玄齋詩歌日誌

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陽明学

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眼鏡と本
Photo by : clef


陽明学、検索するといろんな昔の偉人の名前が連ねてあって、
とても素敵な世界だなどと単純に思い、
何が語られているかもきちんと理解しないままに分かったふりをしてしまう、

陽明学だけでなく、儒学全般、更に古典全般にも言えることです。

人に「古典を読みなさい」という場合も、
「読みなさい」という抽象的なお説教ではなく、

自分が読んだ珠玉の一冊の面白さを語り、
あなた方も読んでみなさいと問いかける、
それぐらいでなければ人はついてこないのです。

基本的なことですが、忘れられがちなことです。


さて、陽明学を本当に論じたい場合は、解説書に当たって理解するだけでなく、
原文に当たって欲しいと、よく思います。

次のツイートで示すサイトは王陽明の中国語の Wikipedia のサイトです。
その中の、「王陽明 : 王文成全書」というリンクをたどると、
王陽明の全集を見ることができます。

Web ページ: 「王守仁 - 維基文庫」


「王守仁(おうしゅじん)」は陽明の本名です。
諡が文成(ぶんせい)ですので、
そのページの下の方のリンク先の書名は
「王文成全書」となっています。

以下、中身に入っていきます。


『王文成全書』は三十八巻もある全集です。
その第一巻には王陽明の言行を記録した『伝習録(でんしゅうろく)』があります。

これは陽明の弟子であり、妹婿となった「徐愛(じょあい)」たちが
中心となって記録し、編集したものです。

「愛」が男性の名前というのも面白い所です。さて、


この冒頭からの徐愛と陽明とのやりとりが、
陽明の考え方を理解する上でとても重要なのです。
そのうち二つをご紹介します。

まずは徐愛の質問は、経書の『大学』の、
古い本では「親民」とあったのを

朱子学の大成者である南宋の朱熹(しゅき)が
「新民」と改めたことを陽明が批判して、
昔の本が正しいとしたことについてです。

朱熹の考えも故なしということでもないのです。

「新民」の根拠の一つとしては、

夏王朝の暴君であった桀王(けつおう)を倒した
殷の湯王(とうおう)の手洗いに使う入れ物に彫り込んだ字の

「苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり」
と刻んであることです。


まず、湯王はなぜこのような文字を彫りつけたかといいますと、
朝にこの手洗いの器を見た時に、

「自分を改めなければ」という反省の気持ちを常に忘れないでいよう、
そんな気持ちを表したものです。いいな、と思う話の一つです。

他にも朱熹は典拠を見いだしているわけです。ここで大切なのは、


朱熹が生きていた南宋という時代のことです。

まず、宋という国が出来た時には、国が行き詰まりを見せて、
それを解決する政治改革をめぐって二つの派閥が争っていて、
国が疲弊している所に北方の騎馬民族の金が攻めてきて、
南方へ逃れて都を定めました。これが南宋です。

この時代に生きた朱熹は、自分自身を含め、国の体制から何から、
しっかりと改めることが出来なければ、金に滅ぼされてしまう、

そんな状況の中で経書を読み、古今の書籍を比較検討していく中で、
「新民」、「民を新たにす」としたわけです。

実際にはこんな当時の儒学者の気持ちも実ることがなく、

その後は中国史を確認すれば分かりますとおり、
モンゴルに滅ぼされるわけです。

その後の元の後に明になり、朱子学の弊害が出ている時に
陽明の時代となったのです。

言葉の是非については『伝習録』の文にあります。
その最も大切な所は何かと言いますと、


「民に親しむ」というのは、民衆、つまり人を変えることではなく、
あくまでも施政者の問題、更にいえば自分自身の問題として
とらえなければならない、ということです。
『論語』の孔子の言葉、「己を修めて以て百姓(ひゃくせい)を安んず」
が引用されています。百姓は民衆のことです。

