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湯島神社
Photo by (c) Tomo.Yun
URL : http://www.yunphoto.net 先日は陽明学の概念の「心即理」の日常生活に密着した形での解説をしました。
この言葉を Wikipedia で検索すると、
全く違う説明をしているように見えるのですが、
先日の記事はその問題点を分かりやすく述べたものです。
今回はその「小難しい篇」をお届けいたします。
「心即理」は、朱子学の概念である「性即理」に対抗する概念で、
これは易経を元にした説明が必要になってきます。
これは大晦日の入院中に『荘子』の天籟(てんらい)の意味を
調べていた時に学んだ内容です。
大晦日のテレビは井岡選手の KO 勝ち以外は覚えていません。
では、説明に入ります。
心即理に性即理、これは理気一元論、理気二元論という概念から
説明できるものです。まずはこちらからの説明になります。
この部分は元々、『易経』の易の哲学を論じた
「繋辞伝(けいじでん)」からの議論です。そこから説明します。
その繋辞伝の考え方では、まず万物が生まれる前に太極(たいきょく)という
一つの存在があり、それが陰と陽の二つに分かれ、
そこから春夏秋冬の四時に分かれ、更に分かれて八卦、
その八卦を組み合わせて六十四卦、
この六十四卦で世の中のあらゆる出来事を説明できる、
というのが易の哲学の基本です。
それに三国時代の魏の学者の王弼(おうひつ)が、老荘の考えを引用して、
その太極が生み出される前の段階として「無」というものを考え、
その無をご先祖にして万物が生まれる、その働きを「道」と呼んで、
それで易経を解説していきました。
その王弼の注を唐の学者の孔穎達(くようだつ)が
疏(そ)という解説を加えた『周易正義(しゅうえきせいぎ)』が、
唐の時代の科挙のための易経の教科書として使われていました。
唐の時代は皇帝の姓が老子と同じ「李」で、
老子は皇帝のご先祖ということになっていて、
何も問題がなかったのですが、
王朝が変わると儒学の経典の上に老子が乗っかるということが
問題になってきました。
北宋の時代の学者は「無極にして太極」という概念での
反論をしていきました。
この内容は、朱子の易の考え方をまとめた書の、
『朱文公易説(しゅぶんこうえきせつ)』の中に収録されています。
その中では、論敵の陸象山(りくしょうざん)の批判に対する
長文の反論として載っております。
陸象山は「無極(むきょく)」という言葉が『老子』の中にあることから、
儒学の経典の易経に老子の概念があるのはとんでもないことだ、
という批判をしたわけです。
それに対する朱子の返答が「無極にして太極」の説明となっています。
万物のご先祖は太極であり、その上のご先祖として「無」、
つまり「道」等というものを考える必要がない、
それを単に「無極」、「それ以上に極まることが無い」と
述べているに過ぎないのだということです。
太極の元々の本体は「気」であり、
それと渾然一体、つまり混じり合って一つとなって、
「気」をまとめ上げる法則・道理を「理」としました。
これが理気二元論です。
本来、気と理とは渾然一体に混じり合って一つになっているわけです。
これを「本然の性(ほんねんのせい)」と言います。
しかし人間の欲に満たされると、この二つが混じり合わずに
お互いが離れたような状態になっててしまうのです。
これを 「気質の性(きしつのせい)」と言います。
今の時代の人は欲望に満たされて気質の性となっているものを、
修練や学習によって引き締め、もともとのよい性質である
本然の性を取り戻さねばならない、
これが朱子学で言う「性即理(せいそくり)」なのです。
これは時代が下ってくるととても問題となる考え方に堕落していきました。
相当な自惚れ屋でなければ、自分の今の状態を気質の性であると思うわけです。
そこから本然の性に立ち返るためにしっかり学んでいこうとなるわけです。
これ自体には何も問題がないのですが、
問題は「学ぶ内容」なのです。
本然の性を取り戻すために、相当に無理な修練を積ませて
常人にはとても真似のできないものになっていたり、
あるいは実際と離れて経書の言葉を単なる理想の姿として学んだり、
その果てには単に経書の文章を丸暗記して科挙に合格すれば、
それだけで立派な人物、道学先生と呼ばれるようになる、
というどうしようもない事態に発展していったわけです。
陽明学の学者の一人、李贅(りし)は科挙の地方試験である
郷試(きょうし)を受験した際に、
自分の意見をしっかりと書いた答案は不合格になり、
次に受験する頃にはその問題として問われている経書の一節を
丸写しして提出すると合格しました。そんなひどい状況だったのです。
勉強をしていくこと自体は正しいとしても、
その勉強をする動機、志を自分の中に求めることが出来なければ、
その学ぶ内容が次第に現実から離れて、最終的には単なる高尚な文学、
果てには単なる丸暗記学問となってしまうのです。これを是正するために、
心即理、つまり今の自分自身の直面している問題を解決しよう、
よりよく生きよう、そんな動機はすでに人々の心の中にあり、
その問題の解決のために経書を初め色んなことを
実地に即して学び工夫していく、
そうして雲に覆われた月のように欲望に曇らされた心を清め、
