玄齋詩歌日誌

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最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
六番目の記事の現代語訳(意訳)から読んでみて下さい。
 
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。
 
イメージ 1
 
パイプ
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この漢文は『老子』の第十章の翻訳です。
合計で 19,000 文字を超えていますので、
記事を七つに分けています。
 
 
この一つ目の記事では、原文と書き下し文と、
個々の文章への解説の部分です。
 
今回の現代語訳(意訳)は六つめの記事にあります。
 
 六つめの記事
 
コメント欄は七つめの記事の方にのみ設けています。
 
 七つ目の記事
 
この点についてご了承願います。宜しくお願いいたします。
 
 
 
●原文:
 
 
 『老子』第十章
 
載営魄抱一、能無離乎。専気致柔、能嬰児乎。滌除玄覧、能無疵乎。
 
愛民治国、能無為乎。天門開闔、能無雌乎。明白四達、能無知乎。
 
生之畜之、生而不有、為而不恃、長而不宰、是為玄徳。
 
 
 
●書き下し文:
 
 
営魄(えいはく)を載(の)せて一(いち)を抱(いだ)く、
能(よ)く離(はな)るる無(な)からんか。
 
気(き)を専(もっぱ)らにして柔(じゅう)を致(いた)す、
能(よ)く嬰児(えいじ)ならんか。
 
玄覧(げんらん)を滌除(てきじょ)す、能く疵(きず)無からんか。
 
民(たみ)を愛し国を治(おさ)む、能(よ)く無為(むい)ならんか。
天門(てんもん)開闔(かいこう)、能く雌(めす)たらんか。
明白(めいはく)四達(したつ)、能く無知(むち)ならんか。
 
之(これ)を生(しょう)じ之を畜(やしな)い、
生じて有(たも)たず、為(な)して恃(たの)まず、
長(ちょう)じて宰(つかさど)らず、是(これ)を玄徳(げんとく)と為(な)す。
 
 
 
●解説:
 
 
この章は欲望を取り除いて心を安らかにして曇りのない目を持って、
物事の道理を見通しながら国を治めていき、
 
目の前の状況、解決すべき物事を見通す偉大ですぐれた心である、
「玄徳(げんとく)」にたどり着く、そういう章です。
 
 
ここでは特に後半部分は明の太祖、つまり明の帝国の初代皇帝である
朱元璋(しゅげんしょう)の注釈を中心に解説していきます。
 
直訳するだけならものすごく短い文章で済みますが、
実際に意味を検討していきますと、
長い文章になっていきますので、この点をご了承下さい。
 
 
以下の文章の中の「道」とは「自然の道理」のことで、
これでは自然のもとで道理を習うというように思われてしまいますので、
さらに分かりやすく述べますと、

「道の目指すところ、つまりその個々の目的の達成のために
 要求される道理」
のことです。目的を見据えて、そのために何をすべきかという時に
必要とされる道理のことです。
 
 
もっと具体的に言えば、詩を作る人はよりよい詩を作るための道理、
書道であればよりよい字を書くための道理、
 
政治家であればよく国や天下を治めるための道理、
社会人であればそれぞれの職業でよい成果を上げるための道理、
 
そういうものが特別にない人でも、日々の生活を工夫して、
よりよく生きるために考えなければならない道理のことです。
 
 
そのどれもが単なる人に教えられる学習だけではなく、
さらに独自の工夫によってきちんと把握し活用できるようになるものです。
 

では本文に入ります。
 

「載営魄抱一、能無離乎」
 
「営魄(えいはく)を載(の)せて一を抱く、
能(よ)く離(はな)るる無(な)からんか」
 
 
「営魄(えいはく)」に「一を抱く」など、難しい言葉が並んでいますが、
決して難しくはないのです。このような言葉遣いをしているのは、
イメージをさせやすいための配慮なのです。
 
 
道を理解するのは難しいと言いながらも、
老子は本当にわからないところは推測であることを
はっきりと述べています。ここは老子が丁寧に答えているのです。
 
時折、漢詩をしている若い方で、簡単なことを必要もないのに
わざわざ難しい言葉を使って、人が理解してくれないことで
自分は偉いのだと勘違いをしている人もいるのですが、
そのようなことを老子は決しないのです。
 
