玄齋詩歌日誌

アメーバブログを退会しました。ヤフーブログだけ続けます。よろしくお願いいたします。

源氏物語・賢木

[ リスト | 詳細 ]

源氏物語の「賢木」の巻です。
原文を現代語訳して、作中の漢詩や短歌を解説しています。

この巻はすべて訳し終えています。
記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

月のすむ雲井をかけて慕ふともこの世の闇になほや惑はん   源氏

人のおやの心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな    後撰集 雑一 1102 藤原兼輔

大方の憂きにつけては厭へどもいつかこの世を背きはつべき   藤壺


解説

藤壺が御八講(みはこう)の最終日に出家を宣言したときの話の続きです。


  (注)御八講(みはこう): (前回も説明しましたが、もう一度載せます)
   法華八講(ほっけはっこう)のことで、『法華経』八巻を朝座・夕座に一巻ずつ講じ、
   四日間で全巻を講説する法会のことです。法華八講会(ほっけはっこうえ)とも言います。



ここからが本文です。


亡き桐壺院の皇子たちは、父院の御在世中の(藤壺への御寵愛の深い)様子を思いだして、
現状をいっそうしみじみと悲しく思いながら、皆、弔問の挨拶をしていました。


大将(源氏)は、御八講(みはこう)の席に一人残って、かける言葉も見つからずに、
悲しみに途方に暮れていましたが、

「どうして、(源氏の君は)それほどまでに悲しみにくれておられるのだ」

と、周囲の人に不審に思われるかもしれないと思い、兵部卿の宮や他の皇子たちが退出した後に、
中宮(藤壺: 以下、「藤壺」で統一します)の元へ向かいました。


次第に人々のすすり泣きや狼狽する様子もおさまって、女房たちは鼻をかみながら、
あちらこちらに集まっていました。

月の光は陰りもないほどに輝き、その光に雪が照らし出されている庭の様子にも、
昔のことが思い出されて、源氏はとても堪えがたい気持ちになっていましたが、心を落ち着かせて、

「どのようなご決心から、宮様(藤壺)は、このように突然な出家をなさったのですか」

と、源氏は藤壺に(人を取り次いで)尋ねました。

「ちょうど今、初めて出家を思い立ったわけではありませんが、周囲が騒がしくなってしまうと、
 私の決意が揺らいでしまうと思いましたので(あえて言わないでおりました)」

と、藤壺は例の命婦などを通して源氏に返答しました。


藤壺のいる御簾の中の様子や、そこに集まっている女房たちの衣擦れの音を、
大きくさせないように気をつけて体を動かしながらも、悲しみをなだめることが難しくて、
つい漏れ出てしまう声などには、

「これももっともなことだ、とても悲しい」

と思いながら、源氏は聞いていました。


風は激しく吹雪いて、御簾の中の薫香は、香りの奥ゆかしい黒方(くろぼう: 冬の香)が沁みて、
名香(みょうごう: 仏に供える香)の煙も、かすかに感じられました。さらに源氏の衣の薫香までが
混じり合って香っていて、すばらしく、極楽浄土を想像することもできるような今夜の様子でした。


東宮の御使者もやってきました。別れの日に東宮が母の藤壺におっしゃったことを、
藤壺は思いだしてしまい、気丈な様子で悲しみを堪えていることができなくて、
東宮への返答を御使者に伝えることができない様子でした。
そこで大将の君(源氏)が言葉を添えて、御使者に伝えました。


誰も彼も、ここにいる全員は、悲しみに気持ちが落ち着かないくらいの様子であったので、
(周囲に聞かれてはまずいと思って、)源氏は今いろいろと思っていることを、
藤壺に口に出して言うことはできませんでした。

そこで、次のようにだけ藤壺の取り次ぎに言いました(一首目)。


「月のすむ雲井をかけて慕ふともこの世の闇になほや惑はん   源氏

 訳: 月が澄んだ夜空に懸かっている、そんな澄み切った(御出家を決断した)心を
  お慕いしておりますが、この世の中の、子を思う闇にやはり途方に暮れておられるのでしょう。


