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京料理 焼き物(魚の照り焼き)
Photo by (c) Tomo.Yun
こちらが現代語訳になります。
普段、漢文になじみのない方は、先に現代語訳に目を通して下さい。
よろしくお願いいたします。
●現代語訳:
目が目である理由、目の働きは、色を色として識別することにあって、
五色(ごしょく)という基本的な色が他の色を分類するように、
五色の仲間と言えるのです。しかしその識別する働きを失えば、
それは目が見えなくなるのと同じなのです。
耳が耳である理由、耳の働きは、声を声として識別することにあって、
五音(ごおん)という基本的な音が他の音を分類するように、
五音の仲間と言えるのです。しかしその識別する働きを失えば、
それは耳が聞こえなくなるのと同じなのです。
口が口である理由、口の働きは、味を味として識別することにあって、
五味(ごみ)という基本的な味が他の味を分類するように、
五味の仲間と言えるのです。しかしその識別する働きを失えば、
それは口がでたらめでちぐはぐになってしまうのと同じなのです。
目が見えず、耳が聞こえず、口がちぐはぐになるというのは、
本当にそうなるということではなく、
人の心が見たい、食べたいなどの欲望に満たされてしまうと、
目でものを見ても判断を狂わされてきちんと見ていない所ができてしまい、
耳も判断が狂わされてきちんと聴いていない所が出来てしまい、
口も判断が狂わされて本来の味を識別する能力に及ばない所が出来てしまう、
ということです。
馬を駆け回らせたり狩猟をしたり、そんな楽しみに心を奪われ、
珍しいお宝に目を奪われてしまうと、
普通の人は心がそれにすっかりとりつかれてしまって、
狂ったようにそれを追い求めたり、
挙げ句には正しい行いを妨げてしまうようになるのです。
君主の場合は、自分の判断能力を狂わせるだけでなく、
民衆や多くの人々がそれを出世の手がかりとして追い求めるようになり、
そうして普通に生活をしていた人たちが生業を投げ出し、
国中がそれを追い求めて国内が乱れるようになる、ということです。
このことから、優れた徳と知恵を持つ聖人は、
腹、つまりあらゆる物事の重要な部分に注目して、
その重要な部分を大切に扱い、
目、つまり目などから入ってくる様々な欲望に対しては、
出来る限り必要最小限にして、聖人自身や民衆が
それを狂ったように追い求めるようにならないように注意するのです。
彼、物事の重要部分を十分に発揮させるようにし、
此(これ)、それ以外のあまり重要でない部分を
出来る限り離れていくようにしていくのです。
つまり、昔の言葉にある、欲望を少なくする、
あるいは無欲になる、というのは、
とても常人に無理な禁欲を行うことではなく、
自分の目的、よりよく日々を生きることを見失わないように
うまく自分の欲望と付き合いながら、
普通の日々を過ごしていく、ということなのです。
(ここまでが現代語訳です)
明の初代皇帝の朱元璋(しゅげんしょう)による注釈によりますと、
後半部分を「五色(ごしょく)五音(ごおん)五味(ごみ)
田猟(でんりょう)貨財(かざい)、
みな民をしてこれを楽しむことあらしめんと欲して、
君は取らずして君はこれを有(たも)つ」
つまり、様々な欲望に関わる君主の持ち物、猟場や財産等は、
自分が所有しているというのではなくて、
民衆からそれらを預かって民衆を楽しませようという気持ちであれば、
君主の欲望を少し減らして民衆の利益はとても大きくなる、
そんな風に解説しています。
こちらも君主が少し欲望を減らすことによって、
周囲の利益がとても多くなる、ということを示しています。
現代語訳の最後の部分にも書きましたように、
昔の言葉にある、欲望を少なくするというのは、
とても常人に無理な禁欲などではなく、
自分の目的を見失わないようにうまく自分の欲望と付き合っていく、
そんなことを教えてくれる一節です。
私もこうした名文に触れながら、引き続きしっかりと学んでいきます。
