玄齋詩歌日誌

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漢詩

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●現代語訳:

友人の聖兪(せいゆ)は、以前私にこう語ったことがあります。

「詩を詠む人たちは心のままに詠むとは言っても、
そのための言葉を作り出すことは難しいのです。」、

(言葉は難しいものではなくても、)その発想が新しく言葉遣いがたくみで、
昔の詩人がまだ言っていない所を詩に述べることができる、
そんな詩がよいわけです。


そんな詩は必ず表現するのが難しい景色を詩句の中に組み立てて、
まるで目の前に現れ出てくるようであり、

汲んでも尽きることのない言葉の意味を含み、
その上で最も優れた詩になるのです。


唐の詩人の賈島(かとう)の詩句にある

竹 籠 拾 山 果  瓦 瓶 擔 石 泉

竹籠(ちくろう)に山果(さんか)を拾(ひろ)い、
 瓦瓶(がべい)に石泉(せきせん)を擔(にな)う。

(訳)『竹でできたカゴに山でとれた果物を入れ、
陶器で出来た入れ物に山の間を流れる泉の流れから取った
きれいな水を入れて背負っていました』

や、

同時期の詩人の姚合(ようごう)の、

馬 隨 山 鹿 放  鶏 逐 野 禽 栖

馬(うま)は山鹿(さんろく)に随(したが)いて放(はな)ち、
鶏(とり)は野禽(やきん)を逐(お)うて栖(す)む。

(訳)『馬は山に住む鹿のように放っておかれ、
家畜のニワトリは野生の鳥たちを追いかけて住む
(山の方にある村はそんなひどい状況だったのです)』


などは、山にある村々が人も通らない荒れ果てた状態を詩句で表したもので、

役人の日々の暮らしの中での心境がもの寂しい様子を表す詩句は、

(これは唐の詩人の杜甫(とほ)の失われた詩句です)

縣 古 槐 根 出  官 清 馬 骨 高

県(けん)古(ふる)くして槐根(かいこん)出(い)でて、
官(かん)清(きよ)くして馬骨(ばこつ)高(たか)し

(訳)『その県の制度は古いので、三公のような官吏として最高の地位に就くことが
出来るような人材が出て行ってしまい、下っ端の官吏は倹約を強いられて、

郭隗(かくかい)がたとえ話に使った、

昔の王の側仕えの家臣が良馬を買い集めるための計略のために買い取った
馬の死骸はとても高価になっていて、
県を治める者たちが払えるものではなくなっているのです

(優れた人材を集めるための十分な予算がないので、
優れた人材を集めることができないでいるのです)』


という杜甫の詩句に及ぶものはないのです」


「私は聖兪(せいゆ)に尋ねました。」

「詩の言葉遣いの巧みなものはそもそもそのようなものだということはわかります。

では、表現するのが難しい景色を詩句の中に組み立てて、
まるで目の前に現れ出てくるようであり、

汲んでも尽きることのない言葉の意味を含むというのは、
どんな詩句がそうだと言えるのでしょうか」


友人の聖兪(せいゆ)は次のように答えました。

「詩を作る人がこういうことだと心の中で把握したことを」

「その詩の読者がこう言うことかと心から納得できる、
そんな風な状況を、これだとそれを指さして述べることは、
とても難しくほとんどできないようなものですが、

たとえそんな風だとしても、それをまるでそのようなものだという風に、
ほとんどそれに近い所を述べることは出来ます。

唐の詩人の厳維(げんい)の詩句の、


柳 塘 春 水 漫  花 塢 夕 陽 遅

柳塘(りゅうとう)春水(しゅんすい)漫(そぞろ)に、
花塢(かお)夕陽(せきよう)遅(おそ)し

(訳)『柳の生えた堤防は春に雪が解けて水かさを増した川を眺めることができ、
花が咲いた土手からは、夕陽が今までよりもゆっくりと沈もうとしている姿を
見ることができるのです』


