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●原文: 七月七日即事(寄誕日美容師島田先生)
玄齋 (上平聲十一眞韻)
七 夕 恩 人 祝 誕 辰 壽 筵 添 興 苦 吟 頻
讃 歎 結 髪 名 工 技 牽 牛 織 女 好 縁 新
●書き下し文: 題: 「七月七日(しちがつなのか)即事(そくじ)
誕日(たんじつ)の美容師島田先生に寄す)」
七夕(しちせき)の恩人(おんじん)の誕辰(たんしん)を祝い
寿筵(じゅえん)に興(きょう)を添(そ)えんと
苦吟(くぎん)すること頻(しき)りなり
讃歎(さんたん)す 結髪(けっぱつ)の名工(めいこう)の技を
牽牛(けんぎゅう)織女(しょくじょ)の好縁(こうえん)新たなり
●現代語訳: 題: 「七月七日の七夕(たなばた)の節句の日に、 ちょうどお誕生日である美容師の島田先生にこの漢詩を贈ります」 七夕の日に、私の恩人の誕生日を祝おうと思い、
めでたい宴席に興を添えたいと思って、
ひたすらに苦心して漢詩を作っていました。
その詩によって、その恩人である髪結いの優れた職人の技が、
織り姫星の機織りの女性と、彦星の牛飼いの男性のような、
素敵なご縁が新たに生まれるのをほめたたえようと思いました。
●語注: ※誕日(たんじつ): 誕生日のことです。 「誕辰(たんしん)」も同じです。
※即事(そくじ): その場の出来事や景色を詩に詠むことです。
※七夕(しちせき): 七月七日の七夕(たなばた)の節句のことです。
※寿筵(じゅえん): めでたい宴席のことです。
※苦吟(くぎん): 苦心して詩を作ることです。
※結髪(けっぱつ): 「髪結い(かみゆい)」のことです。
ここでは、女性の髪の毛を結うことです。
※名工(めいこう): すぐれた職人のことです。
※讃歎(さんたん): 深く感心してほめたたえることです。
※牽牛(けんぎゅう): 彦星(ひこぼし)の牛飼いの男性のことです。
※織女(しょくじょ): 織り姫星(おりひめぼし)の機織りの女性のことです。
※好縁(こうえん): 良い縁のことです。
●解説: この七夕の日がお誕生日である、 いつもフェイスブックでお世話になっている
美容師の方の誕生日を祝って、漢詩を作ってみました。
七夕は織り姫と彦星が年に一度出会う日で、
優れた美容師さんの髪結いの技術で、
そんな織り姫と彦星の二人のような新しい素敵な縁を取り持つ、
美容師という職業はそんな素晴らしい職業だなと、
そういう気持ちを詠みました。
本当に素敵な日に誕生日だなと思います。
いつまでもお元気で過ごして欲しいなと思います。 そろそろ検査入院が近いですので、 さらに体調に気をつけて頑張っていきます。 |
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七月末の検査入院が早まる予定です。
私の病気では年一回の検査入院が義務づけられています。
七月半ば頃から、八月の初旬頃までの検査入院になりそうです。
ちょうど暑い時期ですので、冷房のいる病室にいるのは、
節電の意味もあってちょうどよいのではと思います。
本を大量に持ち込んで、退屈をしないようにしようと思っています。
正確な日程がわかり次第、こうしてブログで連絡いたします。
何かとうまくいかないことも多いのですが、
自分の勉強だけはしっかりと続けていこうと思います。
これからも元気にがんばっていきます。
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最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
この三番目の記事の現代語訳(意訳)から読んでみて下さい。
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。
「無」とは、どこにあるのでしょうか。
いろんな言葉で表すことができるのですが、
今回は、私(老子)は皆さんが理解しやすく間違えることのないように、
具体的な物にたとえて説明していきます。
まずは、車輪について見ていきます。以下の図を見て下さい。
車輪は外側と内側の大小の輪の間に、
中心から外側に向けて柱を三十本通してその間をつなぐ、
という構造になっていまして、
その三十本の柱、図で示している緑色の部分
(この図では三十本には足りておりませんが。。。)が、
「輻(ふく)」と呼ばれる部分で、
真ん中の穴が空いている青い輪っかの部分が、
「轂(こく)」と呼ばれる部分です。
この穴に棒を通すことで、二つの車輪をつなぎ合わせて、
「錧(かん)」というくさびを打ってその棒が外れないようにするのです。
つまり、この車輪の中心の、
