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最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
この記事の「●現代語訳(意訳)」の部分から読んでみて下さい。
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。
『老子』の第四章の翻訳の後半です。
合計で 5,000 文字を超えていますので、
記事を前半と後半の二つに分けています。
この後半は個々の文章への解説の続きと現代語訳(意訳)と、
さらに感想を述べた部分です。
前半では原文と書き下し文と、個々の文章への解説の前半部分です。
前半の記事
コメント欄は、この後半の記事の方にのみ設けています。
以上の点についてご了承願います。宜しくお願いいたします。
●前半の解説の続きです: 七章の後半部分に入ります。
「是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。」 「是(ここ)を以(もっ)て聖人(せいじん)は、」
長い間に命を長らえさせることはできないけれども、
聖人はそんな自分というものを持たない天地を見習って、
欲望を少なくしていく中で、
「其の身(み)を後(あと)にして而(しか)れども身は先(さき)んじ、
其の身を外(そと)にして而れども身は存(そん)す。」
直訳をしてしまうと、「自分自身を人の後ろに立たせておいても、
かえって自分自身が前に出ることになる・・・」などという変な風になって、
一見矛盾するようですが、
この部分も清の魏源(ぎげん)の註釈を引きます。
(原文)
聖人、処柔処下。本以先人而後其身也。而人愈貴之。
寡欲無求。本以利人而外其身也。而人愈不害之。
(書き下し文)
聖人は、柔(じゅう)に処(お)りて下(ひく)きに処(お)る。
本(もと)より以(もっ)て人を先にして
其(そ)の身(み)を後(あと)にするなり。
而(しこ)うして人は愈々(いよいよ)之(これ)を貴(たっと)ぶ。
欲(よく)を寡(すく)なくして求(もと)むること無(な)し。
本より以て人を利(り)して其の身を外(そと)にするなり。 而(しこ)うして人は愈々(いよいよ)之(これ)を害(がい)せず。 (現代語訳) 徳と知恵に優れた聖人は、言動はおだやかで、
へりくだった態度でいます。
ですから聖人はもともと、人を先に行かせて自分をあとにするのです。
だからこそ人々はこの聖人を尊重するのです。
さらに聖人は欲望が少なくて欲望から何かを求めることがないのです。
ですから聖人はもともと、自分の利益を犠牲にしても
人のために働くのです。
だからこそ人々はこの聖人に害を与えたりすることがないのです。
(ここまでが現代語訳です)
ですから、
「其(そ)の身(み)を後(あと)にして
而(しか)れども身は先(さき)んじ」は、
つまり、聖人はおだやかな言動で謙虚であるからこそ、
相手は聖人の人柄を認めて尊重し、
「其の身を外(そと)にして而れども身は存(そん)す」
聖人は自分の利益を犠牲にしてまで人のために働くからこそ、
相手はそれに感謝をして、聖人に害を与えるということがないのです。
となります。意味を丹念に調べていくことで、
決して権謀術数を示すようなものにはならないのです。
「非以其無私邪、故能成其私。」
「其(そ)の私(わたくし)無きを以(もっ)てに非(あら)ずや、
故(ゆえ)に能(よ)く其の私(わたくし)を成(な)す」
「其(そ)の私(わたくし)無きを以(もっ)てに非(あら)ずや」、
それは聖人が「私(わたくし)」、つまり「自分一人のわがまま勝手な考え」
がないからではないでしょうか。
「故(ゆえ)に能(よ)く其の私(わたくし)を成(な)す」
ここの「私(わたくし)」は、先ほど言った意味での「私(わたくし)」では
もちろんありません。そのような自分勝手な私欲を満たすものを
老子は決して教えたりはしないのです。
ここでは北宋(ほくそう)の詩人の蘇軾(そしょく)の弟である
蘇轍(そてつ)の註釈では、
(蘇轍の註釈の原文)
彼其無私、非求以成私也。而私以之成道、則固然耳。
(蘇轍の註釈の書き下し文)
彼(か)の其(そ)の私(わたくし)無きは、
私(わたくし)を成(な)すを求(もと)むるに非(あら)ず。
而(しか)るに私の之(これ)を以(もっ)て道(みち)を成すは、
則(すなわ)ち固(もと)より然(しか)るのみ。
(蘇轍の註釈の現代語訳)
知恵と徳にすぐれた聖人(せいじん)は、「私(わたくし)」が
ないわけですから、聖人が自分勝手な考えを成就させるということを
