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美瑛のラベンダー畑(北海道上川郡美瑛町)
Photo by (c) Tomo.Yun
http://www.yunphoto.net 『淮南子(えなんじ)』の原道訓(げんどうくん)の続きです。
今回で三回目になります。
こちらは解説の記事です。コメント欄はこの記事に設けてあります。
原文・書き下し文・語注の記事と現代語訳の記事は以下にあります。
ブログ記事: (三)『淮南子』・巻一・原道訓・其の三
(原文と書き下し文と語注です)
ブログ記事: (三)『淮南子』・巻一・原道訓・其の三(現代語訳です)
●解説
この一節では、道を体得して、自由自在の境地に立って
あらゆることを把握できるようになる、
その時の様子を仙人の世界をたとえ話にしながら述べています。
老荘の書物では、「無不為(なさざるなし)」のような二重否定の言葉が
よく出て来ます。この言葉の意味は否定の否定だから肯定だというのは
正確ではありません。否定していることを完全に否定している、
つまり、「積極的な肯定」を意味しているのです。
「無不為(なさざるなし)」の意味は、
「行為を行わないということが完全にない」、もっとわかりやすくいえば
「あらゆることを完全に行うことができる」という意味になるのです。
老荘の考え方、特に老子の考え方は、否定の文章を用いた
積極的な肯定を説いているものが多いのです。
この部分がわからないと、
「ただ自然の道理に従う」という言葉によって 無駄に世の中への消極性を養うだけで、
かえって学ばない方が良かったということになりかねません。
「無為(むい)」という言葉は無駄なことをしないということばかり
強調されますが、何より大切なのは、
「本当に大切なことはとことんまでやり尽くす」ということです。
本当に大切なことは全力でやらなければならない、
それが本当の「無為」なのです。
この『淮南子(えなんじ)』の一節の中で特に好きなのは、
以下の一節です。
雨師(うし)をして道を灑(そそ)がしめて、
風伯(ふうはく)をして塵(ちり)を掃(はら)わしむ;
(中略)
四時(しじ) 馬と為し、則ち使わざる無きなり;
陰陽(いんよう) 禦(ぎょ)と為し、則ち備わらざる無きなり。
(訳)
雨の神には汚れた道をすすいで掃除してもらい、
風の神には道に落ちた塵を払ってもらうと考えるのです。
(中略)
春夏秋冬などの時節の移り変わりを馬と考えれば、
あらゆるものを使うことができるのです。
天と地の間に存在する陰と陽の気を御者(ぎょしゃ)と考えると、
あらゆる事に備えることができます。
老子や荘子にもこのような言葉がよく出て来ますが、
学びたての頃は「武士は食わねど高楊枝」のような、
何もかもをプラスに考えるポジティブシンキングという名の
やせ我慢の類かなと思っていましたが、
今はそうではないと考えています。
むしろより積極的な意味で、あらゆることを自分の目的のために
活用する、動員するということだと思います。
宮本武蔵が決闘の場に太陽を背にして向かっていって、
相手の目がくらんだすきに斬りかかるようなもので、
万物を自分の目的のために利用することだと思っています。
さらに後ろの方の一節には、次のように書かれています。
万物の変は、究(きわ)むべからざるなり、
其の要帰(ようき)の趣を秉(と)る。
(訳)
万物の変化というのは、その変化の突き詰めた所を
理解することはできないのです。
その自然の道理の要点となる部分の向かう所、
つまり万物が自然の道理に立ち返る部分(目的)
をしっかりと把握すればよいのです。
ほとんど意訳です。本来の正しい訳は明治書院の
新釈漢文体系の『淮南子(上・中・下)』を参照して下さい。
ものすごく高いので、図書館で借りてくることをおすすめします。
物事の本質を突き詰めることはできないというのは、
原子核の中にさらに細かい素粒子があって・・・という
果てしない話もありますし、
儒学でもそうですが、「儒学の本質とは何ですか」という
質問をすることに意味はないのです。
昔の偉大な人のいろんな言葉をつねに現在の自分の
具体的な物事に照らして考えていく、
その過程の中で理解していくしかないのです。
一言で口にするものではなくて、むしろ自分の体験を通して、
「これだ」と実感することが大切なのです。
「其の要帰(ようき)の趣(おもむき)を秉(と)る」とは、
状況を把握する場合、本質を突き詰めるよりも、その重要なポイントの
「趣(おもむき)」を把握することが大切だということです。
「おもむき」を動詞にすると「おもむく」なのです。物事がおもむく先、
物事が向かう先、これを老荘の言葉でいうと「万物が道に復帰するところ」
ですが、簡単に「目的」と考えれば分かりやすいのではと思います。
対象の「本質」ではなく「目的」に目を向けていくことで、
あらゆることの把握が容易になり、自由闊達な境地に近づくと、
そういうことを言いたいのだと思います。
目的に目を向けることの例として、僕が学生の頃によく読んでいた
