玄齋詩歌日誌

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源氏物語・桐壺

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源氏物語の「桐壺」の巻です。
原文を現代語訳して、作中の漢詩や短歌を解説しています。

この巻はすべて訳し終えています。
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源氏の元服の儀式の夜の話です。左大臣の娘(葵上)との婚儀の場面です。


ここからが本文です。


その夜、帝は源氏を、舅になった左大臣の家に、婚儀のために退出をさせられました。
その婚儀には世に類がないほどの立派なものを用意して、源氏を大切にもてなしておりました。
源氏がたいそう幼い姿でいるのを、

「畏れ多くも愛しいものだ」

と左大臣は思っておりました。女君(葵上)は、源氏より年齢を少し上回っていたのに対し、
源氏がとても若かったので、

「私はこのお方の妻にふさわしくなくて、気恥ずかしい」

と女君は思っておりました。


この左大臣の帝からの信任ぶりは、とてもこの上ないものであり、
その上で女君の母宮である夫人は、帝と同じ后を母に持つ方(桐壺帝の実の妹)で
ありましたので、左大臣はどこを取っても際立っている方でありました。

その上さらにこの君(源氏)までもが(娘婿として)付け加わっておりましたので、
東宮の外戚の祖父で、ゆくゆくは世を治める立場にいるはずの右大臣の勢力は、
問題にもならないくらいに圧倒されてしまいました。


左大臣は幾人かの妻妾から生まれた子供たちが多くおりました。
その中で、女君の母宮との間に、蔵人の少将(くらうどのしょうしょう)になっていて、
とても若くて美しい子供がおりましたので、右大臣と左大臣の仲はよくなかったのですが、
右大臣はこの子を他人として見逃すことはできずに、大切にしていた娘の四の君と結婚させました。
この蔵人の少将も、左大臣が婿の源氏を大切にしているのに劣らず、右大臣が寵愛していることは、
両家ともに理想的な間柄でありました。


  (注)蔵人の少将(くらうどのしょうしょう): 近衛(このえ: 警備担当の役所)の少将で、
   五位の蔵人を兼ねた人のことです。

  (注)蔵人(くらうど): 蔵人所(くらうどどころ)の役人で、天皇のそばに仕える
   令外(りょうげ)の官の一つです。はじめは、皇室の文書や道具を納める蔵を管理し、
   訴訟なども扱った役職でしたが、のちには職務が広がって、天皇の衣服や食事などの
   日常生活から、伝奏(でんそう: 天皇への取り次ぎ)・除目(じもく: 大臣以外の
   官職の任命)・節会(せちえ: 重要な日に天皇が酒宴を行う行事)の儀式など宮中の
   諸雑事を取り扱いました。


源氏の君は、帝が常にお召しになって付き添わせなさるので、
容易に妻のいる左大臣の家に行くこともできませんでした。

源氏の心の中では、ただ藤壺の様子を、

「誰とも比べることはできない」

と思っていて、

「このような女性こそ妻にしたいものだ。藤壺の宮のような方に似ている人はおられないようだ。
 大臣殿の姫君(葵上)は、

 『とても美しく、大切に育てられた人』

 とは思うけれども、心が惹かれることはない」

と源氏は思って、幼い時の一途に思いこんだ心に取り付かれて、
とても苦しいほどに、藤壺のことを慕っている様子でした。


源氏が元服してから後は、帝は今までのように、藤壺の御簾の中へ源氏をお入れになることは
ありませんでした。源氏は管弦のお遊びの折々に、琴や笛を御簾の内外で音を合わせて弾いて
心を通わせたり、御簾の中から聞こえてくる藤壺のかすかな声を慰めとしたりして、
内裏(だいり: 宮中)での生活だけを素敵だと思っていました。

五・六日を内裏で帝のお側仕えをして、左大臣の家に二・三日程度に、途切れ途切れに
内裏から退出して訪ねていました。そんな様子でしたが、まだ今は源氏が幼い頃なので、
左大臣は万事のことをしいて咎め立てすることなく許していて、婿君(源氏)を大切に
世話しておりました。この新しい夫婦にお側で仕えさせる女房には、世の中の並大抵でない
優秀な者たちを、選りすぐって仕えさせたり、源氏の気に入りそうな遊びを催したりと、
一所懸命に骨を折って世話をしていました。


