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伏日有客 玄齋 (上平聲十灰韻)
暑 中 風 雅 故 人 來
談 句 應 驚 君 別 材
熱 辯 傾 聽 暫 時 裡
恰 如 攜 手 上 涼 臺
書き下し文: 「伏日、客あり」 玄齋 (上平声十灰韻)
暑中 風雅の故人来る
句を談ずれば応に驚くべし君が別材に 熱辯 傾聴する暫時の裡 恰も手を携えて涼臺に上るが如し 現代語訳:
夏の暑さの厳しい時期に、風流な旧友が訪ねてきた。
その旧友に詩句を語らせれば、きっとどんな人も
その旧友の詩に関する特別な才能に驚くことだろう。
その彼の熱のこもった議論を、熱心に聞いているしばらくの間は、
まるでお互いに手をつないで涼しい高い建物にのぼっているような
心地がしていた。
語注:
※伏日(ふくじつ): 夏の最も暑い時期とされる
「三伏(さんぷく)」の日のことです。
※三伏(さんぷく): 夏至のあとの三番めの庚(かのえ)の日(初伏)と
四番めの庚の日(中伏)と立秋後の最初の庚の日(末伏)の 三つの時期のことです。この時期は夏の最も暑い時期と
されています。
※暑中(しょちゅう): 夏の暑さが厳しい時期のことです。
※風雅(ふうが): 風流のことです。世俗を超越した高尚な人を指します。
※故人(こじん): 昔からの友人のことです。
日本語のように、死んだ人の意味はありません。 ※談句(だんく、くをだんずる): 詩の句について語ることです。
※応(まさに〜すべし): 「きっと〜であろう」という意味です。
※別材(べつざい): 特別な才能のことです。
「別才(べつさい)」とも言います。
さらに下の解説以下を参照して下さい。 ※熱辯(ねつべん): 「熱弁」のことです。熱のこもった
議論をすることです。
※傾聴(けいちょう): 相手の話を注意深く熱心に聞くことです。
※暫時(ざんじ): 少しの間、しばらくの間のことです。
※裡(うち): 「中」と同じ意味です。「裡」は「中」の
仄声の表現のひとつです。
※恰(あたか も): 「まるで」という意味です。何かに
よく似ていることを示します。
※携手(けいしゅ、てをたずさえる): 手をつなぐことです。
※涼臺(りょうだい): 涼を取るための高い建物のことです。
解説:
漢詩の会の八月の課題です。
八月の課題を先に片付けようと思っていたところ、 前回の漢詩が偶然できていました。
このところ変則的な漢詩が続いていたので、ごく普通の詩にしようと、 普通に平仄の平声で韻を踏んで、今まで通りに作ってみました。 このお題は本来は夏の暑い時期に客が訪れてそれを
内心迷惑に思うという、そんな光景を詠む伝統的なお題ですが、
僕の漢詩ではかえって歓迎するお客になってしまいました。 師匠に聞いたところ、それはそれでよいとのことでしたので、 安心しました。こういうときには新しい発想で詠むのも
必要なのだなと思いました。
# 上記の点で誤解があるといけないので補足いたします。
# 僕は勉強と称してルールを逸脱していい加減な漢詩を作るような人間ではありません。 # もし漢詩の題意と合わないことを師匠に指摘されたとすれば、 # 僕はすすんで漢詩を作り直していたと思います。 # それに、もしこの詩題で漢詩大会などに投稿することがあったとしても、 # 題意を逸脱したということでどこかから批判が出ることもないですし、 # そのことで一段階程度の低いものとして評価されることもないと思います。 # ただ僕は細かいことに対する自分への反省の意味で書いただけなのです。 # あまり内部の細かい事情についてブログに書きすぎてしまうと、 # かえって部外者に思わぬ誤解を与えてしまいかねない、ということがわかりました。 # 反省も度が過ぎてはいけないなと最近気づかされます。 風流な友人の発想は、韓国の方との漢詩の議論のやりとりを
しているうちに思い付きました。 漢詩をする人でも、それぞれいろんな知識を身につけていて 面白いなと思いました。 時には暑さも忘れるほど面白いです。
何かに集中することも、熱さを忘れるコツなのかなと思いました。 承句の「別材(べつざい)」は「別才(べつさい)」と書くときもあります。 特別な才能のことです。 この言葉は南宋の厳羽(げんう)の『滄浪詩話(そうろうしわ)』の中の
第一巻の「詩辯(しべん)」の一節に出て来ます。 「詩話(しわ)」とは詩歌や詩人や詩体に関する評論や
詩にまつわる故事などについて書かれた本のことです。 この本の中身を誤解されないように、少し多めに引用します。
夫詩有別材,非關書也。詩有別趣,非關理也。
然非多讀書多窮理,則不能極其至。 所謂不渉理路,不落言筌者上也。 (書き下し): 夫れ詩に別材あり、書に関するに非ざるなり。
詩に別趣あり、理に関するに非ざるなり。 然れども多く書を読み多く理を窮めるに非ざれば、 よく其の至を極める無し。 所謂、理路に渉らず、言筌(げんせん)に落ちざる者は上なり。 (私訳): そもそも詩には特別な才能があり、本を読んで身につく
種類のものではない。詩には特別な趣があり、道理として
語ることのできるものではない。
しかし多くの本を読んで物事の道理をきわめつくさなければ、 その究極のところまで到達することはできない。 俗に言われているように、論理の筋道に入り込むことなく、 言葉を単なる手段として用い、そこにとらわれることが なければよいのである。
この一節の最初の部分は、世の中でよく知られている 有名な部分ですが、その後の文章を読まないと、
意味を取り違えてしまう恐れがあります。
この言葉を中途半端に覚えてしまうと、
努力を軽視して放棄したり、単に拙劣で意味不明なだけの自分の詩を ごまかすための詭弁としてこの言葉を使ってしまう危険性があります。 現代詩の詩論にもこれと同様な議論のものがありますが、
それも同様に単に自分の都合よく曲解してしまうと同じようなことに なってしまうのではと思います。 これは詩人が常に反省していかなければならない
ところではないかと思っています。 何も考えずに韻を決めた上で何とか前の漢詩と違う発想で作ろうと 思っているうちに、偶然「別材」などのようなこういう言葉に ぶち当たってきます。この『滄浪詩話』を読み返して
間もない頃でしたので、漢詩を作る際にはいろんな縁が
絡んでくるのかなと不思議な気持ちになりました。
同時に、日々勉強していないと漢詩を作れなくなってしまう
かもしれないので、漢詩を作ると同時に勉強も少しずつ
進めていこうと思いました。
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2011年06月29日
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