「轂(こく)」の穴の空いた空っぽの部分があることによって、
車輪を回転させることができ、
重い荷物を遠くまで運ぶ車としての本来の働きができるのです。
次に、陶器の器を作るために粘土をこねて、そこから陶器を作ります。
その際に、その陶器の真ん中の空っぽの空間があることで、
その器に物を蓄えて保存するという、
陶器としての本来の働きができるのです。
三つめに、家の部屋に、人が出入りするための戸や、
外から光を取り入れるための窓を取り付けるために穴を空けて、
そして部屋を作ります。
その際に、戸や窓のような穴が空いて空っぽの部分があることによって、
人がそこで休む部屋としての本来の働きができるのです。
この三つの物からわかることは、
「有」、つまりここでは世の中の物事が、車が重い荷物を運び、
陶器の器が物を蓄えて保存し、部屋が人を休ませるようにするように、 「利(り)」、つまり世の中の役に立つようにするためには、
「無」、つまりそのそれぞれの物事の空っぽな部分、つまり、
車輪の真ん中の棒を通す穴の「轂(こく)」と、
陶器の物を入れる空間の部分と、
部屋に人の出入りのために空けられた「戸」と、
明かりを外から取り込むための窓である「牖(ゆう)」が、 「用(よう)」、つまり車輪や陶器の器や部屋が
本来の働きをするために必要なのです。
つまり「無」というものは
車輪と陶器と部屋の中にある空っぽの部分に
たとえることができるのです。
「無」、つまり穴の空いた空っぽな部分が単独で働くということはなく、
「無」は「有」であるその物事に付き従って、
その物事をしっかりと働かせていく、
そういう、「有」と「無」の離れることのない関係を知ることができるのです。
私(ろうし)が今回、無というものの説明を試みたのは、
人の世界では有と無が離れることなく存在していて、
どちらも人がよりよく生きるために大切だからです。
かつて、第三章で述べていた、
「何かを欲しいという気持ちを弱めるようにして、
その分、人間としての根本の部分を強くしていくのです」
という部分は、実質的な部分、つまり「有」を強くして
役に立つようにさせる、つまり「利」をもたらすということです。
さらに、
「心を欲望に動かされないようにし、大切なものを
失わないようにするのです」
という部分は、欲望をなくしていく、つまり「無」を大切にして
大切な物を失わずに、本来の働き、つまり「用」を発揮させるのです。
このように、人がよりよく生きるためには、
人としての実質的な部分、つまり「有」を養って、
そのために有害となる欲望を減らしていく、
つまり「無」を大切にして守っていく、
この両者を両立させることが大切だということです。
この両立させることの大切さを述べるために、
私(老子)は、車・陶器の器・部屋といった三つの物にたとえて、
この章で「無」というものの説明をしました。
●解説:
今回の章では注釈は最も明快でわかりやすい物を選んでみましたが、
更に驚かされたのは明の太祖(たいそ)、
つまり明の初代皇帝である朱元璋(しゅげんしょう)の注釈です。
その注釈では、車輪や陶器の器や戸や窓のスペアを用意することで、
壊れる心配を減らすことができる、
つまり、スペアという普段使わない物(無)によって
元々使っている物(有)を安心して使うことが出来る、という、
ものすごくシンプルでわかりやすいもので、あっけにとられました。
これはさすがに本来の考えを逸脱しているものとして扱うしかないですが、
ここまで分かりやすく役に立つ説明はないと思います。参りました。
これからもできる限りわかりやすく
『老子』本文の現代語訳と解説をしていきます。
これからもしっかりとがんばっていきます。
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最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
三番目の記事の現代語訳(意訳)から読んでみて下さい。
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。
「三十輻共一轂、当其無、有車之用」
「三十の輻(ふく)の一つの轂(こく)を共(とも)にす。
其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、車の用(よう)有り」
これを説明するには、実際の車輪の図を作って説明するのが
よいと思います。
車輪は外側と内側の大小の輪の間に、 中心から外側に向けて柱を三十本通してその間をつなぐ、
という構造になっていまして、その三十本の柱、
図で示している
緑色の部分(この図では三十本には足りておりませんが。。。)が、
