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この記事はモンゴルのチンギス・ハーンに仕えた
耶律楚材(やりつそざい)が詠んだ菊の漢詩の記事の後半部分です。
コメント欄もこちらにあります。
この後半部分では、現代語訳と解説を書いています。
原文と書き下し文と語注については、次の前半の記事を参照して下さい。
前半の記事
以上のこと、ご了承願います。
よろしくお願いいたします。
題: 「黄華老人(こうかろうじん)と呼ばれた王庭筠(おうていいん)が
詠んだ、『献陵(けんりょう)の呉氏(ごし)の成趣園(せいしゅえん)を
題する』 という詩と同じ韻を使ってお返事を書きます。」
雪渓(せっけい: 雪で覆われた谷)という号のある王庭筠(おうていいん)
さん、あなたはの文人としての筆の技量は、その才能が
北斗七星のように輝いていて、
本の虫と言えるほどの読書家のあなたは、詩を一首書いておりましたね。
私は遅ればせながらそれに続こうと筆を操ってはいますが、
ひそひそとしたうわさ話の中で、(高い地位に就いている自分を)
批判するものもいないという残念なありさまです。
かつて成人の年齢になった詩人の陶淵明(とうえんめい)は
官職を辞めて去っていき、松や菊や竹を植えた俗世間から離れて住む
隠者(いんじゃ)の住まいで気ままに楽しむ、まさに、三友(さんゆう)、
つまり衰えた世の中で友とすべきものと言えるでしょう。
陶淵明はのんびりと菊の花を手にとって南の方の山々を眺めながら、
東の垣根で好きなようにお酒を飲んで、九月九日の重陽(ちょうよう)の
節句の日にお酒に酔っていました。
金の時代、献陵(けんりょう)という土地の呉(ご)さんと
言われた梁子直(りょうしちょく)という人は、荒れ果てた土地を耕して
一人で隠居をして過ごし、高い志をもってあえて王侯貴族に仕えることを
しない態度というものは、本当に自分のものにしたいものだと思います。
そういう風流で俗世間から離れた地で静かに寝て暮らし、
そのまま年を取って亡くなっていきました。
今年は天子(てんし: 皇帝)に付き従って長安の都を流れる
渭水(いすい)の川を渡り、かつてここで唐の詩人の王維(おうい)が
詠んだ詩にある別れを象徴するもの寂しい柳の木があるのを
悲しんでいました。
私は仙人のように隠居をする計画を梁子直(りょうしちょく)を見習って
隠居をしていこうと思っていましたが、美しい詩歌を詠むことさえも
あなた(黄華老人(こうかろうじん))に遅れを取ってしまいました。
音楽を理解する友人であっても、その友人がすでに昔の人に
なってしまえば、風流な琴の音色など聞くことができないのです。
それは弦が切れた琴と同じなのです。
高い所で風に向かって立って、心を痛めながら、
薄絹の布で覆われた高価なお酒を飲んでいます。
ああ、私はただ名誉や利益にあくせくして世の中を渡っていく
そんなただの人になってしまいました。
かつて陶淵明(とうえんめい)のように俗世間から隠れて
自然の中で生活をすることに
憧れていたかどうかさえ忘れてしまっているのです。
●解説:
この漢詩は、チンギス・ハーンに仕えた耶律楚材(やりつそざい)の、
それ以前に金の王朝の官僚であった頃の漢詩です。
耶律楚材は、もとは宋に攻め込んで中国の北半分を占領した
北方の騎馬民族である女真族(じょしんぞく)の国である、
金(きん)に滅ぼされた遼(りょう)という国の王族の末裔で、
彼の父は金の国の宰相まで務めていました。
彼の父は若い頃になくなっていて、漢人の厳しい母親の手で
育てられました。その後、宰相の息子と言うことで科挙を免除されて、
その代わりの試験で主席を取って、官僚として出世していきました。
その後、金がモンゴルに滅ぼされた後は、チンギス・ハーンに
捕らえられて、天文と占いに通じていた彼を漢語の翻訳係として
任用しました。
その後、中書令(ちゅうしょれい)という地位に就き、これは中国の