帝は御所では、淑景舎(しげいしゃ: もとの桐壺の局)を源氏のための部屋にさせなさって、
源氏の母の御息所(桐壺更衣)に仕えていた女房たちを、内裏から退出させて散り散りに
させなさることなく、引き続き仕えさせなさいました。桐壺更衣のもとの屋敷は、
修理職(すりしき)や内匠寮(たくみづかさ)に宣旨が下って、この上ないほど立派に改築されました。


  (注)修理職(すりしき): 令外(りょうげ)の官の一つで、「木工寮(もくりょう)」と
   ともに、皇居の修理・造営などをつかさどった役所です。

  (注)内匠寮(たくみづかさ): 令外(りょうげ)の官の一つで、「中務(なかつかさ)省」に
   属し、宮中の器物や殿舎の装飾などをつかさどった役所です。「うちのたくみのつかさ」
   「たくみづかさ」ともいいます。


そのお屋敷は、もとからある木立や、庭園の築山のようすも趣のあるところでしたが、
さらに池の中心を掘り広げて、大騒ぎして立派に改築されました(これが後の二条の院です)。

「このような家に、理想とするような人を迎えて住んでみたいものだ」

と源氏は嘆かわしく思い続けていました。



「 『光る君』という名前は、(人相見の)高麗人が、源氏を賞賛してつけたものである」
と、人々が言い伝えているとのことです。



ここまでが本文です。

これが頭中将(蔵人の少将)や葵上が出てくる初めです。
頭中将は左大臣の息子に生まれ、右大臣の娘婿であることから、
非常に苦しい立場に立たされることも、運命を感じるところですね。

成人になって、源氏と藤壺は直接会うことはできなくなりましたが、
これで二人の中が終わらないことが、これから語られていくところです。


これで「桐壺(きりつぼ)」の巻が終わりました。次回は「帚木(はははぎ)」の巻です。

いときなき初元結に永き世をちぎる心は結びこめつや   桐壺帝

むすびつる心も深きもとゆひに濃き紫の色しあせずば   加冠役の大臣(左大臣)



解説


源氏が元服(成人になる儀式)を行う場面です。


以下が本文です。



源氏の君の子供の姿を、帝はたいそう変えたくないと思し召しておりましたが、
源氏の君が十二の歳に、元服をいたしました。帝は御自身で熱心にお世話をなさって、
作法が決まっていることについても、さらにできうる限りのことをさせておられました。

一年前に行われた、東宮の御元服が南殿(紫宸殿)で行われたときの、
美々しく立派であったという評判にも劣らないようにと、
元服の儀式の後の各処で出る饗宴なども、

「内蔵寮(くらづかさ)、穀倉院(こくそういん)などで、普通に公のご奉仕をするだけで、
 粗略なことがあるようではいけない」

と、ことに特別な仰せ言があって、最高の華美な贅沢をもって勤めていました。


  (注)紫宸殿(ししんでん): 平安京の頃の天皇が政務を執るところでしたが、
   後に即位や節会(せちえ: 重要な日の天皇が群臣を集めての酒宴)などの
   重要な儀式も行われるようになりました。

  (注)内蔵寮(くらづかさ):天皇の宝物や日常の物品の調達・保管や、祭祀の奉幣や、
   佳節の御膳などの調理をつかさどる役所のことです。

  (注)穀倉院(こくそういん):平安時代、畿内の諸国から「調」として徴収した銭や、
   諸国の所有者のない土地などからとれた穀物を保管・貯蔵した、朝廷の倉庫のことです。


帝のおられる清涼殿(せいりょうでん)は東向きの御殿であり、
その東の廂に東に向けて(帝が座られる)椅子を用意して、
冠者(かんじゃ: 元服を終えた若者(源氏))の席と、
引き入れ(元服の際に冠を付ける役目の者)の大臣の席が、帝の御前にありました。