つまり、自分がきちんと修養した上で、
民衆におもねるのではなく、

本当に民衆が望んでいることをきちんと把握した上で政治に臨めば、
民衆が安心して暮らせる治世を行うことが出来ると、

つまり基本は元の本の通り「親民」、
つまり「民に親しむ」のままで正しいのだということです。

「新民」の場合の弊害とは、改めるべきは誰か、
という根本の所をすっ飛ばしかねないということです。

湯王も自分の手洗いの器に刻んだのは、
「何より自分自身を改めよう」という気持ちがあるのです。
ですから朱熹の「新民」も、「まず自分から改めよう」
という切実な気持ちから発したものなのですが、

それが後世では、民衆、つまり「人を改める」
ということになってしまって、

自分の身をきちんと反省し、修養することがないままに
人を教え導こうという虚偽に堕落してしまったのです。

実際、昔を懐かしんで名文を諳んじながら、
その人の生活を見ると「本当に理解しているのかな」等と
疑念を持たれてしまいますと、

どんなに立派な教えでも本心から人がついていくことはなく、
ましてや「民を新たにする」等ということは到底不可能になってしまうのです。

「親」という字は「したしむ」という意味の他に、
「みずからする」という意味があります。

例えば「親政(しんせい)」という言葉は、天皇自らが政務を執るということで、
この「自ら」が「親」という意味になっているのです。

どこまでも自分自身の問題として考えて、
ようやく本当のことが分かる、ということなのです。

更に厳しくいえば、こんな話を聴いて「その通りだ」などと言って、
為政者や自分以外の誰からの名前を出して、そんな彼らを批判しながら、

その批判の目を自分自身に向けないことは、
最も良くないことだということです。

私自身がそんな虚偽を働かないように、
常に自分を改めていかなければと思っています。


では次に移ります。


次は「致良知(ちりょうち)」という言葉についてです。これまた誤解が多い。
これもまた朱熹の『大学』の解釈に関わる問題からの解説です。

『大学』の中で八条目(はちじょうもく)というものがあります。
身を修めて天下を安らかにしていくまでの一つのプロセス、

あるいは、自分の身を修めることも天下を治めることも
ひとつながりのものとして考え、

身を修める時も天下のことを思い、
政治の場であっても自分自身の反省を忘れない、

そんなことを示す八つの項目であり、
その最初に「格物(かくぶつ)」とあります。
この格物をめぐっての議論です。

この部分は、それこそ星の数ほども注釈があって、
しかも注をつけているのは儒学者だけでなく、禅僧などもいるのです。

その内の代表的な二つが、朱熹と王陽明のそれぞれの解釈なのです。
まず朱熹は「物に格(いた)る」と読み、

いろんな物事の中にある道理、孝行や君臣の道、
そんな多くのことをきちんと学ぶ内に、


それが一つのものになっていって、
最終的に「ああ、こういう事か」と理解出来るようになる、ということです。


一方で陽明は、「格物」を「物を格す(ただす: 正す)」と読み、
自分の心の中を清らかにして、

自分の心の中にある正しい善を見つめることで
道理をきちんと理解できるようになる、ということなのですが、

この解釈の中での忘れがちな問題点こそ、
徐愛が陽明に質問したことなのです。

それは、正しい善を自分の心に求めるのであれば、
おそらく道理を考える際に足りないものが出てくるのではないかと、
つまり朱熹の考えこそ正しいのではないかという質問です。

父への孝、君主への忠、友人への信、
信は信じるここと信じられることの両方です。

この道理をきちんと身につけるためにも、
学習とは大切なことではないか、という質問です。


この質問の中にはそもそも誤解があるのです。
そこを陽明は明快に説いています。

自分の心に求めるとはいっても、
ただ抽象的に自分の心を探って悟るというようなことではない、
と述べて、一方で当時の世の中のそれこそ学問というものは、

実際の父親、実際の君主(あるいは上司)、実際の友人を離れて、
理想の姿だけを学んで名文を暗記してそれで事足りるとしているのだと、
このどちらも正しいわけではないのだということです。