漫画の一場面を説明しようと思います。
その漫画のタイトルは『天才 柳沢教授の生活』というものです。
これは少し変わっている柳沢教授の不可思議な日常を綴ったもので、
学問に関する人間関係も扱うことがありますが、
そのほとんどが教授の家族との日常生活が中心です。
この教授はいつも時計で計ったようなきっちりした生活を送っており、
学問については真面目で家でもほとんど本を読んでばかり、
四人の娘たちも尊敬はしつつも、得体の知れない人と思っています。
しかしその教授は内心はとても熱い人で、寛大な人なのです。
そのことが物語の一こま一こまで語られていきます。
奥さんは普通の主婦で、ごく普通のおばさんなのですが、
教授はこの奥さんをとても愛しているのです。
その話も僕が好きな話ですが、今回はその話は省略します。
娘たちから見て不思議に思うのは、ごく普通の主婦である奥さんが、
そんな得体の知れない教授の意図を把握して
準備をすることができることです。
奥さんは教授の普段の行動の癖などをすべて把握しているのです。
娘の目には父親は母親に頭が上がらない状況に見えています。
世間でも女性の勘は鋭いなどといわれていて、
それは男女の脳の構造の違いから説明されることもありますが、
このお話の中ではもっと具体的に述べられています。
その奥さんの話によると、
奥さんは最初から教授のことがわかっていたわけではなく、
最初はこう言うときにはこうだと思って準備していても
ほとんど当たらなかったのが、
回数を重ねるごとに正解率が上がっていって
今ではほとんどはずさないようになってきた、ということでした。
つまり、奥さんは教授の気持ちがわかっているというよりは、
常に相手の行動や目的に着目して観察を繰り返しているうちに、
相手のことが手に取るようにわかってきた、ということだと理解しています。
人は超能力者ではないのですから相手の気持ちを真に理解することは
困難だとしても、その相手の意図や目的を考えていくうちに、
相手のことをきちんと理解できるのだと、
そういうことをこの淮南子の一節が述べていると、
僕なりに解釈しています。
さらに、目的を考えるということは自分自身を振り返るときにも
大切なのではと思います。
この点を僕自身の少ない経験からいうと、
何年も前に、僕は一時期落ち込んでいた時期がありまして、
そこから自分で自分を立て直すことができたのは
むやみなポジティブシンキングや自分の悩みに対する
本質的な理解によるものなどではなくて、
何かを具体的に学び、不確定ながらも自分の目標を定めて
努力していったことだと思っています。
そういう状態で何かに夢中になれば、
いちいち自分の悩みにとらわれなくなりますし、
具体的な目的に向かう努力の中で、
自分の悩み自体も客観視できるようになっていくのだと、
今振り返るとそのように思っています。
これからもいろんな事をきちんと学んでいって、
お相手の方を初め僕の周囲の方々に
より安心してもらえる状況になるようにと、
そんな自分を目指してさらにがんばっていこうと思います。
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2011年11月28日
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『淮南子(えなんじ)』の原道訓(げんどうくん)の続きです。
今回で三回目になります。
道を体得して、自由自在の境地に立ってあらゆることを
把握できるようになる、その時の様子を仙人の世界を
たとえ話にしながら述べています。
今回の記事は三つの記事でセットですので、
こちらにはコメント欄を設けていません。
コメント欄は解説の記事のところに設けてあります。
この点をご了承下さい。よろしくお願いいたします。
ブログ記事: (三)『淮南子』・巻一・原道訓・其の三
(原文と書き下し文と語注です)
ブログ記事: (三)『淮南子』・巻一・原道訓・其の三
(解説です)(コメント欄はこちらに設けてあります)
●現代語訳 太古の昔には馮夷(ひょうい)という川の神や、
大丙(たいへい)という仙人が移動するときには、
仙人の雲の車に乗り、雲と虹の中に入っていって、
細かい霧の中で自由に動き、
ぼんやりしていて見定めにくい中で力強く駆け回り、
そうやって遠くまで行く中でますます高い所へ登っていって、
そして高い所の果てまで移動していくのです。
霜や雪の上を通っていってもその痕跡を残さず、
日の光に照らされてもその影を映すことはないのです。
つむじ風が互いにもつれ合って転がり回り、
羊(ひつじ)の角(つの)のようにいろんな物を巻き上げて上っていき、
山や川を通り過ぎて、仙人が住むという崑崙山(こんろんさん)という山を
踏み越えて、天の西の果てにあるという門を押しのけて、
天の支配者である天帝(てんてい)の宮殿である紫微宮(しびきゅう)の
門の周りを回っていました。
今のような道がすたれてきた末の世では、移動するときには、
動きの身軽な車や、足の速い馬がいるとしても、
たとえ強く鞭(むち)をふるってよく鍛えたとしても、
