|
最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
この六番目の記事の現代語訳(意訳)から読んでみて下さい。
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。
透明な石
Photo by : clef
http://street34.mond.jp/clef この漢文は『老子』の第十章の翻訳です。
合計で 19,000 文字を超えていますので、
記事を七つに分けています。
この六つ目の記事は、現代語訳(意訳)の部分です。
コメント欄は七つめの記事の方にのみ設けています。
七つ目の記事
この点についてご了承願います。宜しくお願いいたします。 ●現代語訳(意訳):
心のたましいとなる部分を、「魂魄(こんぱく)」と言います。
「魂(こん)」と「魄(はく)」は元々は二つのものではないのです。
しかし魂は陽の性質を持って活発に動き、
魄は陰の性質を持って静かにとどまっているのです。
平常の時は、魂が魄の家にいるように、魂と魄は一つになっています。
ここでもし、心が欲望によって他のものごとに振り回されるような
ことになれば、魂は魄のもとを離れて二つになってしまうのです。
するとたましいは家である肉体を守ることをやめてしまい、
物事に激しやすい心で物事に向かってしまうのです。
ですからここで、道、つまりその時々に要求される道理を大切に守って、
欲望にひかれて魂と魄が離れるような状況にならないようにして、
肉体とたましいをどちらも道理に従わせ、
言動に節度を持たせてその状況に合わないようなことを
させないようにすれば、
魂は魄であり、魄は魂であるというような、
魂と魄が一つになった状況を保つことができます。
そしてさらに、
『老子』第五十五章では、心、つまり自分の勝手な意思に
心身の活力である気を従わせることを、無理強いであると言っています。
『荘子』内篇の人間世篇の中で、孔子は「私の話を心、
つまり自分の身勝手な分別に任せて聞くことをせずに、
気、つまり心身の活力が心身を自然に働かせるように、
虚心(きょしん)に受け入れるように聴きなさい」
と、弟子の顔回(がんかい)に告げる一節があります。
気というものは、虚心に外部の物事を受け入れる働きのあるものです。
そもそも心には自分の欲望や好き嫌いに従って、
これはよくてこれは悪いという判断をする働きがありますが、
気はそういう悪い分別を持つことは無いのです。
ですから心、つまり自分の好き嫌いや自分勝手な思いに基づいて
分別を働かせて、それに従って気を使うようにすると
こわばってかたくなな状態で外部の物事に接してしまいます。
一方で懸命に気を純粋に保って、心の間に他の欲望を
まじえないようにしますと、
外部の物事に柔軟に対処ができるようになるのです。
ここで言う「虚心(きょしん)」とは、
決して頭の中を空っぽにするという意味ではないです。
そもそも絶対君主でもなければ、頭を空っぽにして
「さあ皆さん、考えて下さい」などと言っても
誰かがすすんで考えてくれるわけではないのです。
「虚心」に接するとは、誰かが名案を出してくれるのを
じっと待つということではないのです。
「虚心」とは、その時々に発生する道理、わかりやすく言うと
「目的」に向けて、欲望を抑えてそのために身を砕くほどに取り組んで、
自分の普段の好き嫌いの感情や、それに基づいた自分勝手な
良いとか悪いとかいう判断を捨てて、真摯(しんし)に目的を見据えれば、
本当に必要なことが見えてくる、ということです。
そうして必要なことが見えてくると、奥深くの道理まで見通すような
鏡のような心になってきます。
この心の働きを「玄覧(げんらん)」と言うのです。
しかしここで、この「玄覧(げんらん)」からさらに傷や汚れを
洗い落とす必要があるのです。
その傷や汚れとは何か、それは自分が学んできたことにより、
自分の長年学んで親しんできた領域にこだわってしまって、
それによってただ一人の自分勝手な見解にとらわれてしまうことです。
それは例えば、金の小さな破片は、色や形は澄んでいるものですが、
目に入ったら網膜が傷ついて物が見えなくなってしまうようなものです。
自分が理解したところがその後の障害となり、
物事を解きほぐして得られた考え方が、
その後にその人自身を束縛することになってしまうのです。
それを防ぐためにそこの傷や汚れとなっている部分を
洗い流す必要があるのです。
つまり、落ち着いた時に自分自身の考えや気持ちを確かめてみる、