その儀式は申の時(午後四時頃)に始まり、源氏の君が式場にやってきました。
角髪(みづら)に髪を結っている姿や、面立ちの美しさなどは、
今までの子供の姿を変えてしまうことが惜しい様子でした。


  (注)角髪(みづら):髪を頭の中央で左右に分け、耳のあたりで束ねて結んだものです。
   このころの少年の髪型です。


大蔵卿(おおくらきょう: 大蔵省の長官)が、源氏の理髪の役目を果たしました。
源氏の輝くほどに美しい御髪をそいでいくことさえも、惜しい気持ちになりました。帝は、

「もしこの姿を御息所(桐壺更衣)が見ることができたならば・・・」

と思い出されることが堪えがたく思われ、悲しみをこらえられているご様子でした。


源氏は加冠の儀式が終わって、一度休息所に下がって、
衣を着替えて、東の庭に降りて拝謝する儀礼を取る様子に、
参列した人々は感激の涙を流していました。

帝もやはり、それにもまして、こらえることができないご様子でおりました。
桐壺更衣を失った悲しみを紛らわした時もあった昔のことを思い出して、
改めて悲しくお思いになりました。

「このようにとても幼い時はあまりに美しい顔かたちであるから、
 かえって髪上げをして顔かたちを損なって見えることはないであろうか」

などと、帝はご心配なさっておりましたが、源氏は驚くほどに、
かわいらしさも加わっておりました。


引き入れの大臣(左大臣)と、皇女との間の子供に、ただ一人大切に育てられた娘が、
東宮からもご所望があったときも、左大臣が返答をためらっていたのは、
この源氏の君に、一人娘を嫁がせようと考えていたからです。

内裏の(帝の)方にも、左大臣の意向を伝えておりましたところ、

「それでは、この元服の後の後見人がいないようなので、その娘を添い臥しにさせよう」

と帝はご意向を仰せになりましたので、左大臣もそのように手配しました。


  (注)添い臥し(そいぶし): 東宮や皇子の元服の夜に、添い寝をする
   役目の女性のことです。公卿の娘などが選ばれます。


源氏は侍所へ出かけて、人々が酒宴をしているところに、
皇子たちが座っている席の末席に着きました。

左大臣は娘の一件をほのめかして伝えることがありましたが、気恥ずかしい
気持ちになっていた源氏は、どちらとも返事をすることができませんでした。

帝の御前より、内侍(ないし)が帝のご命令を左大臣に伝えて、
帝から左大臣のお召しがあったので、左大臣はそちらへ向かいました。


  (注)内侍(ないし): 尚侍(ないしのすけ)のことです。
   常に天皇のお側に仕えて、奏請(そうせい: 天皇に申し上げて許可をもらう)や
   伝奏(でんそう: 天皇への取り次ぎ)や後宮の礼式や雑事を執り行う女官のことです。


加冠役の大臣へのご褒美の品を、側に仕える命婦が取り次いで左大臣に下賜しました。
白い大袿(おおうちぎ)に、衣を一揃いで、これは儀礼の通りでした。

帝から左大臣へ酒杯を賜るときに、次の歌を仰せになりました(一首目)。


いときなき初元結に永き世をちぎる心は結びこめつや   桐壺帝

訳: あなたは加冠の時に、幼い子(源氏)の、元結いの紐(元服で初めて髪を結ぶ紐)に、
 永い世を契る気持ちを込めているのだろうか。
 (源氏にあなたの娘を嫁がせる気持ちはありますか?)


