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●本題その二(天籟の話をした理由):
もう一つの疑問は、子?(しき)がなぜ天籟(てんらい)の話をしたかということです。
それはこの道についての説明が、この篇のテーマである
万物斉同(ばんぶつせいどう)という言葉につながっているからです。
この説明のために、この天籟を儒学者がどのように解釈していたかを
見ていくことで、元々の荘子の考える天籟、
そして万物斉同の中身に迫っていくことにします。
まず、清の学者の陸樹芝(りくじゅし)の注釈によりますと、
天籟とは「無極(むきょく)にして太極(たいきょく)」という言葉で
説明することができる、と述べています。
「無極(むきょく)にして太極(たいきょく)」とは、
宋の時代に起こった儒学の哲学である宋学(そうがく)と、
後に南宋の朱熹(しゅき)がまとめた朱子学(しゅしがく)の中心的な概念です。
この部分を調べるために、 Facebook の友人に持ってきてもらった資料の一つ、
『朱文公易説(しゅぶんこうえきせつ)』を調べていました。
これは朱熹の語録である『朱子語類(しゅしごるい)』と
彼の文集の中から易に関する部分だけをまとめたもので、
とても便利です。
その書の「太極」の篇の中にある、朱熹の論敵で、後の陽明学の元となった
陸九淵(りくきゅうえん:字(あざな)の象山(しょうざん)の方が有名です)の
批判に答える長文の手紙の中に、わかりやすく載っています。
かいつまんで説明していきます。
王弼の考えでは太極(たいきょく)のご先祖に無、
つまり道が存在するということですので、
儒学者の側からすれば『易経』を老荘に人質に取られたようなものです。
唐の時代にはこの王弼の注釈に、学者の孔穎達(くようだつ)が
さらに注釈を付けたものが、科挙の『易経』の教科書として
出てくるほどになっていました。
唐の時代は唐の皇帝と老子の姓が同じく「李(り)」だったことから、
皇帝のご先祖が老子だということになっていましたので、
あまり問題でもなかったのですが、
宋の時代は皇帝の姓は「趙(ちょう)」でしたので、
そんな特別な事情もなく、儒学者たちは
この問題をクリアすることを考えていきました。
宋学の有名な学者の一人で、朱熹が私淑した
北宋の儒学者の程兄弟の二人の家庭教師をしていた、
北宋の周敦頤(しゅうとんい)は、
「無極(むきょく)にして太極(たいきょく)」という言葉を用いて乗り越えようとしました。
これに対して批判をしたのが陸九淵(りくきゅうえん)です。
彼は「無極」という言葉は老子の言葉であり、
儒学の聖人の教えに老荘をまじえるとはとんでもないことだ、
という批判をしました。
それに対する朱熹の答えは、無極とは「極まった所のない万物の始まり」を指し、
それが太極であるということを表している、
つまりあらゆる物事の共通の祖先は太極であり、
それ以前に老荘が述べているような太極以前に無のようなご先祖は無い、
ということを示しているに過ぎないのだ、ということです。
「無極にして太極」という概念の元では太極から陰と陽の二つが出てくる時に、
太極や陰と陽、そこから生まれるあらゆる物事の本体部分を「気(き)」と呼び、
陰と陽の「気」が万物を生み出すために介在するものを「理(り)」と呼んでいます。
これが朱子学の概念である「理気二元論(りきにげんろん)と呼ばれるものです。
あらゆる物事、つまり「気」の間に存在して、
あらゆる物事を人間の身体のように、
まとまった一つのように働かせている「理」とは、
まるで何か実体があるようでいて、「そんなもの(実体)はありしない」、
これが朱子学流の天籟の説明なのです。
朱熹はこの概念から、儒学の経典の四書五経の四書の一つである
『大学(だいがく)』の中で述べられている「慎独(しんどく)」という言葉を
説明しています。
「慎独(しんどく)」とは「独りを慎む」、
つまり誰も見ていない所で悪いことをしないということ、
それが人前でよいことをする時の基本となる、
そういう言葉ですが、
朱熹はさらに突き詰めて考えて、
悪いことをする気持ちが起こった時に反省をしていくことで、
自分の行いを正していくことができる、という風に考えました。
悪いことをする気持ちが芽生えた時に反省することを、
物事が起こる前の段階で、心の中を正しくするという意味で
「未発(みはつ)の中(ちゅう)」と名づけ、
これによって行いが正しくなることを、
物事が起こった時にも行いが適切に鳴るという意味で
「已発(いはつ)の中(ちゅう)」と名づけました。
孔子は政治の中で悪い事態が次々に起こる前に、
あらかじめ準備をしていくことが何より大切だと述べており、
老子では、悪いことが起きる前に芽の段階で積んでおくように
政治を行うことで、大手術が必要な事態を避けよとあります。
どちらもいろんな物事が起こる初めの段階、
「未発」の段階で手を打っていくことが大切だ、ということになります。
これと同じように、いろんな物事が枝分かれする前の段階に注目することで、
物事の本来の意味がわかってくる、ということがあります。
これが万物斉同(ばんぶつせいどう)の考え方につながっていきます。
(その六へ続きます)
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