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京料理 焼き物(魚の照り焼き)
Photo by (c) Tomo.Yun
こちらが現代語訳になります。
普段、漢文になじみのない方は、先に現代語訳に目を通して下さい。
よろしくお願いいたします。
●現代語訳:
目が目である理由、目の働きは、色を色として識別することにあって、
五色(ごしょく)という基本的な色が他の色を分類するように、
五色の仲間と言えるのです。しかしその識別する働きを失えば、
それは目が見えなくなるのと同じなのです。
耳が耳である理由、耳の働きは、声を声として識別することにあって、
五音(ごおん)という基本的な音が他の音を分類するように、
五音の仲間と言えるのです。しかしその識別する働きを失えば、
それは耳が聞こえなくなるのと同じなのです。
口が口である理由、口の働きは、味を味として識別することにあって、
五味(ごみ)という基本的な味が他の味を分類するように、
五味の仲間と言えるのです。しかしその識別する働きを失えば、
それは口がでたらめでちぐはぐになってしまうのと同じなのです。
目が見えず、耳が聞こえず、口がちぐはぐになるというのは、
本当にそうなるということではなく、
人の心が見たい、食べたいなどの欲望に満たされてしまうと、
目でものを見ても判断を狂わされてきちんと見ていない所ができてしまい、
耳も判断が狂わされてきちんと聴いていない所が出来てしまい、
口も判断が狂わされて本来の味を識別する能力に及ばない所が出来てしまう、
ということです。
馬を駆け回らせたり狩猟をしたり、そんな楽しみに心を奪われ、
珍しいお宝に目を奪われてしまうと、
普通の人は心がそれにすっかりとりつかれてしまって、
狂ったようにそれを追い求めたり、
挙げ句には正しい行いを妨げてしまうようになるのです。
君主の場合は、自分の判断能力を狂わせるだけでなく、
民衆や多くの人々がそれを出世の手がかりとして追い求めるようになり、
そうして普通に生活をしていた人たちが生業を投げ出し、
国中がそれを追い求めて国内が乱れるようになる、ということです。
このことから、優れた徳と知恵を持つ聖人は、
腹、つまりあらゆる物事の重要な部分に注目して、
その重要な部分を大切に扱い、
目、つまり目などから入ってくる様々な欲望に対しては、
出来る限り必要最小限にして、聖人自身や民衆が
それを狂ったように追い求めるようにならないように注意するのです。
彼、物事の重要部分を十分に発揮させるようにし、
此(これ)、それ以外のあまり重要でない部分を
出来る限り離れていくようにしていくのです。
つまり、昔の言葉にある、欲望を少なくする、
あるいは無欲になる、というのは、
とても常人に無理な禁欲を行うことではなく、
自分の目的、よりよく日々を生きることを見失わないように
うまく自分の欲望と付き合いながら、
普通の日々を過ごしていく、ということなのです。
(ここまでが現代語訳です)
明の初代皇帝の朱元璋(しゅげんしょう)による注釈によりますと、
後半部分を「五色(ごしょく)五音(ごおん)五味(ごみ)
田猟(でんりょう)貨財(かざい)、
みな民をしてこれを楽しむことあらしめんと欲して、
君は取らずして君はこれを有(たも)つ」
つまり、様々な欲望に関わる君主の持ち物、猟場や財産等は、
自分が所有しているというのではなくて、
民衆からそれらを預かって民衆を楽しませようという気持ちであれば、
君主の欲望を少し減らして民衆の利益はとても大きくなる、
そんな風に解説しています。
こちらも君主が少し欲望を減らすことによって、
周囲の利益がとても多くなる、ということを示しています。
現代語訳の最後の部分にも書きましたように、
昔の言葉にある、欲望を少なくするというのは、
とても常人に無理な禁欲などではなく、
自分の目的を見失わないようにうまく自分の欲望と付き合っていく、
そんなことを教えてくれる一節です。
私もこうした名文に触れながら、引き続きしっかりと学んでいきます。
今回もとても長い文章を読んでいただいて、深く感謝いたします。(了)
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老子
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京料理 蒸し物(茶碗蒸し)
Photo by (c) Tomo.Yun
今回は『老子』第十二章の翻訳と解説です。
こちらは原文と書き下し文と解説の部分です。
現代語訳は次のブログ記事になります。
