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桃の実
Photo by (c)Tomo.Yun
(http://www.yunphoto.net) 先ほどの記事の、「梁父吟(りょうほぎん)」の元になった『晏氏春秋(あんししゅんじゅう)』の原文と書き下し文、現代語訳に解説と続きます。
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先ほどの記事 - 諸葛孔明が口ずさんでいた詩・・・
「梁父吟(りょうほぎん) 」
「梁父吟(りょうほぎん)」の中でのその一節は、次のようなものです。晏嬰の主君の景公(けいこう)には三人の勇猛な人間が仕えていて、彼等は主君を主君とも思わぬ態度で国内で好き勝手をしていました。そこで宰相の晏嬰は、二つの桃を使って彼等をうまく排除しようと考えました。さて、どのようにしたでしょうか?
原文:
景公養勇士三人無君之義晏子諫第二十四
公孫接、田開疆、古冶子事景公,以勇力搏虎聞。晏子過而趨,三子者不起。晏子入見公曰:「臣聞明君之蓄勇力之士也,上有君臣之義,下有長率之倫,内可以禁暴,外可以威敵,上利其功,下服其勇,故尊其位,重其祿。今君之蓄勇力之士也,上無君臣之義,下無長率之倫,内不以禁暴,外不可威敵,此危國之器也,不若去之。」公曰:「三子者,搏之恐不得,刺之恐不中也。」晏子曰:「此皆力攻勍敵之人也,無長幼之禮。」因請公使人少餽之二桃,曰:「三子何不計功而食桃?」公孫接仰天而歎曰:「晏子,智人也!夫使公之計吾功者,不受桃,是無勇也,士衆而桃寡,何不計功而食桃矣。接一搏豣而再搏乳虎,若接之功,可以食桃而無與人同矣。」援桃而起。田開疆曰:「吾仗兵而卻三軍者再,若開疆之功,亦可以食桃,而無與人同矣。」援桃而起。古冶子曰:「吾嘗從君濟于河,黿銜左驂以入砥柱之流。當是時也,冶少不能游,潛行逆流百歩,順流九里,得黿而殺之,左操驂尾,右挈黿頭,鶴躍而出。津人皆曰:『河伯也!』若冶視之,則大黿之首。若冶之功,亦可以食桃而無與人同矣。二子何不反桃!」抽劍而起。公孫接、田開疆曰:「吾勇不子若,功不子逮,取桃不讓,是貪也;然而不死,無勇也。」皆反其桃,挈領而死。古冶子曰:「二子死之,冶獨生之,不仁;恥人以言,而夸其聲,不義;恨乎所行,不死,無勇。雖然,二子同桃而節,冶專其桃而宜。」亦反其桃,挈領而死。使者復曰:「已死矣。」公殮之以服,葬之以士禮焉。
書き下し文:
「景公(けいこう)の養いし勇士三人の君の義 無きを晏子(あんし)が諫(いさ)める。第二十四節」
公孫接(こうそんしょう)、田開疆(でんかいきょう)、古冶子(こやし)は景公(けいこう)に事(つか)え,勇力(ゆうりょく)を以て虎を搏(う)つと聞く。晏子(あんし) 過ぎて趨(はし)るも,三子は起たず。晏子 入りて公に見(まみ)えて曰く、「臣は聞く、明君の勇力の士を蓄(たくわ)うるや,上は君臣の義 有りて,下は長率(ちょうそつ)の倫(みち) 有り,内には以て暴(ぼう)を禁ずべく,外には以て敵を威(おど)すべし,上は其の功に利ありて,下は其の勇に服す,故に其の位を尊くし,其の禄を重くす。今、君の勇力の士を蓄うるや,上には君臣の義 無く,下には長率の倫 無し,内には以て暴を禁ずるべからず,外には敵を威すべからず,此は国を危うくするの器なり,之を去るに若(し)かず」と。公の曰く、「三子は,之を搏たんとするも得ざるを恐れ,之を刺さんとするも中(あた)らざるを恐るるなり」と。晏子の曰く、「此れ皆な力攻するに勍敵(けいてき)の人なり,長幼の礼 無し」と。因りて公に請いて人をして之の二桃を少しく餽(おく)りて,曰く、「三子は何ぞ功を計らずして桃を食すや?」公孫接、仰天して歎じて曰く、「晏子は智なる人なり。夫れ公の計をして吾が功を計るは,桃を受けざれば,是れ勇 無きなり,士の衆(おお)くして桃は寡(すくな)し,何ぞ功を計らずして桃を食わん。