帝の御心遣いがお歌に現われておりましたので、左大臣は驚きました(二首目)。


むすびつる心も深きもとゆひに濃き紫の色しあせずば   加冠役の大臣(左大臣)

訳: 私は元結いの紐を、深い気持ちを込めて結びました。その紐の濃い紫の色が
 色あせることがなければよいのですが。
 (陛下の御意向がさようでございますならば、そのようにいたしましょう)


と左大臣は返歌を奏上して、長橋(ながはし:清涼殿から紫宸殿に通じる渡り廊下)から降りて、
拝謝する儀礼を取りました。左馬寮の御馬(おうま)と蔵人所(くろうどどころ)の鷹を、
止まり木に止まらせて賜りました。その後、御階(みはし: 紫宸殿の南正面の階段)のもとに、
親王たちや上級の役人たちが並んで、下賜品をそれぞれの階級に従って賜りました。

その日の御前に並べられた折櫃物(おりびつもの:檜の薄板を折り曲げて作った箱で、
菓子等を入れるもの)や籠物(こもの: 果物などが籠に入ったもの)などは、
右大辨が命令を受けて作ったものでした。屯食(とんじき)や、下賜品を入れる
唐櫃(からびつ)なども、隙間のないほどに並べられて、東宮の御元服の時よりも、
数が増えておりました。いかにも、限りなく盛大なものでありました。


  (注)左馬寮(さまりょう): 「右馬寮(うまりょう)」とともに、官馬の調教や、
   馬具の管理などをつかさどった役所のことです。

  (注)蔵人所(くらうどどころ): 「蔵人(くらうど: 天皇の近習)」が執務した
   役所のことです。天皇直属の重職として勢力を持っていました。

  (注)右大辨(うだいべん): 兵部(ひょうぶ)・刑部(ぎょうぶ)・大蔵(おおくら)・
   宮内(くない)の四つの省を監督する役職です。

  (注)屯食(とんじき): 強飯(こわいい: 甑(こしき)で米を蒸して作った飯)を
   握り固めて卵形にした物で、平安時代の貴族の饗宴の時に、身分の低い物に賜った弁当です。

  (注)唐櫃(からびつ): 足のついた櫃のことで、衣類や調度などを収めるものです。



以上が本文です。



この元服の儀式を桐壺更衣が見ることができたら、僕もそんな気持ちになりました。

桐壺帝と左大臣の結びつきは、本文を見る限りでは偶然の縁のようにも思いますが、
お互いに以前からこのような結びつきをしようという意向があったのかもしれませんね。

当の源氏はどのように感じていたのでしょうか。その部分は次回です。

次回で桐壺の巻は終わりです。早く帚木(はははぎ)の巻へつなげていこうと思います。

解説

藤壺の出現と幼い頃の源氏との出会いの場面です。

ここからが本文です。



帝は年月が経つにつれて、御息所(桐壺更衣)のことを、忘れるときはありませんでした。

「私の心を慰めることができるだろうか」

と、帝は(慰めるのに)相応な姫君をお側へ召されることもありましたが、

「(桐壺更衣に)肩を並べる程に思われる人を見つけることさえも、とても難しい世の中だな」

と、帝は万事のことを厭わしいとだけお思いになっておりました。


その後、先帝(桐壺帝の前の帝)の四の宮にあたる姫宮(藤壺)で、ご容貌に優れているとの
評判の高い方で、母君のお后がこの世に例がないほどに大切になさっていた方のことを、
帝のお側にお仕えしている尚侍(ないしのすけ)は、先帝の御代からお仕えしていた方で、
その姫宮の元へも親しく出入りしておりました。姫宮を幼い頃から見知っており、
今でも少しはお顔を拝見する間柄でしたので、その姫君のことを帝に申し上げました。


  (注)尚侍(ないしのすけ): 常に天皇のお側に仕えて、奏請(そうせい: 天皇に申し上げて
   許可をもらう)や伝奏(でんそう: 天皇への取り次ぎ)や後宮の礼式や雑事を執り行う女官の
   ことです。


「御隠れになりました御息所(桐壺更衣)のご容貌に似ております方を、三代の御代に渡って
 お仕えしておりました私でも見知っておりませんでしたが、先帝の御息女の后の宮の姫宮様こそが、
 (桐壺更衣を)とてもよく思い出されるようなお姿に成長されております。世にめったとなく
 美しい顔かたちをされた方でございます」