普段、漢文になじみのない方は、
先に次のページの現代語訳に目を通して下さい。
よろしくお願いいたします。 私は色んな註釈をもとに自分が納得できる形の翻訳と解説をしておりますので、
一般的な邦訳は他の方のものを図書館等でご確認下さい。
私は丹念に注釈に当たりながら、全く違う訳になっております。
では今回の原文と書き下し文から。
●原文:
五色令人目盲、五音令人耳聾、五味令人口爽、馳騁畋猟令人心発狂、
難得之貨令人行妨。是以聖人為腹不為目、故去彼取此。
●書き下し文:
五色(ごしょく)は人の目をして盲(もう)ならしむ、
五音(ごおん)は人の耳をして聾(ろう)ならしむ、
五味(ごみ)は人の口をして爽(たが)わしむ、
馳騁畋猟(ちていでんりょう)は人の心をして発狂(はっきょう)せしむ、
得難(えがた)きの貨(か)は人の行(おこな)いをして妨(さまた)げしむ。
是(こ)れ以(もっ)て聖人(せいじん)は腹(はら)を為(な)して目を為(な)さず、
故(ゆえ)に彼(かれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る。
以下、解説をしていきます。
●解説:
まず、 「五色(ごしょく)は人の目をして盲(もう)ならしむ、
五音(ごおん)は人の耳をして聾(ろう)ならしむ、」、
「盲」と「聾」は今の時代にはあまり適切ではありませんので、
書き下し文以外は「目の見えない人」、「耳の聞こえない人」と表記していきます。
ここで、 「五色(ごしょく)は昔の基本的な五つの色の
「青・赤・白・黒・黄」のことです。
この五つの色が混じり合って全ての色が出来るという考え方です。
「五音(ごおん)」は昔の基本的な音階の
「宮(きゅう)、商(しょう)、角(かく)、徴(ち)、羽(う)」の五つです。
この音階を元に、全ての音が出来ているという考え方です。
「目の見えない人」「耳の聞こえない人」等という、
まるで脅しをかけているような言葉が並んでいます。
この部分の解釈は、唐の時代の政治家の呂吉甫(りょきつほ)によりますと、
「目の目たる所以(ゆえん)の者は、色を色として而(しこう)して
色に非(あら)ず、五色(ごしょく)に属(ぞく)す。
則(すなわ)ち其(そ)の目たる所以(ゆえん)を失(うしな)わば、
盲(もう)に異(こと)なること無(な)し。」
ここを訳しますと、
「目が目である理由、目の働きは、色を色として識別することにあって、
五色(ごしょく)という基本的な色が他の色を分類するように、
五色の仲間と言えるのです。しかしその識別する働きを失えば、
それは目が見えなくなるのと同じなのです」と。
ここで、
「目が見えなくなるのと同じ」という所を、
きちんと考えていかないといけないのです。
ここでさらに、春秋時代の斉の国の宰相であった
管仲(かんちゅう)が著した(とされている)、『管子(かんし)』の中の、
心の道理を述べた心術(しんじゅつ)篇には、
「嗜欲(しよく)充溢(じゅういつ)すれば、
目は色を見ず、耳は声を聞かず」
とあります。
後半部分の注釈には、「目は見ざる所あり、耳は聞かざる所あり」とあります。
つまり、
「人の心が見たい、食べたいなどの欲望に満たされてしまうと、
目でものを見ても判断を狂わされてきちんと見ていない所ができてしまい、
耳も判断が狂わされてきちんと聴いていない所が出来てしまうのです」
ということです。
判断を狂わされてきちんと見ていない所ができる、節穴になる、ということです。
「欲望に満たされるとはどの程度をいうのか」という議論が残りますが、
それはこの後の部分で致します。
(今回の一節の現代語訳は、後半にまとめてあります。)
「五味(ごみ)は人の口をして爽(たが)わしむ、」
「五味(ごみ)」は五種類の味の種類のことで、
「鹹(かん: 塩辛い)・苦(く: にがい)・酸(さん: すっぱい)・
辛(しん: ぴりっとからい)・甘(かん: あまい)」
の五つです。
この五つの味が基本になって、全ての味が存在するという考え方です。
これも欲望に満たされてしまうと判断能力に問題が出て来て、
「爽」、これは「差」、つまり「たがえる、ちぐはぐになる」という意味です。
「馳騁(ちてい)畋猟(でんりょう)は人の心をして発狂(はっきょう)せしむ、
得難(えがた)きの貨(か)は人の行(おこな)いをして妨(さまた)げしむ」
それまでの目・耳・口も、ここを言いたいがための前振りのようなものです。
「馳騁(ちてい)」は「馬を走らせること、乗馬を楽しむこと」です。
「畋猟(でんりょう)」は「田猟(でんりょう)」と書かれる時もあり