官僚制度では宰相を意味する地位で、元の漢文の歴史書である
『元史』には占いを通じて重要な政治の助言をして、
チンギス・ハーンの後継者の決定にも関わったとされています。
しかし、実際にチンギス・ハーンが重用していたのはモンゴル人の次には
イスラム商人であり、漢人やその他の人たちは冷遇されていました。
当時は中書令(ちゅうしょれい)と言われながらも、
実際には漢語への翻訳係の長という地位であったとされています。
しかしながら、南宋を攻めるときに漢人を皆殺しにしようと
していた所を彼らから税金を取って国庫を豊かにしましょうと
諫めて彼らを救ったり、孔子の子孫を保護して儒学の保護を
するように進言してその実現に努めたりしたことなどは、
後世への貢献が大きかった所だと思います。
日本人の視点から考えてみると、もし彼の活躍がなければ
モンゴルは漢人たちを組織することができずに、
元という国を作れずに元寇は起こらなかったのかもしれない、
などと考えることもできますね。ここはあくまでも歴史のロマンの世界です。
漢詩は耶律楚材が金の王朝に仕えていた頃に、
九月九日の重陽(ちょうよう)の節句に黄華老人(こうかろうじん)という
号の王庭筠(おうていいん)という人に宛てて、
王庭筠(おうていいん)が同じく金の時代の隠者であった
梁子直(りょうしちょく)が成趣園(せいしゅえん)という土地に移り住んで、
田園詩人と言われた東晋の詩人の陶淵明(とうえんめい)のように
暮らしていたことを詠んだ漢詩に、彼が唱和して詠んだ漢詩を
返事として送ったものです。
この九月九日の重陽(ちょうよう)の節句に日には、
高い丘に登って、茱萸(しゅゆ: かわはじかみ)の
実のついた枝を頭にさして、菊の花を浮かべた酒を飲んで
邪気を除く行事が行われました。九は、易では陽のめでたい数を
示しています。重九や重陽は九が重なるという意味です。
その様子が陶淵明の「飲酒 其の五」という詩に描かれています。
その一節を以下に示します。
(陶淵明の詩の原文)
采菊東籬下、悠然見南山。
(陶淵明の詩の書き下し文)
菊を東籬(とうり)の下(もと)に采(と)りて、
悠然(ゆうぜん)と南山(なんざん)を見る。
(陶淵明の現代語訳)
菊の花を東の垣根のところで摘み、
ゆったりとした気持ちで、廬山(ろざん)の壮大な山を眺めていました。
(ここまでが陶淵明の詩の現代語訳です)
それをもとに、現在の金の国での隠者の二人が陶淵明のように 過ごしているのに対して、彼自身は官僚生活に拘束されている、
それを嘆いた詩です。
その嘆きを「知音(ちいん)」という言葉のもととなった
故事を引用しています。
知音(ちいん)は、老荘系の書物の一つである『列子(れっし)』の
「湯問(とうもん)」篇の一節がもとになっています。
秦の始皇帝が中国を統一する以前の春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)
時代に、琴の名手の伯牙(はくが)の弾く琴の音を聴いて、
親友の鍾子期(しょうしき)は伯牙の心境を理解したことから、
音楽を理解する者という意味から転じて、心をよく理解しあった
親友のこと知音(ちいん)と言います。
さらにこの話の続きで、「断弦の琴(だんげんのきん)」という話があります。
その後に親友の鍾子期(しょうしき)が病気で死んでしまうと、
伯牙は弦を断ち切って二度と琴を弾くことが無かったという話から、
断弦の琴(だんげんのきん)は、そんな親友は滅多にいない、
ということを示す言葉です。
親友の鍾子期(しょうしき)を失った伯牙(はくが)のように、
金の時代の隠者二人とともにそういう風流な時期を過ごす機会を
逸してしまっていて、自分の気持ちさえも変わってしまったのではないか、
そんな耶律楚材の嘆きを感じる詩に思いました。
社会に関わることが通常である現代では理解することが難しい
考え方ですが、宮廷の中での権力争いを避けて、