「輻(ふく)」と呼ばれる部分で、
真ん中の穴が空いている青い輪っかの部分が、
「轂(こく)」と呼ばれる部分です。
この穴に棒を通すことで、二つの車輪をつなぎ合わせて、
「錧(かん)」というくさびを打ってその棒が外れないようにするのです。
「其(そ)の無(む)なるに当たりては、」
つまり、「この轂の穴の空いた空っぽの部分があることによって」
「車の用(よう)有り」
「車としての本来の働きができる」、ということです。
注釈から考えますと、車輪に「轂(こく)」と呼ばれる空っぽの部分が
あることで、車輪本来の、重い荷物を遠くへ運ぶという働きを
可能にさせる、ということです。
「埏埴以為器、当其無、有器之用」 「埴(しょく)を埏(ねや)せて以(もっ)て器(うつわ)と為(な)す、
其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、器(うつわ)の用(よう)有り」
「埴(しょく)を埏(ねや)せて以(もっ)て器(うつわ)と為(な)す」
「埴(しょく)」は粘土のことです。
「埏(えん)」は「ねやす」と呼んで、土をこねることです。
この部分は注釈と少しずれがありますが、意味は変わっておりません。
「埴(しょく)を埏(ねや)せて以(もっ)て器(うつわ)と為(な)す」は、
「粘土をこねて、そこから陶器を作る」ということです。
「其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、器(うつわ)の用(よう)有り」
「その陶器の真ん中の空っぽの空間があることで、
陶器としての本来の働きができる」
ということです。
「鑿戸牖以為室、当其無、有室之用」
「戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以(もっ)て室(しつ)と為(な)す、
其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、室(しつ)の用(よう)有り」
「戸」は玄関の戸のことです。
「牖(ゆう)」は明かり取りのために空けられた窓のことです。
「戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以(もっ)て室(しつ)と為(な)す」つまり、
「家に戸や窓を取り付けるために穴を空けて、
そして部屋を作ります」となります。
「其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、室(しつ)の用(よう)有り」
「戸や窓のような穴が空いて空っぽの部分があることによって、
部屋としての本来の働きができる」となります。
「故有之以為利、無之以為用」 「故(ゆえ)に有(ゆう)の以(もっ)て利(り)と為(な)し、
無(む)の以(もっ)て用(よう)と為(な)す」
「利(り)」とは「利益(りえき)」のことで、
ここでは「人の役に立つ」ということです。
この十一章では車輪と陶器と部屋が、
その役に立つ「有(ゆう)」に相当します。
「用(よう)」とは、「本来の働き」のことです。
十一章では、車輪の真ん中の棒を通す穴の「轂(こく)」と、
陶器の物を入れる空間の部分と、
部屋に人の出入りのために空けられた「戸」と、
明かりを外から取り込むための窓である「牖(ゆう)」が、
その車輪・陶器・部屋が本来の働きを果たすようにする
「無」に相当します。
注釈を踏まえて言いますと、
「有」、つまりここでは世の中の物事が
「利」、つまり世の中の役に立つようにするには、
「無」、つまりそのそれぞれの物事に空虚な部分が存在して、
それによって「用」、つまり「本来の働きをする」ことが
必要であるということを、
車輪と陶器と部屋の中にある空っぽの部分にたとえて
説明をしているということです。
『老子』第三章に
「何かを欲しいという気持ちを弱めるようにして、
その分、人間としての根本の部分を強くしていくのです」
という部分は、実質的な部分、つまり「有」を強くして
役に立つようにさせる、つまり「利」をもたらすということです。
さらに、
「民衆の心を欲望に動かされないようにし、
大切なものを失わせないようにするのです」
という部分は、欲望をなくしていく、つまり「無」を大切にして、
大切な物を失わせずに、本来の働き、つまり「用」を発揮させるのです。 人の世界では有と無が離れることなく存在していて、 どちらも大切だということです。
実質的な物を養って(有)、それに有害となる欲望を減らしていく(無)、
これを両立させることが大切だということです。
「無」、つまり穴の空いた空虚な部分が単独で働くということはなく、
無は有であるその物事に付き従って、その物事をしっかりと働かせていく、