   (注)上の短歌の『子を思う闇』は、以下の短歌の引用です(二首目)。

    人のおやの心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな    後撰集 雑一 1102 藤原兼輔

    訳: 子を持つ親の心は闇ではないけれども、子供のことを思うときには、
     闇夜に迷うように、理性を失って何もわからなくなってしまうものだなあ。

     藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)は紫式部の曾祖父にあたる方なので、
     この短歌の引用は各所に出て来ます。


と、宮様(藤壺)がお思いになることは、仕方のないことでございましょう。
宮様が出家を決意なさったことを、私はこの上なくうらやましいことと存じます」


そのときには、女房たちが近くに控えているので、源氏は様々に乱れている心の中さえも、
打ち明けることはできませんでした。藤壺は次のように取り次いで返事を出しました(三首目)。


「大方の憂きにつけては厭へどもいつかこの世を背きはつべき   藤壺

 訳: 世間一般の辛いことからは、出家をして逃れましたが、いつになればこの世を
  すっかり捨てることができるのでしょうか。


私の心は、一方では悟っていながらも、他方ではまだ煩悩に悩んでいるのです」


藤壺の返事の半分は、(命婦など)使いの者の配慮(による付け加え)なのでしょう。

源氏は悲しみだけが尽きなくて、胸の苦しい思いをして、藤壺の邸を後にしました。




ここまでが本文です。

源氏は思うことも告げられずに、『子を思う闇』という形で、藤壺との過ちを暗に
後悔しているように思いました。

藤壺は出家をして少し楽な立場になったとはいっても、息子の東宮のことは最後まで
気がかりなのですね。別れの場面を思いだして、返事も出せなかったと言うところに、
子を思う心が表れているようです。


次回は出家後の藤壺の様子です。

別れにし今日は来れども見し人に行き逢ふほどをいつと頼まん   源氏

ながらふるほどに憂けれど行きめぐり今日はその世に逢ふ心地して   藤壺



解説

院の一周忌、法華経の御八講ののち、藤壺が出家をする場面です。


中宮(藤壺: 以下「藤壺」で統一)は、院の御一周忌に続いて、
御八講(みはこう)の準備のために、いろいろと心配りをしていました。


  (注)御八講(みはこう): 法華八講(ほっけはっこう)のことで、『法華経』八巻を
   朝座・夕座に一巻ずつ講じ、四日間で全巻を講説する法会のことです。
   法華八講会(ほっけはっこうえ)とも言います。


十一月一日頃の、御国忌(みこき)の日に、雪がひどく降っていました。

その頃に、大将(源氏)から、藤壺に手紙を送りました(一首目)。


  (注)御国忌(みこき): 国忌(こき)の敬称で、天皇の祖先や天皇の御父母の命日のことです。
   ここでは桐壺院の命日を意味します。


「別れにし今日は来れども見し人にゆきあふほどをいつと頼まん   源氏」

訳: 今日は私の父院とお別れした日ですが、この雪の降る日に、院と来世でお会いするのは
 いつの日になると思えばよいのでしょうか。


どなたにも、今日は悲しみが感じられる日でしたので、藤壺もすぐに返事を出しました(二首目)。


「ながらふるほどに憂けれど行きめぐり今日はその世に逢ふ心地して   藤壺」

 訳: この世に生き続けるほどに憂いが深くなっていきますが、
  時が巡ってこの雪の降る一周忌になった今日は、院の御在世の頃に
  戻っているような気持ちになります。


特別には整えてはいない藤壺の字でしたが、源氏には優美で気高く思われたのは、
源氏の思い入れが強いからなのでしょう。文字が独特で現代風ということはありませんでしたが、
他の人よりは優れた字で書かれていました。

源氏は今日だけは、藤壺のことを忘れて、しみじみとして雪の滴に濡れながら、
追善の法要を行っていました。


十二月十幾日の頃に、中宮の御八講(みはこう)が行われました。とても尊い仏事でした。

この日の間に読まれる経の巻物さえも、玉の軸、絹の羅(うすもの)の表紙、
帙簀(じす: 巻物を包む竹のすだれ)の装飾なども、世間一般では見られない位に、
中宮は準備をさせていました。普段の時でも美しさに限りを尽していましたので、
ましてやこの特別な日には、これほどのものを整えるのも道理というものです。

