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●原文:
帝高陽之苗裔兮朕皇考曰伯庸
攝提貞於孟陬兮惟庚寅吾以降
皇覽揆余初度兮肇錫余以嘉名
名余曰正則兮字余曰靈均
紛吾既有此内美兮又重之以脩能
扈江離與闢?兮?秋蘭以為佩
汩余若將不及兮恐年歳之不吾與
朝搴阰之木蘭兮夕攬中洲之宿莽
日月忽其不淹兮春與秋其代序
惟草木之零落兮恐美人之遲暮
不撫壯而棄穢兮何不改此度
乘騏驥以馳騁兮來吾道夫先路
●書き下し文:
帝(てい)高陽(こうよう)の苗裔(びょうえい)、
朕(わ)が皇考(こうこう)を伯庸(はくよう)と曰(い)う。
摂(せつ)は貞(てい)の孟陬(もうすう)に提(いた)りて、
惟(ただ)庚寅(こういん)の吾(われ)以(もっ)て降(くだ)るのみなり。
皇(こう)の余(よ)を揆(はか)りて覧(み)る初度(しょど)、
肇(はじ)めて余(よ)に錫(たま)うに嘉名(かめい)を以(もっ)てす。
余(よ)を名(な)づけて正則(せいそく)と曰い、
余(よ)を字(あざな)して霊均(れいきん)と曰(い)う。
紛(ふん)として吾(われ)既(すで)に此の内(うち)なる美(び)有(あ)り、
又(また)之(これ)に重(かさ)ねるに脩能(しゅうのう)を以てす。
江離(こうり)と闢?(へきし)とを扈(き)て、
秋蘭(しゅうらん)を?(もと)めて以(もっ)て佩(はい)と為(な)す。
汩(なが)れて余は将(まさ)に及(およ)ばざらんと
するが若(ごと)くにして、
年歳(ねんさい)の吾(われ)に与(あた)えざるを恐(おそ)る。
朝(あした)に阰(し)の木蘭(もくらん)を搴(と)りて、
夕(ゆうべ)に中洲(ちゅうしゅう)の宿莽(しゅくぼう)を攬(と)る。
日月(じつげつ)忽(たちま)ち其(そ)の淹(ひさ)しからずして、
春(はる)と秋(あき)と其(そ)の序(じょ)を代(か)える。
惟(ただ)草木(そうもく)の零落(れいらく)して、
美人(びじん)の遅暮(ちぼ)するを恐(おそ)るるのみ。
壮(そう)に撫(やす)んぜずして穢(けが)れを棄(す)て、
何(なん)ぞ此(こ)の度(ど)を改(あらた)めざるや?
騏驥(きき)に乗(の)りて以(もっ)て馳騁(ちてい)し、
来(き)たりて吾(われ)は夫(か)の先路(せんろ)を道(みちび)かん。
●解説:
今回は春秋戦国時代の楚(そ)の国の王族で詩人の
屈原(くつげん)が詠んだ詩を中心とした詩集の
『楚辞(そじ)』の中でも、
長編の漢詩である「離騒(りそう)」の翻訳の一回目です。
『楚辞(そじ)』は昔の民謡などをまとめた詩集の
『詩経(しきょう)』の次に古い詩集で、
詩経よりも情感豊かに詠み上げていて、
時事詠にはこの上ない参考となるものです。
特に今回の「離騒(りそう)」は、楚の国の王族でもある
屈原(くつげん)が讒言によって罷免させられた悲しみと
国を憂える気持ちを自然の風物などにも喩えて
長い詩の中で詠んでいて、
憂国の漢詩の中でも代表的なものとなっています。
ですから「離騒(りそう)」と、『詩経』の中の各地の民謡を集めた
「国風(こくふう)」とを合わせて、
詩文を作ることを「風騒(ふうそう)」と呼ぶこともあります。
あるいは国を憂えて漢詩を作る人を
「騒人(そうじん)」ということもあります。
優れた漢詩の代表格とされているわけです。
そんな長文の漢詩の「離騒(りそう)」を、
少しずつ分けて訳していきます。
では、今回の本文に入ります。
「帝高陽之苗裔兮朕皇考曰伯庸」
「帝(てい)高陽(こうよう)の苗裔(びょうえい)、
朕(わ)が皇考(こうこう)を伯庸(はくよう)と曰(い)う。」
真ん中の文字の「兮(けい)」は『楚辞』の中でよく使われますが、
これは発音の調子を整えるための文字で、意味は特にありません。
この「兮(けい)」の前後の文字で、一つの句を形成する、
そういう句の形になっています。
「高陽(こうよう)」とは、楚の国の国王のご先祖とされる、
帝王の「??(せんぎょく)」の号(ごう)です。
屈原も楚の国の王族ですから、
このご先祖を敬う気持ちがあるのです。
「苗裔(びょうえい)」とは「末裔(まつえい)」あるいは
「子孫」のことです。
「苗」は「御落胤(ごらくいん)」などという時の「胤」のことで、
「たね」という意味です。
「朕(ちん)」は「我(われ)」、「私」ということです。
後に始皇帝が皇帝だけの一人称として使用を独占するまでは、