つまり父親への孝や友人への信という場合も、
実際の父親や友人、つまり、

ごく普通の父親、あるいは尊敬をしていたとしても欠点も存在する父の姿、
子どもは欠点もきちんと知っております。
その中で孝行を果たすとはどういうことだと考え、

友人の場合は、親しいながらも喧嘩をすることも多く、
本音で語り合っては互いに傷つくこともある、
そんな友人に対して、お互いに信頼関係を築くとはどういうことか、

君臣の場合の「君」は天皇陛下や総理大臣などの
普段接点のない雲の上の人だけでなく、

目の前の上司、一見分からず屋でいい加減なように見えてしまう、
そんな上司に対してどう接するか、
という切実な問いかけの中で初めて分かるということです。

上司の例ではどんなに不満があっても会社の命令であれば
基本は従わなければならない、

さらに上司の立場に立ってみれば、いろんな人や状況に
配慮しなければならない中で、ただ敬意を表して黙っているだけでは、
自分が述べた全ての事が了解されているものと理解して、
実際に現場ではそうでないことが発覚し、

あなたに責任が発生するようなことになったとしても、
むやみに上司だけを不満に思うだけではいけないのです。

つまりは上司を上司として認め、
きちんと配慮する中でも言わなければならない大切なことは
口頭で伝えなければならない、


こう考えてくると、君主への忠とはむやみな絶対服従などではなく、
もしそうしてしまうと、会社のためにならないどころか、
黙っていることで安全なはずの自分の身の上さえも危うくなる、

こういう事を実際の出来事の中で考えて、
自分の中の善とは何かということを具体的に理解して
正しい道理の把握に到るということ、

これこそが「格物」、「物を格(ただ)す」ということであり、
その結果たどり着いた所が「致良知(ちりょうち)」だということなのだと、
陽明はそのように答えています。


陽明学は決してストイックな聖人、到底実現不可能な聖人の所行でも、
ましてや過激な蛮行などでもなく、

日常の地道な努力の末に得られるごく平凡で大切なことに
気付かせてくれるものだということです。

こういう所に気付いて、目の前の「自分の」問題に
対処していくことが大切なことなのです。

間違ってもこんな言葉を覚えただけですっかり偉くなってしまわないように、
というのが私からのお願いであり、

私がこれからも気をつけて学び、日々を過ごしていこうという意思であり
反省点であると、そう思っています。


これからもしっかりとがんばっていきます。
長文を読んでいただいて、深く感謝いたします。(了)

閉じる コメント(12)

「陽明学を本当に論じたい場合は、解説書に当たって理解するだけでなく、原文に当たって欲しいと、よく思います。」



ハウツー物ばかり読んでいる自分が情けないです^^;

2013/4/21(日) 午後 9:31 [ Tenbinza8722 ]

「まずは徐愛の質問は、経書の『大学』の、古い本では「親民」とあったのを朱子学の大成者である南宋の朱熹(しゅき)が「新民」と改めたことを陽明が批判して、昔の本が正しいとしたことについてです。」


古典(原文)を書き換える・・・朱熹も凄い人ですね。

2013/4/21(日) 午後 9:36 [ Tenbinza8722 ]

「身を修める時も天下のことを思い、
政治の場であっても自分自身の反省を忘れない、そんなことを示す八つの項目であり、その最初に「格物(かくぶつ)」とあります。この格物をめぐっての議論です。」


朱熹と王陽明の考え方を理解するだけでも大変です。幻齋さんの御研究には頭が下がります。

2013/4/21(日) 午後 9:44 [ Tenbinza8722 ]

「間違ってもこんな言葉を覚えただけですっかり偉くなってしまわないように、
というのが私からのお願いであり、
私がこれからも気をつけて学び、日々を過ごしていこうという意思であり
反省点であると、そう思っています。」



幻齋さんは、決して学者先生や評論家にならないところが大好きです(^^)☆☆☆

2013/4/21(日) 午後 9:50 [ Tenbinza8722 ]

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難しい・・・ なんとなく人を批判しがちになってしまう
自分を感じました。
謙虚に相手の立場も常に頭の中に置くことが大切ですね。
男性のなまえに「愛」を用いるのは珍しいですね!

