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筑波嶺のこのもかのもに蔭はあれど君がみかげにますかげはなし (古今集 東歌 1095)
見る人もなくて散りぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり 紀貫之(古今集 秋下 297)
解説
源氏が雲林院の寺ごもりから帰ってきた時の場面です。
源氏は天台宗の六十巻に及ぶ教典を読んで、僧たちに解釈の疑わしい部分を答えさせる
というようなことをして、雲林院に滞在していると、
「法師たちの勤行によって、この山寺に、すばらしい光(源氏)が出てこられました」
「御仏の面目が立ちました」
と、身分の低い法師たちまでもが喜び合っていました。源氏はしんみりとして、
世の中のことを考えていたので、京に戻ってしまうことも、きっと辛いことだと
思っていましたが、一人のひと(紫上)のことが気にかかっていて、雲林院に
長く滞在することもできなかったので、最後にこの寺での誦経を、盛大に行わせました。
源氏はその寺にいたすべての、あらゆる身分の僧たちや、その辺りに住む
山賤(やまがつ: 山に住む木こりや漁師などの身分の低い人)たちにまで、
物品を下賜し、そのほか尊いあらゆることを行って、雲林院を後にしました。
源氏を見送ろうとして、こちらにもあちらにも(このもかのもに)、柴を刈るような
身分の低い人(しはぶるい人)たちが、集まってきて、涙を流しながら、源氏を眺めていました。
諒闇(りょうあん: 皇室の服喪。桐壺院の喪に服している時です)中の黒い車に乗って、
藤の喪服を着てやつれている源氏の外見は、いつもより立派に見えることはありませんが、
遠くかすかに見える源氏の姿を、人々はこの世にまたとないものに違いないと、思ったことでしょう。
(注)「このもかのもに」は、以下の短歌の引用です(一首目)。
筑波嶺のこのもかのもに蔭はあれど君がみかげにますかげはなし (古今集 東歌 1095)
訳: 筑波山のこちらにもあちらにも、木陰ができているけれども、あなたの作った蔭に
まさる蔭はありません(私はあなたのおかげを被って生きているのです)。
集まってきた人たちの、源氏への感謝の気持ちを暗示しているのでしょう。
(注)「しはぶるひ人」は、柴を刈ったり木の葉などを集める、身分の低い人を意味します。
あるいは、しわの寄った老人のことを指すとも言われています。
源氏は女君(紫上)を見て、ここ何日かの間に、更に成長して美しくなったと思いました。
紫上がとても落ち着いて、
「世の中(男女の仲: 紫上と源氏との仲)は、どうなっていくのでしょう。」
と思っている様子を、源氏はかわいそうにも、愛しくも思い、それと釣り合わない
源氏自身の心が、(藤壺や斎院など、)いろいろと思い乱れていることを、
紫上ははっきりと感じ取ったのでしょうか、紫上の「色かはる」という短歌のような姿も、
源氏はかわいらしく思って、平生より特に、親しく語り合っていました。
(注)「色かはる」は以前の紫上の返歌です。
「源氏物語・賢木(さかき)・その玖」の三首目です。
http://blogs.yahoo.co.jp/syou_gensai/20836292.html
山からの土産物に、折り取ってきた紅葉は、二条の院の自邸のものに比べると、
格段に赤く染まっている様子を、源氏はそのままにしておくのは惜しいと思い、
さらに(藤壺に)恋しく会いたいという気持ちを、みっともないほどに思い起こしたので、
紅葉を単にごく普通に、中宮(藤壺)に届けさせました。そこで王命婦へ手紙を出しました。
「宮様(藤壺)が(東宮の元へ)参内しましたのも、
『珍しいこと』
と私は存じております。私もお二方(藤壺と東宮)に会うことは久しくございませんでしたので、
私は心配な日々を過ごしておりましたが、私がかつて、
『仏道の修行に励もう』
と思い立った日数が、
『(修行を中途で打ち切ってしまっては)不本意なことになるだろう』
と思いましたので、数日間を雲林院で過ごすことにいたしました。
そこで紅葉を一人で眺めていましたら、
『錦暗う(せっかくの美しいものが、もったいない)』
と思いましたので、紅葉の枝をお送りします。良い折に、宮様(藤壺)にもお見せ下さい」
(注)「錦暗う」は、注釈では次の短歌で解説をしています(二首目)。
見る人もなくて散りぬる奥山の紅葉は夜の錦なりけり 紀貫之(古今集 秋下 297)
訳: 見る人もなく散ってしまった奥深い山の紅葉は、まさしく「夜の錦」だったなあ。
ここで、「夜の錦」とは、「史記」の項羽本記の以下の一節の引用です。
「富貴不帰故郷、如衣繍夜行、誰知之者(富貴にして故郷に帰らざるは、繍を衣て
夜行くが如し、誰かこれを知るものぞ)」
訳: 「いくら出世しても、故郷に帰らなければ、錦の着物を着て夜に出歩くように、
祖国の者の誰が知ってくれるだろう」
「錦の着物を着て夜に出歩く」、つまり、せっかくのものが役に立たないことのたとえです。
という内容のものでした。本当に見事な紅葉の枝でしたので、藤壺も喜んで眺めていましたが、
その枝には、いつものように、ほんの小さなもの(源氏の手紙)が付いていました。
女房たちがそれに気づくと、藤壺は、顔色も青ざめてしまい、
「相変わらず、源氏のこのような心がなくならないのは、なんと嫌なことでしょう。
人(女房たち)も、『おかしなことだ』と思っていることでしょう」
と、藤壺は嫌な気持ちになって、女房たちに命じて、紅葉の枝を瓶に挿して、
廂の間の柱の周辺に出してしまいました。
ここまでが本文です。
源氏は普段の人々へ示すような配慮も消えて、紅葉の枝の風流も台無しにしてしまう
いつもの習慣が出てしまいました。藤壺に対しては余裕のない態度が出てしまうのは
興味深いところですね。
次回は、源氏は参内して朱雀帝の元へ向かいます。
右大臣の一族の驕り高ぶる様子が見られます。
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