田園にこもって隠居生活をする、そういうものを良しとする
考え方が存在していて、耶律楚材もそういう考え方に憧れていたのです。
それにしても、このような故事をふんだんに用いた長い詩を 作った耶律楚材という人物は、もしかしたらチンギス・ハーンに もっと重用されていたのかもしれない、などと改めて考えていました。 こういう詩をきちんと学んでいって、
普段の作詩に役立てていこうと思います。
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その他の昔の漢詩の解説
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この記事はモンゴルのチンギス・ハーンに仕えた耶律楚材が詠んだ
菊の漢詩の記事の前半部分です。
この前半部分では、その漢詩の原文と書き下し文と
語注を書いています。現代語訳と詳しい解説については、
次の後半の記事を参照して下さい。コメント欄も後半の方にあります。
後半の記事
以上のこと、ご了承願います。
よろしくお願いいたします。
●原文:
「和黄華老人題献陵呉氏成趣園詩」 (元) 耶律楚材
雪 溪 詞 翰 輝 星 斗、 紙 蠹 鹿 家 詩 一 首。 丁 年 彭 澤 解 官 去、 遨 遊 三 徑 眞 三 友。
悠 然 把 菊 見 南 山、 暢 飲 車 籬 醉 重 九。
獻 陵 呉 氏 治 荒 園、 成 趣 爲 名 良 可 取。
養 高 不 肯 事 主 侯、 閑 臥 林 泉 了 衰 朽。
今 年 扈 従 過 秦 川、 可 憐 尚 有 蕭 条 柳。
歸 計 甘 輸 呉 子 先、 麗 詞 已 後 黄 華 手。
知 音 誰 聽 斷 弦 琴、 臨 風 痛 想 紗 巾 酒。
嗟 乎 世 路 聲 利 人、 不 知 曾 憶 淵 明 否。
●書き下し文:
題: 「黄華老人(こうかろうじん)の献陵(けんりょう)の
呉氏(ごし)の成趣園(せいしゅえん)を題する詩に和(わ)す」
雪渓(せっけい)の詞翰(しかん) 星斗(せいと)を輝(かがや)かし、
紙蠹(しと)の鹿家(ろくか) 詩一首。
湛念(たんねん) 墨を揮(ふる)いて続貂(ぞくちょう)を試み、
囁嚅(しょうじゅ) 人をして口に出ること難(かた)からしむ。
丁年(ていねん)の彭沢(ほうたく) 官(かん)を解(と)きて去り、
三径(さんけい)に遨遊(ごうゆう)する真(しん)の三友(さんゆう)。
悠然(ゆうぜん)と菊(きく)を把(と)りて南山(なんざん)を見、
東籬(とうり)に暢飲(ちょういん)して重九(ちょうきゅう)に酔う。
献陵(けんりょう)の呉氏(ごし) 荒園(こうえん)を治(おさ)め 、
趣(おもむき)を成して名を為(な)し良(まこと)に取るべし。
高きを養(やしな)いて肯(あ)えて王侯(おうこう)に事(つか)えず、
林泉(りんせん)に閑臥(かんが)して衰朽(すいきゅう)に了(おわ)る。
今年(ことし) 扈従(こじゅう)して秦川(しんせん)を過(よぎ)り、
憐(あわ)れむべし尚(なお) 蕭条(しょうじょう)の柳(やなぎ)有るを。
帰計(きけい) 甘(あま)んじて呉子(ごし)の先(せん)を輸(いた)し、
麗詞(れいし) 已(すで)に黄華(こうか)の手に後(おく)る。
知音(ちいん) 誰か聴かん断弦(だんげん)の琴を、
風に臨(のぞ)みて想(おも)いを痛(いた)ましむ紗巾(さきん)の酒。
嗟乎(ああ) 世路(せろ)の声利(せいり)の人、
知らず曾(かつ)て憶(おも)うは淵明(えんめい)なるや否(いな)やを。
●語注:
※雪渓(せっけい): 雪で覆われた谷のことですが、
ここでは金の王朝の時代の文人で
書家・画家の王庭筠(おうていいん)のことです。
※詞翰(しかん): 文人の持つ筆や、文人の書のことです。
※星斗(せいと): 北斗七星のことです。
※紙蠹(しと): 書物や衣服を食い荒らす「きくいむし」という虫のことです。
読書家という意味の「本の虫」の意味でも使われます。
