玄齋詩歌日誌

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源氏物語・賢木

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源氏物語の「賢木」の巻です。
原文を現代語訳して、作中の漢詩や短歌を解説しています。

この巻はすべて訳し終えています。
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右大臣が源氏と尚侍(朧月夜の君)との出来事を、娘の皇太后(もと弘徽殿の女御)に話す場面です。


ここからが本文です。



右大臣は、思ったことを胸の内に隠しておくことのできない性分で、さらに老いのひがみさえも
加わっていたので、一体どうしてためらったりするでしょうか。源氏と尚侍の一件を、
ずけずけと皇太后(もと弘徽殿の女御、右大臣の娘)にも訴え申し上げました。


「かくかくしかじかのことがあったのだ。この懐紙の字は右大将(源氏)のものだ。
 昔は私が油断をして、大将が娘(尚侍、朧月夜の君)のもとに通うことになってしまったのが
 始まりではあるが、大将の人格に免じていろいろな過ちを許して、

 『そのまま彼を婿に迎えようか』

 と源氏に伝えたときには、娘のことを心にも止めずに、気にくわない態度を示していたので、
 私も心中穏やかでない気持ちになっていた。それでも、

 『これも前世からの宿縁なのだから(二人は結ばれてしまったのだ)』

 と思っていたので、娘(尚侍)が汚れてしまったとしても、帝(朱雀帝)はお見捨てなさるまい
 とお頼み申し上げて、このように、当初の通りに後宮へ差し上げたけれども、やはり帝にも
 ご遠慮があって、娘を誰憚ることない立派な女御とお呼びになられないことをさえ、
 物足りなく残念に思っていたのだ。そこへまた、このようなことが加わってしまっては、
 私は更に辛い気持ちになってしまったよ。好色は男の常とは言いながらも、大将(源氏)も、
 大変ひどい御方ではないか。さらに斎院(朝顔の姫君)にも手を出して、こっそりと恋文を
 交わしたりなどして、怪しいことなどが人の噂に上っている事も、国のためだけではなく、
 大将御自身のためにも、良くないことであるから、

 『いくら何でも、そのような思慮分別のないことを、(源氏は)することはないだろう』

 と私は思い、彼(源氏)の

 『当代きっての博識者』

 として、一世を風靡している様子を、格別なものと思っていたから、
 大将のお心を疑うことはなかったのであるが・・・」


などと父の右大臣が言っていると、娘の皇太后は、もともと源氏を憎むことが
いっそうこの上ない気持ちを持っておりましたので、とても不愉快な気持ちになって、


「皆は帝のことを帝と申し上げてはおりますが、帝(朱雀帝)は昔から、多くの方に見下されて
 おりました。先頃辞職した左大臣も、またとなく大切に育てられた一人娘(葵上)を、
 源氏の兄君の東宮でいらっしゃる方(現在の朱雀帝)には差し上げずに、弟君の、
 まだあどけなさの残る源氏の、元服の添臥(そいぶし)役に取り立てて、


  (注)添臥(そいぶし): 東宮、皇子などの元服の夜に、添い寝した女性のことです。
   公卿の娘が選ばれ、その女性がそのまま正妻になるとされています。


 また、あの子(朧月夜の君)も、

 『宮仕え(東宮の後宮)に』

 と、私もそう願っておりましたが、源氏とのばかばかしい有様になってしまったのです。
 そうであるのに、当時は誰一人として、

 『けしからぬことだ』

 などと源氏のことを考える者がいたでしょうか。(右大臣の)一門の者は全員、あの方(源氏)に
 好意を持っていたものの、(源氏を婿にという)その願いが叶わなくなったからこそ、
 あの子は宮仕えに出るようになったのです。それで私はあの子をかわいそうに思って、

 『どうにかして、そのような宮仕えであっても、妹(朧月夜の君)を他の人に劣らぬように
  してやろう。とても憎らしいあの人(源氏)に見られるときもあるのだから』

 などと私は思っておりました。しかし、あの子(朧月夜の君)はいまだにこっそりと、
 あの子の心惹かれる方(源氏)に、心を寄せているのでしょう。斎院と源氏のことは、
 なおさらあり得ることでしょう。源氏の行為は何事につけても、帝にとって、
 安心できないように見えるのは、(源氏は)次の東宮の御代をこそ期待している方なのですから、
 当然のことでしょう」