と尚侍が奏上すると、

「本当であろうか」

と帝は御心を動かされて、先帝の后の宮(姫宮の母)に、ご丁寧に姫宮の
入内(じゅだい:皇后・中宮・女御として、正式に宮中へ入ること)のことを申し入れられました。


姫宮の母后は、

「何と恐ろしいことでしょう。東宮の母君の女御(弘徽殿の女御)はとても意地悪で、
 桐壺の更衣が露骨な嫌がらせによって、亡くなってしまった例も、忌まわしく
 思い出されるのに・・・」

と、遠慮されていて、思い切りよく決心できないでいた間に、母后もお亡くなりになりました。
姫宮が一人で頼りとする者もなく暮らしておりましたところ、

「単に私の娘の内親王たちと同じようにお世話をしたいのです」

と、帝は入内のことをとても丁寧に仰せになりました。姫宮にお仕えしている女房たちや
後見人たちや、姫宮の兄君の兵部卿の親王などは、

「とにもかくにも、姫宮様が頼りとする方もないご様子でお暮らしになるよりは」

「宮中に暮らしておられれば、姫宮様のお心も慰められるでしょう」

などと推しはかって、姫宮を参内させることにしました。御殿は藤壺になりましたので、
以降は藤壺の宮とお呼びすることにいたします。


実際に、藤壺の宮の顔かたちや立ち居振る舞いなどは、不思議なほどに桐壺更衣を思い出される
ほどでした。この方はご身分も桐壺の更衣より秀でており、人々の評判も素晴らしく、誰もこの方を
貶めるようなことは言いませんでしたので、誰に憚ることなく振る舞っても何の不足もありません
でした。桐壺の更衣は、(ご身分の不足から)周囲の方々に認められることがなかったのに、
帝の御寵愛が大変深かったことで、釣り合いが取れなかったのです。帝の御悲嘆のお気持ちは
紛れることはありませんでしたが、自然と藤壺の宮にお心が移られて、この上なく御心が
慰められるように思われることは、もの寂しい人間の自然の出来事でございます。


源氏の君は、帝が女御たちの御殿へお出かけになる際も、帝のお側を離れることはありませんでした。
それに言うまでもなく、帝が何度もお出かけになる藤壺の御殿では、源氏はいつまでも
恥ずかしがっているわけではありませんでした。どの女御や更衣たちも、

「私は美貌では人より劣っているのでしょうか」

などと思う方などはおりません。様々に、見事な美しさはありましたが、やや歳を重ねておりました。

一方で藤壺の宮は、とても若く美しいので、源氏から頻りに姿を隠しても、
源氏は自然にその姿を窺い見ておりました。


源氏は母の御息所(桐壺更衣)は、面影さえも思い出すことはできませんでしたが、

「(藤壺の)宮様はお母上とよく似ておられます」

と尚侍が言っておりますので、子供心にも、

「(藤壺の宮が)とても愛しい」

と思い、

「常に藤壺の宮の所へ行きたい。親しくお姿を拝見したい」

と思うようになりました。帝も、源氏と藤壺の二人をこの上なく御寵愛されておりましたので、

「(源氏を)疎まないでやって下さい。あなたを不思議と母親と比べてしまうのでしょう。
 『無礼だ』などと思わないで、かわいがってやって下さい。母親の顔立ちや目つきなどは、
 あなたとよく似ているから、この子があなたを母親のように見てしまうことも、
 あなたとこの子を母子の関係として見ることも、不似合いではないでしょう 」

などと帝が藤壺の宮にお頼みになりました。


源氏は子供心にも、美しい花や紅葉を見たときには、藤壺の宮への贈り物にしようと考え、
藤壺にこの上なく好意を寄せるようになりましたので、弘徽殿の女御は、また、
この藤壺の宮とも仲が悪くなっていたので、藤壺の宮への憎さに加わって、
源氏への元からの憎さも表に現れ出てきて、

「目障りな子だ」

と思うようになりました。


「世の中に比べるものがない」

と帝が藤壺の宮を御覧になり、評判が高い藤壺の宮の顔かたちに対しても、
やはり源氏の君の輝くような美しさは、たとえることもできないほどでありましたので、
世の中の人からは、