老子は易しく説いていても相手にしてくれない、そのことへの嘆きは
あっても、理解されないことで思い上がっているわけではないのです。
 
 
まず、「一を抱く」、つまり「抱一(ほういつ)」という言葉は、
「道、つまり自然の道理を大切に守ってそこから離れないこと」
を指しています。
 
『老子』第二十二章では、「聖人抱一、為天下式」
「聖人は一を抱いて、天下の式(のり)となる」、となり、
この訳は「知恵と徳にすぐれた聖人は、その時々で要求される道理を
守ってそこから離れることがないからこそ、
天下の人々の模範となるのです」となります。
 
 
この二十二章の「抱一」の、最初の例としてこの十章に出て来ます。
ここで疑問となるのは、わざわざ「一」とするのはなぜか、と言うことです。
 
道を大切に守るのならば「抱道」でも良いわけです。
わざわざ「一」としているのは、
 
「本来一つのものが二つになりそうになるのを防ぐ」
ということを示すためです。
 
その「本来一つのもの」とは「たましい」、
つまり「魂魄(こんぱく)」のことです。
 
「魂魄」の「魂(こん)」はたましいの精神的な側面を、
「魄(はく)」はたましいの肉体的な側面を表していて、
 
「魂」は陽の性質を持って活発に動き、
「魄」は陰の性質を持って静かにとどまっているのです。
 
死ぬ時には「魂」と「魄」が分かれて、「魄」はしばらく肉体に留まります。
一方で生きているうちは「魂」と「魄」は一つであり、それを示すのが
「営魄(えいはく)を載(の)す」の部分です。
 
「載」は清の思想家の魏源(ぎげん)の注では「処」、
つまり「おる」という意味で、
 
「営」は「野営」の「営」、つまり「泊まる場所」を指しています。
 
つまり、「営魄(えいはく)を載(の)す」とは、
活発に動く「魂」が「『魄』という宿泊所」にいる、
そのことで「魂魄(こんぱく)」という一つのたましいを形作る、
ということを示しているのです。
 
ここから「営魄」が「魂魄」、つまり「たましい」を示す
言葉になっていくのです。
 
 
魂が魄の所にともにいて、「一を抱く」、一は道、自然の道理、つまり
個々の目的を見据えた上で要求される道理をしっかりと守って、
魂と魄が二つに分かれるのを防いで一つの状態を保つ、となるのです。
 
 
そして「能(よ)く離(はな)るる無(な)からんか」
「うまく離すことができないままでいられるだろうか」となります。
 
 
生きているうちは魂と魄が一つになってたましいとなっているのですが、
それが生きているうちに二つになるとはどういうことか、
ここでさらに魏源の注釈を引きます。
 
 
(魏源の注釈の原文)
 
心之精爽。是謂魂魄。本非二物。然魂動而魄静。
苟心為物役。離之為二。則神不守舎。而血気用事。
 
惟抱之為一。使形神相依。而動静不失。
則魂即魄。魄即魂。何耗何昏。乃可以長存。
 
蓋非偶載之難。亦非抱一之難。而常不離之難也。修身養生。道皆如此。
 
 
(魏源の注釈の書き下し文)
 
心の精爽(せいそう)。是(これ)を魂魄(こんぱく)と謂う。
本(もと)は二物(にぶつ)に非ず。
 
然れども魂(こん)動きて魄(はく)静かなり。
苟(も)し心の物に役せらるば、之を離れて二となる。
 
則ち神(しん)は舎(やど)を守らずして、
血気(けっき)を事に用いる。
 
惟(ここ)に之を抱きて一となし、形神(けいしん)をして相い依(よ)らしめ、
動静(どうせい)を失わざらしめば、
 
則ち魂は即ち魄にして、魄は即ち魂なり。
何ぞ耗(すりへ)らん何ぞ昏(くら)からん。
乃(すなわ)ち以て長く存すべし。
 
蓋(けだ)し偶(とも)に載(の)することの難(かた)きに非(あら)ず。
亦(ま)た一(いち)を抱(いだ)くことの難きに非ず。
常に離れざることの難きなり。
 
身を修め生を養う、道は皆な此の如し。
 
 
(魏源の注釈の現代語訳)
 