今回もとても長い文章を読んでいただいて、深く感謝いたします。(了)
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京料理 蒸し物(茶碗蒸し)
Photo by (c) Tomo.Yun
今回は『老子』第十二章の翻訳と解説です。
こちらは原文と書き下し文と解説の部分です。
現代語訳は次のブログ記事になります。
普段、漢文になじみのない方は、
先に次のページの現代語訳に目を通して下さい。
よろしくお願いいたします。 私は色んな註釈をもとに自分が納得できる形の翻訳と解説をしておりますので、
一般的な邦訳は他の方のものを図書館等でご確認下さい。
私は丹念に注釈に当たりながら、全く違う訳になっております。
では今回の原文と書き下し文から。
●原文:
五色令人目盲、五音令人耳聾、五味令人口爽、馳騁畋猟令人心発狂、
難得之貨令人行妨。是以聖人為腹不為目、故去彼取此。
●書き下し文:
五色(ごしょく)は人の目をして盲(もう)ならしむ、
五音(ごおん)は人の耳をして聾(ろう)ならしむ、
五味(ごみ)は人の口をして爽(たが)わしむ、
馳騁畋猟(ちていでんりょう)は人の心をして発狂(はっきょう)せしむ、
得難(えがた)きの貨(か)は人の行(おこな)いをして妨(さまた)げしむ。
是(こ)れ以(もっ)て聖人(せいじん)は腹(はら)を為(な)して目を為(な)さず、
故(ゆえ)に彼(かれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る。
以下、解説をしていきます。
●解説:
まず、 「五色(ごしょく)は人の目をして盲(もう)ならしむ、
五音(ごおん)は人の耳をして聾(ろう)ならしむ、」、
「盲」と「聾」は今の時代にはあまり適切ではありませんので、
書き下し文以外は「目の見えない人」、「耳の聞こえない人」と表記していきます。
ここで、 「五色(ごしょく)は昔の基本的な五つの色の
「青・赤・白・黒・黄」のことです。
この五つの色が混じり合って全ての色が出来るという考え方です。
「五音(ごおん)」は昔の基本的な音階の
「宮(きゅう)、商(しょう)、角(かく)、徴(ち)、羽(う)」の五つです。
この音階を元に、全ての音が出来ているという考え方です。
「目の見えない人」「耳の聞こえない人」等という、
まるで脅しをかけているような言葉が並んでいます。
この部分の解釈は、唐の時代の政治家の呂吉甫(りょきつほ)によりますと、
「目の目たる所以(ゆえん)の者は、色を色として而(しこう)して
色に非(あら)ず、五色(ごしょく)に属(ぞく)す。
則(すなわ)ち其(そ)の目たる所以(ゆえん)を失(うしな)わば、
盲(もう)に異(こと)なること無(な)し。」
ここを訳しますと、
「目が目である理由、目の働きは、色を色として識別することにあって、
五色(ごしょく)という基本的な色が他の色を分類するように、
五色の仲間と言えるのです。しかしその識別する働きを失えば、
それは目が見えなくなるのと同じなのです」と。
ここで、
「目が見えなくなるのと同じ」という所を、
きちんと考えていかないといけないのです。
ここでさらに、春秋時代の斉の国の宰相であった
管仲(かんちゅう)が著した(とされている)、『管子(かんし)』の中の、
心の道理を述べた心術(しんじゅつ)篇には、
「嗜欲(しよく)充溢(じゅういつ)すれば、
目は色を見ず、耳は声を聞かず」
とあります。
後半部分の注釈には、「目は見ざる所あり、耳は聞かざる所あり」とあります。
つまり、
「人の心が見たい、食べたいなどの欲望に満たされてしまうと、
目でものを見ても判断を狂わされてきちんと見ていない所ができてしまい、
耳も判断が狂わされてきちんと聴いていない所が出来てしまうのです」
ということです。
判断を狂わされてきちんと見ていない所ができる、節穴になる、ということです。
「欲望に満たされるとはどの程度をいうのか」という議論が残りますが、
それはこの後の部分で致します。
(今回の一節の現代語訳は、後半にまとめてあります。)