求めるわけではないのです。
聖人が自分の意思により道、つまり自然の道理に従って
きちんと行動をなし遂げるということなのです。
つまり本来当然のことを言っているのに過ぎないのです。
(ここまでが蘇轍の註釈の現代語訳です)
つまり、「故(ゆえ)に能(よ)く其の私(わたくし)を成(な)す」とは、
聖人は私が無く日々をきちんと過ごして職務に励むことによって、
自然の道理、つまりその時々の状況が必要とする道理に
きちんと行動を合わせることができて、それぞれの人の
日常の中で追求する「道」を成就させることができる、ということです。
ここで、日常の中で追求する「道」というのは、詩人であれば詩歌、
書道家であれば書道、社会人であればそれぞれの人の個々の仕事、
そういうものが特別にはない人でも日々の生活を工夫して
きちんと生きること、これらすべてを「道」というのです。
欲を少なくして日常の努力を重ねて生きること、
そうすることでそれぞれの人の日常をよりよく生きることができる、
ということです。
以上をまとめると、以下のような現代語訳(意訳)になります。
(今までの文章と重複します)
●現代語訳(意訳):
天は長い時間を経て、大地は長い時間持ちこたえて、
どちらも長い命を保っています。
天地がよく長い時間を持ちこたえる、その理由は、
自分が生きている事を他のものよりもえこひいきをして
優先させることがないからです。
知恵と徳にすぐれた聖人(せいじん)は、
そんな天地にならって行動をしていますが、
だからと言って、天地のような長生きができるような
話にはならないのです。
天地と人とは、本質的に異なるからです。
そんな天地と、人との違いはどこにあるのでしょうか。
それは、人はたとえ聖人であっても、
「自分」というものをなくすことができない、ということです。
人が自分の生命を養うには、物が必ず必要なのです。
どんなに無欲な聖人であっても、何かを食べなければ
生きていけないのです。
人が自分の身を保とうとするのであれば、自分の生命をきちんと
大切にしなければならないのです。
たとえ聖人であっても、病気から身を守る必要があるのです。
無欲とされる聖人であっても自分の命を保つために物を必要として、
自分の身をきちんと大切にしないといけない、ということです。
人はどこまで行っても「自分」から離れることはできないのです。
では欲望が少なくなること、聖人が天地を見習うように
無欲に近づくことは、意味がないのでしょうか。
もちろんそんなことはありません。
欲望を少なくすることで、多くの効用があるのです。
ここに一つの効用の例を示します。
聖人はおだやかな言動で謙虚であることを心掛けることで、
相手は聖人の人柄を認めて尊重し、
聖人は自分の利益を犠牲にしてまで人のために働くことで、
相手はそれに感謝をして、聖人に害を与えるということがないのです。
このような効用があるのは、それは聖人が「私(わたくし)」、
つまり「自分一人のわがまま勝手な考え」がないからではないでしょうか。
だからこそ聖人は自分一人の勝手な考えを持たずに
日々をきちんと過ごして職務に励んでいるのです。
そうすることで、自然の道理、つまりその時々の状況が必要とする道理に
きちんと行動を合わせることができて、それぞれの人の日常の中で
追求する「道」を成就させることができる、ということです。
ここで、日常の中で追求する「道」というのは、詩人であれば詩歌、
書道家であれば書道、社会人であればそれぞれの人の個々の仕事、
そういうものが特別にはない人でも日々の生活を工夫して
きちんと生きること、これらすべてを「道」というのです。
欲を少なくして日常の努力を重ねて生きること、
そうすることでそれぞれの人の日常をよりよく生きることができる、
そのように私(老子)は考えているのです。
●感想:
できる限り丹念に学者の説を調べて訳を進めたい、
そう思って長い時間がかかりました。
ようやくこの章を訳すことができてほっとしています。
これからもきちんと種々の註釈を調べながら、
僕自身が納得する訳に仕上げていこうと思います。
これから今月の課題詩も含めて、連続して漢詩を作ってきます。
翻訳が続いていましたので、どんどん漢詩を作りたくなってきました。
今月もきちんと頑張ります。
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2012年03月14日
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最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