※湛念(たんねん): 耶律楚材の号である「湛念居士(たんねんこじ)」
を指しています。耶律楚材は禅にも通じていたそうです。
※続貂(ぞくちょう): 他人の立派な仕事を受け継ぐことの謙遜した
表現です。りっぱなもののあとに粗悪なものが続くことを指します。
「貂」は、貂蝉(ちょうぜん: テンの尻尾でつくった 側仕えの家臣の冠の飾り)のことで、転じて、高位の人を指します。
晋(しん)の趙王倫(ちょうおうりん)の一族一党が、時の皇帝の
ひいきによってみな高位についていき、あまりに人数が多いので
テンの飾りが足らず、犬の尾で代用したと、
晋(しん)の時代の歴史書の『晋書』趙王倫伝にあります。
※囁嚅(しょうじゅ):耳もとで、ひそひそ、ねちねちと 歯切れ悪く話す様子を指します。
※丁年(ていねん): 成人の年齢に達した男性のことです。
※彭沢(ほうたく): 東晋(とうしん)の時代の詩人である
陶淵明(とうえんめい)のことです。彼は一時期に
彭沢(ほうたく)の県令(県知事)になったことから
そう呼ばれています。
※陶淵明(とうえんめい): 陶潜(とうせん)(325〜427)の字(あざな)です。
東晋の自然詩人です。潯陽(江西省九江)の人です。五柳先生と
自称し、世に靖節先生と呼ばれました。彭沢(ほうたく)の県令に
なりましたが、八十余日で辞職し、「帰去来辞(ききょらいのじ)」を
作りました。酒と菊を愛し、田園生活の実感を詩に描きました。
後世の文学に与えた影響の大きい人です。
※三径(さんけい): 前漢の隠者である蒋詡(しょうく)が庭に三つの道、
つまり三径(さんけい)を作って、それぞれに松と菊と竹を
植えたという故事から、隠者が住んでいる家の庭を指します。
※遨遊(ごうゆう): 気ままにたのしむことです。
※三友(さんゆう): 『論語』の季氏篇にある、
三つの益のある友という意味を援用したものだと思います。
※悠然(ゆうぜん): のんびりとすることです。
※南山(なんざん):江西(こうせい)省の九江(きゅうこう)市の
南部にある「廬山(ろざん)」のことです。すごい名山です。
※東籬(とうり): 「垣根の東」という意味ですが、
菊や陶淵明を登場させるための舞台装置となる言葉です。
陶淵明の『飲酒 其五』に出てくる言葉です。
※暢飲(ちょういん): 好きなだけお酒を飲むことです。
※重九(ちょうきゅう): 九月九日の重陽(ちょうよう)の節句のことです。
この日には、高い丘に登って、、茱萸(しゅゆ: かわはじかみ)の
実のついた枝を頭にさして、菊の花を浮かべた酒を飲んで
邪気を除く行事が行われました。九は、易では陽のめでたい数を
示しています。重九や重陽は九が重なるという意味です。
※献陵(けんりょう)の呉氏(ごし): 金の王朝の時代に
献県(けんけん)にいた隠者(俗世間から隠れ住む賢者)の
梁子直(りょうしちょく)のことです。ここに田畑を買い、
成趣園(せいしゅえん)という庭園を造って、
陶淵明を真似て隠れ住んでいました。
※荒園(こうえん): 荒れ果てた土地のことです。
※養高(ようこう、たかきをやしなう): 高い志を養うことです。
※王侯(おうこう): 身分の高い人のことです。
※林泉(りんせん): 俗世間から離れた土地のことです。
※閑臥(かんが): 静かに寝て暮らすことです。
※衰朽(すいきゅう): 年を取って体が衰えることです。
※扈従(こじゅう): 天子(てんし: 皇帝)のそばに付き従うことです。
※秦川(しんせん): 長安の都を流れる渭水(いすい)の川のことです。
ここは唐の王維(おうい)の有名な別れの詩である
「元二(げんじ)の安西(あんせい)に使(つか)いするを送る」
の詩が歌われた所でも有名です。そこに生えている柳は
別れの象徴です。
※蕭条(しょうじょう): もの寂しいことです。
※帰計(きけい): 官職を辞めて隠居をする計画のことです。
※輸(いたす): 全力で取り組むことです。
※麗詞(れいし): 美しい詩歌(しいか)のことです。