「五味(ごみ)は人の口をして爽(たが)わしむ、」
「五味(ごみ)」は五種類の味の種類のことで、
「鹹(かん: 塩辛い)・苦(く: にがい)・酸(さん: すっぱい)・
辛(しん: ぴりっとからい)・甘(かん: あまい)」
の五つです。
この五つの味が基本になって、全ての味が存在するという考え方です。
これも欲望に満たされてしまうと判断能力に問題が出て来て、
「爽」、これは「差」、つまり「たがえる、ちぐはぐになる」という意味です。
「馳騁(ちてい)畋猟(でんりょう)は人の心をして発狂(はっきょう)せしむ、
得難(えがた)きの貨(か)は人の行(おこな)いをして妨(さまた)げしむ」
それまでの目・耳・口も、ここを言いたいがための前振りのようなものです。
「馳騁(ちてい)」は「馬を走らせること、乗馬を楽しむこと」です。
「畋猟(でんりょう)」は「田猟(でんりょう)」と書かれる時もあり
(「畋(でん)」も「田(でん)」も「狩り」を意味します)、
「狩猟(しゅりょう)」のことです。
「得難(えがた)きの貨(か)」とは、珍しい宝のことです。
狩猟や珍しいお宝に目を奪われてしまうと、
君主は自分の判断能力を狂わせるだけでなく、
他の人がそれを出世の手がかりとして追い求めるようになる、
そうして普通にいる人たちが生業を投げ出し、
国中がそれを追い求めて国内が乱れるようになる、ということです。
安岡正篤先生の『十八史略』の中の一例として、
枢密院という当時の全ての法案をチェックする
諮問機関の議長をしていた人が相当な難物だったそうで、
そこで時の総理大臣は、その方が骨董好きで、
ある骨董屋のお店である壺を食い入るように見つめていたことを知り、
秘かにその壺を購入してその方が首相の邸を訪ねてきた時に
何の気なしに置いていて、
最期には「お譲りします」と言って送り届けて、
それで重要な案件を通した、という話があります。
要人の嗜好を知れば、こうして人に操作されることもある、
何とも恐ろしい世界です。
さて、普通の世界に生きる私たちは、
こういう欲望とどう向きうのかという問題があります。
もし偏見のある目で、多くのものを「○○は欲望だ」とみなしてしまうと、
世の中が動かないのです。
どんな風に欲望と付き合うべきか、ということのたとえとして、
安岡先生の『王陽明研究』のたとえ話を要約しますと、
ある哲学を研究している人の研究室の机には哲学書と小説があり、
冷蔵庫にはジュースが入っていたとします。
その人は哲学を研究しているのですから、
もちろん哲学書を読まなければならないのですが、
一時の気分転換としてならば小説を読むのもよく、
喉が渇いていたらジュースを飲んでも良い、ということです。
つまり目的を見失わず、目的を妨害しない範囲ならば、
他の欲求を一時的に満たすということも許される、
ということです。
私もありがちなのですが、もし入試のための試験勉強中に
小説にすっかり読みふけって勉強をわすれてしまう、
等というのはいけない、ということです。
経済学に、パレートの法則というものがあり、
その解説のたとえ話の一つに、「八十対二十の法則」というものがあります。
これは仕事の中の二十パーセントの部分が、
全体の八十パーセントの成果を上げているということで、
成果につながっていく二十パーセントの部分を重点的に扱い、
残り八十パーセントを出来る限り合理化・簡略化していく、
ということです。
単に八十パーセントだけをすることは無理だとしても、
この両者の扱いを変えていくことが大切になってくるのです。
きちんと志を持ち、努力向上していくことを忘れずに
実行していけるのならば、時には寄り道も許される、ということです。
では、本文の次の部分に移ります。
「是(こ)れ以(もっ)て聖人(せいじん)は
腹(はら)を為(な)して目を為(な)さず、
故(ゆえ)に彼(かれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る」、
「目」というのは欲望が入り込んでくる入り口の代表として、
耳や口や心などを代表しているわけです。
目から入ってくる情報はとても多く、