心のたましいとなる部分を、「魂魄(こんぱく)」と言うのです。
魂(こん)と魄(はく)は元々は二つのものではないのです。
 
しかし魂は陽の性質を持って活発に動き、
魄は陰の性質を持って静かにとどまっているのです。
 
ここでもし、心が欲望によって他のものごとに
振り回されるようなことになれば、
魂は魄のもとを離れて二つになってしまうのです。
 
するとたましいは家である肉体を守ることをやめてしまい、
物事に激しやすい心で物事に向かってしまうのです。
 
ですからここで、道、つまりその時々に要求される道理を大切に守って、
欲望にひかれて魂と魄が離れるような状況にならないようにして、
 
肉体とたましいをどちらも自然の道理に従わせて、
言動に節度を持たせてその状況に合わないようなことを
させないようにすれば、
 
魂は魄であり、魄は魂であるというような
魂と魄が一つになった状況になれば、
 
どうして心をすり減らしたり、物事の道理に暗かったり
ということがあるでしょうか。
 
こうして自分の身を長く保つことが出来るのです。
 
そもそもこのことは、魂と魄を一緒にさせることが難しいのではなく、
あるいは、道理を守っていくことが難しいのでもなく、
それを常に保っていくことこそが難しいのです。
 
自分の身を修め、自分の生命を養うときの
道理というのは全てこのようなものなのです。
 
 
(ここまでが魏源の注釈の現代語訳です)
 
 
ここで「載営魄抱一、能無離乎」は、
 
「自然の道理、物事の道理を大切に守って、欲望をなくしていくことで、
 欲望にひかれて魂が魄のもとを離れるのを防ぐ、
 この状態をしっかりと保つことができるだろうか」となります。
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舞扇
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●原文:
 
 
 想 佳 人   玄齋  (上平聲四支韻)
 
一 生 男 子 勿 傷 悲   奈 何 佳 人 隔 海 離
 
受 禄 無 縁 陳 壯 語   積 憂 多 病 淪 焦 思
 
切 要 老 子 通 玄 學   自 養 忠 心 言 志 詩
 
不 如 曾 参 詠 商 頌   高 吟 北 海 爲 君 辭
 
 
 
●書き下し文:
 
 
題: 「佳人(かじん)を想(おも)う」
 
一たび男子に生まれれば傷悲(しょうひ)すること勿(なか)れ
奈何(いかん)せん佳人(かじん)と海を隔てて離るるを
 
禄(ろく)を受(う)けること無縁(むえん)にして壮語(そうご)を陳(の)べ
憂(うれ)いを積(つ)む多病(たびょう)にして焦思(しょうし)に淪(しず)む
 
切(せつ)に老子(ろうし)に要(もと)む玄(げん)に通(つう)じる学
自(みずか)ら忠心(ちゅうしん)を養(やしな)いて志(こころざし)を言う詩
 
曾参(そうしん)の商頌(しょうしょう)を詠(えい)ずるに如(し)かざれども
高(たか)らかに北海(ほっかい)に吟ず君が為(ため)の辞(ことば)
 
 
 
●現代語訳:
 
 
題: 「当時の美しい人のことを想って漢詩を詠んでいました」
 
一度男に生まれた以上は、憂い悲しむようではいけないのです。
当時の美しい人と海を隔てて離れている状況をどうするのかを
考えておりました。
 
職業に就くことに無縁であるのに勇ましいことを述べて、
悲しみの積み重なる病気がちな中で、
焦る気持ちで深く考え込んでしまっておりました。
 
切実に『老子』の本に、物事の道理の奥深くまで通じる学問を求めて、
自分で真心を養って、心に思うことを述べる詩を作っておりました。
 
その詩は、『荘子』の中で孔子の弟子の曾参(そうしん)が、
ボロボロの外見でも気高い志を持ち、殷(いん)の国の
徳をたたえる商頌(しょうしょう)の詩を歌うと、
天地に響くような美しい歌声だった、そういうものには及ばないですが、
 
北の海に向かって声高らかに歌います。あなたのための言葉を。

(そんな当時の気持ちを詠んでおりました。)
 
 
●語注:
 