そういう具体的な物事から、
老子のいう「無」を感じ取っていくことができる、
それがこの十一章の重要な部分なのです。
以上を踏まえて、この第十一章の現代語訳(意訳)は次のようになります。
今までの内容を繰り返す現代語訳になります。
次の記事:
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最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
三番目の記事の現代語訳(意訳)から読んでみて下さい。
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。 ●原文:
『老子』第十一章
三十輻共一轂、当其無、有車之用。埏埴以為器、当其無、有器之用。
鑿戸牖以為室、当其無、有室之用。故有之以為利、無之以為用。
●書き下し文: 三十の輻(ふく)の一つの轂(こく)を共(とも)にす。
其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、車の用(よう)有り。
埴(しょく)を埏(ねや)せて以(もっ)て器(うつわ)と為(な)す、
其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、器(うつわ)の用(よう)有り。
戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以(もっ)て室(しつ)と為(な)す、
其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、室(しつ)の用(よう)有り。
故(ゆえ)に有(ゆう)の以(もっ)て利(り)と為(な)し、
無(む)の以(もっ)て用(よう)と為(な)す。
●解説:
この章は理解し把握することの難しい「無(む)」というものを、
物に託して説明する章です。
抽象的な概念をこうして物事にたとえる有名な例としては、
『論語(ろんご)』の八佾(はちいつ)第三の篇にある一節で、
孔子の弟子の一人の林放(りんぼう)が
礼(れい: 物事の正しい道理を形式や制度に具体化させたもの)の
本質を質問した時に、
孔子は
「良い質問だね。先祖のお祭りなどでは派手な形式を取らずに
むしろ倹約をして、先祖を敬う気持ちの方を大切にさせた方が
よいのです。
葬儀の時には形式を整えることばかり口やかましく言うよりは、
その亡くなった方を悼む気持ちの方を大切にしたほうがよいのです」
という風に答えていました。
現代風に言えば、「礼の本質は形式ではなく真心である」という風に
言えそうですが、孔子はそうはしなかったのです。
そのような抽象的な言葉を使って
「ごまかし」にならないようにという配慮です。
祭りの時に先祖を敬う気持ちを持ちなさい、
葬儀の時には亡くなった方を悼み悲しみなさい。
こういう事でとてもわかりやすくなり、ごまかしがきかなくなるのです。
さて、この部分の註釈を検討していきますと、
物に託して明快に述べるという、この『老子』第十一章の意図を
最もきちんと汲んでいる注釈は、
元の時代の学者の呉澄(ごちょう)の注釈です。
この注釈の原文・書き下し文・現代語訳を示した上で、
実際に『老子』第十一章の本文の検討に入ります。
(呉澄の注釈の原文) 輻、輪之轑也。轂、輪之心也。無、空虚之処也。
埏、和土也。埴、土之粘膩者為器。故謂。水和粘膩之土。為陶器也。
凡室之前。東戸西牖。戸以出入。牖以通明。
車載重行遠。器物所貯蔵。室人所寝処。
故有此車。有此器。有此室。
皆所以為天下利也。故曰、有之以為利。
然車非轂錧空虚之処。可以転軸。則不可以行地。
器非中間空虚之処。可以容物。則不可以貯蔵。
室非戸牖空虚之処。可以出入通明。則不可以寝処。
車以転軸者為用。器以容物者為用。室以出入通明者為用。
皆在空虚之処。故曰、無之為用。 人之実腹有気。所以存身。所謂為利也。
虚心無物。所以生気。所謂用也。
故取三物取喩。
(呉澄の注釈の書き下し文)
輻(ふく)は、輪の轑(りょう)なり。轂(こく)は、輪の心(しん)なり。
無(む)は空虚(くうきょ)の処(ところ)なり。
埏(えん)は、土に和するなり。
埴(しょく)は土の粘膩(ねんじ)なる者の器(うつわ)を為(な)す。
故(ゆえ)に謂う。水と粘膩の土にて、陶器(とうき)を為(な)すなりと。
凡(およ)そ室の前、東戸(とうこ)・西牖(せいゆう)なり。
戸は以て出入(しゅつにゅう)し、牖(ゆう)は以て明(めい)を通(つう)ず。
車は重きを載せて遠きを行く。器(うつわ)は物の貯蔵(ちょぞう)する所、
室(しつ)は人の寝処(しんじょ)となる所なり。
故(ゆえ)に此(こ)の車(くるま)有り。