接(しょう)は一に豣(けん)を搏(う)ちて再び乳虎(にゅうこ)を搏つ,接の功の若(ごと)きは,以て桃を食すべくして人と同じきこと無し」と、桃を援(と)りて起つ。田開疆の曰く、「吾が仗兵(じょうへい)にて三軍を却(しりぞ)くること再びせし,開疆の功の若(ごと)きは,亦た以て桃を食らうべし,人と同じきこと無し」と、桃を援りて起つ。古冶子の曰く、「吾は嘗(かつ)て君に従いて河を済(わた)り,黿(べつ)を左驂(ささん)に銜(ふく)ませて砥柱(しちゅう)の流れに入る。是の時に当たりてや,冶(や)は少しく游(およ)ぐ能(あた)わず,潜行して逆流すること百歩,流れに順(したが)うこと九里,黿を得て之を殺さんとして,左の驂尾(さんび)を操(あやつ)りて,右に黿の頭を挈(さ)げて,鶴躍(かくやく)して出づ。津人は皆な曰く『河伯(かはく)なり!』と。冶の之を視るが若(ごと)きは,則ち大黿(だいべつ)の首なり。冶の功の若(ごと)きは,亦た以て桃を食すべくして人と同じきこと無し。二子は何ぞ桃を反(かえ)さざるや!」と。剣を抽(ぬ)きて起つ。公孫接、田開疆の曰く、「吾が勇は子に若(し)かず,功は子に逮(およ)ばず,桃を取りて譲らざれば,是は貪(むさぼ)るなり。然うして死せざれば,勇 無きなり」皆な其の桃を反して,領(くび)を挈(た)ちて死す。古冶子の曰く、「二子は之に死して,冶の独り之に生くるは,不仁なり。人を恥ずかしむるに言を以てして,其の声を夸(ほこ)らば,不義なり。行う所を恨みて,死せざれば,勇 無し。然りと雖(いえど)も,二子の桃を同(とも)にして節あるとせば,冶は其の桃を専らにして宜(よろ)しとせん」亦た其の桃を反し,領(くび)を挈(た)ちて死す。使者は復た曰く、「已(すで)に死せり」と。公は之を殮(かりもがり)するに服を以てし,之を葬るに士の礼を以てす。
現代語訳(私訳):
題:「景公(けいこう)が養っていた勇気と腕力のある男たち三人が君主への筋道を立てていないのを晏子(あんし)が諫(いさ)める。第二十四節」
公孫接(こうそんしょう)、田開疆(でんかいきょう)、古冶子(こやし)の三人の勇気のある男たちは、斉(せい)の国の景公(けいこう)に事(つか)えて,その勇気と腕力で虎をつかまえるほどだと聞いていました。
宰相の晏子(あんし) がその前を通って走っていっても、彼等三人は横になったまま立つことはありませんでした。晏子は宮殿に入って景公に謁見して言いました。「私めはこのように聞いております。明君が勇気と腕力のある男たちを仕えさせているのは、主君に対しては君主と臣下のけじめがあって、部下に対しては、将軍として人の上に立って率いる道理があるからです。国内ではその力で暴力沙汰を禁じ、国外に対してはその力で敵を威圧することができるのです。主君は彼等の立てる功績によって利益があり、部下はその勇気に服従するのです。だからこそ彼等を尊い地位に立てて、彼等に重い給与と領土とを与えるのです。ですが今は、殿が勇気と腕力のある男たちを仕えさせている様子は、主君に対しては君主と臣下のけじめがなく、部下に対しては、将軍として人の上に立って率いる道理を持ち合わせていません。国内ではその力で暴力沙汰を禁ずることができず、国外に対してはその力で敵を威圧することができません。こんな連中は国を危険にさらすのに役立つものでしかありません。これは取り除いた方がよいものです」と。景公は言いました。「この三人は倒そうとしても怖くてできないのだ。彼等を刺そうとしても、怖くてきちんと刃が当たらないのだ」と。晏子は言いました。「彼等は三人とも力で攻めるには強敵なのです。年長者に対する礼儀もなく、襲いかかってくるでしょう」と。
そこで晏子は景公にお願いして、使者を遣わして二つの桃だけを三人の元に送って言いました。「三人の勇士たちよ、どうしてあなたたちは自分たちの功績を比べもしないで殿から贈られた桃を食べるのですか?」と。