 
※傷悲(しょうひ): 憂い悲しむことです。
 
※勿(なかれ): 「〜してはいけない」ということです。
 
※奈何(いかんせん): 「〜をどうするのか」ということです。
 
※佳人(かじん): 美しい女の人のことです。
 
※受禄(じゅろく、ろくをうける): 給料を頂ける職業に就くことです。
 
※壮語(そうご): 勇ましく偉そうな言葉のことです。
 
※積憂(せきゆう、うれいをつむ): 悲しみが積み重なることです。
 
※多病(たびょう): 病気がちなことです。
 
※焦思(しょうし): 心配したり焦ったりして気持ちがいらだつことです。
 
※切要(せつよう、せつにもとむ): 切実に必要とするということです。
 
※玄(げん): もともとは全ての色を混ぜ合わせた黒に近い色のことで、
  道の合わさったところ、道の始まりの奥深いところを指す言葉です。
 
※忠心(ちゅうしん): 真心のことです。
 
※言志(げんし、こころざしをいう): 心に思うことを述べることです。
 
※曾参(そうしん): 孔子の弟子の一人で、孔子の孫の子思(しし)に
  聖人の教えを伝えた人とされています。
 
※商頌(しょうしょう): 儒学の四書五経の五経の一つ『詩経』の中に
  出てくる、商(しょう)の国、つまり殷(いん)の国の徳をたたえた
  詩のことです。『荘子』雑篇(ざつへん)の譲王(じょうおう)第二十八
  の一節に、孔子の弟子の曾参(そうしん)がボロボロの外見で
  商頌の詩を歌うと、天地に響くような美しい歌声だった
  という話があります。
 
※高吟(こう、たからかにぎんず): 声高らかに歌うことです。
 
※北海(ほっかい): 北の海のことです。
 
※辞(ことば): 言葉のことです。
 
 
 
●解説:
 

私の当時のお相手の方への想いを、七言律詩(しちごんりっし)の
漢詩にしておりました。
 
七言律詩は七文字の句が八つで構成されていて、
発音のルールである平仄を守ることの上に、
 
三句目&四句目、五句目&六句目が
対句(ついく)という語呂合わせの句になっていないと
いけないというものです。
 
大変ルールの厳しいものですが、昨年から作ることができてきています。
七言律詩という形式を、きちんとものにしていきたいなと思っておりました。
 
 
ちょっとしたことで焦ってしまう気持ちを改めていかなければ、
そんな気持ちで詠んでおりました。
 
漢詩を詠んでいると、自然に私自身が反省されて、
気持ちが前向きになる、そういう気持ちをもっと
大切にしていかなければ、そう思っていました。
 
『荘子』雑篇(ざつへん)の譲王(じょうおう)第二十八の一節で、
孔子の弟子の曾参(そうしん)がボロボロの外見でも気高い志を持ち、
古代中国の殷(いん)の国の徳をたたえる商頌(しょうしょう)の詩を歌うと、
天地に響くような美しい歌声だった、
 
そういう曾参(そうしん)の姿には及ばなくても、
ちょっとしたことで心揺れてしまう現状を
しっかり改めなければと、更に思っていました。
 

もっとゆったりとした気持ちを持ちながら、
よりしっかりと学んでいこうと思っています。
 
最近のヤフーブログの出来事について一言だけ述べます。
 
ヤフーブログのランキングを上げるために色んなテクニックが存在して、
その中にはかなりイレギュラーなものがあって、
それでランキングをつり上げている人が居るそうです。
 
私としてはそんなランキングを度外視しても価値のあることを
しているという自負がありますので、かなり気楽に構えていましたが、
最近そうも言っていられないので、少しだけ私の思うところを述べます。
 
ランキングを上げるために、ブログ仲間となった人たちから
何か特殊なことを持ちかけられるかもしれませんが、
それはランキングに関わることだと考えられます。
 
そういう時には上記のことを念頭に置いた上で、
どういう目的でそれを行わなければならないかをその方自身に
問いただして、その上で自分の納得のいくように判断して、
その後の行動を決めていただきたい、そのように思っています。
 
 
私は誰かに何かを頼まれても、常に私自身の納得づくで
行ってきています。これからもそうしていくつもりです。
これに対して恥じ入るところはありません。
 
ですから私も、この点に関してこうして下さいと述べることはありません。
こういう事を念頭に置いた上で、それぞれの方がきちんと納得のいく形で
ブログをされていくことを願っています。
 
 
この点に関して議論をしたいわけでもありませんので、
今回はコメント欄を設けません。
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長谷寺の牡丹
Photo by (c) Tomo.Yun
http://www.yunphoto.net
 
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●原文:
 

 十六字令「詩」 玄齋 (上平聲四支韻)
 
詩。
 
欲 喩 花 王 獨 立 姿。
 
唯 一 字、
 
愛 是 爲 君 辭。
 
 
 
●書き下し文:
 