此(こ)の器(うつわ)有り。此(こ)の室(しつ)有り。
皆な天下(てんか)の利(り)を為(な)す所以(ゆえん)なり。
故(ゆえ)に曰(いわ)く、有の以て利を為(な)すと。
然(しか)れども車は轂(こく)の錧(かん)の空虚(くうきょ)の処(ところ)が、
以(もっ)て軸(じく)を転(てん)ずべくに非(あら)ず。 則(すなわ)ち以(もっ)て地(ち)を行くべからず。 器(うつわ)は中間(ちゅうかん)の空虚(くうきょ)の処(ところ)が、
以て物を容(い)るるべくに非ず。則ち以て貯蔵(ちょぞう)すべからず。
室は戸牖(こゆう)の空虚(くうきょ)の処が、
以(もっ)て出入して明(めい)を通(つう)ずべくに非ず。
則ち以(もっ)て寝処(しんじょ)とすべからず。
車は以(もっ)て軸(じく)を転(てん)じて用(よう)を為(な)す者、
器は以(もっ)て物(もの)を容れて用(よう)を為(な)す者、
室は以(もっ)て出入(しゅつにゅう)に明(めい)を通(つう)じて
用(よう)を為(な)す者なり。
皆な空虚(くうきょ)の処(ところ)有り。
故(ゆえ)に曰(いわ)く、無の用を為すと。
人の腹(はら)を実(じつ)にして気(き)を有(たも)つは、
身を存する所以(ゆえん)にして、
所謂(いわゆる)、利(り)を為(な)すなり。
虚心(きょしん)にして物とする無し。
気(き)を生ずる所以(ゆえん)にして、所謂(いわゆる)、用なり。
故(ゆえ)に三物(さんぶつ)を取りて喩(たとえ)を取る。
(呉澄の注釈の現代語訳)
「輻(ふく)」というのは、車輪の輪の「轑(りょう)」、
つまり車輪の外側から内側をつなぐ、傘の骨のような所です。
「轂(こく)」は、その車輪の中心のことです。
そこは穴が空いていて、その間に横木を通して二つの車輪を
つなぐのです。
「無(む)」とは、その穴の空いた空っぽのところを指しているのです。
「埏(えん)」とは、土に混ぜ合わせる、という意味です。
「埴(しょく)」とは、油のように粘りけのある土、つまり粘土のことです。
つまり「埏埴(えんしょく)」とは、水と土を混ぜ合わせて粘土として、
それを用いて陶器を作ることを指しているのです。
そもそも部屋の前には東に戸を作り、
西に明かりを取るための窓を作ります。
戸は人が出入りするためのもので、
窓は明かりを部屋の中に入れるために作られるのです。
車は重い荷物を載せて遠くへ行くためのもので、
器はその中にものを蓄えるためのもので、
部屋は人が休んで寝るためのものです。
ですから、この世の中に車があり、器があり、部屋があるわけです。
これらは全て、天下でこれらのものが人の役に立つ理由なのです。
ですから『老子』の本文に、
「『有』によって人の役に立つのです」とあるのです。
ですが、車は轂の「錧(かん)」、つまり車輪の真ん中に棒を通して
外れないようにくさびを打つ、その車輪を通す穴の空いた部分が、
単独で車輪の軸を回すわけではないのです。
だから、その空っぽの部分だけで地上に車を走らせることは
できないのです。
陶器の器も、物を入れることのできる空っぽの部分が、
単独で物を入れることはできないのです。
だから、その空っぽの部分だけで物を蓄えておくことはできないのです。
部屋は戸や窓を作るためにくり抜いた部分が
単独で部屋の出入りを可能にし、
明かりを部屋の中に入れることができないのです。
だから、その空っぽの部分だけで人が休んで寝る場所を
形作ることはできないのです。
車輪は、軸を回して回転することで本来の働きをし、
陶器の器は、物を中に入れることで本来の働きをし、
部屋は、そこに人が出入りをし、外から明かりを取り入れることで
本来の働きをするのです。
その時に、車輪も、陶器の器も、部屋も、どれも空っぽの所があるのです。
ですから『老子』の本文に、
「『無』によって物事が本来の働きをするのです」とあります。
ですから、『老子』第三章の 「民衆の心を欲望に動かされないようにし、
大切なものを失わせないようにするのです」とあるように、
実質的な部分、つまり『有』によって人の役に立つと言えるのです。
同じく第三章に、
「何かを欲しいという気持ちを弱めるようにして、
その分、人間としての根本の部分を強くしていくのです」
とあるように、何かをなくしていくということ、
つまり『無』によって物事が本来の働きをするということが分かるのです。
こういう事を説明するために、
車輪、陶器の器、部屋という三つの物にたとえて説明をしているのです。
(ここまでが呉澄の注釈の現代語訳です)
先ほどの注釈を、改めて『老子』の第十一章の本文に従って
説明していきます。
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