仏像の装飾や、花机(はなづくえ: 仏前に据えて、経や仏具、花などを載せる机)の覆いまで、
本当の極楽を想像させるものがありました。


最初の日は藤壺の父帝の御菩提のため、次の日は母后のため、三日目は桐壺院の
御菩提のための法会が行われました。三日目は『法華経』五巻目の講説が行われるので、
上達部(かんだちめ: 三位以上の公卿)たちも、世の中への遠慮(特に右大臣への)を
することはなく、多くの人たちがやって来ました。


  (注)『法華経』の五巻目は女人成仏(にょにんじょうぶつ)が説かれていて、
   后や女御が誦経させる法要の場合、小規模であればこの巻のみを説くことになっています。
   それほどに重視されたところなので、右大臣への遠慮ばかりしているわけにはいかない、
   ということを示しています。


今日の仏典の講師には、特に尊い僧侶を選んだので、薪の行道(たきぎのぎょうどう)が始まって、
僧たちが声をそろえて言う言葉もとても尊いものでした。


   (注)薪の行道(たきぎのぎょうどう): 法華八講会(ほっけはっこうえ)の三日目に、
    行基菩薩の作とされる歌、「法華経をわが得しことは薪こり菜摘み水汲み仕えてぞ得し」
    をうたいながら、薪を背負い、水桶を持ち、僧たちの後をついて歩く行事のことです。


親王方も、いろいろな進物を捧げて、回り歩いていましたが、その中でも大将(源氏)の姿には、
やはり似るものがないほど見事なものでした。筆者(紫式部)は、いつも同じ表現をしておりますが、
源氏の君を見るごとに、例がないほどすばらしいことは、仕方のないことなのです。


御八講(みはこう)の最後の日は、法会の終わりを示す結願(けつがん)の儀式の中で、
藤壺は隠遁して出家をする旨を、仏前に報告しました。するとそこにいた人たちが皆驚きました。

(藤壺の兄の)兵部卿の宮や、源氏の心は動揺して、藤壺が出家をすることを

「何とも思いがけないことだ」

と思って驚きました。


兵部卿の宮は、儀式の半ばで席を立って、藤壺のいる簾中に入っていきました。
藤壺は堅い意志で決心していることを、兄(兵部卿の宮)に告げて、比叡山の座主を招いて、
受戒(じゅかい:僧になるために、仏の定めた戒律をうけること)の旨を告げました。
中宮の叔父に当たる横川の僧都(よがわのそうず)が藤壺の近くにやってきて、
髪を切るときには、宮の中はどよめいて、すすり泣く声が満ちていました。

ごく普通の老い衰えた人でさえも、「今を最後に」と、出家をする様子は不思議と
悲しみと寂しさを感じるものですが、ましてや藤壺は出家をすることを、
今まで表情にさえも出さなかったので、兄の兵部卿の宮も、ひどく悲しみました。
御八講(みはこう)にやって来た人々も、この法会全体に悲しく尊いものを感じていて、
全員、涙で袖を濡らして、帰っていきました。




ここまでが本文です。

話の流れとしては簡単ですが、聞き慣れない仏教の用語が続いていて、
だいぶん難しくややこしいものになってしまいました。


御八講(みはこう)の中で、桐壺院を偲ぶ意味で参集した人々が、
最後の思いがけない出来事には、とても驚いて悲しんだことと思います。

ましてや藤壺の兄の兵部卿の宮の心境は、どれほどのものだったかと想像させられます。


次回は源氏が藤壺と言葉を交わす場面です。

木枯らしの吹くにつけつつ待ちしまにおぼつかなさの頃も経にけり  尚侍(朧月夜の君)

あひ見ずて忍ぶる頃の涙をもなべての秋のしぐれとや見る  源氏

数ならぬ身のみもの憂くおもほえて待たるるまでもなりにけるかな   読人しらず(後撰集雑四 1260)


解説

源氏が藤壺の元に向かった後、晩秋の頃に、尚侍(朧月夜の君)から手紙を受け取った場面です。



大将の君(源氏)は、頭の弁の口ずさんでいたことを思うと、
昔の(藤壺との)出来事への呵責の念が起こってきて、世間を面倒なものに思い、
尚侍にも手紙を出すことも、長い間ありませんでした。