民衆も「私」の意味で使っていました。
「朕」は「物事の兆し」という意味があり、めでたい字ですので、
皇帝や、日本でも天皇の一人称となったのです。
「皇考(こうこう)」の「皇」は「すぐれた徳を備えた」という意味で、
「考(こう)」はここでは「亡き父」という意味です。
「伯庸(はくよう)」は屈原の父親の字(あざな)です。
字(あざな)は成人の時に付けられる名前のことです。
この辺りは自分の父やご先祖を讃える言葉が続きます。
先ほどの訳は、
「太古の帝王の高陽(こうよう)という号で呼ばれた??(せんぎょく)の子孫に、私の亡き父、優れた徳を持つ父の、字(あざな)を伯庸(はくよう)という人がおりました。」
「攝提貞於孟陬兮惟庚寅吾以降」
「摂(せつ)は貞(てい)の孟陬(もうすう)に提(いた)りて、
惟(ただ)庚寅(こういん)の吾(われ)以(もっ)て降(くだ)るのみなり。」
「摂(せつ)」とは太歳(たいさい)、つまり木星が寅(とら)の方角、
つまり東北東にあることを指しています。
「孟陬(もうすう)」とはお正月のことです。
「庚寅(こういん)」とは「『かのえとら』の日」のことです。
屈原が生まれた暦の日を指しています。
とても縁起のいい日に生まれた、ということを
この句で言いたいわけです。
「寅(とら)」は陽の気が正しいということを示しており、
お正月に陽の気がさかんになる、春になっていく、ということで、
「庚(こう)」は陰の気が正しくなり、
秋に万物が実って充実している状態を指しています。
このように陰と陽の気が正しくなるめでたい日に
私(屈原)は生まれました、という意味です。
「お正月の、『太歳(たいさい)』、つまり木星が
東北東の寅(とら)の方角にあり、
暦は庚寅(かのえとら)の日に私は生まれました。
『寅(とら)』は陽の気が正しく陽の気がさかんになる、
お正月に春になっていく、ということを示し、
『庚(こう)』は陰の気が正しくなり、
秋に万物が実って充実している状態を示すのですから、
私はそんな陰と陽の整った、めでたい日に生まれたことになります。」
「皇覽揆余初度兮肇錫余以嘉名」
「皇(こう)の余(よ)を揆(はか)りて覧(み)る初度(しょど)、
肇(はじ)めて余(よ)に錫(たま)うに嘉名(かめい)を以(もっ)てす。」
「皇(こう)」は最初の句の「皇考(こうこう)」、
つまりすぐれた徳を備えた亡き父、を示しています。
「覧」は「観る」、「揆」は「度」つまり「推しはかる」という意味です。
「初度(しょど)」は「最初」という意味です。
父親が生まれた息子(屈原)に初めて会って、
どんな息子なのかとじっと眺めている、そんな風景が浮かんできます。
「肇」は「初め」、「余(よ)」は「私」
「嘉名(かめい)」は「めでたい名前」という意味です。
「私の父が最初に生まれた私を見て、
私にめでたい名前をつけました。」
「名余曰正則兮字余曰靈均」
「余(よ)を名(な)づけて正則(せいそく)と曰い、
余(よ)を字(あざな)して霊均(れいきん)と曰(い)う。」
「正」は「正平(せいへい)」、つまり「公平で偏りがない」という意味で、
「則」は「法則(ほうそく)」のことです。
「霊」は「神霊(しんれい)」のことで、
これは陰と陽の澄みきった気のことを指します。
「均」は「調」、つまり「ととのえる」ということです。
さて、この名前の「正則(せいそく)」と、
字(あざな)の「霊均(れいきん)」には、それぞれ意味があります。
「正則(せいそく)」は「公平で法則として従うことの中で
最も優れているのは天で、その天に則るような
公平で偏りのない人間に育って欲しい」という意味で、
「霊均(れいきん)」は「陰と陽から万物を養い育てて
調和させるものの中で最も澄み切っているものは地で、
その地に則るような穏やかで周囲の人々と
調和していける人間に育っていって欲しい」という意味です。
聖人が天と地の性質を受け継いで世の中の手本となったように、
息子もそんな存在として育っていって欲しい、
そんな切なる願いが込められているのです。
「父は私の名前として、『公平で法則として従うことの中で
最も優れているのは天で、その天に則るような
公平で偏りのない人間に育って欲しい』という願いを込めて
『正則(せいそく)』と名づけ、
私が成人した時の名前である字(あざな)として、
『陰と陽から万物を養い育てて調和させるものの中で