欲望に乱されやすいということです。
他の古典でも、五感の欲望を述べる際には目が最初に出てくるのは、
そういう意味なのです。
「腹(はら)を為(な)して目を為(な)さず」とは、
実質的な部分、八十対二十の法則でいうところの
二十パーセントの大切な所を見失わない、ということです。
残りの八十パーセントとは扱いを変えなければならないのです。
「彼(かれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る」も同じです。
欲望に振り回されず、自分の志への向上努力を見失わない範囲で
付き合っていくことが大切だということです。
ここまでをまとめますと、次のような現代語訳になります。
その2に続きます。
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虹の架け橋
Photo by (c)Tomo.Yun
●原文:
寄玄素先生(次韻詩) 玄齋 (上平聲十一眞韻)
病 床 難 得 樂 天 眞 詩 友 溫 情 報 謝 新
何 日 養 生 勤 勉 後 二 玄 同 道 ? 嘉 賓
●書き下し文:
題: 「玄素(げんそ)先生に寄(よ)す(次韻詩(じいんし))」
病牀(びょうしょう) 得(え)ること難(かた)き楽天(らくてん)の真(しん)
詩友(しゆう)の温情(おんじょう) 報謝(ほうしゃ)すること新(あら)たなり
何(いず)れの日(ひ)か養生(ようじょう)勤勉(きんべん)の後(のち)
二玄(にげん)の道(みち)を同(とも)にする嘉賓(かひん)を?(むか)えん
●現代語訳
題: 「玄素先生から頂いた漢詩に、韻の文字を変えずに作った
次韻(じいん)の漢詩でお返事の漢詩を詠みました」
病気で寝ている時には、「楽天知命(らくてんちめい)」、
つまり自分の置かれた状況をきちんと認識しながら
安らいだ気持ちで過ごしていく、
そんな充実した気持ちを持ち続けることは難しいのです。
ですから詩友であるあなたの温かい思いやりには、
あなたの恩に報いる気持ちを新たにしています。
いつの日か私はさらに療養をして健康を保ちながら
学問に勉め励んだ後に、
「玄素」と「玄齋」、同じ「玄」の字を持ち
同じ道を行くあなたをよい客人として迎えたいのです。
●語注:
※寄(よ)す: 手紙を送ることです。今回はこの漢詩を送ることを指します。
※病牀(びょうしょう): 「病床」と同じです。病気で寝ている寝床のことです。
※楽天(らくてん): 「楽天知命(らくてんちめい)」のことです。
これは、『易経』の中の易の哲学を論じた「繋辞伝(けいじでん)」
にあることばで、自分の置かれた環境や状況をしっかりと認識して、
その中で安らいだ気持ちで過ごしていくということです。
※真(しん): 心が充実していることです。
※詩友(しゆう): 漢詩の同好の士のことです。
ここでは玄素さんを指します。
※温情(おんじょう): 温かい思いやりの気持ちのことです。
※報謝(ほうしゃ): 恩に報いることです。
※養生(ようじょう): 健康に気をつけて療養することです。
※勤勉(きんべん): 学問に努め励むことです。
※二玄(にげん): 「玄素」と「玄齋」、どちらも「玄」があることで
漢詩の友人が付けてくれた名前です。
※同道(どうどう、みちをともにする): 同じ道を行くことです。
※嘉賓(かひん): よいお客さんのことです。
※?(むか)える: 「迎える」とおなじです。
「しんにょう+『牙』」の字ですが、表示できない文字です。
●解説:
入院中に心のこもった漢詩を送って下さった韓国の Facebook と Twitter の
共通の友人の Gibum Lee さん
(検索してみますと、 Facebook のページには同じ名前の人が
何人もいるようです。 Twitter でもご本人のものかどうかは確認できませんでした。
男性です)
へのお返事として作った漢詩です。
(現在検索してもその方のページが確認できませんでした)
これは「次韻(じいん)」と言いまして、
相手が韻を踏むために使った文字、
