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天の戸を押し明け方の月見れば憂き人しもぞ恋しかりける 読み人知らず(新古今集恋四 1260)
浅茅生の露の宿りに君をおきて四方の嵐ぞしづ心なき 源氏
風吹けば先づぞ乱るる色かはる浅茅が露にかかるささがに 紫上
解説
藤壺が東宮と別れの挨拶をしている時の、源氏の寺ごもりの場面です。
大将の君(源氏)は、藤壺をとても恋しく思っていましたが、
「あのお方(藤壺)がどれほど冷淡なお心であったかを、時々はご自身(藤壺)に
身にしみて理解させるためにも、こうして(引きこもって)いることにしよう」
と、心の中で願いながら、自邸に引きこもって過ごしていました。
しかし、源氏はみっともない様子になるほどに、無聊を過ごしながら藤壺を想っていました。
そこで気晴らしに、秋の野を見に行くついでに、雲林院(うりんいん)を訪問しました。
(注)雲林院(うりんいん)は、平安京の北郊の紫野にあった天台宗のお寺です。
花の名所として知られ、また、菩提講(ぼだいこう: 極楽浄土を求めるための法華経を
講じ解く法会)で有名です。『古今和歌集』『枕草子』『大鏡』などにもしばしば登場します。
「うんりんいん」とも言います。
「私の亡き母、御息所(桐壺)の兄上様は、雲林院で律師(りっし: 僧侶の位階の一つ)に
なっておられるから、そこで経文などを読んで、勤行をすることにしよう」
と、源氏は思いました。
源氏は二・三日雲林院に入っていると、しみじみともの寂しい気持ちになることが多くなりました。
紅葉は次第に全体が色づいてきて、秋の野がとても情緒のある風情になっているのを見て、
源氏は自分の住まいも忘れてしまいそうな気持ちになっていました。源氏は雲林院では、
法師たちの中で学識のあるものたちだけを呼び寄せて、論議をさせて聞くなどしていました。
場所柄からか、ますます世の中の無情を、夜通し思い続けるようになっても、源氏は依然として、
「こんな所に来ても、やはり恨めしいあの人(藤壺)のことが忘れられない」
と思って、藤壺のことを思い出していました。
(注)この部分の前後、「『憂き人しもぞ』と思し出でらるる。おし明け方の月影に」は、
次の歌の引用です(一首目)。
天の戸を押し明け方の月見れば憂き人しもぞ恋しかりける 読み人知らず(新古今集恋四 1260)
訳: 天の岩戸を押し開けて、明け方の月を見ると、かえって恨めしいあの人のことを
恋しく思ってしまうものですね。
「藤壺のことが忘れられない」という源氏の心の投影ですね。
明け方の月明かりの下で、法師たちが、
「閼伽(あか: 仏前に供える神聖な水)をお供えいたします」
と言って、花皿を洗ってからからと鳴らしながら、菊の花や、濃い色や薄い色の紅葉などを
折り取って、乱雑に並べた様子を、源氏はちょっとしたことだと思いましたが、
この僧侶たちは仏道のつとめによって、この世では、退屈をする暇もなく、
後の世(あの世)に対しては、楽しみに思うことができるのだろうと思いました。
さらに、
「一方で、私は全く思うようにならないこの身を、持て余しているものだ」
ということを、源氏は思い続けていました。
その後、律師はとても尊い声で、「念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)」
と声を響かせて、勤行をしていました。
(注)「念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)」は、
もとの文は「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」という二句で、
「阿弥陀仏はその身から八万四千の光明を放って、阿弥陀仏の名を唱える衆生を
極楽浄土に収め取って捨てることがない」
つまり、念仏を唱える人たちを、阿弥陀仏は受け入れて捨てることがない、という意味です。
その姿を源氏はとてもうらやましく思って、
「私はどうして出家ができないのだろう」
と源氏は考えてみると、第一に、姫君(紫上)のことが気にかかって、思い出してしまうのは、
あまり感心できない心持ちだったのでしょう。普段とは違う寺ごもりの何日間かの中で、
紫上のことを気がかりに思ったので、紫上に手紙を何度も送っていました。
「『私は俗世を離れることができるだろうか』と、試みているところですが、寺の生活は、
気が紛れるどころか、かえって手持ちぶさたになって寂しさを感じ、心細さだけが
増してきています。まだ法師たちに尋ねたいことがあるので、ここに留まっています。
あなたはどのように過ごしていますか」
などと、陸奥紙(みちのくがみ)に、うち解けた様子で書いている手紙さえも、
立派なものでした(二首目)。
(注)陸奥紙(みちのくがみ)は壇紙(だんし)とも呼ばれ、陸奥で生産された
上質の和紙のことです。
浅茅生の露の宿りに君をおきて四方の嵐ぞしづ心なき 源氏
訳: 浅茅にかかる露のようにはかない家に君を残しているので、四方から吹く嵐のように、
私も落ち着いた気持ちにはなれません。
などと、情愛の細やかな手紙を送ると、女君(紫上)も、それを読んで泣きました。
紫上は、返事を白い色紙にしたためました(三首目)。
風吹けば先づぞ乱るる色かはる浅茅が露にかかるささがに 紫上
訳: 風が吹くと、真っ先に乱れて色の変わる浅茅の葉の露に引っかかっている蜘蛛の糸のように、
変わりやすいあなたのお心を、私は頼りにしているのです。
と書いてありました。
「(紫上の)書いた字は、日々良くなってきているようだな」
と、源氏は独り言を言って、
「美しい字だ」
と思って、ほほえみながら手紙を眺めていました。
二人は何度も手紙を交わしていて、紫上の書いた字は、次第に源氏の書いた字に似てきて、
その上にほんの少し、優美で女性らしいところが加わっていました。
「私は(紫上を)万事について、そう悪くはないように、養育できたものだ」
と、源氏は思っていました。
源氏は、紫上には「うまく養育できたものだ」と余裕のある部分を見せて、
一方で、藤壺には「向こうが反省するまで引きこもってやる」と、風流も吹き飛んで、
全く余裕のない部分を見せるところからすると、源氏が一番愛しているのは
藤壺ということになるのではと思いました。
源氏がそれぞれに全く違う姿を見せているのは興味深いところだと思います。
今回は少し短めにして、約1,000字と見積もっていましたが、約二倍に膨れ上がりました。
それでも、かかった時間はおよそ半分の合計三時間になりましたので、更新の頻度を
早めることができそうです。
源氏物語の更新は週二回を目標にしていきます。
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