最も澄み切っているものは地で、その地に則るような
穏やかで周囲の人々と調和していける人間に育って欲しい』
という願いを込めて『霊均(れいきん)』と名づけました。」
日本でも「正則(まさのり)」という名前の人がいますね。
とても良い名前ですね。
(2の記事に続きます。)
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●本題その二(天籟の話をした理由)の続き:
「その五」の「本題その二」の続きです。
例えば昔の人は「学問よりも実践が大切だ」ということを述べているわけですが、
これは決して世の中の学問全体を否定しているわけではないのです。
先人の学問を学ぶのはよいのですが、「大切だ、大切だ」と述べるだけで、
自分の人生の中でその言葉を自分にとっての
生きた言葉となるように考えることなく、
単にその言葉を覚えた、知識が増えたというだけにとどまって、
それを自慢するだけに終わってしまう、
こんな「学問」のやり方を批判しているわけです。
これは孔子も「人のための学問」、
今の言葉で言い換えれば「人に知識を見せびらかすだけの学問」と述べて、
口酸っぱく批判しているものです。
一方で「学問よりも実戦が大切だ」という言葉を覚えただけで
何かがわかったと錯覚してしまって、
そんな学問をしのぐ「実践」を行うこともなく、
世の中のあらゆる学問をあざ笑い、
悟ったと勘違いをしてしまうとても愚かな人が時折います。
こんな状態こそ、先人が批判した「学問」そのものなのです。
朱熹は十九歳で科挙に合格しながら、
彼の学問自体は儒学に落ち着いているわけではなく、
儒学と禅を兼ね合わせて学んでいる状態が続いていました。
これは朱熹の父親の方針でもありますが、そんな状態が続いていたのは、
儒学に対する疑問、素晴らしい先人の教えと、それと全く釣り合わない、
科挙の儒学の試験を通り抜けてきた人たちと、
そこから出世した要職に就いている人たち、その両者の間の矛盾、
儒学が単なる言葉だけの学問ではないか、
そんな疑問があったことも関連している、そんな風に思います。
ところが朱熹が二十八歳の時、儒学者の李延平(りえんぺい)が
彼のもとを訪問して彼の話を聞いて、「それではいけない」と諭して
儒学の世界に引っ張り込みました。
朱熹の師である李延平は優れた学識を持っていたことは確かですが、
それ以上に彼が感じたのは、「儒学とは『こういう人になるための学問』なのだ」
ということです。
朱熹は儒学の経書の内容を全て暗記していましたので、
生半可な学説では心は動かなかったと思います。
李延平は儒学者である前に「本物」である、ということです。
朱熹は理屈をこえた所でそれを感じ取ったのです。
もし「本物」になるためであるということを忘れなければ、
学問をするのも、実践に生きるのも、どちらも正しいのです。
学問と実践を一つのものとして考える、
先人の言葉を自分自身の具体的な出来事に照らし合わせて考えていくことで、
昔の人の言葉が今の世の中にも生きてくる、
そんな「学問」をしていくことが大切なのです。
学問を捨てて実践を重視するのであれば、
先人が否定した「学問」を否定できるほどの本物でなければならないのです。
人前に立って「これぞ本物だ」と思わせるほどでなければ、
先人に恥をかかせることになってしまうのです。
本物とは今の時代でいえば「その道のプロ」に当たります。
そんな人を目指していくことが大切なのです。
つまりは学問も実践も、突き詰めれば同じである、ということです。
今回、南郭子?(なんかくしき)が天籟の話をしたのは、
「我を忘れる」という境地、自分と他者との間の境目がない境地、
それをさらに突き詰めて、
「自分というものがもともと存在しない境地」になることが
大切だということを述べるためなのです。
「自分と他者を分けることがない」とはどのようなことかというと、
人と人との違いを考えていけば一卵性の双子でもどこまでも違うものですが、
人というものの共通点に注目すると、
どんな人も「欠点も長所もある存在」であるということです。
『大学』の中で人付き合いの要点は、
「好きな人の短所を知ること」と
「嫌いな人の長所を知ること」と述べています。
「きちんと修養を積んだ君子はどんな人でも信頼して、しかもだまされない」
と、『論語』を読み間違えて、そんな風に考えてしまう人がいますが、
君子はそんな人智を越えた「超人」ではないのです。