と、皇太后は一方的に言い続けていたので、右大臣はそこまでは思うことができずに、
源氏を気の毒に思い始め、

「なぜ、この娘(皇太后)に話してしまったのだろうか」

と思ったので、


「しかし、しばらくの間は、この事は秘密にしておこう。内裏にも申し上げてはいけないよ。
 今回のことは、あの子(朧月夜の君)に罪があるけれども、帝があの子をお見捨てにならない
 ことを頼りにして、あの子が甘えているのだろう。私が内々に今回のことを収めて、それでも
 あの子が聞かないようであれば、その責任は父親の私自身が取ることにしよう」


などと、右大臣は取りなしましたが、特には皇太后の機嫌は直ることはなく、


「このように、自分と妹が同じ邸内にいる中で、人目を忍ぶ余裕もない中で、
 隠すこともなく、源氏があのように妹の所へ忍んでいくのは、わざと私を
 軽蔑してばかにしているからこそなのでしょう」


と、皇太后が思いこんで、ますます腹が立って気にくわなくなって、


「この機会に、しかるべき事を構えるには、いい便りですね」


と思って、源氏を追放することを思いめぐらせていたのでした。



ここまでが本文です。


右大臣も娘の皇太后の性格を理解していればこそ、話すべきではなかったでしょうね。
言った後で、右大臣も後悔していますね。やはり軽率ですね。

皇太后(弘徽殿の女御)は相手の立場を考えずに、自分のしてきたことをすべて善意だと思って、
相手が期待する応答を返さないと相手を意地悪く思う、大変困った性格のように思います。

こんな人が親戚にいても大変ですが、姻族(姑など)にいると、
非常に大変な気苦労を背負うことになりますね。
ましてや目上の人にこのような人がいると、まさに災難ですね。


今回で「賢木」の章は終了です。
以下、「花散里」の章以降を、マイペースで更新していきます。
いつも読んでいただいて、ありがとうございます。

右大臣の郷里で、その娘の朧月夜の君と源氏が密会をしていた場面です。


ここからが本文です。



源氏と中将が歌遊びをしていた頃、尚侍(ないし: 朧月夜の君)が郷里に帰っていました。
彼女は以前から瘧病(わらわやみ)に長い間苦しんでいたので、

「まじない(呪術による治療)などを(禁忌のある宮中を離れて)郷里で気楽に行おう」

と思ってのことです。


  (注)瘧病(わらわやみ): 子供に多い病気で、マラリアに近い熱病といわれています。
   「疫病(えやみ)」や「瘧(おこり)」とも呼ばれます。


加持・祈祷などもさせて、病気が快方に向かったので、誰もが嬉しく思っていました。

その頃に、尚侍はいつものように、

「これは滅多にない機会ね」

と、源氏とお互いに示し合わせて、無理をおして毎夜毎夜、二人でひそかに逢っていました。
若い盛りの名家の面影を持っている人が、少し病で痩せている容貌は、いかにも美しいものでした。

皇太后(もと弘徽殿の女御。朧月夜の君の姉)も、尚侍と同じ所にいる頃でありますので、
源氏は聞こえてくる物音などを、とても恐ろしく思っていました。

しかし源氏は危険の多いこのような状況であればこそ、なおさら恋心のつのる
性癖を持っているので、ひどく人目を忍んででも、逢瀬を重ねていきました。

その様子を見た女房たちもあったのでしょうけれども、女房たちは厄介なことに
なったと思って、皇太后にその様子を申し上げる者はおりませんでした。
(皇太后と尚侍の)父の右大臣も、やはり二人の関係を予期してはいませんでした。


雨が突然にものすごい勢いで降ってきて、雷もひどく鳴り響いていたある日の夜明けに、
右大臣の子供たちや皇太后に仕える役人たちが騒ぎ立てて、あちらこちらに集まっていました。
女房たちも雷におびえて、尚侍の部屋の近くに寄り集まってきました。

源氏は何とも困ったことだと思って、帰っていくことも出来ずに、夜が明けてしまいました。
尚侍の帳の周りにも、女房たちが何人も並んで座っていましたので、
源氏は(自分が見つかるのではないかと)とても胸がどきどきしていました。
源氏と尚侍の事情を知っている女房の二人ほどは、途方に暮れていました。

雷が鳴り止んで、雨が少し止んできた頃、右大臣がやって来て、
まずは皇太后の部屋を訪ねていきました。にわか雨に紛れていたので、
源氏も尚侍も、それに気づくことはありませんでした。