題: 「十六字令(じゅうろくじれい)『詩』」
 
詩。
 
花王(かおう)の独(ひと)り立つ姿に喩(たと)えんと欲(ほっ)す。
 
唯(た)だ一字(いちじ)、
 
愛は是(こ)れ君(きみ)が為(ため)の辞(ことば)なり。
 
 
 
●現代語訳:
 

題「宮廷歌謡の替え歌の形式の填詞(てんし)の一つ、
 十六字令(じゅうろくじれい)を『詩』という題で詠みます」
 
詩。
 
多くの花の王である牡丹(ぼたん)の花が、他の花々より
独りだけすぐれている姿にたとえようとしているのは、
 
ただ一つの文字なのです。
 
それは、「愛」です。「愛」はあなたのためだけの言葉なのです。
 
 

●語注:
 
 
※花王(かおう): 「百花の王(ひゃっかのおう)」、つまり、
  牡丹(ぼたん)の花を、他の花より独りだけすぐれているのを
  王にたとえた表現です。
 
※独立(どくりつ、ひとりたつ): 他を圧倒して独りだけすぐれている
  ということを示す言葉です。
 
 
 
●解説:
 

私の当時のお相手の方への想いを「詩」という題で
十六文字で詠んでみました。
昨年の夏からは、お相手の方のために漢詩を作ることも
多くなってきました。
 
多くの花の中でひときわ美しい牡丹に喩えているのは、
「愛」という一文字だと、そういう気持ちを詠んでいます。
 

これは中国の宋の時代に流行った填詞(てんし)という
宮廷歌謡の替え歌の一つで、「十六字令(じゅうろくじれい)」と言います。
 
簡単に説明しますと一文字の一句目がこの詩の主題を表していて、
残りの三句でそれを説明します。その際に二句目と四句目で、
一句目と同じ韻目(韻のグループ)の字で韻を踏むものです。
興味のある方は、詳しくは下の付録をご覧下さい。
 

ヤフーブログでは最近規制が強くなりまして、
女性のブログには、そのブログに来たコメントの中に
特定の禁止ワードがあると、
 
コメントチェッカーで注意を促すメールがそのブログをしている
女性の方に、届くようになっているそうです。
 
その禁止ワードの一つが「愛」です。
この言葉が女性のブログにコメントする際は使ってはいけないそうです。
 
プログラミングもしている者として思うのですが、
そういうシステムは文脈に関係なくキーワードがあれば
警告をしてしまいますので、無粋なものだと思います。
 
そのために、他の方にブログにコメントをする際には
他の引っかかるキーワードを使わないように細心の注意を
するようにしております。
 

漢詩の中でも填詞(てんし)という宮廷歌謡の替え歌は、
宮廷の恋などの恋愛を詠むことが多いですので、
七言絶句で恋の漢詩を詠むよりはずっと作りやすくなります。
 
漢詩で愛を語るというのは、あまり例がないのです。
漢詩は風流な物事を詠むだけだと、そう思っている人も居ますので、
こういう種類の漢詩があることを知らない人からは、
「これはたとえ話ですか?」と言われることもあります。
漢詩にはこういうジャンルがあることも、知っていて損はないと思います。
 

「愛」という言葉は、安易に言葉にしてしまいかねないものだと思います。
だからこそ、漢詩などの厳しい形式の中で詠むことに意味があると
思っています。
 
形式を満たすために十分に言葉を選び、深く考えていく中で、
私自身の気持ちをしっかりと見据えることが出来る、
そういう利点があると思っています。
 
これからもこういう言葉をしっかりと考えながら漢詩にして、
私自身の想いも、しっかりと養っていこうと思います。
 
今の私に、お相手の方に対して何が出来るのか、
この点をしっかりと考えて、日々を過ごしていこうという、
当時の気持ちを詠んでいます。
 
 
 
●付録:
 

十六字令(じゅうろくじれい)の詳しい説明は、 Wikipedia の
以下のページにあります。
 
(日本語で説明をしている某サイトもありましたが、かみ砕いて
説明するためにかなり脱線した解説になっていて
正確さを欠いていました)
 
 十六字令 - 維基百科,自由的百科全書
 
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%AD%97%E4%BB%A4
 

中国語のサイトですので中身を説明しますと、
 
「十六字令(じゅうろくじれい)」は詞牌(しはい: 填詞の歌曲の節回し)
の一つで、元の時代の詩人の周玉晨(しゅうぎょくしん)の
同じ詞のタイトルから取ったものです。
 