君子とは日々の修養によってきちんと近づいていけるもので、
神様のように崇めて「自分はとてもそれには及ばない」
などと考えるものではないのです。
深い熟練が必要だけれどもいつしかできるようになる、
だから日々の修養をして目指していこう、それが君子という存在なのです。
孔子の弟子の顔回(がんかい)も三十代で若くして亡くならなければ、
君子になっていたのです。
どんなときにもどんな人もその人の言葉を鵜呑みにするように
信頼するというのは難しいだけではなく、それをしてはならないのです。
世の中には上手いことを言って近づいてきて人をだます、
そんな人もいますし、本当に信頼できる聖人であっても、
時に間違う時があるからです。
古代の帝王である堯(ぎょう)は儒学の世界では聖人ですが、
彼も間違えた時があるのです。
川が氾濫して洪水になった時に、
彼は鯀(こん)という人物に治水工事を担当させました。
堯自身は他の人に任せたかったのですが、
周囲の家臣たちは揃って鯀を推挙したからです。
ところが治水工事に失敗して、天の神である天帝(てんてい)に
鯀は殺されてしまいました。
その後、その当時に堯を補佐していた舜(しゅん)は、
彼が帝位に就いた後に鯀(こん)の息子の禹(う)を抜擢して、
治水工事を任せました。
禹は舜の期待に応えて自分の心身の苦労も忘れて職務に励み、
無事に治水工事を完成させました。
酷なようですが、堯にも任命責任があると思います。
本当に適材を要職に就けるためには、
周囲の反対を押し切ってでも他の人を就けるべきだったのです。
舜は鯀(こん)の息子を後任につけるという、
周囲の反対も厳しい中で抜擢したのです。
聖人でも間違いは起こりうるのです。
そんな時にきちんと対処する必要があるのです。
これも「好きな人の欠点を知る」ということです。
一方で、どんなに悪い人でもいい所が一つ位はあるわけで、
そういう所があるからこそ、そんな人の味方をする人たちもいるわけです。
そんな人をもしあからさまに疑うことがあれば、
その周囲の人たちは正確な事情をわきまえていないこともあって、
こちらに批判の矛先を向けることもあるわけです。
小人は徒党を組むのも上手いですので、
君子であっても思わぬトラブルに見舞われることもあります。
そういう所できちんと周囲の人に対処をするには、
「嫌いな人の長所」や、あるいは「好きな人の短所」を
理解できるほどの公正さを持つことができれば、
ことさらに疑ったり、人の話を鵜呑みにしたりすることなく、
適切な応対の方法をあらかじめ準備することもできるのです。
もしそれでもその人がこちらを抗議してきたとしても、
周囲の人もその人の長所をきちんと踏まえていることを
理解していれば、こちらに対して悪意を抱いていたとしても、
うかつには手出しはしづらいのです。
このように自分と他者、好きな人と嫌いな人のように
一見全く異なるものでも、その共通点を探っていくことで、
それらの物事のさらに奥深い所を理解していくことができる、
これが荘子が天籟(てんらい)という言葉を使って説明した
万物斉同(ばんぶつせいどう)という言葉の意味になっているのです。
お疲れ様でした。最後まで読んでいただいて、深く感謝いたします。
今年もしっかりと学んでいきます。
(了)
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●本題その二(天籟の話をした理由):
もう一つの疑問は、子?(しき)がなぜ天籟(てんらい)の話をしたかということです。
それはこの道についての説明が、この篇のテーマである
万物斉同(ばんぶつせいどう)という言葉につながっているからです。
この説明のために、この天籟を儒学者がどのように解釈していたかを
見ていくことで、元々の荘子の考える天籟、
そして万物斉同の中身に迫っていくことにします。
まず、清の学者の陸樹芝(りくじゅし)の注釈によりますと、
天籟とは「無極(むきょく)にして太極(たいきょく)」という言葉で
説明することができる、と述べています。
「無極(むきょく)にして太極(たいきょく)」とは、
宋の時代に起こった儒学の哲学である宋学(そうがく)と、
後に南宋の朱熹(しゅき)がまとめた朱子学(しゅしがく)の中心的な概念です。
この部分を調べるために、 Facebook の友人に持ってきてもらった資料の一つ、
