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心からかたがた袖を濡らすかな明くと教ふる声につけても 尚侍(朧月夜の君)
歎きつつわが世はかくて過ぐせとや胸のあくべき時ぞともなく 源氏
あかつきの月夜も問はず居りにける あくことのなき心正さむ 玄齋
解説:
源氏と朧月夜の君との逢瀬の場面です。
帝は、院の御遺言を違えることなく、源氏を尊重する気持ちはありましたが、まだお若いころで
ありましたので、帝のお心持ちは柔らかすぎて、強い気持ちをお持ちではありませんでした。
それで皇太后や、祖父の大臣が思い思いに政治を取り仕切っていることに、逆らうこともできず、
帝のお心を世の政治に通わせることはできませんでした。面倒な身の上ではありましたが、
尚侍(朧月夜の君: 以下、朧)は、源氏と密かに恋心を通わせており、源氏に逢えないのは
仕方がないと思いつつも、逢える日を待ち遠しく思っていました。
五壇の御修法が始まったころ、帝が御謹慎なさっている間を見計らって、源氏は尚侍(朧)に、
いつもの夢のように、逢瀬をしておりました。あの、昔(「花宴」の章)に見覚えのある、
弘徽殿の横にある小さな部屋へと、(朧の女房の)中納言の君が人目をごまかして源氏を中へ
入れました。
※五壇の御修法(ごだんのみずほう): 五大尊(五大尊明王)を本尊として行う真言宗の
祈祷のことです。天皇または国家に関する重大事の時に行います。
御修法の時で人通りも多いときなので、普段よりも大胆ではしたない源氏の行動に、
中納言は何とも不気味なものを感じていました。朝夕にいつも源氏を見ている人でさえ、
見飽きることのない源氏の容姿に加えて、滅多にないこの対面に、(朧は)どれほどの
言い尽くせない喜びを覚えたでしょうか。尚侍の容姿も、まことに青春真っ盛りのお姿でした。
貴女としての重々しさは、それほどではないにしても、愛らしく、上品で若々しい様子でおられて、
男どもは誰しも逢いたいという気持ちを持つであろうと思われました。
それから間もなく、
「そろそろ夜が明けるころであろうか」
と思われるころ、ちょうどその折、ここにちょうど、
「『宿直申し』でございます」
※宿直申し(とのいもうし): 宿直(とのい: 宮中に宿泊して、勤務・警護を行うこと)を
した者が、夜の定刻に自分の姓名を名乗ることです。
と、改まった声が聞こえてきました。
「また、この付近に、(自分以外にも)隠れている近衛の役人がいるにちがいない。
その同僚の腹黒いやつが、裏切ってこっそりと宿直の役人へ教えたのだろう」
と源氏は思いました。宿直申しの触れ回る声は風情のあるものでしたが、
面倒なことになったと思いました。
その近衛の役人を、夜警の役人が探して歩き回りながら、
「寅一つ」
と言いました。
注: 『寅一つ』は、午前四時頃です。「もうすぐ夜が明けるぞ」と、
隠れている近衛の役人に脅しをかけているのです。
姫君(朧)は、次のような歌を詠みました(一首目)。
心からかたがた袖を濡らすかな明くと教ふる声につけても 尚侍(朧月夜の君)
訳: 私は心からあなたのことを想い、あれこれと考えて涙で袖を濡らしています。
(あなたは方々に涙で袖を濡らす女性をお作りになるのですね。)「夜が明けるぞ」と
教える声があることにつけても(あなたが私に飽いたと教えてくれているようですね)。
(「明く」と「飽く」の掛詞です)
と言う尚侍の様子は、心細そうに見えて、とても愛らしいものでした。
源氏は次のように返歌を返しました(二首目)。
歎きつつわが世はかくて過ぐせとや胸のあくべき時ぞともなく 源氏
訳: 私は自分の人生を歎きながら過ごせとおっしゃるのでしょうか。心に隙間が
空いてしまうとき(あなたに飽きるとき)などもちろんありません。
源氏は落ち着いた気持ちになれずに、部屋を出て行きました。まだ夜も深い暁月夜で、
言いようもないほどに一面に霧が立ちこめる中、源氏がとてもひどくやつれた表情で、
人目を避けながら歩いている様子は、美しさがそれに似ているものがない程でした。
※暁月夜(あかつきづくよ): 明け方近くになっても空に残っている月のことです。
そのとき、承香殿(そきょうでん)の女御の兄である頭中将が、藤壺の御殿から出て来て、
月明かりの当たらない所の立蔀(たてじとみ)の辺りに立っていたのを、源氏は知らずに
通り過ぎてしまったことは、何とも気の毒です。後に非難の声が上がる理由は、
きっとここにあるのでしょう。
※承香殿の女御(そきょうでんのにょうご): 朱雀帝の后で左大臣の娘の一人です。
※立蔀(たてじとみ): 細い木を縦横に組んで格子とし、その裏に板を張ってついたての
ように作って、室内が見えないように目隠しにしたものです。多くは庭に立てますが、
室内用のものもあります。
とうとうばれてしまいました。頭中将は左大臣の娘で源氏の亡き夫人の葵上の兄であり、
右大臣の娘の四の君を妻にしているという、きわめて微妙な立場の人です。
やはり右大臣に報告せざるをえないのでしょうね。
次回は中宮(藤壺)と源氏の間の出来事です。こちらも源氏は大胆な行動を取ります。
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