右大臣は軽率にも尚侍の居間に入り込んで、御簾を上げながら、

「具合はどうだい。とてもひどい昨夜の雨の様子に、お前の身を案じながらも、
 今まで見舞いにも来ることはできなかったのだよ。中将や宮の亮などは、見舞いにやって来たかい」


などと言う右大臣の様子には、早口で落ち着きがありませんでした。
源氏はこのような危機においても、舅の左大臣の様子をふと思い出して、
この右大臣の様子はそれと比べようのないほどに劣っていると思って、苦笑していました。
本当に、きちんと居間に入ってから話をすれば良かったのですが。

尚侍は、とても困ったことになったと思い、ゆっくりと帳台の外まで膝行って出てきました。
右大臣は尚侍の顔がとても赤くなっているのを見て、

「まだ、熱で苦しんでいるのかい」

と、心配して、

「なぜお前は普段と違ってそんな顔色をしているのだい。物の怪は本当に面倒なものだね。
 加持・祈祷をもう少し期限を延ばしてさせるべきだったね」

などと右大臣が言っていると、二藍の薄い色の男物の帯が、尚侍の衣にからみついてきているのを
右大臣が見つけて、

「変だな」

と思い、また、懐紙の、(見慣れぬ筆跡で)いろいろと字を書いているものが、
几帳の下に落ちていました。

「これはいったい、どうしたことなのだろう」

と、右大臣は驚いて、

「これは誰の字のものなのだろう。見慣れない物のようだね。私にお寄越しなさい。
 これを取って、誰の物かを確かめてやろう」

と父親に言われて、尚侍は振り返ると、彼女もそれを見つけました。
父親をこれ以上ごまかす術もないので、どのようにも返事ができませんでした。
尚侍が我を忘れた様子でいるので、

「子供ながらに、『恥ずかしい』と思っているのだろう」

と、右大臣ほどの方であれば、思いめぐらせなければいけないのですが、
とてもせっかちで、落ち着きのない父親である右大臣には、そのような
配慮を巡らす余裕もなく、懐紙を手に取ったまま、几帳から奥を覗いてみると、
とてもなよなよとして、(悪事が発覚して)気兼ねする様子もないような男が、
尚侍の側で添い寝をしているのが見えました。

右大臣に見られて初めて、そっと顔を隠して、あれこれと身を隠そうとしていました。

右大臣は情けなく悔しく、不愉快に思いましたが、面と向かっては、この男に言葉を告げることは
できませんでした。腹が立つあまりに目がくらむほどの気分になったので、この懐紙を持って、
皇太后の寝殿へ渡っていきました。

尚侍は自他の区別もなくしたほどに思い乱れて、死にそうな気がしていました。
源氏も彼女を気の毒に思いながら、

「とうとう私のくだらない振る舞いが積もり積もって、人の非難を受けなければならなくなった」

と思っていましたが、女君(朧月夜の君)の気の毒な様子に、いろいろと慰めの言葉をかけていました。



ここまでが本文です。

とうとうばれてしまいました。以前は御所の中でも危ない橋を渡っていましたが、
さすがに右大臣の実家では発覚してしまいますね。

右大臣のうろたえる様子を、紫式部はいろいろと悪く書いていますが、
僕には右大臣をとてもかわいそうに思いました。


次回は、右大臣がこの事実を娘の皇太后(もと弘徽殿の女御)に伝える場面です。
ここは皇太后の実家でもあるので、激しく怒ることが予想されます。

それがもと今朝開けたる初花に劣らぬ君がにほひをぞ見る   三位中将(頭中将)

我はけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり    紀貫之(古今集 物名 436)

時ならで今朝咲く花は夏の雨に萎れにけらし匂ふほどなく   源氏



解説

源氏と中将が人を招いて歌遊びをする場面です。
韻塞ぎ(いんふたぎ)をしたり詩歌を読んだりして遊ぶ場面です。


  (注)韻塞ぎ(いんふたぎ): 平安時代の貴族が行った遊戯の一種で、
   漢詩の中の韻を踏んでいる部分の字を隠して、それを当てさせるという遊びです。


ここから本文です。



夏の雨が静かに降って、誰もが手持ちぶさたな気持ちになっていた頃に、
三位中将(もと頭中将)は適当な歌集などを供の者に沢山持たせて、
源氏の邸の二条の院を訪れました。