初時雨(はつしぐれ: 晩秋に降る今年初めての時雨)がそろそろ降る気配を見せた日に、
尚侍より手紙がありました(一首目)。


木枯らしの吹くにつけつつ待ちしまにおぼつかなさの頃も経にけり  尚侍(朧月夜の君)

訳: 秋の末から吹いている、木枯らしの風が吹く中を、一人で待っているうちに、
 待ち遠しいと思う時期も、すでに過ぎてしまいました。


という内容のものでした。しみじみとしたこの時節に、尚侍が無理をして
こっそりと書いたのであろうその気遣に、源氏は尚侍の奥ゆかしさを感じて、
手紙を持ってきた使いの者をしばらく引き留めさせて、
唐紙などが入っている棚の戸を開けさせて、その中でも特別なものを選び出し、
筆なども、特に念を入れて整えてから書き始める様子なども、とても優美にしていたので、
源氏の側に仕えている女房たちは、

「送り先はどれほどの方なのでしょう」

と言いながら、肘でつつき合っていました。


「たとえ手紙を差し上げたとしても、効き目がないので懲りてしまいました。
 ですから私はすっかり気落ちしていたのです。そうして自分の身だけを
 辛いものと思っていましたら(二首目)、


 あひ見ずて忍ぶる頃の涙をもなべての秋のしぐれとや見る  源氏

 訳: 長く逢うこともできなくて、恋い慕う気持ちを人に知られまいと堪え忍んでいる頃の涙を、
   いつもの秋の時雨だと思ってご覧になっているのですか?


 心が通っているのでしたら、どれほどにこの長雨の空を眺めていても、
 悲しみを忘れることができるでしょう」


  (注)『身のみ憂き(自分の身だけ辛い)』は、以下の短歌の引用です(三首目)。

   数ならぬ身のみもの憂くおもほえて待たるるまでもなりにけるかな   読人しらず(後撰集雑四 1260)

   訳: 取るに足らない私のこの身だけを辛く思われて、待たれるほどになったのでしょうか。

    「辛いのは自分だけだと思っていましたが、あなたも辛かったのですね」
    という源氏の配慮が文面にありますね。



などと、源氏の返事は心のこもった文章になりました。

このように、源氏の気を惹こうとする女性からの手紙は、
尚侍以外からも多く寄せられていたようでありましたが、そちらの方は、
つれなくはない程度の返事を返して、あまり深く関心を寄せることはありませんでした。




ここまでが本文です。

尚侍(朧月夜の君)も大胆に手紙を送ってきましたね。
それに対する源氏の返事も、心憎いものがありますね。

気持ちが動かない女性への返事もきちんとしているところに、
源氏のまめな性格が表れていますね。


次回、藤壺はついに出家を宣言します。

九重に霧やへだつる雲の上の月をはるかに思ひやるかな  藤壺

月影は見し世の秋に変はらねど隔つる霧のつらくもあるかな  源氏

山桜見に行く道を隔つれば霞も人の心なりけり   (出典未詳)



解説

源氏が朱雀帝への参内の後に、中宮(藤壺)の元へ行ったときの話です。


「(帝の)御前におりましたので、こちらへ参りますのが夜更けになりました」

と、源氏は中宮(藤壺: 以下、「藤壺」で統一します)に言いました。
月の光が鮮やかになっていた頃なので、

「昔(桐壺帝の在世中)であれば、このような折には、帝は歌舞や音楽をおさせになって、
目新しい趣向で、私を楽しませられました」

などということを藤壺は思いだして、同じ御垣(みかき)の中であるのに、
変わってしまったことも多く、悲しい気持ちになっていました(一首目)。


(注)御垣(みかき)とは、皇居や神社の周りにある垣のことです。ここでは宮中を意味しています。


九重に霧やへだつる雲の上の月をはるかに思ひやるかな  藤壺

訳: 幾重にも霧がかかって、遠くの雲の上の月を遠くに感じています
 (宮中に霧がかかるような不穏な状況になって、遠くなった桐壺帝の時代を懐かしんでいます)。


藤壺はこの短歌を命婦から源氏に伝えました。源氏と藤壺の距離は近いところにいましたので、
藤壺の気配もわずかに感じられたことを懐かしく思って、普段の藤壺の冷淡な気持ちも忘れて、
源氏はまず涙を流しました(二首目)。