2013/4/22(月) 午前 9:54 ある おかん

Tenbinza8722(56rinyahoo)さん、こんにちは。
温かいコメントとポチをありがとうございます。

(1)

解説書のたぐいももっと簡単に書けるはずなのですが、
著作者にはそういう点を配慮して欲しいなと時折思います。
無理やりに哲学用語を用いるものもあって、苦笑いする時もあります。

2013/4/22(月) 午後 5:44 白川 玄齋

(2)

『大学』は朱熹が書き換えた所と書き加えた所があって、それが今回の二箇所です。
それが当時はさんざん批判されていましたが、時が経つと金科玉条のようになって、
後の儒学者がきちんと理解をすることもなく、硬直した考えになっていったのです。

安岡先生が述べているように、きちんと学べば朱子学も陽明学も一つなのです。
そういう所を解説していくように配慮しました。

2013/4/22(月) 午後 5:49 白川 玄齋

(3)

この辺りは安岡先生の大学と小学を説明した本にもありますね。
それをもっと具体的に書いてみました。

「修養から天下までを一つに〜」はその解説書には、法華経の「如是〜」
と続く「十如是(じゅうにょぜ)」の最後の一つ、
「如是究境等(にょぜくぎょうとう)」で説明しています。
十如是で表されている十個を同じように見て世の中の真実が見えるように、
その八条目の八個を一つとして修養と政治を一つに考えていくのが
八条目の二つ目の意味なのです。

2013/4/22(月) 午後 6:02 白川 玄齋

(4)

私自身も気をつけないといけないのですが、世の中には難しい言葉を覚えて、
その言葉の意味をしっかりと吟味することなく人前で使って、
相手が分からないことにかえって得意になるような
『坊ちゃん』の赤シャツのような人がいて、

そんなものはかえってその人自身に良くない影響があると思います。
漱石も漱石自身への皮肉や反省の意味を込めているのではと思います。

ましてや私のような自由な立場で学んでいる人は、
自分なりの実践というものを示すためにも、
少しでも具体的に書くことが大切だと思っています。

今の翻訳も課題詩も、しっかりとがんばっていきます。
課題詩が日曜日に終わって、今月のうちにもう一つ詠む予定です。
今週もしっかりとがんばっていきます。ブログにも訪問いたします。

2013/4/22(月) 午後 6:09 白川 玄齋

ある おかん さん、こんにちは。温かいコメントをありがとうございます。
名言を覚えると政治家の誰それや、その人自身が嫌いだと思う人を批判する材料になって、
自分自身がそうならないように、あるいはそうなっていることを反省する機会にならないのは、
残念だと思うことがよくあります。

相手の事情を慮れば、批判一方ということにもならないのではと思います。
上司になった時に、初めて部下の時の不満の意味が分かる時もありますね。

いつもこの『伝習録』で面白いなと思うのが、陽明の弟子で妹婿の「徐愛」ですね。
日本だと普通は女性の名前に「愛」がつくのですから、とても興味深いですね。

今日もお昼寝を終えて元気に過ごしております。今週も元気にがんばります。

2013/4/22(月) 午後 6:17 白川 玄齋

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古典一冊でも内容を理解するには大変な努力が要ります
陽明学などと言ったら膨大です・・・
頑張る以外にないですね!

2013/4/26(金) 午前 4:59 [ 夢想miraishouta ]

夢想miraishouta さん、こんにちは。
三十八巻、少しずつ学んできております。一つ一つの言葉を、
今生きている私自身の生きていく上での課題、そういう所に照らし合わせながら、
しっかりと理解していこうと思います。午後からも療養しながら頑張っていきます。

2013/5/1(水) 午後 2:22 白川 玄齋


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