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●本題その二(天籟の話をした理由)の続き:
「その五」の「本題その二」の続きです。
例えば昔の人は「学問よりも実践が大切だ」ということを述べているわけですが、
これは決して世の中の学問全体を否定しているわけではないのです。
先人の学問を学ぶのはよいのですが、「大切だ、大切だ」と述べるだけで、
自分の人生の中でその言葉を自分にとっての
生きた言葉となるように考えることなく、
単にその言葉を覚えた、知識が増えたというだけにとどまって、
それを自慢するだけに終わってしまう、
こんな「学問」のやり方を批判しているわけです。
これは孔子も「人のための学問」、
今の言葉で言い換えれば「人に知識を見せびらかすだけの学問」と述べて、
口酸っぱく批判しているものです。
一方で「学問よりも実戦が大切だ」という言葉を覚えただけで
何かがわかったと錯覚してしまって、
そんな学問をしのぐ「実践」を行うこともなく、
世の中のあらゆる学問をあざ笑い、
悟ったと勘違いをしてしまうとても愚かな人が時折います。
こんな状態こそ、先人が批判した「学問」そのものなのです。
朱熹は十九歳で科挙に合格しながら、
彼の学問自体は儒学に落ち着いているわけではなく、
儒学と禅を兼ね合わせて学んでいる状態が続いていました。
これは朱熹の父親の方針でもありますが、そんな状態が続いていたのは、
儒学に対する疑問、素晴らしい先人の教えと、それと全く釣り合わない、
科挙の儒学の試験を通り抜けてきた人たちと、
そこから出世した要職に就いている人たち、その両者の間の矛盾、
儒学が単なる言葉だけの学問ではないか、
そんな疑問があったことも関連している、そんな風に思います。
ところが朱熹が二十八歳の時、儒学者の李延平(りえんぺい)が
彼のもとを訪問して彼の話を聞いて、「それではいけない」と諭して
儒学の世界に引っ張り込みました。
朱熹の師である李延平は優れた学識を持っていたことは確かですが、
それ以上に彼が感じたのは、「儒学とは『こういう人になるための学問』なのだ」
ということです。
朱熹は儒学の経書の内容を全て暗記していましたので、
生半可な学説では心は動かなかったと思います。
李延平は儒学者である前に「本物」である、ということです。
朱熹は理屈をこえた所でそれを感じ取ったのです。
もし「本物」になるためであるということを忘れなければ、
学問をするのも、実践に生きるのも、どちらも正しいのです。
学問と実践を一つのものとして考える、
先人の言葉を自分自身の具体的な出来事に照らし合わせて考えていくことで、
昔の人の言葉が今の世の中にも生きてくる、
そんな「学問」をしていくことが大切なのです。
学問を捨てて実践を重視するのであれば、
先人が否定した「学問」を否定できるほどの本物でなければならないのです。
人前に立って「これぞ本物だ」と思わせるほどでなければ、
先人に恥をかかせることになってしまうのです。
本物とは今の時代でいえば「その道のプロ」に当たります。
そんな人を目指していくことが大切なのです。
つまりは学問も実践も、突き詰めれば同じである、ということです。
今回、南郭子?(なんかくしき)が天籟の話をしたのは、
「我を忘れる」という境地、自分と他者との間の境目がない境地、
それをさらに突き詰めて、
「自分というものがもともと存在しない境地」になることが
大切だということを述べるためなのです。
「自分と他者を分けることがない」とはどのようなことかというと、
人と人との違いを考えていけば一卵性の双子でもどこまでも違うものですが、
人というものの共通点に注目すると、
どんな人も「欠点も長所もある存在」であるということです。
『大学』の中で人付き合いの要点は、
「好きな人の短所を知ること」と
「嫌いな人の長所を知ること」と述べています。
「きちんと修養を積んだ君子はどんな人でも信頼して、しかもだまされない」
と、『論語』を読み間違えて、そんな風に考えてしまう人がいますが、
君子はそんな人智を越えた「超人」ではないのです。
君子とは日々の修養によってきちんと近づいていけるもので、
神様のように崇めて「自分はとてもそれには及ばない」
などと考えるものではないのです。