源氏も邸の文殿(ふどの: 書庫)を開けるよう命じて、まだ開いたことのない
御厨子(みずし: 調度品・書画などを納める、両開きの扉がついた置き戸棚)の
中にあった見慣れぬ古集の中でも、趣のあるものを少し選び出させて、
その道(詩文)に精通している者たちを、特別な招待のようにはせずに、多く召し出しました。

殿上人(てんじょうびと: 五位以上の高官)や大学寮(だいがくりょう: 官吏を養成する学校)の
者たちも、とても多く集まって、左右に分かれるように座らせました。

賭ける物なども、二つとないほどにすばらしい物を用意して、お互いに競争していました。
しだいに韻塞ぎをしていくうちに、難しい韻の文字がとても多く残ってきて、
詩文の技量に覚えのある博士たちさえも困っている何箇所かで、
源氏がその韻字を言い当てる様子に、格別に優れた学識を見ることができました。

「どうして源氏の君は、これほどにまで完全なお方なのだろう」

「やはり、そのような運命にお生まれなさっているので、このように万事に渡って、
 人に優れておられるのでしょう」

などと、人々は褒め称えておりました。最後には、右の(中将の)方が負けてしまいました。


二日ほど経って、中将は負け業(まけわざ: 勝負事で負けた方が、勝った方に
贈り物やごちそうをすること)をしました。あまり仰々しくはせずに、
趣のある檜破子(ひわりご: 檜で作った弁当箱)や賭け物などを、いろいろと持参しました。

今日も詩文の腕前のある者たちを、多く召し出して、漢詩などを作らせました。

階段の前の薔薇の花が、ほんのわずかに咲いて、春や秋の花盛りの頃よりも、
しとやかな趣がある中で、人々はのんびりと遊んでいました。


中将の子供の、今年初めて殿上に昇ることが許された、八・九歳ほどの、
すばらしい音で笙の笛を吹いたりする少年を、源氏はとてもかわいがって
大切にしていました。この少年は(右大臣の)四の君の次男に生まれました。
右大臣の孫でもあるので、世間の人もとても思いを寄せており、格別に大切にされていました。
気立ても才気があり、顔かたちもかわいらしくて、今日の遊びが少しくだけてきたところで、
この子が高砂を、高い声で歌い出しました。その姿は何ともかわいらしいものでした。


  (注)『高砂』は、古代歌謡の催馬楽(さいばら : 畿内に伝わっていた民謡が、
   宮廷歌謡に変わったもの)の曲の一つです。

   参考程度に高砂の詞と訳を付けます。


   高砂の さいささごの 高砂の 尾上に立てる 白玉玉椿 玉柳
   それもがと さむ 汝(まし)もがと 汝もがと 練緒(ねりを)染緒(さみを)の
   御衣架(みそかけ)にせむ 玉柳 何しかも さ 何しかも 心もまたいけむ 百合花の
   さ 百合花の 今朝咲いたる 初花に 逢はましものを さ 百合花の

   訳: 高砂の高い山の峰に立っている、白い美しい玉のような椿の花や柳の木よ。
    それがあればなあと、そんな君がいてくれたら、君がいてくれたらと思い、
    ねじって染めた糸で織った衣をさっと掛けているような、玉のように美しい柳よ。
    どうしてそうなのだろうか、そうなのだろうか。心もまた生きていたのだろう。
    小さな百合の花の、今日初めて咲いた花に、逢うことができたらなあ。


大将の君(源氏)は、自分の衣を脱いで与えました。

普段より酔ってうち解けた風の源氏の顔は、似ているもののないほどの美しさでした。
源氏は薄物の直衣や単衣を着ていて、(薄い衣を通して)透き通って見える肌の色は、
なおさら美しく見えました。そんな姿を年老いた博士たちなどが遠くから見ていて、
涙を流していました。


「逢はましものをさゆりばの(小さい百合の花に逢いたいものだ)」

と、高砂の歌の終わりのところで、中将は杯を持って源氏の元へやって来ました(一首目)。


それがもと今朝開けたる初花に劣らぬ君がにほひをぞ見る   中将

訳: それがあればなあと待ちこがれていた、今日初めて咲いた薔薇の花にも劣らない、
 君の美しさを見ているようです。


  (注)上の短歌は、以下の短歌の引用です(二首目)。

   我はけさうひにぞ見つる花の色をあだなるものといふべかりけり    紀貫之(古今集 物名 436)