『朱文公易説(しゅぶんこうえきせつ)』を調べていました。
これは朱熹の語録である『朱子語類(しゅしごるい)』と
彼の文集の中から易に関する部分だけをまとめたもので、
とても便利です。
その書の「太極」の篇の中にある、朱熹の論敵で、後の陽明学の元となった
陸九淵(りくきゅうえん:字(あざな)の象山(しょうざん)の方が有名です)の
批判に答える長文の手紙の中に、わかりやすく載っています。
かいつまんで説明していきます。
王弼の考えでは太極(たいきょく)のご先祖に無、
つまり道が存在するということですので、
儒学者の側からすれば『易経』を老荘に人質に取られたようなものです。
唐の時代にはこの王弼の注釈に、学者の孔穎達(くようだつ)が
さらに注釈を付けたものが、科挙の『易経』の教科書として
出てくるほどになっていました。
唐の時代は唐の皇帝と老子の姓が同じく「李(り)」だったことから、
皇帝のご先祖が老子だということになっていましたので、
あまり問題でもなかったのですが、
宋の時代は皇帝の姓は「趙(ちょう)」でしたので、
そんな特別な事情もなく、儒学者たちは
この問題をクリアすることを考えていきました。
宋学の有名な学者の一人で、朱熹が私淑した
北宋の儒学者の程兄弟の二人の家庭教師をしていた、
北宋の周敦頤(しゅうとんい)は、
「無極(むきょく)にして太極(たいきょく)」という言葉を用いて乗り越えようとしました。
これに対して批判をしたのが陸九淵(りくきゅうえん)です。
彼は「無極」という言葉は老子の言葉であり、
儒学の聖人の教えに老荘をまじえるとはとんでもないことだ、
という批判をしました。
それに対する朱熹の答えは、無極とは「極まった所のない万物の始まり」を指し、
それが太極であるということを表している、
つまりあらゆる物事の共通の祖先は太極であり、
それ以前に老荘が述べているような太極以前に無のようなご先祖は無い、
ということを示しているに過ぎないのだ、ということです。
「無極にして太極」という概念の元では太極から陰と陽の二つが出てくる時に、
太極や陰と陽、そこから生まれるあらゆる物事の本体部分を「気(き)」と呼び、
陰と陽の「気」が万物を生み出すために介在するものを「理(り)」と呼んでいます。
これが朱子学の概念である「理気二元論(りきにげんろん)と呼ばれるものです。
あらゆる物事、つまり「気」の間に存在して、
あらゆる物事を人間の身体のように、
まとまった一つのように働かせている「理」とは、
まるで何か実体があるようでいて、「そんなもの(実体)はありしない」、
これが朱子学流の天籟の説明なのです。
朱熹はこの概念から、儒学の経典の四書五経の四書の一つである
『大学(だいがく)』の中で述べられている「慎独(しんどく)」という言葉を
説明しています。
「慎独(しんどく)」とは「独りを慎む」、
つまり誰も見ていない所で悪いことをしないということ、
それが人前でよいことをする時の基本となる、
そういう言葉ですが、
朱熹はさらに突き詰めて考えて、
悪いことをする気持ちが起こった時に反省をしていくことで、
自分の行いを正していくことができる、という風に考えました。
悪いことをする気持ちが芽生えた時に反省することを、
物事が起こる前の段階で、心の中を正しくするという意味で
「未発(みはつ)の中(ちゅう)」と名づけ、
これによって行いが正しくなることを、
物事が起こった時にも行いが適切に鳴るという意味で
「已発(いはつ)の中(ちゅう)」と名づけました。
孔子は政治の中で悪い事態が次々に起こる前に、
あらかじめ準備をしていくことが何より大切だと述べており、
老子では、悪いことが起きる前に芽の段階で積んでおくように
政治を行うことで、大手術が必要な事態を避けよとあります。
どちらもいろんな物事が起こる初めの段階、
「未発」の段階で手を打っていくことが大切だ、ということになります。
これと同じように、いろんな物事が枝分かれする前の段階に注目することで、
物事の本来の意味がわかってくる、ということがあります。
これが万物斉同(ばんぶつせいどう)の考え方につながっていきます。
(その六へ続きます)
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●本題その一(天籟の正体とは):
岩波文庫の金谷治さんの『荘子』の訳では、最後の台詞にかっこ書きで、