(「畋(でん)」も「田(でん)」も「狩り」を意味します)、
「狩猟(しゅりょう)」のことです。
「得難(えがた)きの貨(か)」とは、珍しい宝のことです。
狩猟や珍しいお宝に目を奪われてしまうと、
君主は自分の判断能力を狂わせるだけでなく、
他の人がそれを出世の手がかりとして追い求めるようになる、
そうして普通にいる人たちが生業を投げ出し、
国中がそれを追い求めて国内が乱れるようになる、ということです。
安岡正篤先生の『十八史略』の中の一例として、
枢密院という当時の全ての法案をチェックする
諮問機関の議長をしていた人が相当な難物だったそうで、
そこで時の総理大臣は、その方が骨董好きで、
ある骨董屋のお店である壺を食い入るように見つめていたことを知り、
秘かにその壺を購入してその方が首相の邸を訪ねてきた時に
何の気なしに置いていて、
最期には「お譲りします」と言って送り届けて、
それで重要な案件を通した、という話があります。
要人の嗜好を知れば、こうして人に操作されることもある、
何とも恐ろしい世界です。
さて、普通の世界に生きる私たちは、
こういう欲望とどう向きうのかという問題があります。
もし偏見のある目で、多くのものを「○○は欲望だ」とみなしてしまうと、
世の中が動かないのです。
どんな風に欲望と付き合うべきか、ということのたとえとして、
安岡先生の『王陽明研究』のたとえ話を要約しますと、
ある哲学を研究している人の研究室の机には哲学書と小説があり、
冷蔵庫にはジュースが入っていたとします。
その人は哲学を研究しているのですから、
もちろん哲学書を読まなければならないのですが、
一時の気分転換としてならば小説を読むのもよく、
喉が渇いていたらジュースを飲んでも良い、ということです。
つまり目的を見失わず、目的を妨害しない範囲ならば、
他の欲求を一時的に満たすということも許される、
ということです。
私もありがちなのですが、もし入試のための試験勉強中に
小説にすっかり読みふけって勉強をわすれてしまう、
等というのはいけない、ということです。
経済学に、パレートの法則というものがあり、
その解説のたとえ話の一つに、「八十対二十の法則」というものがあります。
これは仕事の中の二十パーセントの部分が、
全体の八十パーセントの成果を上げているということで、
成果につながっていく二十パーセントの部分を重点的に扱い、
残り八十パーセントを出来る限り合理化・簡略化していく、
ということです。
単に八十パーセントだけをすることは無理だとしても、
この両者の扱いを変えていくことが大切になってくるのです。
きちんと志を持ち、努力向上していくことを忘れずに
実行していけるのならば、時には寄り道も許される、ということです。
では、本文の次の部分に移ります。
「是(こ)れ以(もっ)て聖人(せいじん)は
腹(はら)を為(な)して目を為(な)さず、
故(ゆえ)に彼(かれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る」、
「目」というのは欲望が入り込んでくる入り口の代表として、
耳や口や心などを代表しているわけです。
目から入ってくる情報はとても多く、
欲望に乱されやすいということです。
他の古典でも、五感の欲望を述べる際には目が最初に出てくるのは、
そういう意味なのです。
「腹(はら)を為(な)して目を為(な)さず」とは、
実質的な部分、八十対二十の法則でいうところの
二十パーセントの大切な所を見失わない、ということです。
残りの八十パーセントとは扱いを変えなければならないのです。
「彼(かれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る」も同じです。
欲望に振り回されず、自分の志への向上努力を見失わない範囲で
付き合っていくことが大切だということです。
ここまでをまとめますと、次のような現代語訳になります。
その2に続きます。
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以前『老子』の第十一章の無と有の関係について訳していた時に、
馬車の車輪の真ん中に穴が空いていて、
車輪の外側とその穴の空いた内側との間を三十本の柱が支えている、
その真ん中の穴(つまり無)があるから車輪としての働き(つまり有)が
成り立つという部分がありました。
そのときそれを説明した図を描いていました。しかし時不満に思ったのが、
三十本の柱の部分を上手く描くことが出来なかったことでした。
これがずっと気になっていました。