後半の記事の現代語訳から読んでみて下さい。
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。
この漢文は『老子』の第七章の翻訳です。
合計で 5,000 文字を超えていますので、
記事を前半と後半の二つに分けています。
この前半では原文と書き下し文と、
個々の文章への解説の前半部分をまとめています。
次の後半の記事では、文章の解説の残りと、現代語訳(意訳)と、
さらに感想を付け加えています。
後半の記事
コメント欄は後半の記事の方にのみ設けています。
この点についてご了承願います。宜しくお願いいたします。 ●原文:
『老子』 第七章
天長地久、天地所以、能長且久者、以其不自生、故能長生。
是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。
非以其無私邪、故能成其私。
●書き下し文:
天は長(なが)く地は久(ひさ)し。
天地の能(よ)く長くして且(か)つ久しき所以(ゆえん)の者は、
其(そ)の自(みずか)ら生(しょう)ぜざるを以(もっ)てなり。
故(ゆえ)に能(よ)く長生(ちょうせい)す。
是(ここ)を以(もっ)て聖人(せいじん)は、
其(そ)の身(み)を後(あと)にして而(しか)れども身は先(さき)んじ、
其(そ)の身を外(そと)にして而れども身は存(そん)す。
其(そ)の私(わたくし)無きを以(もっ)てに非(あら)ずや、
故(ゆえ)に能(よ)く其(そ)の私(わたくし)を成(な)す。
●解説:
この章は一人の学者の註釈をいろんな学者が引用していますので、
中間にある疑問点はその方の註釈をもとにして訳していくことにします。
その人物は北宋の政治家で詩人の程倶(ていぐ)(1078 〜 1144年)です。
田園詩人として有名な陶淵明の詩を学んでいる詩人です。
天地自然への造詣も深い人です。
解説の中で、彼の註釈も訳していきます。
では、本文にはいります。
「天長地久。天地所以、能長且久者、以其不自生、故能長生。」
「天は長(なが)く地は久(ひさ)し。天地の能(よ)く長くして
且(か)つ久しき所以(ゆえん)の者は、
其(そ)の自(みずか)ら生(しょう)ぜざるを以(もっ)てなり。
故(ゆえ)に能(よ)く長生(ちょうせい)す。」
ここは永久を示す「長久(ちょうきゅう)」という言葉の由来です。
長久(ちょうきゅう)を漢語の辞書で調べてみますと、
(一)時間がとても長いこと、長く持ちこたえること。
(二)長寿。
ですから、
「天は長い時間を経て、大地は長い時間持ちこたえて、
どちらも長い命を保っています」
となります。
ここでちょっとした豆知識です。この「天長地久」の四文字の部分は、
日本とも関わりの深い所なのです。
今上(きんじょう)の天皇陛下、つまり、
その時々の現役の天皇陛下のお誕生日を天長節(てんちょうせつ)、 皇后さまのお誕生日を地久節(ちきゅうせつ)と言います。
さらに、秋篠宮殿下の息子さんである、悠仁(ひさひと)親王さまの
名前の由来である、秋篠宮殿下のお言葉、
「ゆったりとした気持ちで、長く久しく人生を歩んでいくことを願って」
という部分の由来となっている所です。とてもめでたい一節ですね。
「天地所以、能長且久者、以其不自生、故能長生。」
「天地の能(よ)く長くして且(か)つ久しき所以(ゆえん)の者は、
其の自(みずか)ら生(しょう)ぜざるを以(もっ)てなり。
故(ゆえ)に能(よ)く長生(ちょうせい)す。」
天地がよく長い時間を持ちこたえる、
その「所以(ゆえん)」、つまり「理由」は、
「自(みずか)ら生(しょう)ぜず」、
これは清の思想家の魏源(ぎげん)(1794 〜 1856)の註釈では、
「不自私其生」「其(そ)の生(せい)を自(みずか)ら私(わたくし)せず」、
つまり、「自分が生きている事を他のものよりも優先させることがない、
えこひいきしない」
という意味になります。
「故(ゆえ)に能(よ)く長生(ちょうせい)す。」
「長生(ちょうせい)」は寿命がとても長い、永遠に存在するかもしれない」、という意味です。
「だからよく、永遠とも言えるほどの長い寿命があるのです。」となります。
ここまでの訳は、
「天は長い時間を経て、大地は長い時間持ちこたえて、
どちらも長い命を保っています。
天地がよく長い時間を持ちこたえる、その理由は、
自分が生きている事を他のものよりもえこひいきをして
優先させる、ということがないからです。」
となります。
さて、このあと、人の話になるわけですが、急にスケールが小さくなります。