   訳: 私は今朝の薔薇に見えていた花の色は、移り気なものだと言うことができるに違いない。

   単に源氏の美しさをほめているわけではないようですね。


源氏はほほえみながら杯を取りました(三首目)。


「時ならで今朝咲く花は夏の雨に萎れにけらし匂ふほどなく   源氏

 訳: 季節外れに今日咲いた花は、夏の雨で萎れてしまったようです。香りを放つ間もないままに。


 衰えてしまっているのですよ」


と言って、源氏は中将の言葉を、陽気にはしゃいだ末の戯れの言葉として受け取ったことを、
中将は非難しながら、源氏になおも杯を勧めていました。

沢山できたらしい詩歌を、このような折にできた、まともでない作品を、沢山書き付けることは、

「不注意なことだ」

と、紀貫之が忠告しており、乱れて見苦しい作品が多いので、(紫式部は)書くことをやめておきます。


その詩歌はすべて、源氏をほめているものだけを、大和のもの(短歌)も唐のもの(漢詩)も、
作り続けていました。源氏も心地よくなって得意になったのか、

「文王の子、武王の弟」

と、史記の一節を口ずさむ、その源氏自身が名乗ることは、何とも立派なものです。さらに、

「成王の何」

と、続きを口ずさもうとしました。しかしそれだけは、源氏も口にできないのでしょう。


  (注)「文王の子、武王の弟」は、『史記』の魯周公世家の一節です。この言葉で示されて
   いるのは、周公旦(しゅうこう たん)です。彼は殷の紂王(ちゅうおう)を倒して
   周王朝を立てた兄の武王の死後、武王の子の成王を補佐して周王朝の制度を整えた人物で、
   孔子が夢に見るほどに理想とした人物です。

   文王を桐壺院に、武王を朱雀帝に、周公を源氏自身に見立てたのでしょう。
   くだけた酒の席とはいえ、何とも大胆な発言ですね。

   この後は「成王の叔父」と続くのですが、そうなると東宮を成王のように見てしまうので
   (実際には東宮は源氏の不義の息子なので)、そのようなことを言うことはためらった
   ということなのでしょう。


兵部卿の宮も、源氏の二条の院の邸へやって来て、ともに管弦の遊びをしていました。
こちらも風流な趣味を持つ宮様でしたので、源氏とは風流な間柄でした。



ここまでが本文です。


戯れの席で、大胆な発言も飛び出すようなこともありましたが、全体として寂しげな印象ですね。

中将の子は右大臣の孫でもあって、唯一の明るい話題を提供する存在ですね。
源氏もとてもかわいがっているのでしょうね。


次回は源氏と朧月夜の君との関係が、ついに右大臣にばれてしまいます。転落の危機です。

朝廷の官吏の人事異動によって、源氏たちの一族の凋落が見られる場面です。


ここからが本文です。



(春の)司召(つかさめし)の時には、この中宮(藤壺)に仕えている人たちは、
当然に得られるはずの官位も得られず、藤壺の位階についても、当然あるはずの
加階さえもなく、歎く者たちの数はとても多くおりました。


  (注)司召(つかさめし): 「司召の除目(じもく)」の略で、毎年定期的に
   行われる都にある官庁の官吏を任命する儀式を指します。秋(八月)は中央官の
   任免を、春(一月)は地方間の任免を評議します。

   この物語では、春でも中央官の任免も行っているので、春にも中央官の任免を
   決めていた平安時代中期以前の時代設定になっています。


このように藤壺が出家しても、

「ここまで早くは(処置がなされないだろう)」

というほどに、すぐに中宮の位を去って、俸禄の給付が停止することはないはずなのに、
出家を口実にして、待遇が変ることが色々とありました。(藤壺)がすべて以前に
捨ててしまった世の中ではありますが、藤壺に仕えている方々が、頼りとするところのない様子で、

「切なくて悲しい」

と思っている様子などを見ていると、やはり、藤壺の心の動揺する時はありましたが、

「私自身の身はどうなったとしても、東宮が帝になる御世を無事に迎えることができれば、
 それでよいのです」

とだけ藤壺は思いながら、勤行に気を緩めることなく勤めておりました。

ひそかに、東宮のことを気がかりに、不吉なできごとのこと(源氏との過ち)を思っていたので、

「私にその罪を負わせて、東宮をお許し下さい」

と、仏を念じ申し上げて、万事のことを慰めておりました。


大将(源氏)も、そのように藤壺の気持ちを察して、全くその通りだと思っておりました。
この源氏に仕えている者たちも、藤壺に仕えている者たちと同様に、辛いことだけを
経験していましたので、源氏は世間に対して面目が立たないと思って、自邸の二条の院に
引きこもっておりました。