「そんなものはありはしない」とあります。
どういう意味なのかずっと疑問でしたが、
理解できた時にはとてもずばりと言い当てた名訳だとわかりました。
そのことを説明していきます。
古代中国の周の時代の易の解説書で、
儒学の経典となっている『易経(えききょう)』の中で、
易の哲学を述べている「繋辞伝(けいじでん)」の中の一節に、
次のようなものがあります。
まずあらゆる物事の始まりに「太極(たいきょく)」というものがあり、
そこから二つに枝分かれして「両儀(りょうぎ)」が生まれます。
「両儀(りょうぎ)」とは陰と陽の二つです。
そしてこの陰と陽が様々な変化をして万物を作り上げていくとあります。
さらにその万物が生まれる様子を眺めていると、
万物が生まれる間に八卦(はっけ)を見出し、
さらにその八卦を二つ組み合わせた六十四卦(ろくじゅうよんけ)を見出し、
その六十四卦であらゆる物事を説明することができる、
というものが易の考え方であることがわかります。
この部分を三国時代の魏の老荘の学者である王弼(おうひつ)は、
『老子』の一節の「無極(むきょく)に復帰する」、
つまり極まりのないところ(いわゆる無)に万物が帰っていく、というその一節から、
太極のさらに極まったところにある「無(む)」を太極のご先祖と考え、
無から有が生じるように太極が生まれ、陰と陽が生まれ、
その陰と陽が様々に変化してさらに細かく枝分かれしていくように
万物を生み出し、機能する際に、常に無が仲立ちとなって存在すると考え、
そんな無の働きの別名を「道(みち)」としたわけです。
そしてそこから六十四卦を『老子』の考えをもとに説明していきました。
さて、あらゆる物事には道が仲立ちをしている、
この万物の働きを人間の身体にたとえますと、
人間の身体は様々なパーツに分かれています。
そしてそれはばらばらに存在するのではなく、
一つの統一された身体として機能しています。
たとえばものを考える脳を機能させるには
心臓から血液を送りこんで、栄養と酸素を供給しなければなりません。
栄養は腸から、酸素は肺から取り入れるわけです。
こうして一つになって人体を動かしているのですが、
私たちは別にそうするようにと意識的に命令を送っているわけではないのです。
老荘の考えでは道がそれらを一つに機能させるように働いていると考えています。
だからと言ってその道が、神様のような実体を持つだれかであるわけでもなく、
身体のパーツは統一された動きをしていても、
身体のパーツそれぞれがあるがままに本来の性質に従って動いている、
そんな自然の様子が見られるだけなのです。
これが、「そんなものはありはしない」という名訳の本当の意味になります。
ここから「天籟(てんらい)」の説明をしていきます。
風が吹いて、それがいろんな穴を通ることで様々な音がするわけですが、
風がやんだ時には全く音が聞こえない、「無」の状態になります。
その状態から風が少し吹くだけでいろんな穴と相互作用を起こして
いろんな音を奏でていくわけです。
それはまるで無から有、無から太極が生まれ、
それが様々な枝分かれして万物が生み出されるように
いろんな音が生み出されるように感じられますが、
そうさせている神様のような実体があるわけではなく、
万物のありのままの姿が見られるだけなのです。
無とはそれぞれがありのままの音を奏でる自然の姿の仲立ちをする、
そんな実体のないものなのです。
この無の働きの別名を「道」と言い、
「道」の音の仲立ちをする場合の働きのことを
「天籟(てんらい)」と名付けた、というわけです。
(その五へ続きます)
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●ここまでの現代語訳:
楚(そ)国の昭王(しょうおう)の腹違いの弟で、荘王(そうおう)の時代には
軍の総指揮官に当たる司馬(しば)という地位にいた
南郭子?(なんかくしき)は、
机にもたれかかって坐り、空を仰いで細く長い息を吐く
道家(どうか)の独特の呼吸をし、
まるで隣にいた連れ合いがいなくなったような、
そんな姿で坐っておりました。
そのとき、立って子?の側近くに控えていた、
弟子の顔成子游(がんせいしゆう)は、次のように言いました。
「一体、そもそも先生の身体をまるで枯れ木のようにさせて、
心をまるで火の気のない灰のように生気を失ったようにさせる、
そんな存在がいるのでしょうか?