太古の時代のものとは全く比較にならないのです。
ですから、堂々とした立派な人は安らかでのんびりとした気持ちで
いろんな事を細かく考えることもなく、静かで安らかな気持ちで
あれこれと考えることもなく、
大空を屋根として考え、地面を乗り物として考え、
春夏秋冬の季節の移り変わりを馬として考え、
天と地の間に存在する陰と陽の気を移動の手段と考えれば、
雲に乗って空の上まで上っていき、天地や自然を作り出す神(かみ)と
一緒に過ごすことができるのです。
心を自由気ままにして気持ちを緩やかにして大空を駆け回るのです。
歩こうと思えば歩き、走ろうと思えば走る。そんな気ままな気持ちで
いるのです。
雨の神には汚れた道をすすいで掃除してもらい、
風の神には道に落ちた塵を払ってもらうと考えるのです。
稲妻を馬の鞭と考えて、雷を馬車の車輪と考えます。
すると空を上っていって静かで奥深い野原を自由に動き回り、
地面を下っていって果てのない門から出て行き、
あらゆる方向を眺め回して、あらゆる方向を照らし、
自分の自然のままの本来の性質を欠けることなく保って、
その性質を本来の自然の道理に立ち返るようにしていくのです。
心をあらゆる方向に行き来させながら、
また車輪の軸のような道の中心の部分に立ち返っていくのです。
天を屋根と考えれば、あらゆるものを覆うことができるのです。
地面を車と考えれば、あらゆるものを乗せることができるのです。
春夏秋冬などの時節の移り変わりを馬と考えれば、
あらゆるものを使うことができるのです。
天と地の間に存在する陰と陽の気を御者(ぎょしゃ)と考えると、
あらゆる事に備えることができます。
ですから、心をすばやく動かしても気持ちが揺らぐことはなく、
心を遠くまで思いめぐらしても疲れることはなく、
肉体を動かすこともなく、目や耳の感覚を損なうこともなく、
それでいて天地のあらゆる世界の境界までも知ることができるのです。
それはどうしてでしょうか。
それは、自然の道理の要(かなめ)となる柄(え)のような部分を
手にとって動かすことで、無限で永遠の世界で自由に
動き回ることができるからなのです。
ですから天下の物事というのは、
自然の道理にそむいて何かをするということはできないのです。
その自然の道理に従って物事を推し進めていくのです。
万物の変化というのは、その変化の突き詰めた所を
理解することはできないのです。
その自然の道理の要点となる部分の向かう所、
つまり万物が自然の道理に立ち返る部分
(いわゆる、目的)をしっかりと把握すればよいのです。
そもそも鏡のように静かで澄んでいる水面に万物の姿を映す場合には、
自然の道理のほかに何かを思いはかるようなことがないからこそ、
その万物の形の四角いことと丸いこと、曲がっていることまっすぐなこと、
あらゆる姿をとらえて放すことがないのです。
ですから、何か外部からの問いかけがあっても
それに気持ちが反応しようとして無駄に動くことはなく、
光と影のような物事の境目を一つに定めることのない自由な境地でいて、
ぼんやりとはっきりしない状況から叫び声を聞くように、
はっきりとした形で物事を把握することができ、
口を閉じて何も言わない様子でいながら、
自分の心身を通じてきちんと理解することができるのです。
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小田代ヶ原の朝の空(栃木・日光)
Photo by (c) Tomo.Yun
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今回で三回目になります。
道を体得して、自由自在の境地に立ってあらゆることを
把握できるようになる、その時の様子を仙人の世界を
たとえ話にしながら述べています。
こちらは原文と書き下し文と語注の記事になります。
今回の記事は現代語訳の記事と解説の記事との
三つでセットですので、 こちらにはコメント欄を設けていません。
コメント欄は解説の記事のところに設けてあります。
この点をご了承下さい。よろしくお願いいたします。
ブログ記事: (三)『淮南子』・巻一・原道訓・其の三(現代語訳です)
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●原文
昔者馮夷、大丙之禦也、乘雲車、入雲蜺、遊微霧、騖怳忽、
暦遠彌高以極往。經霜雪而無跡、照日光而無景。扶搖抮抱羊角而上、
經紀山川、蹈騰昆侖、排閶闔、淪天門。
末世之禦、雖有輕車良馬、勁策利鍛、不能與之爭先。
是故大丈夫恬然無思、澹然無慮、以天爲蓋、以地爲輿、四時爲馬、
陰陽爲禦、乘雲陵霄、與造化者俱。縱志舒節、以馳大區。可以歩而歩、
可以驟而驟。令雨師灑道、使風伯掃塵;電以爲鞭策、雷以爲車輪。
上游於霄雿之野、下出於無垠之門、劉覧偏照、複守以全。経営四隅、
還反於樞。故以天為蓋、則無不覆也;以地爲輿、則無不載也;四時爲馬、
則無不使也;陰陽爲禦、則無不備也。是故疾而不搖、遠而不勞、
四支不動、聰明不損、而知八紘九野之形埒者、何也?