公孫接(こうそんしょう)はびっくりして嘆いたあとで言いました。「晏子よ、あなたは知恵のある人だ。そもそもあなたのはかりごとで私の功績を二人と比べて、桃を手に入れることができなければ勇気がないということになるではないか。我々は三人で桃は二個、桃の方が少ない。どうして功績を比べもせずに桃を食べることができようか。私は一度目は豣(けん)という大きな猪(いのしし)をつかまえて、二度目には虎の子どもを捕まえた。私の功績は桃を食うのにふさわしく、他の二人と同じものではないのだ」と言って、桃を取って立ち上がりました。
田開疆(でんかいきょう)は言いました。「私は二度ほど、武装した兵を率いて他の諸侯(しょこう)の率いる軍隊を退却させることができた。私の功績は桃を食うのにふさわしく、他の二人と同じものではないのだ」と言って、桃を取って立ち上がりました。
古冶子(こやし)は言いました。「私は以前、殿(との)に従って川を渡っていたとき、亀を左の添え馬の口にくわえさせて、砥柱(しちゅう)という山のある辺りの黄河の流れが急な地点に入っていった。このときに私は、少し泳ぐことができなくなり、潜りながら百歩ほど川をさかのぼり、流れに従って九里ほど行ったところで、亀を見つけてそいつを殺してやろうと思い、馬車の左の添え馬の尾を操って、右手で亀の頭を持ち上げて、鶴のように飛び上がって水から出て来た。川の渡し場の船頭たちは皆で、『あれは河伯(かはく)という川の神だ!』と言ったものだ。私がそれを見ると、大きな亀の首のように見えていた。私の功績こそが、桃を食うのにふさわしく、他の二人と同じものではないのだ、あなたたち二人はどうして桃を返さないんだ」と言いながら、剣を抜いて立ち上がりました。
公孫接、田開疆の二人は言いました。「我々の勇気はあなたには及ばない。功績もあなたに及ばない。それなのに桃を取ったままで譲らなければ、これはただの欲張りになってしまう。それでいて死なないとなれば、勇気がないということだ」と言って、二人とも桃を返した上で、自分で自分の首をはねて死にました。
すると古冶子は言いました。「二人がここで死に、私がここで一人だけ生きるというのは、彼等二人への仲間としての気持ちを持たないことになる。言葉で人をはずかしめておいて、その上で自分の名声を誇るというのは、人としての筋道が立たない。自分の行いを憎んでいるのに、死なないとなれば、私に勇気がないということだ。そうだとしても、二人が桃を得て節度があるということであれば、私はその桃を独占しても良いということになるのだ。しかし二人がいない今となっては、そんなことは意味がないのだ。。。」と。そして彼も桃を返した上で、自分で自分の首をはねて死にました。
使者は戻ってきて、「お三方はすでに死んでいます」と言いました。景公は三人を葬る前に棺桶に入れて安置するときには喪服を着け、三人を葬るときには士(し)、つまり中間の役人を葬るときの礼法に従いました。
解説:
この話を元にしていた詩の「梁父吟(りょうほぎん)」を、三国志の名軍師である諸葛孔明が、劉備に三顧の礼で迎えられる前の若い頃に好んで口ずさんでいたというのが興味深く思いました。
おそらく孔明はこの斉の国の名宰相である晏子、つまり晏嬰(あんえい)を尊敬していたのだと思います。そして三人の勇士を手玉に取った、桃を使った謀略、どんな力よりも知恵の方が強いということ、そんな知恵を使って天下を切り盛りしていこうという、孔明の志が見えてくるようです。
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諸葛孔明
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桃の実
Photo by (c)Tomo.Yun
http://www.yunphoto.net 梁父吟 諸葛亮(正確には南陽の土地の民謡)
歩 出 齊 東 門, 遙 望 蕩 陰 裡。
里 中 有 三 墳, 累 累 正 相 似。
問 是 誰 家 墓, 田 疆 古 冶 子。
