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京料理 蒸し物(茶碗蒸し)
Photo by (c) Tomo.Yun
今回は『老子』第十二章の翻訳と解説です。
こちらは原文と書き下し文と解説の部分です。
現代語訳は次のブログ記事になります。
普段、漢文になじみのない方は、
先に次のページの現代語訳に目を通して下さい。
よろしくお願いいたします。 私は色んな註釈をもとに自分が納得できる形の翻訳と解説をしておりますので、
一般的な邦訳は他の方のものを図書館等でご確認下さい。
私は丹念に注釈に当たりながら、全く違う訳になっております。
では今回の原文と書き下し文から。
●原文:
五色令人目盲、五音令人耳聾、五味令人口爽、馳騁畋猟令人心発狂、
難得之貨令人行妨。是以聖人為腹不為目、故去彼取此。
●書き下し文:
五色(ごしょく)は人の目をして盲(もう)ならしむ、
五音(ごおん)は人の耳をして聾(ろう)ならしむ、
五味(ごみ)は人の口をして爽(たが)わしむ、
馳騁畋猟(ちていでんりょう)は人の心をして発狂(はっきょう)せしむ、
得難(えがた)きの貨(か)は人の行(おこな)いをして妨(さまた)げしむ。
是(こ)れ以(もっ)て聖人(せいじん)は腹(はら)を為(な)して目を為(な)さず、
故(ゆえ)に彼(かれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る。
以下、解説をしていきます。
●解説:
まず、 「五色(ごしょく)は人の目をして盲(もう)ならしむ、
五音(ごおん)は人の耳をして聾(ろう)ならしむ、」、
「盲」と「聾」は今の時代にはあまり適切ではありませんので、
書き下し文以外は「目の見えない人」、「耳の聞こえない人」と表記していきます。
ここで、 「五色(ごしょく)は昔の基本的な五つの色の
「青・赤・白・黒・黄」のことです。
この五つの色が混じり合って全ての色が出来るという考え方です。
「五音(ごおん)」は昔の基本的な音階の
「宮(きゅう)、商(しょう)、角(かく)、徴(ち)、羽(う)」の五つです。
この音階を元に、全ての音が出来ているという考え方です。
「目の見えない人」「耳の聞こえない人」等という、
まるで脅しをかけているような言葉が並んでいます。
この部分の解釈は、唐の時代の政治家の呂吉甫(りょきつほ)によりますと、
「目の目たる所以(ゆえん)の者は、色を色として而(しこう)して
色に非(あら)ず、五色(ごしょく)に属(ぞく)す。
則(すなわ)ち其(そ)の目たる所以(ゆえん)を失(うしな)わば、
盲(もう)に異(こと)なること無(な)し。」
ここを訳しますと、
「目が目である理由、目の働きは、色を色として識別することにあって、
五色(ごしょく)という基本的な色が他の色を分類するように、
五色の仲間と言えるのです。しかしその識別する働きを失えば、
それは目が見えなくなるのと同じなのです」と。
ここで、
「目が見えなくなるのと同じ」という所を、
きちんと考えていかないといけないのです。
ここでさらに、春秋時代の斉の国の宰相であった
管仲(かんちゅう)が著した(とされている)、『管子(かんし)』の中の、
心の道理を述べた心術(しんじゅつ)篇には、
「嗜欲(しよく)充溢(じゅういつ)すれば、
目は色を見ず、耳は声を聞かず」
とあります。
後半部分の注釈には、「目は見ざる所あり、耳は聞かざる所あり」とあります。
つまり、
「人の心が見たい、食べたいなどの欲望に満たされてしまうと、
目でものを見ても判断を狂わされてきちんと見ていない所ができてしまい、
耳も判断が狂わされてきちんと聴いていない所が出来てしまうのです」
ということです。
判断を狂わされてきちんと見ていない所ができる、節穴になる、ということです。
「欲望に満たされるとはどの程度をいうのか」という議論が残りますが、
それはこの後の部分で致します。
(今回の一節の現代語訳は、後半にまとめてあります。)
「五味(ごみ)は人の口をして爽(たが)わしむ、」
「五味(ごみ)」は五種類の味の種類のことで、
「鹹(かん: 塩辛い)・苦(く: にがい)・酸(さん: すっぱい)・
辛(しん: ぴりっとからい)・甘(かん: あまい)」
の五つです。
この五つの味が基本になって、全ての味が存在するという考え方です。
これも欲望に満たされてしまうと判断能力に問題が出て来て、
「爽」、これは「差」、つまり「たがえる、ちぐはぐになる」という意味です。
「馳騁(ちてい)畋猟(でんりょう)は人の心をして発狂(はっきょう)せしむ、