そこで iPhone のアプリの BASIC-Ⅱ を使うことにしました。
これはiPhone 上で BASIC という懐かしいプログラミング言語で
プログラミングが出来るアプリです。
これを今回試しに使ってみることにしました。高校生のとき以来の BASIC です。
手軽にプログラミングで絵を描くには重宝します。
以下のようなコードです。
10 REM 大きな円を描きます。
20 LINE 150,200,150,200,1,250
30 LINE 150,200,150,200,4,240
40 REM 小さな円を描きます。
50 LINE 150,200,150,200,1,50
60 LINE 150,200,150,200,4,40
70 REM 円と円の間の三十本の線を描きます。
80 FOR t=0 TO 30
90 r=360*t/30
100 c=COS(r)
110 s=SIN(r)
120 x=150+25*c
130 y=200-25*s
140 x2=150+120*c
150 y2=200-120*s
160 LINE x,y,x2,y2,1,5
170 NEXT
このアプリの難点は、まだ多くの機能を盛り込んでおりませんので、
まだまだ開発途上な部分です。
例えば円を描こうとしても直線を描くことしかできませんので、
直線だけで円を描く工夫をすることにしました。
円を直接描くことが出来ませんので、
大きな黒い点を描いて、その中にほんの少しだけ小さい白い点を描いて
くり抜く、という形で円を描くことにしました。
直接に点を描くことも出来ませんので、
これは長さのない直線を描くことで解決しました。
つまり、直線を描く処理を工夫して使うだけで、
円が描けてしまうわけです。こういう工夫が大切なのだと思います。
そのようにして大きな円と小さな円を描くことにしました。
大きな円は 20 から 30 の部分で、
小さい方の円は 50 と 60 の部分です。
80 以降の部分は三十本の柱を描く部分です。
円の中心から外側への円を三十本描くわけです。
つまり真ん中から 360 度を 30 で割って、
12 度ごとに線を描くことになります。
その 12 度ごとに内側の円と外側の円で接する部分の座標を計算して、
その二つの座標の間で黒い色の直線を引く、という処理をしています。
この座標の計算のために、サインとコサインを使っています。
これまた懐かしい三角関数です。描いた結果が今回の画像です。
ようやく一つの問題が片付いてほっとしました。
これで再び今の勉強に戻れそうです。これからもしっかりとがんばります。
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最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
この三番目の記事の現代語訳(意訳)から読んでみて下さい。
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。
「無」とは、どこにあるのでしょうか。
いろんな言葉で表すことができるのですが、
今回は、私(老子)は皆さんが理解しやすく間違えることのないように、
具体的な物にたとえて説明していきます。
まずは、車輪について見ていきます。以下の図を見て下さい。
車輪は外側と内側の大小の輪の間に、
中心から外側に向けて柱を三十本通してその間をつなぐ、
という構造になっていまして、
その三十本の柱、図で示している緑色の部分
(この図では三十本には足りておりませんが。。。)が、
「輻(ふく)」と呼ばれる部分で、
真ん中の穴が空いている青い輪っかの部分が、
「轂(こく)」と呼ばれる部分です。
この穴に棒を通すことで、二つの車輪をつなぎ合わせて、
「錧(かん)」というくさびを打ってその棒が外れないようにするのです。
つまり、この車輪の中心の、
「轂(こく)」の穴の空いた空っぽの部分があることによって、
車輪を回転させることができ、
重い荷物を遠くまで運ぶ車としての本来の働きができるのです。
次に、陶器の器を作るために粘土をこねて、そこから陶器を作ります。
その際に、その陶器の真ん中の空っぽの空間があることで、
その器に物を蓄えて保存するという、
陶器としての本来の働きができるのです。
三つめに、家の部屋に、人が出入りするための戸や、
外から光を取り入れるための窓を取り付けるために穴を空けて、
そして部屋を作ります。
その際に、戸や窓のような穴が空いて空っぽの部分があることによって、
人がそこで休む部屋としての本来の働きができるのです。