別名に「蒼梧謡(そうごよう)」、「帰字謡(きじよう)」などがあります。
 

基本的には一句目の一文字にこの詞の主題となる文字にして、
それを後ろの三句で説明するものです。
その上で平仄のパターンが決まっています。

この十六字令の平仄(ひょうそく: 古代中国の発音のルール)の
パターンは次のようになります。

一句目: ◎
二句目: ▲ ● ○ ○ ▲ ● ◎
三句目: ○ ○ ●
四句目: △ ● ● ○ ◎
 
◎: 平声で韻を踏むところです。
○: 平声
●: 仄声
△: 基本は平声ですが、仄声でも許されます。
▲: 基本は仄声ですが、平声でも許されます。

 
十六文字で何かを言うというのは大変な制約ですが、
何とか詠むことができればほっとします。
 
この Wikipedia のページに載っている毛沢東の十六字令の「山」などは、
雄壮な感じのする作品だなと思いました。
いろんな詠み方がありそうだと思いました。
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抹茶と和菓子
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●原文:
 
 
 神苑茶亭  玄齋  (上平聲十三元韻)
 
丈 夫 孟 夏 集 池 園   一 變 茶 人 多 雅 言
 
閑 詠 盧 仝 寄 朋 句   七 杯 未 喫 覘 仙 源
 
 
 
●書き下し文:
 

 題: 「神苑(しんえん)茶亭(ちゃてい)」
 
丈夫(じょうふ)は孟夏(もうか)に池園(ちえん)に集(つど)い、
 
一(ひと)たび茶人(ちゃじん)に変(へん)ずれば 雅言(がげん)多し。
 
閑(そぞろ)に詠(えい)ず 盧仝(ろどう)の朋(とも)に寄(よ)する句を。
 
七杯(しちはい) 未(いま)だ喫(きっ)せずして
仙源(せんげん)を覘(うかが)わん。
 
 
 
●現代語訳:
 

 題:「神社の境内にある庭園の茶店で、漢詩を一首詠みました」
 
大人の男たちは旧暦四月の初夏の頃に池のある庭園に集まり、
 
いったん茶の湯を趣味をする風流人に変わると、
詩歌に使われるような風流な言葉が飛び出してくるのです。
 
静かにゆったりと、唐の詩人の盧仝(ろどう)が、
友人の孟諫議(もうかんぎ)が高価なお茶を
送ってくれたお礼に作った有名な漢詩の詩句を口ずさんでいると、
 
その詩の内容のように、七杯目をまだ飲む前に、
仙人のいる蓬莱山をうかがい見るような気持ちになっていました。
 
 
 
●語注:
 
 
※神苑(しんえん): 神社の境内にある庭園のことです。
 
※茶亭(ちゃてい): 茶店のことです。
 
※丈夫(じょうふ): 成人した男子のことです。
 
※孟夏(もうか): 陰暦四月の初夏の頃を指していいます。
 
※池園(ちえん): 池と庭園のことです。
 
※茶人(ちゃじん): 茶の湯を趣味とする風流な人のことです。
 
※雅言(がげん): 詩歌などに使う昔の上品な言葉のことです。
 
※閑詠(かんえい、そぞろにえいず): 「閑吟(かんぎん)」と同じで、
  静かにゆったりと詩歌を口ずさむことです。
 
※盧仝(ろどう): 唐の時代の詩人です。
 
※寄朋句(ともによするく): 盧仝(ろどう)の漢詩の、
  「走筆謝孟諫議寄新茶」のことです。お茶を贈ってくれた
  友人の孟諫議(もうかんぎ)に、高価なお茶を送ってくれた
  感謝と恩情の気持ちを詠んだものです。
  この詩は唐の陸羽(りくう)が著した茶の本である
  『茶経(ちゃきょう)』と並び立つほどに有名で、
  常に吟詠の対象として広く親しまれているものです。
 
※七杯(しちはい): 前述の盧仝(ろどう)の漢詩の中に、
  七杯は飲めないほど素晴らしい、そういう表現があります。
  詳しくは解説をご覧下さい。
 
※喫(きつ): 「喫茶(きっさ)」のことで、お茶を飲むことです。
 
※仙源(せんげん): 仙人が住むところです。
 
※覘(うかがう): 「窺(うかが)う」と同じで、かいま見ることです。
 
 
 
●解説:
 

