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((2)の続きです)
「我(われ)女(なんじ)の大明(だいめい)の上(うえ)を遂(と)ぐるを為(な)し、彼(か)の至陽(しよう)の原(みなもと)に至(いた)る也(なり)」
「女」は「汝(なんじ)」という意味です。「大明(だいめい)」は太陽のことです。至陽(しよう)は陽の気のきわまった所のことです。「遂」は「たどりつかせる」という意味です。「原」は「源(みなもと)」のことです。
「私は君のために太陽の上までたどり着かせて、あの陽の気のきわまった所まで至り」
「女(なんじ)の為(ため)に窈冥(ようめい)の門に入(い)り、彼(か)の至陰(しいん)の原(みなもと)に至(いた)るなり」
「窈冥(ようめい)」の「窈(よう)」は「奥深くてかすかにしか見えない」、「冥(めい)」は「暗くて見分けがつかない」ということです。「至陰(しいん)」は陰の気のきわまった所です。ここの訳は次のようになります。
「私は君のために奥深く暗くてかすかにしか見えない道の源となる門にたどり着かせて、あの陰の気のきわまった所まで至ろうと思います」、
「天地(てんち)官(つかさど)る有(あ)り、陰陽(いんよう)蔵(ぞう)する有(あ)り、慎(つつし)みて女(なんじ)の身(み)を守(まも)り、物(もの)将(まさ)に自(みずか)ら壮(さかん)ならんとす」
「官」は「つかさどる、役割を持つ」ということで、「蔵」は「たくわえる」という意味です。つまり人や物にはそれぞれ役割と働きがあり、自分自身もその一つを選んでいるのだということです。簡単に言えば、道、簡単に言えば自分の取り組むべき課題に集中していって、それで周囲との関わりも良好になるということです。
「天地の間にはそれぞれ役割を持った人々がいて、陰と陽の気で形作られた万物はそれぞれの形で蓄えられています。だから慎ましく君自身の身を守り、自分の取り組むべき課題に集中していくことで、他の物事との関わりが、しっかりしていく」
ということです。
「我(われ)其(そ)の一(いち)を守(まも)り、以て其(そ)の和(わ)に処(お)り」
「一」とは『易経』の易の哲学を論じる繋辞伝(けいじでん)で言う所の、万物に枝分かれする前のご先祖である太極(たいきょく)のことです。魏の王弼によりますと、太極は道から生まれ出てきてまだ枝分かれしていないものですから、まだ純粋さが失われていないわけです。その純粋さを守っていくということです。
「和」は「和気(わき)」、「のどかな気」ということで、ここではこれも太極のことです。万物に枝分かれする前ですから、道がまだ分かちがたく結びついているわけです。その部分を守ることで周囲となごむことが出来るということです。
これは、四書五経の四書の一つ『大学』の中の、「慎独(しんどく、ひとりをつつしむ)」に当たります。「誰も見ていない所で悪いことをしないことが人前でよいことをする基礎である」という意味の言葉です。
何かを行うということは万物の一つのように道の行き着く先を示しています。だからそれ以前の、行動を起こす前、つまり道がまだ自分自身の中に保たれている時に反省して改めていく、ということです。
「私は道が生み出した万物のご先祖である太極(たいきょく)の純粋な状態を保って、何かを行う前の、道がまだ自分自身の中に止まっている時に反省をし改めていくことで周囲となごみとけあっていくのです」、
「故(ゆえ)に我(われ)身(み)を修(おさ)むること千二百歳にして、吾(わ)が形(かたち)は未(いま)だ嘗(かつ)て衰(おとろ)えず」
「千二百歳衰えない形」の「形」とは何かと言いますと、本来「身体」を示すものですが、ここでも「外の世界との関わり」と考えますと、自分の道が誰かに受け継がれたりあるいはこの『荘子』のように長い年月読み継がれる書として生き延びる、ということでもあります。ここまでで三分の二です。
『荘子』の解説の続きです。仙人の広成子(こうせいし)の話が続いたあと、帝王の黄帝(こうてい)は次のように返事を返しました。
「黄帝(こうてい)再拝(さいはい)稽首(けいしゅ)して曰(いわ)く、『広成子(こうせいし)の天(てん)を謂(い)うかな』」
「再拝(さいはい)」は二度お辞儀をすることで、「稽首(けいしゅ)」は頭を地面に近づけてお辞儀をすることです。この両者を併せた「再拝稽首(さいはいけいしゅ)」は目上に対する最高度の礼を意味します。
「黄帝(こうてい)は再拝稽首という礼を行い、広成子(こうせいし)に言いました。
『広成子(こうせいし)よ、あなたは天のような方ですね』」となります。
清の陸樹芝(りくじゅし)の註によりますと、「長久(ちょうきゅう)」という言葉のように天地のように長い命を保ち、天地の間の人も各役割を果たし、万物を生み出す陰と陽の気もきちんと調和して多くの物事がさかんになるということです。
それぞれの方の日常の中の修養で自分を磨いていき、そこに集中する中でいろんな事に心乱されることなく周囲とも上手くやっていけるという風に考えられます。私の日々の戒めごとです。
「広成子(こうせいし)曰(いわ)く、『来(きた)れ吾(れわ)女(なんじ)に語(つ)げん」
「広成子は言いました。『こちらへ来なさい。私はあなたにお伝えします」、
広成子はさらに道の要点について語っていきます。
「彼(かれ)其(そ)れ物(もの)の窮(きわ)まり無(な)くして、而(しか)るに人(ひと)皆(みな)以て終(お)わり有(あ)りと為(な)す」
「物」というのは自分以外のあらゆる物事を指します。それが「極まり無い」わけです。
あらゆる物事はどこまで知っても知り尽くすと言うことがないわけです。たとえ自分の身の回りのことであっても、どれほど知っているのかといえば心許ない所があります。それなのに人は「終わりあり」、「すべて理解した」と思ってしまうのです。
「彼(かれ)其(そ)れ物(もの)測(はか)ること無(な)くして、而(しか)るに人(ひと)皆(みな)以て極(きわ)まり有(あ)りと為(な)す」
「測る」は「推しはかる」という意味です。これも一つ前の文と同じです。
((4)へ続く)
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