この三つの物からわかることは、
「有」、つまりここでは世の中の物事が、車が重い荷物を運び、
陶器の器が物を蓄えて保存し、部屋が人を休ませるようにするように、 「利(り)」、つまり世の中の役に立つようにするためには、
「無」、つまりそのそれぞれの物事の空っぽな部分、つまり、
車輪の真ん中の棒を通す穴の「轂(こく)」と、
陶器の物を入れる空間の部分と、
部屋に人の出入りのために空けられた「戸」と、
明かりを外から取り込むための窓である「牖(ゆう)」が、 「用(よう)」、つまり車輪や陶器の器や部屋が
本来の働きをするために必要なのです。
つまり「無」というものは
車輪と陶器と部屋の中にある空っぽの部分に
たとえることができるのです。
「無」、つまり穴の空いた空っぽな部分が単独で働くということはなく、
「無」は「有」であるその物事に付き従って、
その物事をしっかりと働かせていく、
そういう、「有」と「無」の離れることのない関係を知ることができるのです。
私(ろうし)が今回、無というものの説明を試みたのは、
人の世界では有と無が離れることなく存在していて、
どちらも人がよりよく生きるために大切だからです。
かつて、第三章で述べていた、
「何かを欲しいという気持ちを弱めるようにして、
その分、人間としての根本の部分を強くしていくのです」
という部分は、実質的な部分、つまり「有」を強くして
役に立つようにさせる、つまり「利」をもたらすということです。
さらに、
「心を欲望に動かされないようにし、大切なものを
失わないようにするのです」
という部分は、欲望をなくしていく、つまり「無」を大切にして
大切な物を失わずに、本来の働き、つまり「用」を発揮させるのです。
このように、人がよりよく生きるためには、
人としての実質的な部分、つまり「有」を養って、
そのために有害となる欲望を減らしていく、
つまり「無」を大切にして守っていく、
この両者を両立させることが大切だということです。
この両立させることの大切さを述べるために、
私(老子)は、車・陶器の器・部屋といった三つの物にたとえて、
この章で「無」というものの説明をしました。
●解説:
今回の章では注釈は最も明快でわかりやすい物を選んでみましたが、
更に驚かされたのは明の太祖(たいそ)、
つまり明の初代皇帝である朱元璋(しゅげんしょう)の注釈です。
その注釈では、車輪や陶器の器や戸や窓のスペアを用意することで、
壊れる心配を減らすことができる、
つまり、スペアという普段使わない物(無)によって
元々使っている物(有)を安心して使うことが出来る、という、
ものすごくシンプルでわかりやすいもので、あっけにとられました。
これはさすがに本来の考えを逸脱しているものとして扱うしかないですが、
ここまで分かりやすく役に立つ説明はないと思います。参りました。
これからもできる限りわかりやすく
『老子』本文の現代語訳と解説をしていきます。
これからもしっかりとがんばっていきます。
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最初に申し上げておきます。普段、漢詩や漢文になじみのない方、
あるいは、漢詩や漢文に苦手意識を持たれている方は、
三番目の記事の現代語訳(意訳)から読んでみて下さい。
私は漢詩や漢文で最も大切なのは、
「そこに何が書かれているか」ということだと考えています。
私は常にその部分に気をつけて現代語訳と解説を書いています。
どんな人にも分かりやすく説明をすることを第一に考えています。
「三十輻共一轂、当其無、有車之用」
「三十の輻(ふく)の一つの轂(こく)を共(とも)にす。
其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、車の用(よう)有り」
これを説明するには、実際の車輪の図を作って説明するのが
よいと思います。
車輪は外側と内側の大小の輪の間に、 中心から外側に向けて柱を三十本通してその間をつなぐ、
という構造になっていまして、その三十本の柱、
図で示している
緑色の部分(この図では三十本には足りておりませんが。。。)が、
「輻(ふく)」と呼ばれる部分で、
真ん中の穴が空いている青い輪っかの部分が、
「轂(こく)」と呼ばれる部分です。
この穴に棒を通すことで、二つの車輪をつなぎ合わせて、
「錧(かん)」というくさびを打ってその棒が外れないようにするのです。
「其(そ)の無(む)なるに当たりては、」
つまり、「この轂の穴の空いた空っぽの部分があることによって」
「車の用(よう)有り」
「車としての本来の働きができる」、ということです。