「光る君」

と言われておりました。藤壺の宮もその横へ並べて、帝の御寵愛もこの上ないものでありましたので、

「輝く日の宮」

と言われておりました。



ここまでが本文です。

母親の面影も知らないのに、その母親に似ているという女性が出現すると、
幼い源氏が慕わしく思うのも自然なのでしょうね。

このことが弘徽殿の女御の旧怨を再燃させることになるのはとても皮肉なことですね。


次回は源氏の元服の場面です。ここでも後の権力争いの遠因が現われます。

源氏が宮中に参内してから成長していく場面です。

ここからが本文です。



月日が過ぎていき、若宮(源氏)は宮中へやって来ました。若宮はますますこの世のものとは
思えぬほどに美しく成長していたので、かえって不吉なものに思われていました。

その翌年の春、坊(ぼう: 東宮の御座所を指して、東宮を意味しています)が決まる折にも、
帝は第一の皇子を飛び越えて第二の皇子(源氏)を坊にすることを強く願っておられましたが、
(源氏を)後見する人もなく、その上、世の中が承知するはずのないことでありましたので、
かえって若宮(源氏)を坊にすることはかえって若宮を危険な立場にさせてしまうことを危ぶまれて、
帝はそのご意向をお顔色にも出されなかった事を、

「帝は大層第二の宮様を愛しておられたが、それであっても限度があったのだなあ」

と世間の人は受け取って、弘徽殿の女御も安心しました。


その後、あの若宮(源氏)の祖母(桐壺更衣の母)である北の方は、
心を晴らすことができずにふさぎ込んで、

「今はせめて亡き娘(桐壺更衣)のいるであろう所へ、訪ねていきたいものです」

と願ったからなのでしょうか、ついには亡くなってしまいました。

帝はこの事もとても悲しく思われました。皇子(源氏)は六歳になっておりましたので、
更衣の死の時とは違い、今回の祖母の死は理解することができましたので、
祖母を思い慕って泣いていました。祖母は長年の間、皇子に馴れ親しんでいる折々に、
皇子を残して自分が亡くなってしまう悲しみを、何度も何度も話しておりました。


それ以降、若宮は宮中にばかり過ごしておりました。
七歳になる頃には帝は若宮に書初め(ふみはじめ)をさせなさいました。


  (注)書初め(ふみはじめ): 天皇・皇太子・親王などが、生まれて初めて
   書物の講義を聞く儀式のことです。


若宮は世に二つとないほどに理解が早く賢い様子でしたので、
帝はひどく驚いたご様子で若宮を御覧になっていました。

「母親の亡き今となっては、どんな方もこの子を憎むことはないでしょう。
 母親がいないことについてだけででも、かわいがっておやりなさい」

と帝は仰せになって、帝が弘徽殿に向かわれるときにも若宮を一緒にお連れになり、
そのまま御簾の中へお入れになっておりました。どんな恐ろしい武士や、
仇や敵であったとしても、この若宮を見ればつい微笑まずにはいられない様子でおりましたので、
弘徽殿の女御も遠ざけるようなことはしませんでした。

女御の娘に姫君が二人おりましたが、この若宮とは(美しさでは)肩を並べることも
できませんでした。その他の女御・更衣の方々も若宮から隠れることもなく、
若宮は今でも優美でこちらが恥ずかしくなるほどの優れた様子でありましたので、
若宮をとても風流で、気がおける遊び相手として、皆の評判になっておりました。

正式な学問は言うまでもなく、琴や笛の音も雲井(くもい: 天上または宮中を指す)を響かせて、
全てのことを言い続けていくと、嫌になってしまうほどの、多くの才能を持っておりました。


