|
●はじめに
漢文の翻訳の記事を書く時には、翻訳とともに実際の状況、
厳密に自分自身でなくても他の方により伝わりやすい状況をもとに
解説するようにしています。
経書などは時折ただのお題目になってしまっては、
読んでいる側は苦しくなるわけです。そこで、
それが思い付くまで他の作業や諸々なことをしていることも多いのです。
私も漢文では自分が納得いくまで考えて、
その結果をお伝えすることでわかりやすいと
中学生からも感想を頂くことがあります。
他の作業をしていく中も問題について考えていて、
全くリラックスしている時もその問題が頭の隅っこにこびりついているわけです。
そんな時にふっと目の前の状況を見ている中で解決策が浮かんでくるわけです。
常に考え続けながら、答えが思い付くのは時と場所を選びません。
夢の中であったり、入浴時であったり、
渓谷で釣りをしている時だったりするわけです。
アルキメデスは風呂場で思い付いて一言叫んだわけです。
今回は先日の午前中のコメントやツイートを読んで、
更に私自身の書いた文章を読み返して思い付きました。
以下、解説をしていきます。
「儒学が役に立たない例」はいくつかあります。
その中でも君主は自分の身を修めることによって国をきちんと治めることができる、
というものは、儒学の基本的な考え方でありながら、
なぜそうなるかという道理をきちんと理解していなかったことによって、
かえって亡国の憂き目にあった時に、
儒学がその原因とされてしまっている箇所です。
南宋の時代に元が北から攻めてきて窮地になった時に、
時の皇帝がどうやったらこの苦難を打開できるのかと問うた時に、
この言葉をお題目として述べるに止まったがために、
元に滅ぼされた原因とされてしまった向きもあります。
この部分をお題目ではなくしっかり考えていくもとを考えるために、
私も時間を費やしていました。
まず、これに関係する言葉は、『易経』の易の哲学を論じた
繋辞伝(けいじでん)の上にあります。
『易経(えききょう)』は儒学の経典の一つです。
儒学者はこれを道徳の本として学んでいって、自分自身を占いうことはないのです。
易の占いの中でこの易経の文章を使う場合は、
いろんな道具(筮竹(ぜいちく)等)や暦からの数字の操作によって、
そこから卦を立てて、そこから占いの結果出て来たその易経の一節をもとに
占いの結果を考えていくのです。
これは人の人生を見る時にいちいち経文の全てと照らし合わせるのではなく、
その一部分を深く掘り下げながらアドバイスをしていく、ということです。
この卦を立てる儀式を厳粛に行うことによって相談者も真剣になって
その言葉や相談者自身の人生を改めて省みることが出来る、
ここが大切な部分になってきます。
今回もその繋辞伝の一節を、実際に六十四卦の中に出てくる一節をもとに
説明していきます。
●原文:
「『鳴鶴在陰、其子和之、我有好爵、吾與爾靡之』。
子曰:『君子居其室、出其言、善則千里之外應之、
況其邇者乎、居其室、出其言不善、則千里之外違之、
況其邇者乎、言出乎身、加乎民、行發乎邇、見乎遠。
言行君子之樞機、樞機之發、榮辱之主也。
言行、君子之所以動天地也、可不慎乎』
●書き下し文
「『鳴鶴(めいかく)陰(いん)に在り、
其(そ)の子(こ)之(これ)に和(わ)す、
我に好爵(こうしゃく)有り、
吾(われ)爾(なんじ)と之に靡(したが)わん』。
子(し)曰(のたま)わく、
『君子(くんし)其(そ)の室(しつ)に居(お)りて、
其(そ)の言(げん)を出(いだ)すに善(ぜん)なれば、
則(すなわ)ち千里の外(そと)之(これ)に応(おう)ず、
況(いわ)んや其(そ)の邇(ちか)き者(もの)をや、
其(そ)の室(しつ)に居(お)りて、
其(そ)の言(げん)を出(いだ)すに不善(ふぜん)なれば、
則(すなわ)ち千里の外(そと)之(これ)に違(たが)う、
況(いわ)んや其(そ)の邇(ちか)き者(もの)をや。
言(げん)を身(み)より出(いだ)し、民(たみ)に加え、
行(おこな)いを邇(ちか)きより発(はっ)し、遠くを見る。