左大臣も、公人としても私人としても、昔とすっかり変ってしまった世間の有様に、
何事にも億劫な気持ちを覚えて、致仕の表(ちしのひょう: 辞表のことです)を奉りました。
しかし、帝(朱雀帝)は、亡き父院のご時世に、院が

「この上なく重要な御後見人」

とお考えになっていて、

「長い御世の、国家の柱石」

と御遺言なされたことをお考えになって、左大臣を見捨てることはできないと思われておりましたので、

「亡き父の御遺言が無駄になってしまうではないか」

とお思いになって、辞表を何度もお返しになりましたが、左大臣はなおも強いて辞意を申し上げて、
ついには自邸にこもってしまいました。それで今は右大臣の一族だけが、よりいっそう栄える様子は、
この上ないものでした。国家の柱石とされていた左大臣が、このように世間から退いてしまったので、
帝も心細く思われて、世間の人も、思いやりのある人たちだけは嘆き悲しんでおりました。


左大臣の子供たちは、誰ということなく、人柄は良く、国に用いられて満足そうに過ごして
おりましたが、今ではすっかり勢力が衰えてしまって、三位中将(昔の頭中将)なども、
世間のことに対して物思いに沈んでいる様子は、この上なくひどいものでした。

中将の妻である(右大臣の娘の)四の君の元にも、中将は以前と同じく、
途絶えがちに通いながら、ぞんざいな扱いしかしておりませんでしたので、
舅の右大臣は、中将をうち解けた婿の中には入れておりませんでした。
それで、

「思い知れ」

とばかりに、今回の司召(つかさめし)では、中将は昇進から漏れておりました。
しかし中将はそのようなことには心を留める様子はありませんでした。
大将(源氏)でさえもこのように勢力が衰えてしまって、世の中は空しいものだと思っているのに、

「(私の不遇は)なおさら、当然のことだ」

と思っていて、源氏の邸にいつも通っていって、学問や遊びなどを、源氏と共にしておりました。


源氏と中将は、若いころから、気が触れるほどに張り合っていたことを思い出して、
お互いに今でも、ちょっとしたことが起こるたびに、やはり同じように張り合っていました。

二人は春秋の御読経(しゅんじゅうのみどきょう)はもちろんのこと、それ以外にもいろいろな
尊いことを、人を招いてさせたりしていたり、自分たちと同じように、不遇に遭っていて
暇にしていた博士たちを呼び寄せて、詩を作ったり、韻塞(いんふたぎ)をしたりと、
気晴らしのことなどを、心のままに行っていて、官吏の仕事はほとんどしておりませんでした。

このように思い通りに遊んでいる様子に対して、世間の人の中には、
面倒なことを言い始める人々もいることでしょう。


  (注)春秋の御読経(しゅんじゅうのみどきょう): 季の御読経(きのみどきょう)のことで、
   春(二月)と秋(八月)に、内裏で各四日間にわたって、大勢の僧侶を招いて『大般若経』を
   講ずる行事のことです。当時は宮中のみならず貴族の家でも催されていました。