力 能 排 南 山, 文 能 絶 地 紀。
一 朝 被 讒 言, 二 桃 殺 三 士。
誰 能 爲 此 謀, 相 國 齊 晏 子。
書き下し文:
題「梁父吟(りょうほぎん)」
歩きて斉(せい)の東門(とうもん)を出(い)でて,
遙かに蕩陰(とういん)の裡(うち)を望む。
里中(りちゅう)に三墳(さんふん) 有り,
累々(るいるい)として正に相い似たり。
問う是れ誰が家の墓ぞ,
田疆(でんきょう) 古冶子(こやし)なり。
力は能(よ)く南山(なんざん)を排し,
文は能く地紀(ちき)を絶す。
一朝(いっちょう) 讒言(ざんげん)を被(こうむ)り,
二桃(にとう) 三士(さんし)を殺す。
誰か能(よ)く此(こ)の謀(はかりごと)を為さん,
相国(しょうこく)の斉(せい)の晏子(あんし)ならん。
現代語訳(私訳):
歩いて斉の国の東の門を出て、
遥か遠くの、影でゆらゆらと揺れている村里を眺めていた。
その村里の中には土を盛り上げて作った墓が三つある。
それらは重なり合っていて、三つともよく似ているのだ。
これはどんな人たちの墓なのかと尋ねてみると、
田開疆(でんかいきょう)や古冶子(こやし)という、
勇気と腕力のある者たちです。と答えが返ってきた。
彼等の力は長安(ちょうあん)の都の南にある
終南山(しゅうなんざん)をよく押しのけて、
彼等を記した文章は、大地の秩序を絶やしてしまうことを
よく描いている。
一つの国が人を陥れる言葉に覆われてしまって、
二つの桃によって、三人の勇敢な男たちを殺すような
謀略が行われたのだ。
誰がこんな謀略を成し遂げたのだろうか。
その人の名は、斉の国の宰相である、晏子(あんし)である。
解説:
今回は昔の漢詩の解説をしようと思います。単に漢詩を訳すだけであればすぐにできてしまいますので、今回は原典となる漢文まで掘り下げて訳してみようと思いました。
この詩は三国志の名軍師である諸葛孔明(しょかつこうめい)の作とされていますが、調べてみますと実際には諸葛孔明の作ではなく、当時、孔明がまだ劉備に三顧の礼で迎えられる以前に、畑を耕しながら気ままに暮らしていた時期に住んでいた南陽(なんよう)の土地に伝わっていた民謡で、孔明はそれをいつも好んで口ずさんでいたということだとわかりました。
南陽は現在の中国の河南省南陽市にある町で、南陽武侯祠(なんようぶこうし)または諸葛亮庵(しょかつりょうあん)という孔明の祠(ほこら)がある場所になっています。四川省の成都にある孔明のほこらの成都武侯祠(せいとぶこうし)の次に人気のある孔明の名所だそうです。
この詩は『晏氏春秋(あんししゅんじゅう)』という書物の一節を参考にして作られています。この本は秦の始皇帝が中国を統一する前の、春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)時代の、斉(せい)の国の名宰相であった晏嬰(あんえい)の言行を綴ったものです。
晏氏春秋は原文つきで和訳されているものの値段は一冊八千円ほどで三冊組です。とても高いので、原文と註釈がきちんとついている中国語のサイトを探して、何とか見つけました。それに僕が書き下し文をつけて現代語訳をすることにしました。
その一節は、次のようなものです。晏嬰の主君の景公(けいこう)には三人の勇猛な人間が仕えていて、彼等は主君を主君とも思わぬ態度で国内で好き勝手をしていました。そこで宰相の晏嬰は、二つの桃を使って彼等をうまく排除しようと考えました。さて、どのようにしたでしょうか?
以下のリンク先の記事で示します。コメント欄もそちらに設けていますので、こちらはコメント欄を設けないことにしましたので、ご了承下さい。
次の記事 - 「梁父吟(りょうほぎん)」の元になった
『晏氏春秋(あんししゅんじゅう)』の一節です。
(コメント欄はこちらに設けました)
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