執道要之柄、而游於無窮之地。是故天下之事、不可爲也、
因其自然而推之;萬物之變、不可究也、秉其要歸之趣。
夫鏡水之與形接也、不設智故、而方圓曲直弗能逃也。
是故響不肆應、景不一設、叫呼仿佛、默然自得。
●書き下し文
昔は馮夷(ひょうい)、大丙(たいへい)の禦(ぎょ)、
雲車(うんしゃ)に乗り、雲蜺(うんげい)に入り、
微霧(びむ)に遊び、怳忽(こうこつ)に騖(は)せて、
遠きを歴(へ)て弥々(いよいよ)高くして以て往(おう)を極む。
霜雪(そうせつ)を経て跡 無く、日光に照らされて景(かげ) 無し。
扶揺(ふよう) 羊角(ようかく)を抮抱(てんほう)して上り、
山川(さんせん)を経紀(けいき)し、昆侖(こんろん)を蹈騰(とうとう)し、
閶闔(しょうこう)を排し、天門(てんもん)を淪(めぐ)る。
末世(まっせ)の禦(ぎょ)、軽車(けいしゃ)・良馬(りょうば)
有りと雖(いえど)も、策(むち)を勁(つよ)くして利(よ)く鍛(きた)うるも、
之(これ)と与(とも)に先を争う能わず。
是の故に大丈夫(だいじょうぶ)は恬然(てんねん)として思うこと無く、
澹然(たんねん)として慮(おもんぱか)る無く、
天を以て蓋(がい)と為し、地を以て輿(よ)と為し、
四時(しじ)を馬と為し、陰陽(いんよう)を禦(ぎょ)と為し、
雲に乗りて霄(そら)を陵(のぼ)り、造化者(ぞうかしゃ)と俱にする。
志を縦(ほしいまま)にして節を舒べ、以て大区(だいく)を馳す。
以て歩くべくして歩き、以て驟(はし)るべくして驟(はし)る。
雨師(うし)をして道を灑(そそ)がしめて、
風伯(ふうはく)をして塵(ちり)を掃(はら)わしむ;
電(いなずま)を以て鞭策(べんさく)と為し、
雷を以て車輪(しゃりん)と為す。
上りて霄雿(しょうちょう)の野に游び、
下りて無垠(むぎん)の門に出で、
劉覧(りゅうらん) 偏く照らし、複た守るに全きを以てす。
四隅(しぐう)を経営(けいえい)し、還(ま)た枢(すう)に反(かえ)る。
故に天を以て蓋と為し、則ち覆わざる無きなり;
地を以て輿と為し、則ち載せざる無きなり;
四時(しじ) 馬と為し、則ち使わざる無きなり;
陰陽(いんよう) 禦(ぎょ)と為し、則ち備わらざる無きなり。
是の故に疾くして揺らがず、遠くして労せず、
四支(しし) 動かず、聡明(そうめい) 損せず、
而(しこう)して八紘(はっこう)九野(きゅうや)の
形埒(けいらつ)なる者を知るは、何ぞや?