その頃に、高麗人(こまうど:高麗の国の人)が我が国にやってきたときに、
大変優れた相人(そうにん: 人相を見る人)がおりました。帝はこのことをお聞きになり、
この相人を宮中へ呼び寄せることは、宇多天皇の御代の頃に決められた御戒めによって
不可能であったので、帝は極秘裏に皇子(源氏)を高麗人たちが泊まっている
鴻臚館(こうろかん: 外国からの使節を接待するための客舎)へ向かわせました。
相人には皇子の後見役である右大辨(うだいべん: 兵部・刑部・大蔵・宮内の四省の
支配・監督を司る役人)の子のように思わせて、右大辨と共に若宮を連れて行きました。

相人は若宮を見て驚き、幾度も首を傾けて不思議に思っていました。

「国の親となって、帝王の、この上のない位に上ることのできる相がございます。
 そのような方として見ておりますと、世の中が乱れて心配なことがあるかもしれません。
 また一方で朝廷の重鎮となって、政治を助ける方の相として見てはみましたが、
 やはりそのような相ではないようです」

と相人は言いました。右大辨も、漢学の教養が豊かな学者でしたので、
相人と語り合った事柄などは、とても興味を引くものでした。

漢詩なども作り交わして、相人は今日や明日にも祖国に帰ろうとするときに、
このようにとても珍しく高貴な人(源氏)に逢うことができた喜びを覚え、
かえって悲しくなるような気持ちを、趣深く漢詩の中に込めて作ったものに、
皇子(源氏)も、大きな別れの寂しさを綴った句を作ったことを、
相人はこの上なく賞賛して、この皇子に素晴らしい贈り物等をしておりました。

朝廷からも、相人に多くの物を下賜しました。このことは自然に世間の評判になっておりました。
帝の方からはこのような話を外部に漏らすことはありませんでしたが、
東宮(第一皇子)の祖父に当る右大臣などは、

「どういう事であろうか」

と、疑いの気持ちを持っていました。

帝は賢明な御心で、源氏に日本流の人相見をさせなさって、既にお考えになっていた
ご意向に随って、今までこの君(源氏)を親王にもさせておられませんでしたので、

「あの相人は本当に賢明であることよ」

とお思いになって、

「この子を無品親王(むほんしんのう: 役人としての位のない親王)の、後援する外戚のいない
 不安定な状況には、させたくない。私の代もいつまで続くか分からないのだから、この子を
 臣下の位にさせて、朝廷の補佐役にさせることが、将来も頼もしく思われる」

と帝は決断なされて、若宮にますます、いろいろな学問を習わせなさいました。

若宮は格別に賢く、臣下の位にするにはとてももったいないことですが、もし親王となったならば、
自分が天子になろうとする野心を、世の中の人々に疑われかねないと思われたので、
宿曜(すくよう: 星占い)の優れた人に占わせなさっても、同じ内容のことを答えたので、
若宮に源氏の姓を与えるのが良いと、お決めになりました。



ここまでが本文です。


後見人のいない状況で、皇族として皇位を争うよりは、人臣の列に加えた方が良いという、
桐壺帝の苦渋の選択ですね。この高麗人の人相見も、このような源氏の運命に
気づいていたのだと思います。


次の話で藤壺が登場します。弘徽殿の女御と源氏の因縁が、また始まります。

雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生の宿   桐壺帝

玉簾明くるも知らで寝しものを夢にも見じと思ひかけきや
           『伊勢集』より、「『亭子院、長恨歌の屏風に』と題す」


解説

桐壺帝が桐壺更衣の母君の手紙を見て悲しみを覚えている頃の、弘徽殿の女御の様子です。


ここからが本文です。



帝が秋の風の音や、虫の声を聴く時にも、悲しいお気持ちだけを覚えておられるときに、
弘徽殿の女御は、長い間、御自身の弘徽殿の上の御局(おつぼね:宮中の間仕切りの部屋)へ
上がることもなく、月が趣のある様子であったので、夜が更けるまで、音楽の催しをしていました。

「実に面白くない。不愉快だ」

と帝は思し召して、その音楽の様子をお聞きになっていました。

最近の帝のご様子を見ていた高官や女房などは、

「帝もお気の毒なことです」

と思いながら、音楽を聴いていました。

弘徽殿の女御は、ひどく我を張って、意地を張るところのある方でしたので、
帝が桐壺更衣のために悲嘆に暮れていることを、大したことではないかのように、
無視をするように振る舞っているようでした。