※黄華(こうか): 黄華老人(こうかろうじん)と言われた、
王庭筠(おうていいん)のことです。
※王庭筠(おうていいん): (1151〜1202)宋の時代に北方から攻めてきた
女真族の国である金の文人で書家で画家のすぐれた人物です。
権力争いの激しい金の宮廷の中で妨害にあったので、
自分の官職の任期が終わると辞表を提出し、
黄華山寺(こうかさんじ)というお寺の近くに田畑を買って
読書しながら気ままに暮らし、号を「黄華老人(こうかろうじん)」
とした人です。
※知音(ちいん): 春秋戦国時代に、琴の名手の伯牙(はくが)の弾く
琴の音を聴いて、親友の鍾子期(しょうしき)が伯牙の心境を
理解したことから、音楽を理解する者という意味から転じて、
心をよく理解しあった親友のことです。
※断弦琴(だんげんのきん): 先ほどの話の続きで、その後に
鍾子期(しょうしき)が病気で死んでしまうと、伯牙は
弦を断ち切って二度と琴を弾くことが無かったという話から、
そんな親友は滅多にいない、ということを示す言葉です。
※紗巾(さきん): 薄絹(うすぎぬ)の布のことです。
※嗟乎(ああ): 「ああ」、嘆いて発する声です。
※世路(せろ): 世の中を生きていく方法のことです。
※声利(せいり): 世間の評判と利益のことです。
※淵明(えんめい): 語注の「陶淵明」を参照して下さい。
※否(〜なるやいなや): 「〜かどうか」という意味です。
以下、後半へ続きます。
後半の記事
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●原文: 贈陽伯 (明) 王陽明
陽 伯 即 伯 陽、 伯 陽 竟 安 在。
大 道 即 人 心、 萬 古 未 嘗 改。
長 生 在 求 仁、 金 丹 非 外 待。
繆 矣 三 十 年、 於 今 吾 始 悔。
●書き下し文:
題: 「陽伯(ようはく)に贈る」
陽伯(ようはく)は即(すなわ)ち伯陽(はくよう)なり、
伯陽(はくよう)竟(つい)に安(いず)くにか在らん。
大道(だいどう)は即(すなわ)ち人心(じんしん)なり、
万古(ばんこ)未(いま)だ嘗(かつ)て改(あらた)まらず。
長生(ちょうせい)は仁(じん)を求(もと)むるに在(あ)り、
金丹(きんたん)を外(そと)に待(ま)つに非(あら)ず。
繆(あやま)てり三十年、
今に於(おい)て吾(わ)れ始(はじ)めて悔(く)ゆ。
●現代語訳:
題: 「陽伯(ようはく)さんに詩を作って贈ります」
陽伯(ようはく)さん、あなたは老子の道を学んでいるのですから、
あなたはまさしく伯陽(はくよう: 老子の別名)だと言えるでしょう。
しかし私は、その伯陽(老子)の道をついに
見つけることができませんでした。
世の中の自然の道理を表す大きな道というものは、
つまりは普通の人の心の中にしか存在しないものでして、
そのことは大昔からずっと変わらないのです。
長く生きるには、孔子が仁(じん)という言葉で示した聖人の道を、
経書(けいしょ: 儒学の書物)の中から求めることで得られるのであって、
金丹(きんたん)などという黄金を練って作る
不老不死の薬ができるのを、待つ事によって
得られるものではないのです。
このことを理解するまで、三十年の無駄な時を過ごしました。
今になって、私は初めて後悔するようになったのです。
●語注:
※伯陽(はくよう): 老子の字(あざな)の一つです。
※大道(だいどう): 天地自然の道理を意味する「道」のことです。
※人心(じんしん): 人間が持つ普通の心のことです。
※万古(ばんこ): 大昔のことです。
※長生(ちょうせい): 長生きをすることです。
※仁(じん): この場合は普通の「人を思いやる気持ち」の仁ではなくて、
孔子さえももったいぶって言わない意味での仁で、
ほとんど「聖人の道」のような意味で使われています。
※金丹(きんたん): 道教の道士などが黄金を練って作る、
不老不死の薬のことです。