今回ですと「真」と「新」と「賓」をそのまま使って
お返事の漢詩を詠んだものです。
入院中のほとんどは療養と勉強をしておりましたが、
その期間の内の何日かは苦しい時期もありました。
そんな時期にお見舞いに来て下さったり、
あるいは温情のある漢詩やメッセージを下さる方もいて、
とても助かりました。玄素さんも含めて、お礼を申し上げます。
今も自宅療養が続いていて、療養しながら勉強の日々です。
この状況がずっと続いていくかもしれないわけですが。
こうしてお返事の漢詩を心を込めて作ることも、
入院中の恩返しのほんの一部にもなればと、そんな風に思っています。
改めて感謝申し上げます。私も更に療養して元気になりながら、
自分の学問をしっかりと続けていきます。
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湯島神社
Photo by (c) Tomo.Yun
URL : http://www.yunphoto.net 先日は陽明学の概念の「心即理」の日常生活に密着した形での解説をしました。
この言葉を Wikipedia で検索すると、
全く違う説明をしているように見えるのですが、
先日の記事はその問題点を分かりやすく述べたものです。
今回はその「小難しい篇」をお届けいたします。
「心即理」は、朱子学の概念である「性即理」に対抗する概念で、
これは易経を元にした説明が必要になってきます。
これは大晦日の入院中に『荘子』の天籟(てんらい)の意味を
調べていた時に学んだ内容です。
大晦日のテレビは井岡選手の KO 勝ち以外は覚えていません。
では、説明に入ります。
心即理に性即理、これは理気一元論、理気二元論という概念から
説明できるものです。まずはこちらからの説明になります。
この部分は元々、『易経』の易の哲学を論じた
「繋辞伝(けいじでん)」からの議論です。そこから説明します。
その繋辞伝の考え方では、まず万物が生まれる前に太極(たいきょく)という
一つの存在があり、それが陰と陽の二つに分かれ、
そこから春夏秋冬の四時に分かれ、更に分かれて八卦、
その八卦を組み合わせて六十四卦、
この六十四卦で世の中のあらゆる出来事を説明できる、
というのが易の哲学の基本です。
それに三国時代の魏の学者の王弼(おうひつ)が、老荘の考えを引用して、
その太極が生み出される前の段階として「無」というものを考え、
その無をご先祖にして万物が生まれる、その働きを「道」と呼んで、
それで易経を解説していきました。
その王弼の注を唐の学者の孔穎達(くようだつ)が
疏(そ)という解説を加えた『周易正義(しゅうえきせいぎ)』が、
唐の時代の科挙のための易経の教科書として使われていました。
唐の時代は皇帝の姓が老子と同じ「李」で、
老子は皇帝のご先祖ということになっていて、
何も問題がなかったのですが、
王朝が変わると儒学の経典の上に老子が乗っかるということが
問題になってきました。
北宋の時代の学者は「無極にして太極」という概念での
反論をしていきました。
この内容は、朱子の易の考え方をまとめた書の、
『朱文公易説(しゅぶんこうえきせつ)』の中に収録されています。
その中では、論敵の陸象山(りくしょうざん)の批判に対する
長文の反論として載っております。
陸象山は「無極(むきょく)」という言葉が『老子』の中にあることから、
儒学の経典の易経に老子の概念があるのはとんでもないことだ、
という批判をしたわけです。
それに対する朱子の返答が「無極にして太極」の説明となっています。
万物のご先祖は太極であり、その上のご先祖として「無」、
つまり「道」等というものを考える必要がない、
それを単に「無極」、「それ以上に極まることが無い」と
述べているに過ぎないのだということです。
太極の元々の本体は「気」であり、
それと渾然一体、つまり混じり合って一つとなって、
「気」をまとめ上げる法則・道理を「理」としました。
これが理気二元論です。
本来、気と理とは渾然一体に混じり合って一つになっているわけです。
これを「本然の性(ほんねんのせい)」と言います。