「月影は見し世の秋に変はらぬを隔つる霧のつらくもあるかな  源氏

訳: 月の光は昔の世の中の秋に見るものと変わりませんが、それを隔てる霧のつれなさが、
 私には辛く感じられるのです(私にはあなたの冷淡さが辛いのです)。


『霞も人の』などと、昔の人は申していたようですね」


  (注)「霞も人の」は、以下の短歌の引用です。

   山桜見に行く道を隔つれば霞も人の心なりけり   (出典未詳)

   訳: 山桜を見に行く道を霞が隔てたのであれば、霞も人の心でございます。

   つまり源氏は、「隔てているのは人の心である」ということを言っております。
   藤壺は霧を世間の不穏な情勢にたとえており、源氏は藤壺自身の冷淡さを
   霧にたとえているところからすると、隔てている対象が二人で異なっていますね。


などと、源氏は藤壺に言いました。


藤壺は、息子の東宮をいつまでも名残惜しく思っていて、東宮にいろいろと
将来のことなどについて話しましたが、東宮はそれを深く心に留める様子がないことを、
藤壺は将来をとても気がかりに思っておりました。
東宮は普段はとても早くお休みになりますが、今日だけは、

「母上(藤壺)が帰ってくるまでは、起きていよう」

などと思っておられました。藤壺が退出していくことを残念に思っておられましたが、
そうは言っても、それを引き留めることはなさらないことを、

「とてもかわいらしくて、(離れていくのが)悲しい」

と、藤壺は思いました。



ここまでが本文です。

源氏はわかっているのかいないのか、藤壺の冷淡さだけを問題にしていますね。
朱雀帝には政治的な配慮を見せる源氏も、藤壺への情愛に関しては
あまり正常な判断ができないようですね。

藤壺も辛い立場ですね。東宮は問題を十分に理解することはできずに、
母親への愛だけを見せているのは、藤壺にとって愛しくも辛くもある、
何とも切ない部分ですね。


次回は尚侍(朧月夜の君)から源氏の元へ手紙が来ます。
源氏は頭の弁のことが念頭にあっても、あまり懲りていないようですね。

于時白虹貫日、太子畏之。(このとき白虹は日を貫き、太子はこれを畏る)
              『史記』巻八十三魯仲連鄒陽列伝第二十三の一節


解説

源氏が朱雀帝を訪問する場面です。


中宮(藤壺)は、普段のことや、東宮に関することなどを、源氏を頼りにしているということを、
他人行儀な文面でしか手紙を送って来ないことを、

「全く、中宮(藤壺)はどこまでも冷静でつれない方だ」

と、源氏は藤壺を恨めしく思いましたが、源氏は今、東宮の万事について後見人になっている
ときなので、

「(もし私が中宮に冷淡な態度を示せば、)他の人たちは、このことを不思議に思って
 怪しむことだろう」

と、源氏は思ったので、中宮が郷里の三条の宮に戻っている間の日に、御所に参内しました。


源氏は最初に、内裏の御方(朱雀帝)の元に向かいました。
ちょうど帝はのんびりしておられる時で、源氏と昔や今の話などをされました。
帝のご容貌は、父の桐壺院にとてもよく似ておられ、更に院にもう少し優美さを増した
ご様子でありました。源氏は、父を思い出して懐かしく、穏やかな雰囲気を感じていました。
帝も源氏に、父と同じ面影を見いだして、お互いに親しみを感じていました。


尚侍(朧月夜の君、朱雀帝の后で右大臣の娘の一人)と源氏の関係が、まだ絶えていないという風に、
帝のお耳にも入っており、尚侍の様子から、それとなく察せられることもありましたが、

「それは、今始まったようなことではないのだろう。以前からずっと続いていたことなのだから。
 その上、二人はこのように心を交わすのに、似つかわしい間柄なのだから(仕方がない)」