のようなものは、天地や自然のその時々の姿、この場合は春の姿が、
のどやかでのんびりとしていて、それらが一つになってとけあっていて、

それは、本当にその時目の前にあるものを見事に表現したものだと
言えるのではないでしょうか。


また、唐の末期の頃の詩人の温庭?(おんていいん)の詩の中の、


鶏 声 茅 店 月  人 跡 板 橋 霜

鶏声(けいせい)茅店(ぼうてん)の月(つき)、
人跡(じんせき)板橋(はんきょう)の霜(しも)

(訳)『ニワトリの鳴き声が茅葺きの茶店の月が見える中で聞こえ、
木の板で出来た粗末な橋に降りた霜に、人の足跡がついていました』


唐の詩人の賈島(かとう)の


怪 禽 啼 曠 野  落 日 恐 行 人

怪禽(かいきん)曠野(こうや)に啼(な)き、
落日(らくじつ)行人(こうじん)を恐(おそ)る

(訳)『怪しい鳥の鳴き声が荒れた土地に響いていて、
日が落ちた後にそこを通る旅人たちを恐れさせるのです』


先ほどの二つの詩句などは、道中の辛さや、旅の道中の物思い、憂いなどが、
まさしくその詩句の言葉の外にまで現れ出ているのではないでしょうか。」

(ここまでが現代語訳です)


俳句の句論等だけでなく漢詩の詩論についても
こういうものを叩き台にしておりますが、

結局の処、本当に活用できるものを知るには、
実作者に聞いていくのが正しいのだと思います

丁度それは、この『六一詩話』の作者の北宋の欧陽脩(おうようしゅう)が、
彼の友人の梅尭臣(ばいぎょうしん)に聞くようなものなのです。


自由律俳句の世界でも、 Twitter に何人か、
私にとっての梅尭臣(ばいぎょうしん)がおります。

彼らの話に耳を傾けながら、独自の工夫をして、
更に良い句を作っていこうと、そのように思っています。

今回も長い文章を読んでいただいて感謝します。

(了)

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現代の俳句でも切り口や表現が斬新すぎて一般のひとには分りづらいというのがありますね。そういうなかに若者の支持を得て新しい時代を切り開いて行くものがあるのも事実。
しかし本当に評価される詠み手は観察と写生という基本能力がしっかりあるように思います。それでいて「そうでしたか」にならないのが難しい。
逆に難解・抽象が先行すると逆に凡庸に陥るような気がします。

2013/6/6(木) 午後 11:39 ひろちん。

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俳句を読むのにも勉強になりました。
素晴らしい漢詩の無限さを知りました。
朝から良きものを詠みました。

ありがとうございます。ナイス

2013/6/7(金) 午前 4:43  HOSI 

ひろちんさん、おはようございます。温かいコメントをありがとうございます。

若い人でも本当に真剣に句作りをしている人はきちんと先人に学んでいます。
人を驚かすような「斬新な切り口」のものは気がついたらいなくなっているものですから、
基本は旧習に馴染まずに、きちんと学んで試していく他はないのだと思います。
一過性のものだけに目を向けて「これが若者だ」としてしまうのは問題があると思います。

(続き)

2013/6/7(金) 午前 8:34 白川 玄齋

(続き)

あとはひろちんさんのおっしゃる通りだと思います。

納得するものを取捨選択しながら独自の工夫を加える、
口にするとたったそれだけのことですが、それを日々の積み重ねの中で
少しずつ向上させていくのが大切なのだと思います。

これ以上のことは、ホント、若輩者の私は申し上げられません。。。
何より私自身がこのポイントを守って、日々学んでいこうと思います。

2013/6/7(金) 午前 8:38 白川 玄齋

ほしさん、おはようございます。温かいコメントとナイスポチをありがとうございます。
今回出て来た漢詩の一つ一つもとても面白いものですので、
少しずつでも訳していこうと思います。
漢文や漢詩のいろんなところを解説できればいいなと思っています。
ほしさんも今日もよい一日をお過ごしくださいね。

2013/6/7(金) 午前 9:07 白川 玄齋


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