しかし人間の欲に満たされると、この二つが混じり合わずに
お互いが離れたような状態になっててしまうのです。
これを 「気質の性(きしつのせい)」と言います。
今の時代の人は欲望に満たされて気質の性となっているものを、
修練や学習によって引き締め、もともとのよい性質である
本然の性を取り戻さねばならない、
これが朱子学で言う「性即理(せいそくり)」なのです。
これは時代が下ってくるととても問題となる考え方に堕落していきました。
相当な自惚れ屋でなければ、自分の今の状態を気質の性であると思うわけです。
そこから本然の性に立ち返るためにしっかり学んでいこうとなるわけです。
これ自体には何も問題がないのですが、
問題は「学ぶ内容」なのです。
本然の性を取り戻すために、相当に無理な修練を積ませて
常人にはとても真似のできないものになっていたり、
あるいは実際と離れて経書の言葉を単なる理想の姿として学んだり、
その果てには単に経書の文章を丸暗記して科挙に合格すれば、
それだけで立派な人物、道学先生と呼ばれるようになる、
というどうしようもない事態に発展していったわけです。
陽明学の学者の一人、李贅(りし)は科挙の地方試験である
郷試(きょうし)を受験した際に、
自分の意見をしっかりと書いた答案は不合格になり、
次に受験する頃にはその問題として問われている経書の一節を
丸写しして提出すると合格しました。そんなひどい状況だったのです。
勉強をしていくこと自体は正しいとしても、
その勉強をする動機、志を自分の中に求めることが出来なければ、
その学ぶ内容が次第に現実から離れて、最終的には単なる高尚な文学、
果てには単なる丸暗記学問となってしまうのです。これを是正するために、
心即理、つまり今の自分自身の直面している問題を解決しよう、
よりよく生きよう、そんな動機はすでに人々の心の中にあり、
その問題の解決のために経書を初め色んなことを
実地に即して学び工夫していく、
そうして雲に覆われた月のように欲望に曇らされた心を清め、
その雲が去っていくように、
人が元々持っている良い性質がよりはっきりと表れてくるようになる、
ということです。
元々朱子学としても気を離れて理という実体があるわけではないのですが、
次第に別の実体のように扱われ、
その結果、自分には元々無いものを外部から取り入れなければならないとすれば、
それは性悪説とそう変わらないのです。
性善説とは、自分が善人になっていくための大切なもの、
志は元々それぞれの人が持っているものだという考え方です。
誰もが元々善人、という意味ではないのです。同様に、
仏教の「一切衆生悉皆成仏(いっさいしゅじょうしっかいじょうぶつ)」
という言葉も、
あらゆる命あるものはそのまま仏さんであるという事ではなくて、
道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』によりますと、
生命あるものはそれぞれ菩提心(ぼだいしん)、つまり
悟りを得たい、仏さんになりたいという意思を持ち、
それを養い育てていくことで悟りを得ることが出来るという意味だとあります。
このような意思、志こそ大切なのだと言うことです。
だから気と理を離して考える必要はなく、
心の中の理、今は動機としてしか持っていないものを、
昔の言葉を今の具体的な問題に照らし合わせて考えていくように学び工夫し、
実際に問題に対処していくことで、
まさしくその理が正しく現れ出ていくようになる、
これが理気一元論であり、
その養い育てていく過程を説明しているのが心即理だということです。
元々の志は全ての人が等しく持っている、
そこから人間の欲を取り除き問題に対処するために問題に即して学び工夫していく、
その最初の部分を指して、「満街(まんがい)の人すべて聖人」
つまり街中の人はすべて聖人だと述べているのです。
易経の哲学を元にするとこんなくだくだしい内容ですが、
前回のツイートだけでは私がしっかりと理解できているかどうかは
分かりづらいですので、あえて今回こうして書きました。
これからもしっかりと学んでいきます。(了)