※繆(あやまる): 「過(あやま)ちをおかす」という意味です。
●解説:
この詩は王陽明が 1505 年に過去に道教の術を学んでいたことを
後悔した気持ちを、陽伯(ようはく)という人に贈る詩という形で
詠んだものです。
この「陽伯」をひっくり返すと「伯陽(はくよう)」となり、
これは老子のいくつかの字(あざな)の一つです。
つまり、「架空の老子の学を学んだ人」に宛てて贈った詩になります。
この年は王陽明は三十四歳でした。この翌年に王陽明は
宦官の劉瑾(りゅうきん)が独断で政治を行っていたことを
批判する上奏文を提出すると、逆に劉瑾(りゅうきん)の恨みを買って、
当時は未開の地であったの貴州省の龍場(りゅうじょう)駅の
役人へと左遷されました。
そこでの苦しい生活の中で、彼は儒学の経書の『大学』と、
かつて朱子学の大成者であった南宋の朱熹(しゅき)の論敵であった、
陸象山(りくしょうざん)の思想をもとに、
新しい学説を生み出すことになります。
この少し手前に詠まれた漢詩ですね。
王陽明は若い頃には仏教や道教や、
漢詩などいろんなものに首を突っ込んで、
最終的にはやっぱり儒学だと言うことで学び直していきました。
そのために科挙に合格したのは二十八歳の三度目の受験のあとという、
同輩たちと比べればかなり遅い官僚生活の始まりとなっていました。
しかしこの若い頃の経験が、後の学問や用兵の才能を
養っていったのではないかと思います。
全く系統は違いますが、どこか曹操や信長を思わせる経歴ですね。
道教も不老不死の薬を作ったりするなど、
当時の道教の、一部迷信的な部分を批判している内容ですね。
結局経書(けいしょ: 四書五経(ししょごきょう)と言われる儒学の書物)
をもとに聖人の道を見いだすことでしか長生きの方法さえも見つからない、
王陽明はそういう結論に当時は達していた、ということだと思います。
朱子学の朱熹も若い頃には儒学と禅を同時に学んでいましたが、
彼の師であった李延平(りえんぺい)の厳しい導きによって
儒学だけを志すようになっていきました。
イギリスの哲学者のヒュームなど、まだまだ例はありますが、
本当に哲学をしている人は、こういう若い頃の迷いを
経験しているようです。
経書を批判する一時期があったからこそ、
より深く経書を理解していった、そのように思います。
若い頃の迷いが、後の人生の栄養になって帰ってくる、
そう考えると、若い頃にいろんな経験をしていくことが大切なのだと
改めて思いました。
僕もこれからもいろんな事をどんどん学んでいこうと思います。
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梅
Photo by : clef
http://street34.mond.jp/clef 前回の漢詩の中で、「駅使(えきし)」という言葉が
梅の別名として使われていると書きました。
根拠として、その言葉が出てくる文章を示します。
その文章は、南宋(なんそう)の詩人である、陸游(りくゆう)の
見聞したものをまとめた『老学庵筆記(ろうがくあんひっき)』の中の
一節です。
●原文:
宋初人尚文選、草必稱王孫,梅必稱驛使,
月必稱望舒,山水必稱清暉。
●書き下し文:
宋初(そうしょ)の人は『文選(もんぜん)』を尚(とうと)び、
草は必ず王孫(おうそん)と称し、梅は必ず駅使(えきし)と称し、
月は必ず望舒(ぼうじょ)と称し、山水は必ず清暉(せいき)と称す。
●現代語訳:
宋(そう)の王朝の初期に、『文選(もんぜん)』という文集を尊重し、
草を王孫(おうそん)、つまり「帝王の子孫」、
梅を駅使(えきし)、つまり「公的な物資を馬で運ぶ使者」、
月を望舒(ぼうじょ)、つまり「月の神様」、
山水を清暉(せいき)、つまり「清らかな輝き」と呼んでいました。
(ここまでが現代語訳です)
ここで『文選(もんぜん)』とは古代中国の周王朝から、
隋や唐の少し前の南北朝の頃までの作品を集めた詩文集です。