注釈から考えますと、車輪に「轂(こく)」と呼ばれる空っぽの部分が
あることで、車輪本来の、重い荷物を遠くへ運ぶという働きを
可能にさせる、ということです。
「埏埴以為器、当其無、有器之用」 「埴(しょく)を埏(ねや)せて以(もっ)て器(うつわ)と為(な)す、
其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、器(うつわ)の用(よう)有り」
「埴(しょく)を埏(ねや)せて以(もっ)て器(うつわ)と為(な)す」
「埴(しょく)」は粘土のことです。
「埏(えん)」は「ねやす」と呼んで、土をこねることです。
この部分は注釈と少しずれがありますが、意味は変わっておりません。
「埴(しょく)を埏(ねや)せて以(もっ)て器(うつわ)と為(な)す」は、
「粘土をこねて、そこから陶器を作る」ということです。
「其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、器(うつわ)の用(よう)有り」
「その陶器の真ん中の空っぽの空間があることで、
陶器としての本来の働きができる」
ということです。
「鑿戸牖以為室、当其無、有室之用」
「戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以(もっ)て室(しつ)と為(な)す、
其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、室(しつ)の用(よう)有り」
「戸」は玄関の戸のことです。
「牖(ゆう)」は明かり取りのために空けられた窓のことです。
「戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以(もっ)て室(しつ)と為(な)す」つまり、
「家に戸や窓を取り付けるために穴を空けて、
そして部屋を作ります」となります。
「其(そ)の無(む)なるに当(あ)たりては、室(しつ)の用(よう)有り」
「戸や窓のような穴が空いて空っぽの部分があることによって、
部屋としての本来の働きができる」となります。
「故有之以為利、無之以為用」 「故(ゆえ)に有(ゆう)の以(もっ)て利(り)と為(な)し、
無(む)の以(もっ)て用(よう)と為(な)す」
「利(り)」とは「利益(りえき)」のことで、
ここでは「人の役に立つ」ということです。
この十一章では車輪と陶器と部屋が、
その役に立つ「有(ゆう)」に相当します。
「用(よう)」とは、「本来の働き」のことです。
十一章では、車輪の真ん中の棒を通す穴の「轂(こく)」と、
陶器の物を入れる空間の部分と、
部屋に人の出入りのために空けられた「戸」と、
明かりを外から取り込むための窓である「牖(ゆう)」が、
その車輪・陶器・部屋が本来の働きを果たすようにする
「無」に相当します。
注釈を踏まえて言いますと、
「有」、つまりここでは世の中の物事が
「利」、つまり世の中の役に立つようにするには、
「無」、つまりそのそれぞれの物事に空虚な部分が存在して、
それによって「用」、つまり「本来の働きをする」ことが
必要であるということを、
車輪と陶器と部屋の中にある空っぽの部分にたとえて
説明をしているということです。
『老子』第三章に
「何かを欲しいという気持ちを弱めるようにして、
その分、人間としての根本の部分を強くしていくのです」
という部分は、実質的な部分、つまり「有」を強くして
役に立つようにさせる、つまり「利」をもたらすということです。
さらに、
「民衆の心を欲望に動かされないようにし、
大切なものを失わせないようにするのです」
という部分は、欲望をなくしていく、つまり「無」を大切にして、
大切な物を失わせずに、本来の働き、つまり「用」を発揮させるのです。 人の世界では有と無が離れることなく存在していて、 どちらも大切だということです。
実質的な物を養って(有)、それに有害となる欲望を減らしていく(無)、
これを両立させることが大切だということです。
「無」、つまり穴の空いた空虚な部分が単独で働くということはなく、
無は有であるその物事に付き従って、その物事をしっかりと働かせていく、
そういう具体的な物事から、
老子のいう「無」を感じ取っていくことができる、
それがこの十一章の重要な部分なのです。
以上を踏まえて、この第十一章の現代語訳(意訳)は次のようになります。
今までの内容を繰り返す現代語訳になります。
次の記事:
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