神的な側面を、
「魄(はく)」はたましいの肉体的な側面を表していて、
 
「魂」は陽の性質を持って活発に動き、
「魄」は陰の性質を持って静かにとどまっているのです。
 
死ぬ時には「魂」と「魄」が分かれて、「魄」はしばらく肉体に留まります。
一方で生きているうちは「魂」と「魄」は一つであり、それを示すのが
「営魄(えいはく)を載(の)す」の部分です。
 
「載」は清の思想家の魏源(ぎげん)の注では「処」、
つまり「おる」という意味で、
 
「営」は「野営」の「営」、つまり「泊まる場所」を指しています。
 
つまり、「営魄(えいはく)を載(の)す」とは、
活発に動く「魂」が「『魄』という宿泊所」にいる、
そのことで「魂魄(こんぱく)」という一つのたましいを形作る、
ということを示しているのです。
 
ここから「営魄」が「魂魄」、つまり「たましい」を示す
言葉になっていくのです。
 
 
魂が魄の所にともにいて、「一を抱く」、一は道、自然の道理、つまり
個々の目的を見据えた上で要求される道理をしっかりと守って、
魂と魄が二つに分かれるのを防いで一つの状態を保つ、となるのです。
 
 
そして「能(よ)く離(はな)るる無(な)からんか」
「うまく離すことができないままでいられるだろうか」となります。
 
 
生きているうちは魂と魄が一つになってたましいとなっているのですが、
それが生きているうちに二つになるとはどういうことか、
ここでさらに魏源の注釈を引きます。
 
 
(魏源の注釈の原文)
 
心之精爽。是謂魂魄。本非二物。然魂動而魄静。
苟心為物役。離之為二。則神不守舎。而血気用事。
 
惟抱之為一。使形神相依。而動静不失。
則魂即魄。魄即魂。何耗何昏。乃可以長存。
 
蓋非偶載之難。亦非抱一之難。而常不離之難也。修身養生。道皆如此。
 
 
(魏源の注釈の書き下し文)
 
心の精爽(せいそう)。是(これ)を魂魄(こんぱく)と謂う。
本(もと)は二物(にぶつ)に非ず。
 
然れども魂(こん)動きて魄(はく)静かなり。
苟(も)し心の物に役せらるば、之を離れて二となる。
 
則ち神(しん)は舎(やど)を守らずして、
血気(けっき)を事に用いる。
 
惟(ここ)に之を抱きて一となし、形神(けいしん)をして相い依(よ)らしめ、
動静(どうせい)を失わざらしめば、
 
則ち魂は即ち魄にして、魄は即ち魂なり。
何ぞ耗(すりへ)らん何ぞ昏(くら)からん。
乃(すなわ)ち以て長く存すべし。
 
蓋(けだ)し偶(とも)に載(の)することの難(かた)きに非(あら)ず。
亦(ま)た一(いち)を抱(いだ)くことの難きに非ず。
常に離れざることの難きなり。
 
身を修め生を養う、道は皆な此の如し。
 
 
(魏源の注釈の現代語訳)
 
心のたましいとなる部分を、「魂魄(こんぱく)」と言うのです。
魂(こん)と魄(はく)は元々は二つのものではないのです。
 
しかし魂は陽の性質を持って活発に動き、
魄は陰の性質を持って静かにとどまっているのです。
 
ここでもし、心が欲望によって他のものごとに
振り回されるようなことになれば、
魂は魄のもとを離れて二つになってしまうのです。
 
するとたましいは家である肉体を守ることをやめてしまい、
物事に激しやすい心で物事に向かってしまうのです。
 
ですからここで、道、つまりその時々に要求される道理を大切に守って、
欲望にひかれて魂と魄が離れるような状況にならないようにして、
 
肉体とたましいをどちらも自然の道理に従わせて、
言動に節度を持たせてその状況に合わないようなことを
させないようにすれば、
 
魂は魄であり、魄は魂であるというような
魂と魄が一つになった状況になれば、
 
どうして心をすり減らしたり、物事の道理に暗かったり
ということがあるでしょうか。
 
こうして自分の身を長く保つことが出来るのです。
 
そもそもこのことは、魂と魄を一緒にさせることが難しいのではなく、
あるいは、道理を守っていくことが難しいのでもなく、
それを常に保っていくことこそが難しいのです。
 
自分の身を修め、自分の生命を養うときの
道理というのは全てこのようなものなのです。
 
 
(ここまでが魏源の注釈の現代語訳です)
 
 
ここで「載営魄抱一、能無離乎」は、
 
「自然の道理、物事の道理を大切に守って、欲望をなくしていくことで、
 欲望にひかれて魂が魄のもとを離れるのを防ぐ、
 この状態をしっかりと保つことができるだろうか」となります。

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