曹操の息子達や竹林の七賢など、各時代を代表した
文人たちの作品集です。
しかしその肝心の陸游(りくゆう)の述べていた一節はなくて、
陸游の記憶違いではないかと言われています。
こういう言葉の中のちょっとした事も、
気になるときちんと調べるようにしています。
これからもこういう所を常にきちんと学んで活かしていこうと思います。
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●原文:
尋春 (明) 王陽明
十 里 湖 光 放 小 舟, 漫 尋 春 事 及 西 疇。
江 鷗 意 到 忽 飛 去, 野 老 情 深 只 自 留。
日 暮 草 香 含 雨 氣, 九 峰 晴 色 散 溪 流。
吾 儕 是 處 皆 行 樂, 何 必 蘭 亭 説 舊 遊。
●書き下し文:
題: 「春を尋(たず)ねる」
十里(じゅうり)の湖光(ここう)に小舟(しょうしゅう)を放ち、
漫(そぞ)ろに尋(たず)ぬ 春事(しゅんじ)の西疇(せいちゅう)に及ぶを。
江鴎(こうおう)に意は到りて忽(たちま)ち飛び去り、
野老(やろう)の情は深くして只(た)だ自(みずか)ら留(とど)まる。
日暮(にちぼ)の草香(そうこう)雨気(うき)を含み、
九峰(きゅうほう)の晴色(せいしょく)渓流(けいりゅう)を散(さん)ず。
吾(わ)が儕(ともがら)は是(こ)れ皆(みな)
行楽(こうらく)する処(ところ)、
何ぞ必ずしも蘭亭(らんてい)に旧遊(きゅうゆう)を説(と)かん。
●現代語訳:
題: 「春を尋ね歩いた様子を漢詩に詠みました」
十里の大きな湖の景色の中、小さな舟に乗って、
何ともなしに春の農作業が西の畑にやって来たかどうかを
人に尋ねていました。
川のカモメは私の気配を知ったのか、すぐに飛び立っていき、
そこに住む田舎の老人は、深い思いやりを持っていて、
自分の心をその場に留めて、他をうらやむこともないのです。
夕暮れの草の香りには雨が降りそうな気配が感じられ、
九華山(きゅうかざん)の山の晴れた景色の中、
谷川の流れが四方に分かれているのを眺めることができます。
私はこうして近くの遊び楽しむ場所を仲間としているのです。
どうしてわざわざかつて東晋(とうしん)の時代に、書道で有名な
王羲之(おうぎし)が当時の名士を集めて風流な宴会をした
蘭亭(らんてい)のことを説明する必要があるでしょうか。
●語注:
※湖光(ここう): 湖の景色のことです。
※春事(しゅんじ): 春の農作業のことです。
※西疇(せいちゅう): 西にある畑のことです。
「疇(ちゅう)」は畑、あるいは畑のあぜ道のことです。
※江鴎(こうおう): 川に生息しているカモメのことです。
※野老(やろう): 田舎の老人のことです。
※日暮(にちぼ): 夕暮れ時のことです。
※雨気(うき): 雨が降りそうな気配のことです。
※九峰(きゅうほう): 現在の中国の安徽(あんき)省の
青陽(せいよう)県の西南にある「九華山(きゅうかざん)」という山です。
※晴色(せいしょく): 晴れた景色のことです。
※行楽(こうらく): 遊び楽しむことです。
※蘭亭(らんてい): 中国の東晋(とうしん)の時代の政治家で書家である、
王羲之(おうぎし)が多くの名士たちを、今の浙江省紹興市の南にある
会稽山(かいけいざん)という山にある蘭亭(らんてい)という
別荘に招き、曲水の宴(きょくすいのえん)を開いたとする場所です。
※旧遊(きゅうゆう): 昔に行った風流な遊びのことです。
●解説:
明の儒学者の王陽明(おうようめい)の、
春を尋ねて散策する様子を詠んだ、七言律詩を訳してみました。
王陽明は陽明学という儒学の一派を開拓した人です。
大塩平八郎や幕末の志士たちがこれを学んで
影響を受けたとされています。
こうして聞くと、ともすれば反体制を煽るような考え方
という誤解もありますが、実際にはいたってまともな考え方です。
実践と道徳を重んじ、儒学というよりは、やや禅に近い考え方で、