と、帝は強いてそう思われて、尚侍を咎めることはなさいませんでした。


帝は様々な物語や、詩文の学問的なことで、理解が曖昧なところなどを、源氏にお尋ねしたり、
風流な歌物語などを、お互いに話し合っていたりするうちに、帝は、斎宮の伊勢への下向の日の、
斎宮の姿が美しかったことなどを、帝はお話になりました。それで源氏もうち解けた気持ちになって、
野の宮での、身にしみて悲しい暁の朝の(御息所との)別れの話までも、すっかり話していました。


二十日の月の光が次第に差し込んできて、趣が出てきた頃になって、

「歌舞などを、させてみたいような月の様子だな」

と帝は仰せられた。それに対して、

「中宮(藤壺)は、今夜に東宮の元を退出しますので、私は中宮の元へ出かけます。
 (桐壺)院の御遺言でも(私が後見に立つようにと)承っておりまして、また、
 私以外に他に世話をなさる方がおりませんので、東宮の血縁の御方(中宮)も、
 お気の毒に思われるのです」

と源氏は奏上しました。帝は、


「院は、

 『東宮を、自分の子だと思って(愛してやりなさい)』

 と言い残して亡くなられたからね。私も特に目をかけて、東宮に愛情をかけているけれども、

 『特別に、ことさらに区別して扱うまでもなく、東宮はれっきとした東宮なのだから
  (特別な恩情は必要としないだろう)』

 と今はそう思っている。東宮は同年代の者よりも、字などは格別に上手になっている。
 何事に付けても、頼りにならぬこの私の面目を施してくれることになるだろう」


とおっしゃったので、源氏は、

「大体に、東宮のなさることは、とても理解が早く、大人のようになさることもありますが、
 今はまだ、とても未熟なお年頃ですので」

などと言って、源氏はその東宮のご様子なども奏上して、帝のもとより退出しました。


そのとき、大宮(皇太后: もと弘徽殿の女御)の兄の藤大納言の息子に、頭の弁という者がいて、
時流に乗って出世をして、勢いの盛んな若者なので、分を弁えるような必要はないという様子でした。


その頭の弁が、妹の麗景殿のところへ向かう途中に、源氏の行く先をこっそりと追いかけて、
少し立ち止まって、

「白虹日を貫けり、太子懼ぢたり」



   (注)「白虹日を貫けり、太子懼ぢたり(はくこうひをつらぬけり、たいじおぢたり)」
    とは、『史記』の鄒陽列伝の一節、
    「于時白虹貫日、太子畏之。(このとき白虹は日を貫き、太子はこれを畏る)」
    から取ったものです。

    秦の時代、燕の太子丹は、始皇帝を暗殺しようとして、荊軻(けいか)を刺客として
    始皇帝の元に送り込みました。そのとき、白色の虹が太陽をつきとおす、という
    天が人の誠意に感動してあらわす吉兆を目にしても、太子は暗殺が成功しないのではと
    心配した、という話です。事実、暗殺は成功しませんでした。

    頭の弁はこの話になぞらえて、源氏がもし朱雀帝を廃して東宮を擁立するという野心が
    あったとしても、そんなものは成功するものかと、当てつけて皮肉を言ったものです。



と、頭の弁がゆるやかに口ずさみました。それを源氏は、

「(この私への恥辱に)何ともきまりが悪い」

と思って聞いていましたが、咎めることはできませんでした。


后(皇太后)のご性格を、源氏はとても恐ろしく、気遣いのさせられるものと
聞き及んでおりましたが、その上、皇太后の親族たちまでも、このように源氏に
非難を浴びせてくることがあることを、源氏は面倒で厄介なことに思いましたが、
素知らぬ風で、その場を去っていきました。




ここまでが本文です。

桐壺院の崩御によって、源氏の地位が低下したことを見ることのできる一節です。

朱雀帝は、源氏と尚侍の情事を非難することはなく、かといって、
桐壺院の遺言通りに東宮を丁重に世話をすることもありません。
時勢がそうさせたとはいっても、とても優柔不断な性格が見えます。

頭の弁の驕り高ぶった様子は、権勢のある家には付きものの話ですね。
こういうところで、本性が出るものですね。


次回も源氏と藤壺の苦悩が続きます。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


.

ブログバナー

白川 玄齋
白川 玄齋
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索

詩歌関連

写真・画像関連

文学・語学・その他

殿堂入り

自由律俳句

登録されていません

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事