(先生はどんな存在の力を借りて、そのような姿になることが
できたのでしょうか?)
今、机にもたれかかっている先生のお姿は、少し前に同じように
机にもたれかかっていた先生のお姿とは、全く異なっているようです。」
子?(しき)はその問いかけに答えて次のように言いました。
「偃(えん:子游(しゆう)の名)よ、それはよい質問ですね。
私は自分というものを失った状態になっているのです。
あなたは次のことを知っているでしょうか。
あなたは人籟(じんらい)というものを聞いたことがあっても、
まだ地籟(ちらい)というものを聞いたことがないのでしょうか。
あるいは地籟を聞いたことはあっても、
まだ天籟(てんらい)というものを聞いたことがないのでしょうか。」
子游(しゆう)は次のように尋ねました。
「おそれながら、それらはどんな種類のものか、お尋ねいたします。」
子?(しき)は次のように答えました。
「そもそも天地の間に大気が満ちることを、風と呼びます。
その風はただ吹くだけで他に何かをすることはないのですが、
吹き抜ける所に大地の間の様々な穴がある時は、
風によって激しい音が鳴るのです。
あなたも風がものを通り抜ける時の??(りゅうりゅう)という音を
聞いたことがあるはずです。
山林の山の奥まった所、林の木々が集まった所に
百人が両手を広げる大きさの木に空いた穴の様子は、
鼻に似ていたり、口に似ていたり、耳に似ていたり、
建物の柱の横木に似ていたり、
殷から漢の時代にかけて作られた『?(い)』という
青銅の容器の注ぎ口に似ていたり、
臼(うす)に似ていたり、腫れ物のあとの窪みに似ていたり、
窪地の水たまりに似ていたりと、様々な形があります。
そんな様々な形の穴に風が通る時の音は、
水が激しく流れる音のようであったり、矢が飛ぶ時の音のようであったり、
人が叱りつける声のようであったり、人の呼吸の音のようであったり、
人の叫び声のようであったり、泣き声のようであったり、
深い谷から聞こえてくる音のようであったり、
とても悲しく聞こえる声のようであったりと、様々な音がするわけです。
前の方ではため息混じりの言葉のような声がすると、
それに応じて後ろの方では人が呼びかけ合うような声がする、
そんな風に、場所によって音が変化していくのです。
そよ風が吹いた時はそんな調子を合わせた音は小さく、
激しい風の時は調子を合わせた音は大きくなります。
激しい風がやめば、様々な穴も何も音がしない状態に戻るのです。
あなたも木が揺れ動く時の調調(ちょうちょう)、
あるいは??(ちょうちょう)という音を聴いたことがあるはずです。」
すると子游(しゆう)は次のように尋ねました。
「地籟(ちらい)とは天地に空いた様々な穴のことで、
人籟(じんらい)とは、則(すなわ)ち竹の笛や
人が立てる物音であることはわかりました。
さらにおそれながら天籟(てんらい)のことをお尋ねします。」
それに対して、子?(しき)は次のように答えました。
「そもそもいろんなところに風が吹いていく様子は
どこも同じ所はないのですが、
しかし現象だけを見てみると単に風が吹いているだけなのです。
風を感じて様々な音を奏でる、
そんなことをする人は、一体誰なのでしょうね。」
(ここまでが現代語訳です)
ここからようやく本題に入れます。
天籟(てんらい)の正体をさらに探っていきます。
お待たせいたしました。
ここで二つの疑問が残ります。
一つめはこの文章が尻切れトンボで、この文だけでは
最後まで天籟(てんらい)の正体がわからなかったことです。
もう一つはなぜ唐突に天籟(てんらい)の話に突入したのか、ということです。
この二つを理解しなければ、今回の話は素通りしてしまいます。
両者を一つずつ検討していきます。
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