天地のような長生きができるような話にはならないのです。
ここで「どうしてか」と思わない人は多いです。
大方、このスケールの違いを、
「そんな天地の偉大さや永遠さに比べて、
我々のようなちっぽけではかない人間は・・・」
などと言って強引につなげてしまうのです。
これはある種の真理かもしれませんが、
きちんと老子の本文を解釈したものとは必ずしも言えないのです。
天地と人との本質的な違いはどこにあるか、
ここをはっきりさせなければならないのです。
論ずるまでもなく当たり前といえば当たり前なのです。
でもここをごまかしては解釈したとは言えないのです。
ここが、解説の冒頭に述べた、北宋の程倶(ていぐ)の註釈の
『程倶論(ていぐろん)』で説明される部分です。関連部分を訳します。
(『程倶論』の原文)
天地人、一原耳。
天之所以為天、地之所以為地、人之所以為人、固同、
而天地之能長且久、而人不然何哉。
天不知其為天、地不知其為地、
令一受其形、而為人、則認以為己。曰人耳人耳。
謂其養生、不可以無物也。則騁無益之求。
謂其有身、不可以不愛也。而誉文表之事。
厚其生而生愈傷、養其躯而身愈病。其不為中道夭者、亦幸矣。
(『程倶論』の書き下し文)
天・地・人は原(みなもと)を一(いち)とするのみ。
天の天たる所以(ゆえん)、地の地たる所以、人の人たる所以は、 固(もと)より同(おな)じくして、而(しこ)うして天地の能(よ)く長く
且(か)つ久(ひさ)しきに、人の然(しか)らざるは何(なん)ぞや。
天は其(そ)の天たるを知らず、地は其の地たるを知らず、
一をして其の形(かたち)を受けしめて、而(しこ)うして人となる。
則ち認めて以て己となし、人のみ人のみと曰(い)う。
其れ生を養わんと謂わば、以て物(もの)無(な)かるべからざるなり。
則ち無益の求めに騁せん。 其れ身を有(たも)たんと謂わば、以て愛せざるべからざるなり。
而(しこ)うして文表(ぶんぴょう)の事を誉(ほま)れとす。 其(そ)の生(せい)を厚(あつ)うして生は愈々(いよいよ)傷(やぶ)られ、
其(そ)の躯(からだ)を養(やしな)いて身は愈々(いよいよ)病(や)む。 其(そ)れ中道(ちゅうどう)にて夭(よう)をなさざる者は、
亦(ま)た幸(さいわ)いなり。 (『程倶論』の現代語訳(意訳))
天地人の三者は、その起源を同じところに持っているだけです。
つまり『道』のことです。
天が天である理由、大地が大地である理由、
人が人である理由は、本来同じなのですが、
それなのに天地がよく長い年月を持ちこたえるのに対し、
人はそうならないのはなぜなのでしょうか。
天は「私は天である」などということを知りませんし、
大地は「私は大地である」ということを知りません。
その天地人の一つの起源である道から形を与えられて、
そうして人が出来上がりますと、すぐに人は「自分」というものを認識して、
「この世に存在する偉大なものは人だけだ」などというのです。
普通の人ではこうなりますが、無欲とされる聖人であればどうでしょうか。
残念ながら、聖人といえど、人は「自分」というものを
なくすことが出来ないのです。
そもそも人が自分の生命を養うには、物が必ず必要なのです。
どんなに無欲な聖人であっても、何かを食べなければ
生きていけないのです。
さらに普通の人の場合では、無益な欲望に走り回るのです。
そもそも自分の身を保とうとするのであれば、自分の生命をきちんと
大切にしないわけにはいかないのです。
たとえ聖人であっても病気から身を守る必要があるのです。
普通の人はそれどころか、国家の公文書や表彰による名誉などという
無益なものを大切にする始末です。
欲望のままに自分の人生を豊かにしようと贅沢(ぜいたく)をすれば、
かえって自分の生命が損なわれてしまい、
自分の生命力を無理に増進(ぞうしん)させようとすれば、
かえって病気になってしまうのです。 こういう事が世の常なのですから、
人生の途中で若くして死ななければ、幸運としなければならないのです。
(ここまでが『程倶論』の現代語訳です)
無欲とされる聖人であっても自分の命を保つために物を必要として、
自分の身をきちんと大切にしないといけないのです。
人はどこまで行っても「自分」から離れることはできないのです。
では欲望が少なくなること、聖人が天地を見習うように
無欲に近づくことは、意味がないのでしょうか。
もちろんそんなことはありません。大きな意味があります。
欲望を少なくすることで多くの効用があり、その一つが、次の文章です。
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