道要(どうよう)の柄(へい)を執(と)り、
而(しこう)して無窮(むきゅう)の地に游(あそ)べばなり。
是の故に天下の事は、為すべからざるなり、
其の自然に因(よ)りて之を推さん;
万物の変は、究(きわ)むべからざるなり、
其の要帰(ようき)の趣を秉(と)らん。
夫(そ)れ鏡水(きょうすい)の与(とも)に形の接するや、
智(ち)を設(もう)けざるの故(ゆえ)に、
而うしてに方円(ほうえん)・曲直(きょくちょく)
逃(に)ぐる能(あた)わざるなり。
是(こ)の故(ゆえ)に響きても肆(ほしいまま)には応ぜず、
景(さかい)は一には設(もう)けず、
仿佛(ほうふつ)たるに叫呼(きょうこ)し、
黙然(もくねん)として自得(じとく)す。
●語注
※馮夷(ひょうい): 「河伯(かはく)」、つまり川の神を指します。
※大丙(たいへい): 伝説の仙人の名前です。
※雲車(うんしゃ): 仙人の乗る雲の車のことです。
※雲蜺(うんげい): 雲と虹のことです。
※怳忽(こうこつ): ぼんやりとして見定めにくい様子を示しています。
※扶揺(ふよう): つむじ風のことです。
※羊角(ようかく): 羊の角のように曲がって、物を巻き上げて吹く風、
つまり、つむじ風のことです。
※抮抱(てんほう): 互いにもつれ合って転がり回ることです。
※経紀(けいき): ここでは、通り過ぎることです。
※昆侖(こんろん): 「崑崙山(こんろんさん)」、
つまりウィグルとチベットの間にある山で、
古代の神話では仙人の住む所とされています。
※蹈騰(とうとう): 地面を踏みしめて上ることです。
※閶闔(しょうこう): 天地の西方にあるという門のことです。
※天門(てんもん): 天の支配者の天帝(てんてい)がいる
紫微宮(しびきゅう)の宮殿の門のことです。
※末世(まっせ): 政治や道徳が衰えた、末(すえ)の世のことです。
※軽車(けいしゃ): 動作が軽くて素早い馬車のことです。
※大丈夫(だいじょうぶ): 堂々とした立派な男性のことです。
※恬然(てんねん): 物事に動じないで安らかでのんびりと
していることです。
※澹然(たんねん): 静かで安らかであることです。
※四時(しじ): 春夏秋冬のことです。
※陰陽(いんよう): 天と地の間に存在する、万物を生み出す
陰と陽の気のことです。
※造化者(ぞうかしゃ): 天地や自然を作り出す存在、
つまり神(かみ)のことです。
※大区(だいく): 「天空(てんくう)」、つまり大空のことです。
※雨師(うし): 雨の神のことです。現代風にいえば、
雨乞いの儀式をするシャーマンのことです。
※風伯(ふうはく): 風の神のことです。
※霄雿(しょうちょう): 静かで奥深い所です。
※無垠(むぎん): 果てがないことです。
※劉覧(りゅうらん):あまねく見ることです。
※四隅(しぐう): 「四方(しほう)」のことです。
※経営(けいえい): ここでは「往来(おうらい)」、
つまり行き来することを指します。
※四支(しし): 「四肢(しし)」と同じで、手足のことですが、
ここでは身体のことを指しています。
※聡明(そうめい): 視覚と聴覚がきちんとしていることです。
※八紘(はっこう): 天地の八方の隅(すみ)のことで、
転じて全世界のことを指します。
※九野(きゅうや): 「九天(きゅうてん)」、つまり天の八方向と
中央を含めた、天の全体のことを指します。
※形埒(けいらつ): 「界域(かいいき)」、つまり境界のことです。
※道要(どうよう): 物事の道理の要点のことです。あるいは
道家の教えの奥義を指します。
※無窮(むきゅう): 無限であること、永遠であることです。
※要帰(ようき): 「要旨(ようし)」、つまり述べられた内容の中で
主なポイントをまとめたものです。
※鏡水(きょうすい): 鏡の表面のように、静かで澄んでいる
水面のことです。
※方円(ほうえん): 四角と丸のことです。
※曲直(きょくちょく) : 曲がったこととまっすぐなこと、
あるいは正しいことと間違ったことのことです。
※肆応(しおう、ほしいままにおうず): 「饗応(きょうおう)」、
つまり人の呼びかけに反応してすばやく行動をすることです。
※叫呼(きょうこ): 叫び声を上げることです。または、
金切り声で叫ぶことです。
※仿佛(ほうふつ): ぼんやりとしてはっきりしない姿のことです。
※黙然(もくねん): 口を閉じてものを言わない様子を指します。
※自得(じとく): 自分の心身や体験を通じて理解することです。
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