深い熟練が必要だけれどもいつしかできるようになる、
だから日々の修養をして目指していこう、それが君子という存在なのです。
孔子の弟子の顔回(がんかい)も三十代で若くして亡くならなければ、
君子になっていたのです。
どんなときにもどんな人もその人の言葉を鵜呑みにするように
信頼するというのは難しいだけではなく、それをしてはならないのです。
世の中には上手いことを言って近づいてきて人をだます、
そんな人もいますし、本当に信頼できる聖人であっても、
時に間違う時があるからです。
古代の帝王である堯(ぎょう)は儒学の世界では聖人ですが、
彼も間違えた時があるのです。
川が氾濫して洪水になった時に、
彼は鯀(こん)という人物に治水工事を担当させました。
堯自身は他の人に任せたかったのですが、
周囲の家臣たちは揃って鯀を推挙したからです。
ところが治水工事に失敗して、天の神である天帝(てんてい)に
鯀は殺されてしまいました。
その後、その当時に堯を補佐していた舜(しゅん)は、
彼が帝位に就いた後に鯀(こん)の息子の禹(う)を抜擢して、
治水工事を任せました。
禹は舜の期待に応えて自分の心身の苦労も忘れて職務に励み、
無事に治水工事を完成させました。
酷なようですが、堯にも任命責任があると思います。
本当に適材を要職に就けるためには、
周囲の反対を押し切ってでも他の人を就けるべきだったのです。
舜は鯀(こん)の息子を後任につけるという、
周囲の反対も厳しい中で抜擢したのです。
聖人でも間違いは起こりうるのです。
そんな時にきちんと対処する必要があるのです。
これも「好きな人の欠点を知る」ということです。
一方で、どんなに悪い人でもいい所が一つ位はあるわけで、
そういう所があるからこそ、そんな人の味方をする人たちもいるわけです。
そんな人をもしあからさまに疑うことがあれば、
その周囲の人たちは正確な事情をわきまえていないこともあって、
こちらに批判の矛先を向けることもあるわけです。
小人は徒党を組むのも上手いですので、
君子であっても思わぬトラブルに見舞われることもあります。
そういう所できちんと周囲の人に対処をするには、
「嫌いな人の長所」や、あるいは「好きな人の短所」を
理解できるほどの公正さを持つことができれば、
ことさらに疑ったり、人の話を鵜呑みにしたりすることなく、
適切な応対の方法をあらかじめ準備することもできるのです。
もしそれでもその人がこちらを抗議してきたとしても、
周囲の人もその人の長所をきちんと踏まえていることを
理解していれば、こちらに対して悪意を抱いていたとしても、
うかつには手出しはしづらいのです。
このように自分と他者、好きな人と嫌いな人のように
一見全く異なるものでも、その共通点を探っていくことで、
それらの物事のさらに奥深い所を理解していくことができる、
これが荘子が天籟(てんらい)という言葉を使って説明した
万物斉同(ばんぶつせいどう)という言葉の意味になっているのです。
お疲れ様でした。最後まで読んでいただいて、深く感謝いたします。
今年もしっかりと学んでいきます。
(了)
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2013年01月29日
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●本題その二(天籟の話をした理由):
もう一つの疑問は、子?(しき)がなぜ天籟(てんらい)の話をしたかということです。
それはこの道についての説明が、この篇のテーマである
万物斉同(ばんぶつせいどう)という言葉につながっているからです。
この説明のために、この天籟を儒学者がどのように解釈していたかを
見ていくことで、元々の荘子の考える天籟、
そして万物斉同の中身に迫っていくことにします。
まず、清の学者の陸樹芝(りくじゅし)の注釈によりますと、
天籟とは「無極(むきょく)にして太極(たいきょく)」という言葉で
説明することができる、と述べています。
「無極(むきょく)にして太極(たいきょく)」とは、
宋の時代に起こった儒学の哲学である宋学(そうがく)と、
後に南宋の朱熹(しゅき)がまとめた朱子学(しゅしがく)の中心的な概念です。
この部分を調べるために、 Facebook の友人に持ってきてもらった資料の一つ、