その雲が去っていくように、
人が元々持っている良い性質がよりはっきりと表れてくるようになる、
ということです。
元々朱子学としても気を離れて理という実体があるわけではないのですが、
次第に別の実体のように扱われ、
その結果、自分には元々無いものを外部から取り入れなければならないとすれば、
それは性悪説とそう変わらないのです。
性善説とは、自分が善人になっていくための大切なもの、
志は元々それぞれの人が持っているものだという考え方です。
誰もが元々善人、という意味ではないのです。同様に、
仏教の「一切衆生悉皆成仏(いっさいしゅじょうしっかいじょうぶつ)」
という言葉も、
あらゆる命あるものはそのまま仏さんであるという事ではなくて、
道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』によりますと、
生命あるものはそれぞれ菩提心(ぼだいしん)、つまり
悟りを得たい、仏さんになりたいという意思を持ち、
それを養い育てていくことで悟りを得ることが出来るという意味だとあります。
このような意思、志こそ大切なのだと言うことです。
だから気と理を離して考える必要はなく、
心の中の理、今は動機としてしか持っていないものを、
昔の言葉を今の具体的な問題に照らし合わせて考えていくように学び工夫し、
実際に問題に対処していくことで、
まさしくその理が正しく現れ出ていくようになる、
これが理気一元論であり、
その養い育てていく過程を説明しているのが心即理だということです。
元々の志は全ての人が等しく持っている、
そこから人間の欲を取り除き問題に対処するために問題に即して学び工夫していく、
その最初の部分を指して、「満街(まんがい)の人すべて聖人」
つまり街中の人はすべて聖人だと述べているのです。
易経の哲学を元にするとこんなくだくだしい内容ですが、
前回のツイートだけでは私がしっかりと理解できているかどうかは
分かりづらいですので、あえて今回こうして書きました。
これからもしっかりと学んでいきます。(了)
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陽明学
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Parazzo Reale (パラッツォ・レアーレ(ナポリの王宮))
Photo by : Amano Kazaoto
今回は陽明学の概念である「心即理」について解説していきます。
これまたとても誤解の多い概念です。
私がこの概念をきちんと理解できたのは、
安岡正篤先生の『王陽明研究』を読んでからです。
この中に載っていたたとえ話によって、きちんと理解出来ました。
これは受験勉強を一度した方ならよくわかるたとえですので、
図書館等で読んでいただければと思います。
私は受験勉強をしたことがない方にも理解できる、
より実生活に密着したたとえを話すことにします。
まずは一般的な説明から。
「心即理」、これは一見しますと、心がすなわち理である、
まるで心の中には道理がそのまま備わっているので、
余計なことを学ぶ必要はない、そんな風に思いがちですが、
それは間違いです。まずは少し具体的に説明しますと、
日常の中でどうしてもそうしなければならない、
そうすべきだと思っていろんな事を学び工夫しながら、
それによって自分の心が道理に近づいていく、ということです。
例えば両親の冬の寒さに対処する場合には、
天気予報などを見て雪国の郷里を思い出し、
今年は寒さがきつく積雪も多いことに思いを致し、
きちんと寒さに備えるものを携えて、
雪下ろしがキチンとされているかどうかを見に行くというように、
両親の寒さに対処したいという自分の動機に従って、
いろんな情報を手に入れたり勉強したりする中で、
さあこれで両親も安心して過ごせるだろう、
そんな手だてを講じていく、ということです。
さて、更にもっと生活に密着したとえを
ある一般的な家族のたとえ話として話していきますと、
案外エアコンのない家庭も多く、そんな家では子どもから、
「何でうちにはエアコンがないの?」とか文句を言われるわけです。
しかし親の立場からすればエアコンの購入はかなりの出費であり、
相当に家計を切り詰める必要があります。
でも今年の夏はとても暑いと、気象予報などを見て分かるとすると、
そんな暑い中で家族全員が過ごすのもたまらないと、
ついに親も一念発起するわけです。
家電量販店のチラシやポイントカードを使って
出来る限り安く買えるように工夫したり、
実際に家計を切り詰めるための工夫や、
時には勉強をしたりするわけです。
今までつけなかった家計簿をつけるようになったりして、
そんな状況を子どもも助けてくれるわけです。
何せエアコンは是が非でも我が家に欲しいわけです。
そうして家計を切り詰め、工夫を凝らした結果、
ついに我が家にエアコンがやってきて、
「やっぱりエアコンは良いなあ」と家族で涼むわけです。
その結果家計のやりくりを工夫する方法などを会得することが出来て、
より家族が過ごしやすい態勢を整えやすくなる、ということです。
この一連の過程によって行き着いた結果が、「心即理」なのです。
儒学の経書も、このような生活の必要性、
是非ともそうしなければという気持ちを持って、
