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世に経れば憂さこそまされみ吉野の岩のかけ道踏みならしてむ 読み人知らず 古今集雑下 951
解説
源氏と藤壺の塗籠事件の後の、藤壺の心境を表した場面です。
「何の面目があって、(藤壺に)もう一度逢うことができようか。今はあの方(藤壺)が、
私を気の毒だと身にしみて理解なさるのを待つだけだ」
と源氏は思って、その後、藤壺に手紙を出すこともありませんでした。
それ以来、内裏や東宮に姿を見せることも全くしなくなり、自宅にこもりっきりになり、寝起きをしながら、
「あのお方(藤壺)のお心は、何とも冷淡なものだ」
と源氏はみっともない様子で、恋しく悲しく思い、心や魂がなくなったかのようになり、
病気のように苦しい気分になっていました。源氏は何となく心細い気持ちになって、
「どうしてこの世に生きていると、辛さだけが増してくるのだろうか」
(注)この科白、「なぞや世に経れば憂さこそまされ」は、以下のうたの引用です。
世に経れば憂さこそまされみ吉野の岩のかけ道踏みならしてむ 読み人知らず 古今集雑下 951
訳: この世に生きていると、辛さだけが増してくるので、吉野の岩の険しい山道も、
踏んで平らになってしまうのだろう。
と思って、出家を思い立っても、この女君(紫上)が、とてもかわいらしい姿で、
愛しい気持ちで源氏を頼みにしていることを思うと、出家して見捨てることは、
難しいとも思っていました。
宮(藤壺: 以下、「藤壺」で統一します)も、前回の事件の影響で、普段の落ち着いた
気持ちには戻っておりませんでした。このように、源氏がわざとらしく引きこもっていて、
こちらを訪問しなくなったことを、王命婦などは、藤壺を気の毒に思っていました。
藤壺も、東宮のためを思って、
「源氏の君がこちらを気にかけてくれないならば、東宮が気の毒です。源氏の君が
世の中をはかないものと思うようになれば、(源氏は)すっかり出家を思い立つ
ようになるかもしれない」
と、藤壺は、やはり苦しく思っていたことでしょう。
「かといって、このようなことが今後も続いたとすれば、近頃の、ただでさえうわさ話のひどい
世間で、源氏との秘密が外部に漏れ出てしまったとすれば、どうなることでしょう。
大后(皇太后)が、私にはふさわしくないとおっしゃっているこの中宮の位を、退いてしまいましょう」
などと、藤壺は様々なことを考えていました。
さらに桐壺院が生前ご心配をして、並々ならぬご配慮をしていたことを思いだした時も、
「そのような万事のご配慮は、全く行われた様子もなく、権勢とともに移りゆく世の中であるようです。
かつての戚夫人のような憂き目に遭うことはないとしても、私はきっと世の中の笑いものになって
しまうことでしょう」
注: 戚夫人(せきふじん)は漢の高祖劉邦の后の一人で、呂后によって非常に残虐な方法で
殺されました。
などと、藤壺は世の中を厭わしく、暮らしにくく思って、出家してしまおうということを
決心しましたが、東宮に会う前に、姿を尼に変えてしまうことは、とても悲しい事だと
思ったので、世間にわからないように、こっそりと東宮の元を訪れました。
このような折には、大将の君(源氏)は、特別のことがない普段の時でさえも、
藤壺にお仕えするのが常ですが、今回は病気であることを口実に、藤壺の参内のお見送りにも
姿を見せませんでした。藤壺へのほとんどの人のお見舞いの様子は、いつもと同じものでしたが、
「(源氏の君は)あまりにひどく気が滅入っているのでしょう」
と内情を知る女房たち(特に、王命婦と弁)は、源氏を気の毒に思っていました。
東宮は、この少しの間に、立派に、大人びたように成長していました。
「久しぶりで、嬉しい」
と、東宮は思って、母の藤壺に親しみなつく姿を、藤壺は
「かわいそうで、悲しい」
と思って、東宮を眺めていると、出家を決心することは、とても難しいと思いました。
一方で、御所の様子を見るだけでも、権勢の移り変わりによって、世の中の様子を、
無情ではかないものと感じ取ることができました。皇太后の今までの復讐に燃える
心の内も、面倒なものに感じられて、内裏に遠慮がちに入るのもきまりが悪く、
折に触れて中宮の位にいることが苦しく思われて、今の地位にいることがかえって
東宮を危うくしてしまうと、万事につけて思い悩んで、
「長い間お会いしないうちに、私の顔つきが今までと変わってしまい、見苦しいほどに
なってしまったならば、あなたはどう思われますか」
と、藤壺が東宮に話しかけると、東宮は藤壺の顔をじっと見つめて、
「式部(しきぶ: 老いた女房)のようにでしょうか。どうして、そのようになりましょうか」
と、東宮は笑いながら言いました。藤壺は、自分の話(と世の中の状況)が理解できない息子を、
かわいそうに思って、
「式部は老いているから醜いのですよ。そうではなくて、髪は式部よりも短くなり、
黒い衣を着て、宿直に詰めている僧侶のように、私がなってしまうとすれば、
次にあなたにお会いすることも、ずっと後のことになるのですよ」
と言って、藤壺が泣き出すと、東宮はまじめな顔になって、
「長い間御所に来られないのは、寂しいです。いつまでもお会いしたいです」
と言って、涙がこぼれそうになるのを、
「恥ずかしい」
と思って、藤壺から顔を背けました。東宮の御髪はゆらゆらとして美しく、目元が懐かしそうに
輝いているご様子は、大人びて成長するに従って、ますます源氏の顔を写し取ったように
感じられてきました。御歯が少し朽ちて、黒ずんで見える口に笑みを浮かべる美しいお姿は、
女性の顔かと思われるほどに、すぐれて美しいものでした。
「(東宮が)これほどまでに源氏を思い浮かべるほどに似ていることは、私にはつらく思われます」
と藤壺が思うのは、(源氏との過ちによる)世の中の面倒な噂を、恐ろしく思っているからなのでしょう。
桐壺院も藤壺も、東宮はまだ状況を理解できるほどに成長していない中で、
東宮と別れてしまうことを、大変に心配していたということがよくわかる話ですね。
藤壺のそんな我が子が愛しい、悲しいという気持ちに、しみじみとしてきます。
次回は、その頃の源氏の寺にこもっている場面です。お寺から恋文をしたためる源氏の姿があります。
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