得難(えがた)きの貨(か)は人の行(おこな)いをして妨(さまた)げしむ」
それまでの目・耳・口も、ここを言いたいがための前振りのようなものです。
「馳騁(ちてい)」は「馬を走らせること、乗馬を楽しむこと」です。
「畋猟(でんりょう)」は「田猟(でんりょう)」と書かれる時もあり
(「畋(でん)」も「田(でん)」も「狩り」を意味します)、
「狩猟(しゅりょう)」のことです。
「得難(えがた)きの貨(か)」とは、珍しい宝のことです。
狩猟や珍しいお宝に目を奪われてしまうと、
君主は自分の判断能力を狂わせるだけでなく、
他の人がそれを出世の手がかりとして追い求めるようになる、
そうして普通にいる人たちが生業を投げ出し、
国中がそれを追い求めて国内が乱れるようになる、ということです。
安岡正篤先生の『十八史略』の中の一例として、
枢密院という当時の全ての法案をチェックする
諮問機関の議長をしていた人が相当な難物だったそうで、
そこで時の総理大臣は、その方が骨董好きで、
ある骨董屋のお店である壺を食い入るように見つめていたことを知り、
秘かにその壺を購入してその方が首相の邸を訪ねてきた時に
何の気なしに置いていて、
最期には「お譲りします」と言って送り届けて、
それで重要な案件を通した、という話があります。
要人の嗜好を知れば、こうして人に操作されることもある、
何とも恐ろしい世界です。
さて、普通の世界に生きる私たちは、
こういう欲望とどう向きうのかという問題があります。
もし偏見のある目で、多くのものを「○○は欲望だ」とみなしてしまうと、
世の中が動かないのです。
どんな風に欲望と付き合うべきか、ということのたとえとして、
安岡先生の『王陽明研究』のたとえ話を要約しますと、
ある哲学を研究している人の研究室の机には哲学書と小説があり、
冷蔵庫にはジュースが入っていたとします。
その人は哲学を研究しているのですから、
もちろん哲学書を読まなければならないのですが、
一時の気分転換としてならば小説を読むのもよく、
喉が渇いていたらジュースを飲んでも良い、ということです。
つまり目的を見失わず、目的を妨害しない範囲ならば、
他の欲求を一時的に満たすということも許される、
ということです。
私もありがちなのですが、もし入試のための試験勉強中に
小説にすっかり読みふけって勉強をわすれてしまう、
等というのはいけない、ということです。
経済学に、パレートの法則というものがあり、
その解説のたとえ話の一つに、「八十対二十の法則」というものがあります。
これは仕事の中の二十パーセントの部分が、
全体の八十パーセントの成果を上げているということで、
成果につながっていく二十パーセントの部分を重点的に扱い、
残り八十パーセントを出来る限り合理化・簡略化していく、
ということです。
単に八十パーセントだけをすることは無理だとしても、
この両者の扱いを変えていくことが大切になってくるのです。
きちんと志を持ち、努力向上していくことを忘れずに
実行していけるのならば、時には寄り道も許される、ということです。
では、本文の次の部分に移ります。
「是(こ)れ以(もっ)て聖人(せいじん)は
腹(はら)を為(な)して目を為(な)さず、
故(ゆえ)に彼(かれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る」、
「目」というのは欲望が入り込んでくる入り口の代表として、
耳や口や心などを代表しているわけです。
目から入ってくる情報はとても多く、
欲望に乱されやすいということです。
他の古典でも、五感の欲望を述べる際には目が最初に出てくるのは、
そういう意味なのです。
「腹(はら)を為(な)して目を為(な)さず」とは、
実質的な部分、八十対二十の法則でいうところの
二十パーセントの大切な所を見失わない、ということです。
残りの八十パーセントとは扱いを変えなければならないのです。
「彼(かれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る」も同じです。
欲望に振り回されず、自分の志への向上努力を見失わない範囲で
付き合っていくことが大切だということです。
ここまでをまとめますと、次のような現代語訳になります。
その2に続きます。
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老子
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