言行(げんこう)は君子(くんし)の枢機(すうき)にして、
枢機(すうき)の発(はっ)するは、栄辱(えいじょく)の主(あるじ)也(なり)。
言行(げんこう)は、君子(くんし)の天地を動かす所以(ゆえん)なれば、
慎(つつし)まざるべけんや』と。」
ここまでが書き下し文です。このあと、噛み砕いて解説いたします。
●解説:
最初の文章は今回の六十四卦の一節ですので、これは後で解説していきます。
「子(し)曰(のたま)わく、」、
「子(し)」とは「夫子(ふうし)」のことで、これは「先生」と訳されますが、
私信の中で相手を敬う言葉でない場合は「孔子」を指します。
「孔子はこのように述べておりました」
「君子(くんし)其(そ)の室(しつ)に居(お)りて、
其(そ)の言(げん)を出(いだ)すに善(ぜん)なれば、」、
「君子(くんし)」は修養の出来た立派な人のことです。
「修養の出来た人である君子(くんし)は、」
「自分の部屋にいて言葉を発し、それが善(よ)い言葉であれば、」、
「則(すなわ)ち千里の外(そと)之(これ)に応(おう)ず、
況(いわ)んや其(そ)の邇(ちか)き者(もの)をや、」、
「況(いわ)んや」は「ましてや〜は」、という意味です。「邇」は「近い」です。
「千里より遠くにいる人たちもその善い言葉に応じてやって来るのです。
ましてやそれより近い人ならなおさらそうなります。」、
「其(そ)の室(しつ)に居(お)りて、其(そ)の言(げん)を出(いだ)すに
不善(ふぜん)なれば、則(すなわ)ち千里の外(そと)之(これ)に違(たが)う、
況(いわ)んや其(そ)の邇(ちか)き者(もの)をや。」
「違」は「たがえる、そむく」
「自分の部屋にいて言葉を発し、それが善(よ)くない言葉であれば、
千里より遠くにいる人たちもその善くない言葉を聞いて
その言葉に背くようになるのです。」
「言(げん)を身(み)より出(いだ)し、民(たみ)に加え、
行(おこな)いを邇(ちか)きより発(はっ)し、遠くを見る。」、
ここで「言(げん)を身(み)より出(いだ)す」とはどういうことかと言いますと、
たとえば病気をした時に苦しくなって、
どんな人も苦しいわけです。そんな苦しみの中で、
「自分の受ける苦しみは人の持つ苦しみと同じものだ」と思うことが出来れば、
本当に人のことを思いやる言葉をかけることがが出来るということです。
「仁」とは「人が二人いる」という字であり、
人が二人いれば必ず起こる相手への気遣いのことを指します。
そこから更に修養を重ねていった結果たどり着く境地を、これまた「仁」と言います。
こちらは「聖人の道」という意味で使われる仁です。
「行(おこな)いを邇(ちか)きより発(はっ)し」とは、
身近な所から行っていく、日々の生活であり、
日常の周囲の人との付き合い、職場での仕事や人間関係のことです。
或いは学習の際も、経書やいろんな昔の文章を今の自分自身の状況から考えていく、
この二つをしっかりと身につけた上で、民衆を思う政治、
もちろん、民衆におもねる政治ではありません。
そして、身近な所から同心円状に遠くに思いを及ぼしていく、
遠くに目を向けていく、ということです。
「言行(げんこう)は君子(くんし)の枢機(すうき)にして、
枢機(すうき)の発(はっ)するは、栄辱(えいじょく)の主(あるじ)也(なり)。
言行(げんこう)は、君子(くんし)の天地を動かす所以(ゆえん)なれば、
慎(つつし)まざるべけんや』と。」
「枢機(すうき)」の「枢(すう)」とは、ドアの回転軸のことです。
「機(き)」は弩(ど)という昔のボウガンの引き金のことです。
回転軸と引き金で、物事の大切な要点を指す言葉です。
残りを訳していきますと、
「言葉と行いは、君子の大切な要点であって、
その要点である言葉を言ったり行ったりすることで、
名誉が得られるのか、恥ずかしい思いをするのかを決める主要な点になります。
このように言葉と行いは君子が天地を動かすことのできる理由なのですから、
慎まないではいられない、ぜひとも慎むべきところなのです」
となります。
((2)に続きます)
|
その他の漢文
[ リスト ]