やがて月も沈む頃になってしまいました(一首目)。


雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらん浅茅生の宿   桐壺帝

訳: 雲の上(宮中)でも涙に暮れて秋の月がかすんで見えるのに、どうしてあの
 桐壺更衣の母君様のいる茅の生えた荒れ果てた家で、月が澄んで見えるだろうか。


桐壺更衣の郷里の様子を心配して想像されながら、灯火をかかげ尽して、起きておられました。


  (注)「灯火をかかげ尽して」というのは、長恨歌の以下の一節の引用です。

   夕殿螢飛思悄然,   夕殿 螢飛び 思ひ悄然(しょうぜん)たり
   孤燈挑盡未成眠。   孤燈 挑(か)き尽して 未だ眠りを成さず
  
   (訳)夕方の宮殿では螢が飛んで、愁い悲しむ気持ちになっていた。
    帝の寝室では、まだ明りがあり、何度も明りを付けるために
    燈火の芯を掻き尽しても、まだ眠ることができないでいた。


右近衛府(うこんえふ)の役人の宿直申し(とのいもうし)の声が聞こえているので、
丑の刻(午前二時)になったのでしょう。帝は人目を御憚りになって、
御寝室にお入りになってからも、なかなか眠ることはなされませんでした。


  (注)宿直申し(とのいもうし)は、衛府(えふ: 宮中の護衛に当たる役所)の役人が、
   夜の定められた時刻に自分の姓名を名乗ることを指して言います。亥の刻から子の刻
   まで(午前十時〜午前零時)は左近衛(さこんえ)の、丑の刻から卯の刻まで
   (午前二時〜午前六時)は右近衛(うこんえ)の役人が、宿直申しを行うことになっていました。


朝になってお目覚めになるときにも、帝は「明くるも知らで」と思い出されておられて、
相変わらず、朝のご公務を怠りがちになっておられるようでした。


  (注)「明くるも知らで」は、以下の短歌の一節です(二首目)。

   玉簾明くるも知らで寝しものを夢にも見じと思ひかけきや
           『伊勢集』より、「『亭子院、長恨歌の屏風に』と題す」

   訳: 美しい簾の中で、夜が明けるのも知らずに寝ていたが、夢の中でさえも
    会うこともできないとは、予想していただろうか。

   「かつては夜が明けるのも知らないで一緒に寝ていたが、今では夢に逢うことも難しくなった」
   という意味を含ませていますね。


帝は一言も仰せにはならず、朝餉(あさがれい: 朝の天皇の取られる簡単な御食事)には、
形だけ手をお付けになって、大床子の御膳(だいしょうじのおもの: 昼の天皇の取られる
表向きの御食事)には、とても食べる気になれないと思し召しているので、
御給仕に勉めている者たちは、帝のお気の毒なご様子を見て、嘆いておりました。

帝のお側に仕えている者たちは皆、男も女も、

「何とも辛いご様子ですね」

と言い合いながら嘆いていました。

「帝には、桐壺更衣との間に、早く死別してしまうという、そうなるはずの
 前世からのお約束があったのでしょう」

「多くの人々の誹りや恨みも、帝は御憚りになることもなく、桐壺更衣の事に関しては、
 人の道理も失ってしまわれて、今もまた、このように、世の中の事さえも、
 見捨ててしまわれるようになってしまわれたのは」

「(お国のためには)とても不都合なご様子ですね」

などと、人々は過去の唐の国の朝廷の例まで引き合いに出して、
お互いにささやき合いながら嘆いていました。



ここまでが本文です。

強がっている弘徽殿の女御だけでなく、桐壺帝の側近くに仕える者たちも、
桐壺更衣のことをまだ忘れられない桐壺帝を困ったものだと思っているのでしょうね。

この物語の時代では一人の女性に思いを寄せることはとても難しいと思いました。


次回は若宮(源氏)が宮中に参内してきて以降の話です。

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