あるいは能力と人格の上で信頼の置ける人たちと話し合う、
自分のことに責任を持って見守っていてくれる人の話に耳を傾ける、
そうしていく内に、傷や汚れが取り除かれて、
曇りのない心の鏡である「玄覧(げんらん)」で、
奥深くの道理までも見通すことができるようになってくるのです。
さて、このような「玄覧(げんらん)」を手に入れた人が君主になった場合、
どのように国を治めていくかを見ていくことにします。
そのような君主が民衆を愛し、国を治めていく際には、
うまく「無為(むい)」に物事を行うようになります。
この言葉は決して手をこまねいて何もしないことではないのです。
曇りのない心でその時々の目的が要求する道理に従って、
その場その時にきちんとあった方法で行い、
良い物事や、良い人材を取り上げて活用します。
その様子を外部から見れば、それはまるでごく当たり前のことが
行われているようにしか見えないので、特にすぐれた何かを
しているとは思われない、これが「無為(むい)」です。
目に見える鮮やかな成果をあげることではなく、
道理に従って淡々と事をなし遂げる、これがもっとも大切なのです。
さらにそのような君主は、もの静かに事を行うようになります。
そのことを「天門(てんもん)」、つまり天の支配者である
天帝(てんてい)のいる宮廷の門にたとえて言うと、次のようになります。
あらゆる物事は天門を出たり入ったりするのです。
その出入りを、門を開けたり、閉じたりして調整するのです。
物事をうまく運ぶためには、門を閉じて、物事の動きを
緩やかにするのがよいのです。
そのことを鼻の穴からの呼吸にたとえることができます。
もし天門を鼻の穴だとすると、
息が詰まってあえぐ状態は門を開くことに相当し、
安定した呼吸ができる状態は、門を閉じることに相当します。
ですからすぐれた君主は、天門を閉じるように、呼吸を安定させるように、
欲望や血気にはやる心を抑えて、気や血液の流れを安定したリズムに
乗せて働かせるようにして、
あらゆる事を受け入れ生み出す「雌(めす)」のような状態で、
国を治める時に目の前の状況に落ち着いて対処していくのです。
そうして自分自身だけを頼みとして、血気にはやって判断を誤るような
「雄(おす)」の状態になってしまわないように気をつけるのです。
さらにすぐれた君主は、疑う余地の無いほどに明らかなことを、
あえて改めて確認し理解した上で、さらに四方に行き渡らせる、
そのようなまるで「無知(むち)」のような行動を取るのです。
その「無知(むち)」はもちろん、世間で言われるような意味ではなく、
「知っていることでも知らないこととみなす」ということです。
人は皆、誰でも知っているようなありきたりなことでも、
十分に知っているとは言えないのです。
毎日習慣とすべき事でも、一年トータルで見れば何日かは
できなかったりするのです。
そういうものはまだましでも、本来大切にすべきごく平凡なことでも、
「理屈ではわかっていても実行できていない」とか、
「口では大層なことを言いながらも実行に移そうともしない」
とかいうことが起こってしまうととても問題があるのです。
だからこそ、みんな知っていることでも、
しばしばその大切さや、それをきちんと実行することが
忘れがちになってしまいますので、
それを改めてしっかりと認識した上で周知徹底させよう、
そう思って、あえてその大切な言葉を繰り返しているのです。
そのように国を治めていく中で、君主が気をつけていくべきポイントは、
次のようなものです。
民衆とともに安らいで、養っていく中でいざというときの蓄えをさせ、
それでいて軽々しく民衆を使ったり、安易な気持ちで蓄えを税金として
取り上げたりすることをせず、
天下を安らかな状態にさせるけれども、
それ以上を求めて君主が血気にはやって
自分勝手に国を動かしたりせず、
君主が年上だからと言って、自分一人の考えであれこれと取り仕切らず、
本当に自分がすべきことを重点的に行い、
その他の必ずしも自分がする必要性のないこととを選り分けて、
後者を多くの部下たちに職務と責任という形で与えて、
君主が重要なことをきちんとする時間を十分に確保し、
その時々に要求される道理と筋道に従って、
その場その時にあった形で国を治めていくのです。
こうして君主としての道理、あるいはその時々に要求される道理に
従っていくことで、
「目の前の状況、解決すべき物事を見通す偉大ですぐれた心」に
近づいていきます。この心のことを「玄徳(げんとく)」と言うのです。
|
全体表示
[ リスト ]




