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夜や暗き道やまどへる郭公わが宿をしも過ぎがてに鳴く 紀友則(『古今和歌集』 夏 154)
をち返りぞ忍ばれぬ郭公ほの語らひし宿の垣根に 源氏
郭公語らふ声はそれながらあなおぼつかな五月雨の空 女主人(源氏の昔の恋人)
花散りし庭の木の葉も茂りあひて植ゑし垣根も見こそわかれね 出典未詳
解説
昔の恋人(花散里)の元を訪れるときに、別の恋人の家を通り過ぎるときの話です。
ここからが本文です。
人知れず、源氏の自分自身が求めたことからくる物思いは、いつもと同じ様子でしたが、
このように(桐壺院崩御後の権勢の移り変わりによって)、世間一般のことに対してさえ、
面倒に思い悩むことばかりが増えてきたので、何となく心細く、世間のことをすべてが
嫌になって(出家してしまおうかなどと)いろいろと考えたものの、
そうはいかない事情も多かったのでした。
桐壺院の后の一人である、麗景殿(れいげいでん)の女御と言われた方は、
皇子・皇女もおらず、院が御隠れになった後は、ますます孤独でお気の毒な状況に
なってしまいましたが、わずかにこの大将(源氏)の心遣いによって、
ひっそりと日々を過ごしていたものと思われます。
源氏とこの女御の妹の三の君(花散里)とは、昔に宮中で少し恋仲になったことの心残りがあって、
例の性格から、やはり昔を忘れることができずに、かといって格別に夫人として待遇することもなく、
女君(花散里)の気持ちだけをすっかり悩ませているに違いないと思われます。
(注)上記二箇所の「〜と思われる」という表現は、語り手(紫式部)が
推量していることを示しています。
この頃すっかりあらゆることに思い悩んでいる源氏は、そうした世間の切ない出来事の
一つとして、この女君のことを思い出したときには、愛しさを我慢することができなくなって、
五月雨の空が珍しく晴れて、雲の切れ間が見える頃に、女君の元へ行きました。
源氏は大層な装いもせずに、質素な服装で、前駆けの従者も付けずに、人目を避けるように行きました。
中川の辺りを通り過ぎるときに、こぢんまりとした家の、木立にも風情を感じるところから、
良い音のする琴を、和琴(わごん)の調べに合わせて賑やかに弾いているのが聞こえてきました。
(注)和琴(わごん): わが国固有の六弦の琴のことです。雅楽や東遊(あずまあそび)に
用います。大和琴(やまとごと)や東琴(あずまごと)とも呼ばれます。
源氏はその音色に心惹かれていました。その家は門に近いところにあったので、
車から少し外に出て、門の中を見てみると、大きな桂の木の香りが風に乗ってやって来て、
葵祭の頃を思い出して、何となく興味が引かれているうちに、
「ただ一度泊まったことのある家だ」
ということを思い出して、源氏はこの家のことが気にかかりました。
「(以前訪れた頃から)大分時が経っている。ここに住んでいた女性は覚えてくれているだろうか」
と思って、源氏は訪問することに気が引けていましたが、この家を通り過ぎることもできずに
しばらく留まっていました。
ちょうどそのとき、ほととぎすが鳴いて通り過ぎました。
(注)上記の原文「すぎがてにやすらひ給ふ。折しもほととぎす」は、
以下の短歌の引用です(一首目)。
夜や暗き道やまどへる郭公わが宿をしも過ぎがてに鳴く 紀友則(『古今和歌集』 夏 154)
訳: 夜の暗い道なので、郭公(ほととぎす)は迷ったのでしょうか。
ちょうど私の宿を通り過ぎることができずに鳴いているようです。
郭公の本来の言葉は「かっこう」ですが、短歌の中では「ほととぎす」として使われています。
訪問を催促しているように聞こえたので、車を引き戻させて、いつものように、
惟光に言伝をして使いに出しました(二首目)。
をち返りぞ忍ばれぬ郭公ほの語らひし宿の垣根に 源氏
訳: 昔を思い出して、堪えられない気持ちになっています。郭公(ほととぎす)が
宿の垣根で鳴く声に、私を(逢いに行けと)説得する声のように思いましたので。
この家の寝殿(しんでん: 主人の居間、あるいは客間)と思われる建物の、
西の端の部屋に女房たちがいるのが見えました。惟光は以前にも聴いたことのある
声だと思いました。改まった声を出して相手の様子を見ながら、源氏からの言伝を述べました。
奥で若い女性たちの声がしておりました。どうやら誰の御伝言なのかわからないのだろうと、
惟光は思いました。この家の女主人からの返答は次のようなものでした(三首目)。
郭公語らふ声はそれながらあなおぼつかな五月雨の空 女主人
訳: 郭公(ほととぎす)の鳴く声はよくわかりますが、あなたのことはこの五月雨の空のように、
なんともよくわかりません。(何のご用ですか?)
この返歌に惟光は、
「わざわざわからない風を装っているな」
と思ったので、
「仕方がありませんね。『植ゑし垣根も』ですね」
(注)上記の『植ゑし垣根も』は、以下の短歌の引用です(四首目)。
花散りし庭の木の葉も茂りあひて植ゑし垣根も見こそわかれね 出典未詳
訳: 花が散って庭の木の葉も多く茂ってきて、もうすでに植えた垣根も
見分けが付かなくなっています。
「垣根を見分けることができずに、家を間違えたのだろうか」という意味ですね。
と言って、惟光が門から出て行くのを、女主人は人知れず、悔しくも、寂しくも思いました。
「そんな風にして、隠さなければならない事情があるのだろう。長年忘れ去られた
女性の態度としても道理に適っているので、そううまくはいかないのだろう」
と源氏は思いました。
「このような身分の女性としては、筑紫の五節(ごせち)が、かわいらしいものだな」
と、源氏は昔を思い出しておりました。
(注)五節(ごせち): 「五節の舞姫(ごせちのまいひめ)」のことです。
「新嘗祭(にいなめまつり)」と「大嘗祭(だいじょうさい)」の前後に行われる
舞楽で踊る五人の舞姫のことです。
どのような身分の女性に対しても、源氏は心を引かれて、辛さを感じておりました。
長い年月が経っても、相変わらず源氏が同じように情愛をかけて、忘れることがないことが、
かえって多くの女性の物思いの種になっているのでございます。
ここまでが本文です。
いつまでも昔の恋人のことを思い出して、それが相手の女性の物思いの種になるというのは、
源氏ならではの話だと思いました。相手の女性も、新しい男性がいるなどの事情がなければ、
また源氏と逢っていたかもしれないですね。普通の男性なら、こうはいかないと思います。
次回は、源氏が麗景殿(れいげいでん)の女御とその妹の三の君(花散里)に会う場面です。
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