  (注)韻塞(いんふたぎ): 平安時代の貴族の文学的な遊戯の一種です。
   漢詩の中の韻字を隠して、詩意からそれを言い当てるものです。



ここまでが本文です。


藤壺・源氏・左大臣が、ついに表舞台を離れてしまいました。
桐壺院のご遺言も、時勢の流れには抗しきれないのでしょうね。

源氏はすっかり世間に背を向けて、風流な生活を行っています。
風流な生活を楽しんでいるとはいっても、内心は苦しいでしょうね。

音に聞く松が浦島今日ぞ見るむべも心あるあまは住みけり  後撰集・雑一 1093 素性法師

ながめやる海女の住処と見るからにまづしほたるる松が浦島   源氏

ありし世の名残りだになき浦島に立ち寄る波のめづらしきかな   藤壺



解説


藤壺の出家から、年が明けた頃の話です。


ここからが本文です。



源氏は自邸の二条の院へ帰ってきても、(紫上に会わずに)自分の部屋にこもって
一人で横になっていましたが、眠ることができませんでした。

源氏は人生が嫌なものに思われてきましたが、(自分も出家したとすれば)
東宮のことだけは気の毒だと思っていました。

「『せめてこの子(東宮)の母親(藤壺)だけでも、表向きの後見人として、そばにおかせよう』

 と、桐壺院が仰せになっておりましたが、母宮さま(藤壺)は世間の辛い圧力に
 堪えることができずに、このように御出家なされたので、元の地位のままでおられることも
 できなくなってしまわれた。この上、私までが東宮を見捨ててしまうことになっては・・・」

などと、源氏は何日も夜通し考え込んでいました。さらに、

「今は、宮様(藤壺)のために尼僧用のご調度品の準備をしなければ」

と思い、

「年内にすべて整えよう」

と思って、配下の者に急がせることにしました。


王命婦も、藤壺のお供をして尼僧になったので、源氏はこの方へも配慮をして、
(尼僧用の)見舞いの品を贈りました。そのことを詳細に語るのは、
あまりに仰々しくなるので、(語り手は)省略しているようです。

そうではありましょうが、このような時にこそ、すぐれた詩歌などが出てくるでしょうに。
(省略しているのは)何とも物足りないものです。


  (注)上記のこの部分は、紫式部が伝承めかして作り上げた部分でしょうね。


源氏が藤壺の元に参上した際も、今となっては、藤壺は源氏に気兼ねをする部分も薄らいで、
藤壺が自ら源氏に話しかけるときもありました。源氏が心の中で思い続けていることは、
決して心の中から離れていったわけではありませんが、言うまでもなく、藤壺が尼になった今では、
当然に考えてはならないことだと、源氏は自身に言い聞かせていました。



年が明けたので、諒闇(りょうあん: 帝が親の喪に服す一年)も明けて、宮中では、
賑やかに内宴(ないえん)や踏歌(とうか)などが行われているのを藤壺は聞いていると、
しみじみと悲しい気持ちになっていました。


  (注)内宴(ないえん): 陰暦正月二十日ごろの子(ね)の日に、宮中の仁寿殿(じじゅうでん)
   で催された内々の宴のことで、祝い酒が一・二献出された後に、若菜の羮(あつもの : 熱い汁物)
   を賜ります。

  (注)踏歌(とうか): 年始に宮中で行われた歌舞の行事のことです。中国から伝来したもので、
   歌舞に巧みな男女に、新年の祝詞を歌い舞わせたものです。紫宸殿(ししんでん)で十四日か
   十五日に男踏歌を、十六日に女踏歌を行います。十六日の女踏歌のことを
   「踏歌の節会(とうかのせちえ)」と呼びます。

  このどちらの行事も、尼僧となった藤壺には無関係のものです。


藤壺は勤行などをひっそりと行いながら、後世のことだけを考えていると、
(尼僧の身であるから)期待が持てるようになり、今までの源氏の煩わしい情炎を離れて、
安心した気持ちになっていました。

藤壺の三条の邸の中にある、毎日の誦経のためのお堂の他、(源氏の二条の院の)西の対の
南の少し離れたところにある、新しく建てられた御堂のところへ行って、特別な勤行をしていました。

大将の君(源氏)は、新年の挨拶に藤壺の元へ参上しました。藤壺はまだ喪中なので、
(三条の邸は)年が改まった感じはなく、邸の中は落ち着いていて、人目も少なく、
宮司(みやづかさ: 中宮に使える職員)たちのうち、藤壺にごく親しいものだけが、
少しうなだれており、源氏がそう見えただけかもしれませんが、気が滅入っているように思われました。

白馬の節会(あおうまのせちえ)だけは、まだ昔と変らないものだと思って、女房たちは見ていました。


  (注)白馬の節会(あおうまのせちえ): 奈良時代から行われた宮中行事の一つです。
   正月の七日に、天皇が紫宸殿(ししんでん)に出御して、左右の馬寮(めりょう: 官馬の馬舎)
   から二十一頭の「あをうま」を南庭に引き出し、年中の邪気を除くものとしてそれを天皇が
   ご覧になり、そのあと宴を行った儀式のことです。「あをうま」は、初めは青毛、
   または青みをおびた灰色の毛の馬でしたが、醍醐天皇のころから白馬に変わりました。
   以後の時代は、文字では「白馬」と書きますが、慣習によって「あをうま」と読みます。


