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最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
三番目の記事の現代語訳(意訳)から読んでみて下さい。
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。 ●原文:
『老子』第十一章
三十輻共一轂、当其無、有車之用。埏埴以為器、当其無、有器之用。
鑿戸牖以為室、当其無、有室之用。故有之以為利、無之以為用。
●書き下し文: 三十の輻(ふく)の一つの轂(こく)を共(とも)にす。
其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、車の用(よう)有り。
埴(しょく)を埏(ねや)せて以(もっ)て器(うつわ)と為(な)す、
其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、器(うつわ)の用(よう)有り。
戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以(もっ)て室(しつ)と為(な)す、
其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、室(しつ)の用(よう)有り。
故(ゆえ)に有(ゆう)の以(もっ)て利(り)と為(な)し、
無(む)の以(もっ)て用(よう)と為(な)す。
●解説:
この章は理解し把握することの難しい「無(む)」というものを、
物に託して説明する章です。
抽象的な概念をこうして物事にたとえる有名な例としては、
『論語(ろんご)』の八佾(はちいつ)第三の篇にある一節で、
孔子の弟子の一人の林放(りんぼう)が
礼(れい: 物事の正しい道理を形式や制度に具体化させたもの)の
本質を質問した時に、
孔子は
「良い質問だね。先祖のお祭りなどでは派手な形式を取らずに
むしろ倹約をして、先祖を敬う気持ちの方を大切にさせた方が
よいのです。
葬儀の時には形式を整えることばかり口やかましく言うよりは、
その亡くなった方を悼む気持ちの方を大切にしたほうがよいのです」
という風に答えていました。
現代風に言えば、「礼の本質は形式ではなく真心である」という風に
言えそうですが、孔子はそうはしなかったのです。
そのような抽象的な言葉を使って
「ごまかし」にならないようにという配慮です。
祭りの時に先祖を敬う気持ちを持ちなさい、
葬儀の時には亡くなった方を悼み悲しみなさい。
こういう事でとてもわかりやすくなり、ごまかしがきかなくなるのです。
さて、この部分の註釈を検討していきますと、
物に託して明快に述べるという、この『老子』第十一章の意図を
最もきちんと汲んでいる注釈は、
元の時代の学者の呉澄(ごちょう)の注釈です。
この注釈の原文・書き下し文・現代語訳を示した上で、
実際に『老子』第十一章の本文の検討に入ります。
(呉澄の注釈の原文) 輻、輪之轑也。轂、輪之心也。無、空虚之処也。
埏、和土也。埴、土之粘膩者為器。故謂。水和粘膩之土。為陶器也。
凡室之前。東戸西牖。戸以出入。牖以通明。
車載重行遠。器物所貯蔵。室人所寝処。
故有此車。有此器。有此室。
皆所以為天下利也。故曰、有之以為利。
然車非轂錧空虚之処。可以転軸。則不可以行地。
器非中間空虚之処。可以容物。則不可以貯蔵。
室非戸牖空虚之処。可以出入通明。則不可以寝処。
車以転軸者為用。器以容物者為用。室以出入通明者為用。
皆在空虚之処。故曰、無之為用。 人之実腹有気。所以存身。所謂為利也。
虚心無物。所以生気。所謂用也。
故取三物取喩。
(呉澄の注釈の書き下し文)
輻(ふく)は、輪の轑(りょう)なり。轂(こく)は、輪の心(しん)なり。
無(む)は空虚(くうきょ)の処(ところ)なり。
埏(えん)は、土に和するなり。
埴(しょく)は土の粘膩(ねんじ)なる者の器(うつわ)を為(な)す。
故(ゆえ)に謂う。水と粘膩の土にて、陶器(とうき)を為(な)すなりと。
凡(およ)そ室の前、東戸(とうこ)・西牖(せいゆう)なり。
戸は以て出入(しゅつにゅう)し、牖(ゆう)は以て明(めい)を通(つう)ず。
車は重きを載せて遠きを行く。器(うつわ)は物の貯蔵(ちょぞう)する所、
室(しつ)は人の寝処(しんじょ)となる所なり。
故(ゆえ)に此(こ)の車(くるま)有り。
此(こ)の器(うつわ)有り。此(こ)の室(しつ)有り。
皆な天下(てんか)の利(り)を為(な)す所以(ゆえん)なり。