経書(けいしょ: 儒学の書物)をもとに自分の心を養っていき、
人間がもともと持っている曇りのない心に立ち戻っていき、
聖人へと近づいていく、そういうことを説いたものです。
この「経書をもとに」というところが後継者の左派の中で
しだいに忘れ去られていって、一部に経書さえも不要だとする
危険思想に発展していったりしていきました。
儒学で「実践重視」とか言うと、
「実践はなかなか難しいですね」という方がよくおられます。
そのお気持ちがとてもよくわかります。
僕も何年も前に経書の内容を鵜呑みにして行動してひどい目にあって、
しばらく経書から遠ざかっていた頃がありました。
ここで反省して思ったのが、一足飛びに実践というものを焦らずに、
経書の内容を自分の具体的な状況に照らして考えていって、
少しでも自己の改善につながるようにしていく、
ということが必要だと改めて思いました。
「理解したように実践する」というよりは、
「少しでも実践に移せる形で理解していく」ということだと思いました。
漢詩の内容に戻りますと、春の景色を求めて散策していく光景が、
漢詩の中で展開されていき、風流な景色、楽しい状況は
常に目の前に広がっていて、自分とは全く無関係の、
趣向を凝らした風流な場所や状況をわざわざ考える必要はない、
という一種の悟りの境地のようなものを詠んだ内容だと思います。
こういう特別な風雅な場所を考える必要がない、
という「特別な風雅な場所」の例として、
蘭亭(らんてい)という場所を挙げています。
これは中国の東晋(とうしん)の時代の政治家で書家である、
王羲之(おうぎし)が多くの名士たちを今の浙江(せっこう)省の
紹興(しょうこう)市の南にある会稽山(かいけいざん)という
山にある蘭亭(らんてい)という別荘に招き、
曲水の宴(きょくすいのえん)を開いたとする場所です。
曲水の宴というのは、曲水(きょくすい)という
人工的に作った流れの曲がった小川に酒を注いだ杯を流して、
その杯が自分の前を通り過ぎる前に詩を作って杯を取り、
そのお酒を飲むという風流な遊びのことです。
三月三日の上巳(じょうし)の桃の節句の頃に行われていたそうです。
その王羲之(おうぎし)が西暦 353 年の三月三日に
蘭亭(らんてい)で行ったその曲水の宴で作られた詩の、
詩集の序文こそが、王羲之の有名な書作品である
蘭亭序(らんていじょ)になります。
こういう特別な場所ではなく、目の前にこそ楽しい景色が広がっている、
目の前の世界こそが極楽だ、という考え方には、
目の前の煩悩にあふれた現実の世界を極楽のように変えていこう
という『維摩経(ゆいまきょう)』で説かれる世界にも
通じているように思いました。
王陽明は宦官を弾劾して、逆に僻地に左遷させられたときに、
その僻地の大自然の中で、そういう境地を感じ取っていったのでは
ないか、そのように思っています。
こういう境地を僕も少しでも得られるようにと、
日々学んでいこうと思います。
●少し訂正(2月13日):
二句目の「漫 尋 春 事 及 西 疇。」の解釈を訂正しました。
書き下し文を、「漫(そぞ)ろに尋(たず)ぬ 春事(しゅんじ)の
西疇(せいちゅう)に及ぶを。」
と改めました。
「西疇(せいちゅう)」は西の畑のことで、
陶淵明の「帰去来辞(ききょらいのじ)」という詩の中で、
農人告余以春及, 農人 余に告げるに春の及べるを以てし,
將有事於西疇。 将に西疇に於て事有らんとす。 (訳) 農民は私に春が来たということを告げて、 西の方の畑で農作業をしようとしていました。 とある所から推測すると、「漫 尋 春 事 及 西 疇。」の訳は、
「何となく春の農作業が西の畑にまで及んでいるかどうかを
人に尋ねていました。」
となると考え直しました。
こういう所は常に学んでいこうと思います。
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