『朱文公易説(しゅぶんこうえきせつ)』を調べていました。
これは朱熹の語録である『朱子語類(しゅしごるい)』と
彼の文集の中から易に関する部分だけをまとめたもので、
とても便利です。
その書の「太極」の篇の中にある、朱熹の論敵で、後の陽明学の元となった
陸九淵(りくきゅうえん:字(あざな)の象山(しょうざん)の方が有名です)の
批判に答える長文の手紙の中に、わかりやすく載っています。
かいつまんで説明していきます。
王弼の考えでは太極(たいきょく)のご先祖に無、
つまり道が存在するということですので、
儒学者の側からすれば『易経』を老荘に人質に取られたようなものです。
唐の時代にはこの王弼の注釈に、学者の孔穎達(くようだつ)が
さらに注釈を付けたものが、科挙の『易経』の教科書として
出てくるほどになっていました。
唐の時代は唐の皇帝と老子の姓が同じく「李(り)」だったことから、
皇帝のご先祖が老子だということになっていましたので、
あまり問題でもなかったのですが、
宋の時代は皇帝の姓は「趙(ちょう)」でしたので、
そんな特別な事情もなく、儒学者たちは
この問題をクリアすることを考えていきました。
宋学の有名な学者の一人で、朱熹が私淑した
北宋の儒学者の程兄弟の二人の家庭教師をしていた、
北宋の周敦頤(しゅうとんい)は、
「無極(むきょく)にして太極(たいきょく)」という言葉を用いて乗り越えようとしました。
これに対して批判をしたのが陸九淵(りくきゅうえん)です。
彼は「無極」という言葉は老子の言葉であり、
儒学の聖人の教えに老荘をまじえるとはとんでもないことだ、
という批判をしました。
それに対する朱熹の答えは、無極とは「極まった所のない万物の始まり」を指し、
それが太極であるということを表している、
つまりあらゆる物事の共通の祖先は太極であり、
それ以前に老荘が述べているような太極以前に無のようなご先祖は無い、
ということを示しているに過ぎないのだ、ということです。
「無極にして太極」という概念の元では太極から陰と陽の二つが出てくる時に、
太極や陰と陽、そこから生まれるあらゆる物事の本体部分を「気(き)」と呼び、
陰と陽の「気」が万物を生み出すために介在するものを「理(り)」と呼んでいます。
これが朱子学の概念である「理気二元論(りきにげんろん)と呼ばれるものです。
あらゆる物事、つまり「気」の間に存在して、
あらゆる物事を人間の身体のように、
まとまった一つのように働かせている「理」とは、
まるで何か実体があるようでいて、「そんなもの(実体)はありしない」、
これが朱子学流の天籟の説明なのです。
朱熹はこの概念から、儒学の経典の四書五経の四書の一つである
『大学(だいがく)』の中で述べられている「慎独(しんどく)」という言葉を
説明しています。
「慎独(しんどく)」とは「独りを慎む」、
つまり誰も見ていない所で悪いことをしないということ、
それが人前でよいことをする時の基本となる、
そういう言葉ですが、
朱熹はさらに突き詰めて考えて、
悪いことをする気持ちが起こった時に反省をしていくことで、
自分の行いを正していくことができる、という風に考えました。
悪いことをする気持ちが芽生えた時に反省することを、
物事が起こる前の段階で、心の中を正しくするという意味で
「未発(みはつ)の中(ちゅう)」と名づけ、
これによって行いが正しくなることを、
物事が起こった時にも行いが適切に鳴るという意味で
「已発(いはつ)の中(ちゅう)」と名づけました。
孔子は政治の中で悪い事態が次々に起こる前に、
あらかじめ準備をしていくことが何より大切だと述べており、
老子では、悪いことが起きる前に芽の段階で積んでおくように
政治を行うことで、大手術が必要な事態を避けよとあります。
どちらもいろんな物事が起こる初めの段階、
「未発」の段階で手を打っていくことが大切だ、ということになります。
これと同じように、いろんな物事が枝分かれする前の段階に注目することで、
物事の本来の意味がわかってくる、ということがあります。
これが万物斉同(ばんぶつせいどう)の考え方につながっていきます。
(その六へ続きます)
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