昔は隙間もないほどに、三条の邸に参賀にやってきた上達部(かんだちめ: 三位以上の高官)たちは、
今は道をよけながら通り過ぎていき、向かいの右大臣邸に集まっていくのは、当然のことでは
ありましたが、藤壺は(時勢の移り変わりを)しみじみと寂しく感じていました。

そこへ「一人当千」というような姿で、源氏が強い気持ちで参賀にやってきたのを見ると、
女房たちはわけもなく涙が出て来ました。


  (注)この『一人当千』という言葉は、『涅槃経』純陀品第二の語を引用しています。
   「譬うれば人王に大力士あるが如し、其の力、千に当る。更に能く之を降伏する者
    有ることなし。故に、此の士を、一人当千と称す」

   訳: 「たとえるならば人間の王に大きな力士がいるようなものです。
    その力は千人に相当するほどのものです。決して彼を降伏させる者はおりません。
    よってこの力士を、一人当千と呼ぶのです」


客人(まろうど: 源氏)も、とても身にしむ悲しい気配を感じ、周囲を見回していると、
すぐには言葉が出て来ませんでした。(僧侶の邸へと)すっかり様変わりしたお住まいになり、
御簾の端や、几帳も青鈍色になって、物の隙間からかすかに見えている薄鈍色や、
くちなしの色の袖口などが、かえって優美で、洗練されたもののように源氏は思っていました。


「(この邸と比べれば、)解けてきた池の薄い氷や、岸辺の柳の様子などは、春を忘れていない」

などと様々な感慨を持ちながら源氏は景色を眺めていました。

「むべも心ある」


  (注)『むべも心ある』は、以下の短歌の引用です(一首目)。
   音に聞く松が浦島今日ぞ見るむべも心あるあまは住みけり    後撰集・雑一 1093 素性法師

   訳: 評判の高い(宮城県の)松が浜を今日に見ているのだ。なるほど情趣を解する
    海女が住んでいるものだ。

   源氏は「心あるあま」の「あま」を「尼」の意味で口ずさんでいるのでしょう。


と、源氏がこっそりと歌を口ずさんでいました。そんな様子もこの上なく優美なものでした(二首目)。


ながめやる海女の住処と見るからにまづしほたるる松が浦島   源氏

訳: 物思いをしている海女(尼)の住んでいるところと見るからなのでしょう、
 真っ先に松が浜の塩水の滴が垂れてきます(涙で袖が濡れてしまいます)。


と、源氏は尼(藤壺)に言いました。邸のほとんどの場所を仏に譲っていて、
居間も狭くなっているので、源氏と藤壺との距離は短くなったように感じられました(三首目)。


ありし世の名残りだになき浦島に立ち寄る波のめづらしきかな   藤壺

訳: かつての(桐壺)院の御在世の頃の面影もない浦島(三条の邸)に、
 波(源氏)が立ち寄るのも目新しいことのように感じます。


と、女房に取り次ぐ藤壺の声も、かすかに源氏の方でも聞こえたので、
源氏は涙がほろほろとこぼれるのを堪えることができませんでした。
俗世を離れて仏道に専念している尼君たちに見られるのはきまりが悪いと
思ったので、源氏はもあまり言葉をかけることもなく、退出しました。


「(源氏は)比べるもののないほどに、立派になられたものだ」


「何一つ気がかりなこともなく、世の中で繁栄して、時流に乗っていらした頃は、
 恵まれた天下第一の方でおられたが故に、

 『何かをきっかけにして、無情の世の中を知ることができなさるでしょうか』

 と、私たちは心配しておりましたが」


「今になって、源氏の君はとても御思慮も深く落ち着いておられて、ちょっとしたことにも、
 何となくしみじみしたご様子が寄り添っておられるのは、不似合いで、お気の毒なところも
 ございますね」



などと、老いた女房たちは、泣きながら、源氏を思い慕っておりました。

宮(藤壺)も、今までのいろいろな源氏との出来事を思い出していました。



ここまでが本文です。

藤壺が出家することによって、源氏も藤壺との別れを自覚しつつあるのでしょうね。
そのような切ない気持ちが、源氏の成長として老女房たちに見えたように思いました。


次回は官吏の人事交代の話です。右大臣の側の人々に対して、源氏たちの凋落が見られます。

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