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冠句の月刊誌『文芸塔』の二月号が届きました。
次の五句が入選していました。
一番最初の句には選者の方の評が入っていました。
「胡蝶の夢」、蝶々か人間か、夢か現実かわからない、
自分と他者との違いもわからない境地のことです。
この表現はたくさん類句がでてくるだろうと思っていましたが、
見かけたのは一人くらいです。
しかしその方はこの言葉を直接に言わずに、
ずっとこなれた自然な表現でした。 こういうところはきちんと学んでいこうと思います。 これからもがんばって投句していきます。
冠句「二月号入選作」
●冠題「夢に会う」
夢に会う 会社勤めはリアリティ
夢に会う 胡蝶の如き現かな
●冠題「朝の雪」
朝の雪 甥が一人で喜べり
朝の雪 白く冷たき独裁者
●自由題(冠題も自分で考えるものです) 綺麗事 落としどころも知らなくて
※胡蝶の夢(こちょうのゆめ): 現実と夢、自分と他者との区別がつかない
境地のこと、あるいはこの世の中の楽しみがはかないことの
たとえです。この言葉の由来は、『荘子(そうじ)』内篇の
斉物論(せいぶつろん)篇の一節です。
(原文)
昔者荘周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志與。不知周也。
俄然覚、則蘧蘧然周也。不知周之夢、爲胡蝶與。
胡蝶之夢、爲周與。周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
(書き下し文)
昔、荘周(そうしゅう)は夢に胡蝶(こちょう)となり、
栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。
自ら喩(たの)しみて志(こころざし)に適(かな)うや、
周たるを知らざるなり。
俄然(がぜん)として覚(さ)むれば、
則(すなわ)ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周(しゅう)なり。
周の夢に胡蝶となるを知らざるや、
胡蝶の夢に周となるを知らざるや。
周と胡蝶と、則ち必ず分(わ)かるる有り。
此を之れ物化(ぶっか)と謂(い)う。
(現代語訳)
昔、荘周(そうしゅう: 荘子の本名)は夢の中で蝶(ちょう)になり、
ふわふわと自由に飛んでいる、そんな蝶になっていました。
自然にこの状況と自分の気持ちがぴったり来るように楽しんで、
自分が荘周であることも忘れるほどでした。
急に夢から目覚めたときは、すぐにはっとして自分が
荘周であることを思い出しました。
これは一体、
荘周が夢の中で蝶になっていることがわからなかったのでしょうか。
あるいは、
蝶が夢の中で荘周になっているのがわからなかったのでしょうか。
それがどちらであるかはわからないとしても、
その場合必ず、荘周と蝶の間には、生と死のような
境目(さかいめ)となる部分があるのです。 しかし我々は尽きることのない変化のただ中にあって、
その境目を実際には知ることはできないのです。
このことを、「物化(ぶっか)」、
つまり「あらゆる物事が、尽きることなく変化していくこと」
と言うのです。
ですからそのことにあくせくと心を働かせるのではなく、
その時その時の状況を楽しんでいけばよいのです。
※「しかし我々は〜」以降は、清の終わりの頃の学者の
王先謙(おうせんけん)の『荘子集釈(そうししゅうしゃく)』の
いろんな註釈をもとにわかりやすく書いたものです。
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2012年02月01日
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