これは今月の漢詩の会の課題の漢詩です。
神社の境内にある庭園の茶店でお茶を飲む風景を詠んでいます。
今回は初夏の頃ですので、涼しい気持ちになる漢詩にしてみました。
 
 
以前私は、この詩の中に引用した盧仝(ろどう)の漢詩の
「走筆謝孟諫議寄新茶」を訳したことがあります。
 
その時のブログ記事のリンクを以下に示します。
 
 ※唐の詩人の盧仝のお茶の漢詩、「走筆謝孟諫議寄新茶」を
   訳してみました。
 
 
 後半の記事
 
 
この漢詩は盧仝の友人の孟諫議(もうかんぎ)に、
高級なお茶を送ってくれた感謝と恩情の気持ちを詠んだものです。
 
この詩は唐の陸羽(りくう)が著した茶の本である
『茶経(ちゃきょう)』と並び立つほどに有名で、
常に吟詠の対象として広く親しまれているものです。
お茶と言えば思い出す、それほどに有名な漢詩だそうです。
 
「七杯(しちはい)」は七杯目を飲むとどうなるか、というところです。
その盧仝(ろどう)の漢詩のその一部分をここにも書いてみます。
 
 
(盧仝の漢詩の原文の一部)
 
一 碗 喉 吻 潤、  兩 碗 破 孤 悶。
三 碗 搜 枯 腸、  唯 有 文 字 五 千 卷。
 
四 碗 發 輕 汗、  平 生 不 平 事、  盡 向 毛 孔 散。
五 碗 肌 骨 清、  六 碗 通 仙 靈。 
 
七 碗 吃 不 得 也、  唯 覺 兩 腋 習 習 清 風 生。
 
蓬 ? 山、  在 何 處。
玉 川 子、  乘 此 清 風 欲 歸 去。
 
 
(盧仝の漢詩の書き下し文の一部)
 
一碗(いちわん) 喉吻(こうふん)潤(うるお)し、
両碗(りょうわん) 孤悶(こもん)を破る。
 
三碗(さんわん)枯腸(こちょう)を捜(さが)し、
唯(ただ)有り文字の五千巻(ごせんかん)。
 
四碗(しわん) 軽汗(けいかん)を発(はっ)し、
平生(へいぜい)の不平(ふへい)の事、
尽(ことごと)く毛孔(もうこう)に向かって散(さん)ず。
 
五碗(ごわん) 肌骨(きこつ) 清く、
六碗(ろくわん) 仙霊(せんれい)に通(つう)ず。 
 
七碗(しちわん) 吃(きっ)するも得ざるなり、
唯(ただ)両腋(りょうわき)の習習(しゅうしゅう)として
清風(せいふう)の生(しょう)ずるを覚(おぼ)ゆ。
 
蓬莱山(ほうらいさん)、何処(いずく)にか在(あ)る。 
 
玉川子(ぎょくせんし)、
此(こ)の清風(せいふう)に乗(じょう)じて帰り去らんと欲(ほっ)す。
 
 
(盧仝の漢詩の現代語訳の一部)
 
一杯目を飲むと喉(のど)と口元を潤して、
二杯目を飲むと、孤独の苦しみからも解放されます。
 
三杯目を飲むと、詩の浮かばない腹の中を探っていって、
ただ五千巻にも及ぶお経があるのを思い出すだけなのです。
 
四杯目を飲むと、軽い汗を流して、
普段、心に思っている不平不満が、すべて毛穴から抜け出ていくのです。
 
五杯目を飲むと、身体の全身が清らかになり、
六杯目を飲む頃には、仙人の世界にも通じてきます。
 
七杯目はもはや飲むことができなくなり、
ただ両脇に清らかな風がそよそよと吹いてくるのを感じます。
 
仙人がいる山の蓬?山(ほうらいさん)は、どこにあるのでしょう。
玉川子(ぎょくせんし)と号する私(盧仝)は、
この清らかな風に乗って、仙人の世界へ帰っていこうと思います。
 
 
(ここまでが盧仝の漢詩の現代語訳の一部です)
 
七杯目を飲む前に仙人の世界へ飛んでいけるようになる、
そういう風に、私も今回は詠んでみました。
 
故事を引用するには、きちんと意味が通るように作るのに、
言葉をそのまま使うというよりは、十分にその内容を理解した上で、
出来る限りわかりやすい形で表現していく詩句の工夫が要ります。
 
これからもこうした工夫をきちんとしながら、漢詩を学んでいきます。

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