故(ゆえ)に曰(いわ)く、有の以て利を為(な)すと。
然(しか)れども車は轂(こく)の錧(かん)の空虚(くうきょ)の処(ところ)が、
以(もっ)て軸(じく)を転(てん)ずべくに非(あら)ず。 則(すなわ)ち以(もっ)て地(ち)を行くべからず。 器(うつわ)は中間(ちゅうかん)の空虚(くうきょ)の処(ところ)が、
以て物を容(い)るるべくに非ず。則ち以て貯蔵(ちょぞう)すべからず。
室は戸牖(こゆう)の空虚(くうきょ)の処が、
以(もっ)て出入して明(めい)を通(つう)ずべくに非ず。
則ち以(もっ)て寝処(しんじょ)とすべからず。
車は以(もっ)て軸(じく)を転(てん)じて用(よう)を為(な)す者、
器は以(もっ)て物(もの)を容れて用(よう)を為(な)す者、
室は以(もっ)て出入(しゅつにゅう)に明(めい)を通(つう)じて
用(よう)を為(な)す者なり。
皆な空虚(くうきょ)の処(ところ)有り。
故(ゆえ)に曰(いわ)く、無の用を為すと。
人の腹(はら)を実(じつ)にして気(き)を有(たも)つは、
身を存する所以(ゆえん)にして、
所謂(いわゆる)、利(り)を為(な)すなり。
虚心(きょしん)にして物とする無し。
気(き)を生ずる所以(ゆえん)にして、所謂(いわゆる)、用なり。
故(ゆえ)に三物(さんぶつ)を取りて喩(たとえ)を取る。
(呉澄の注釈の現代語訳)
「輻(ふく)」というのは、車輪の輪の「轑(りょう)」、
つまり車輪の外側から内側をつなぐ、傘の骨のような所です。
「轂(こく)」は、その車輪の中心のことです。
そこは穴が空いていて、その間に横木を通して二つの車輪を
つなぐのです。
「無(む)」とは、その穴の空いた空っぽのところを指しているのです。
「埏(えん)」とは、土に混ぜ合わせる、という意味です。
「埴(しょく)」とは、油のように粘りけのある土、つまり粘土のことです。
つまり「埏埴(えんしょく)」とは、水と土を混ぜ合わせて粘土として、
それを用いて陶器を作ることを指しているのです。
そもそも部屋の前には東に戸を作り、
西に明かりを取るための窓を作ります。
戸は人が出入りするためのもので、
窓は明かりを部屋の中に入れるために作られるのです。
車は重い荷物を載せて遠くへ行くためのもので、
器はその中にものを蓄えるためのもので、
部屋は人が休んで寝るためのものです。
ですから、この世の中に車があり、器があり、部屋があるわけです。
これらは全て、天下でこれらのものが人の役に立つ理由なのです。
ですから『老子』の本文に、
「『有』によって人の役に立つのです」とあるのです。
ですが、車は轂の「錧(かん)」、つまり車輪の真ん中に棒を通して
外れないようにくさびを打つ、その車輪を通す穴の空いた部分が、
単独で車輪の軸を回すわけではないのです。
だから、その空っぽの部分だけで地上に車を走らせることは
できないのです。
陶器の器も、物を入れることのできる空っぽの部分が、
単独で物を入れることはできないのです。
だから、その空っぽの部分だけで物を蓄えておくことはできないのです。
部屋は戸や窓を作るためにくり抜いた部分が
単独で部屋の出入りを可能にし、
明かりを部屋の中に入れることができないのです。
だから、その空っぽの部分だけで人が休んで寝る場所を
形作ることはできないのです。
車輪は、軸を回して回転することで本来の働きをし、
陶器の器は、物を中に入れることで本来の働きをし、
部屋は、そこに人が出入りをし、外から明かりを取り入れることで
本来の働きをするのです。
その時に、車輪も、陶器の器も、部屋も、どれも空っぽの所があるのです。
ですから『老子』の本文に、
「『無』によって物事が本来の働きをするのです」とあります。
ですから、『老子』第三章の 「民衆の心を欲望に動かされないようにし、
大切なものを失わせないようにするのです」とあるように、
実質的な部分、つまり『有』によって人の役に立つと言えるのです。
同じく第三章に、
「何かを欲しいという気持ちを弱めるようにして、
その分、人間としての根本の部分を強くしていくのです」
とあるように、何かをなくしていくということ、
つまり『無』によって物事が本来の働きをするということが分かるのです。
こういう事を説明するために、
車輪、陶器の器、部屋という三つの物にたとえて説明をしているのです。
(ここまでが呉澄の注釈の現代語訳です)
先ほどの注釈を、改めて『老子』の第十一章の本文に従って
説明していきます。
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