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Parazzo Reale (パラッツォ・レアーレ(ナポリの王宮))
Photo by : Amano Kazaoto
今回は陽明学の概念である「心即理」について解説していきます。
これまたとても誤解の多い概念です。
私がこの概念をきちんと理解できたのは、
安岡正篤先生の『王陽明研究』を読んでからです。
この中に載っていたたとえ話によって、きちんと理解出来ました。
これは受験勉強を一度した方ならよくわかるたとえですので、
図書館等で読んでいただければと思います。
私は受験勉強をしたことがない方にも理解できる、
より実生活に密着したたとえを話すことにします。
まずは一般的な説明から。
「心即理」、これは一見しますと、心がすなわち理である、
まるで心の中には道理がそのまま備わっているので、
余計なことを学ぶ必要はない、そんな風に思いがちですが、
それは間違いです。まずは少し具体的に説明しますと、
日常の中でどうしてもそうしなければならない、
そうすべきだと思っていろんな事を学び工夫しながら、
それによって自分の心が道理に近づいていく、ということです。
例えば両親の冬の寒さに対処する場合には、
天気予報などを見て雪国の郷里を思い出し、
今年は寒さがきつく積雪も多いことに思いを致し、
きちんと寒さに備えるものを携えて、
雪下ろしがキチンとされているかどうかを見に行くというように、
両親の寒さに対処したいという自分の動機に従って、
いろんな情報を手に入れたり勉強したりする中で、
さあこれで両親も安心して過ごせるだろう、
そんな手だてを講じていく、ということです。
さて、更にもっと生活に密着したとえを
ある一般的な家族のたとえ話として話していきますと、
案外エアコンのない家庭も多く、そんな家では子どもから、
「何でうちにはエアコンがないの?」とか文句を言われるわけです。
しかし親の立場からすればエアコンの購入はかなりの出費であり、
相当に家計を切り詰める必要があります。
でも今年の夏はとても暑いと、気象予報などを見て分かるとすると、
そんな暑い中で家族全員が過ごすのもたまらないと、
ついに親も一念発起するわけです。
家電量販店のチラシやポイントカードを使って
出来る限り安く買えるように工夫したり、
実際に家計を切り詰めるための工夫や、
時には勉強をしたりするわけです。
今までつけなかった家計簿をつけるようになったりして、
そんな状況を子どもも助けてくれるわけです。
何せエアコンは是が非でも我が家に欲しいわけです。
そうして家計を切り詰め、工夫を凝らした結果、
ついに我が家にエアコンがやってきて、
「やっぱりエアコンは良いなあ」と家族で涼むわけです。
その結果家計のやりくりを工夫する方法などを会得することが出来て、
より家族が過ごしやすい態勢を整えやすくなる、ということです。
この一連の過程によって行き着いた結果が、「心即理」なのです。
儒学の経書も、このような生活の必要性、
是非ともそうしなければという気持ちを持って、
その経書の言葉の一つ一つを自分の具体的な場面に照らして考え、
そうして自分の中にきちんとした知恵が息づくようになる、
こうなることこそ「心即理」だということです。
もちろん先ほどのたとえ話のように経書に限った話ではなく、
あらゆる学問や詩歌、さらにあらゆる生活の場面についても言えるのです。
一体自分は何のためにこの勉強をしているのか、
何のためにもならなかったとしても、
少なくともしっかりと自分の楽しみになっているのか、
その自分にとっての動機をきちんと把握した上で、
いろんな事を学び、行動していく、
努力精進していくことが必要になる、ということなのです。
私の学問も私にとってはとても楽しく、
その上で誰かにとっての役に立てばいいなと、
そんな風に思っています。これからもしっかりと学んでいきます。(了)
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