その経書の言葉の一つ一つを自分の具体的な場面に照らして考え、
そうして自分の中にきちんとした知恵が息づくようになる、
こうなることこそ「心即理」だということです。
もちろん先ほどのたとえ話のように経書に限った話ではなく、
あらゆる学問や詩歌、さらにあらゆる生活の場面についても言えるのです。
一体自分は何のためにこの勉強をしているのか、
何のためにもならなかったとしても、
少なくともしっかりと自分の楽しみになっているのか、
その自分にとっての動機をきちんと把握した上で、
いろんな事を学び、行動していく、
努力精進していくことが必要になる、ということなのです。
私の学問も私にとってはとても楽しく、
その上で誰かにとっての役に立てばいいなと、
そんな風に思っています。これからもしっかりと学んでいきます。(了)
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眼鏡と本
Photo by : clef
陽明学、検索するといろんな昔の偉人の名前が連ねてあって、
とても素敵な世界だなどと単純に思い、
何が語られているかもきちんと理解しないままに分かったふりをしてしまう、
陽明学だけでなく、儒学全般、更に古典全般にも言えることです。
人に「古典を読みなさい」という場合も、
「読みなさい」という抽象的なお説教ではなく、
自分が読んだ珠玉の一冊の面白さを語り、
あなた方も読んでみなさいと問いかける、
それぐらいでなければ人はついてこないのです。
基本的なことですが、忘れられがちなことです。
さて、陽明学を本当に論じたい場合は、解説書に当たって理解するだけでなく、
原文に当たって欲しいと、よく思います。
次のツイートで示すサイトは王陽明の中国語の Wikipedia のサイトです。
その中の、「王陽明 : 王文成全書」というリンクをたどると、
王陽明の全集を見ることができます。
Web ページ: 「王守仁 - 維基文庫」
「王守仁(おうしゅじん)」は陽明の本名です。
諡が文成(ぶんせい)ですので、
そのページの下の方のリンク先の書名は
「王文成全書」となっています。
以下、中身に入っていきます。
『王文成全書』は三十八巻もある全集です。
その第一巻には王陽明の言行を記録した『伝習録(でんしゅうろく)』があります。
これは陽明の弟子であり、妹婿となった「徐愛(じょあい)」たちが
中心となって記録し、編集したものです。
「愛」が男性の名前というのも面白い所です。さて、
この冒頭からの徐愛と陽明とのやりとりが、
陽明の考え方を理解する上でとても重要なのです。
そのうち二つをご紹介します。
まずは徐愛の質問は、経書の『大学』の、
古い本では「親民」とあったのを
朱子学の大成者である南宋の朱熹(しゅき)が
「新民」と改めたことを陽明が批判して、
昔の本が正しいとしたことについてです。
朱熹の考えも故なしということでもないのです。
「新民」の根拠の一つとしては、
夏王朝の暴君であった桀王(けつおう)を倒した
殷の湯王(とうおう)の手洗いに使う入れ物に彫り込んだ字の
「苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり」
と刻んであることです。
まず、湯王はなぜこのような文字を彫りつけたかといいますと、
朝にこの手洗いの器を見た時に、
「自分を改めなければ」という反省の気持ちを常に忘れないでいよう、
そんな気持ちを表したものです。いいな、と思う話の一つです。
他にも朱熹は典拠を見いだしているわけです。ここで大切なのは、
朱熹が生きていた南宋という時代のことです。
まず、宋という国が出来た時には、国が行き詰まりを見せて、
それを解決する政治改革をめぐって二つの派閥が争っていて、
国が疲弊している所に北方の騎馬民族の金が攻めてきて、
南方へ逃れて都を定めました。これが南宋です。
この時代に生きた朱熹は、自分自身を含め、国の体制から何から、
しっかりと改めることが出来なければ、金に滅ぼされてしまう、
そんな状況の中で経書を読み、古今の書籍を比較検討していく中で、
「新民」、「民を新たにす」としたわけです。
実際にはこんな当時の儒学者の気持ちも実ることがなく、
その後は中国史を確認すれば分かりますとおり、
モンゴルに滅ぼされるわけです。
その後の元の後に明になり、朱子学の弊害が出ている時に
陽明の時代となったのです。
言葉の是非については『伝習録』の文にあります。
その最も大切な所は何かと言いますと、
「民に親しむ」というのは、民衆、つまり人を変えることではなく、
あくまでも施政者の問題、更にいえば自分自身の問題として
とらえなければならない、ということです。
『論語』の孔子の言葉、「己を修めて以て百姓(ひゃくせい)を安んず」
が引用されています。百姓は民衆のことです。
つまり、自分がきちんと修養した上で、
民衆におもねるのではなく、
本当に民衆が望んでいることをきちんと把握した上で政治に臨めば、
民衆が安心して暮らせる治世を行うことが出来ると、
つまり基本は元の本の通り「親民」、
つまり「民に親しむ」のままで正しいのだということです。
「新民」の場合の弊害とは、改めるべきは誰か、
という根本の所をすっ飛ばしかねないということです。
湯王も自分の手洗いの器に刻んだのは、
「何より自分自身を改めよう」という気持ちがあるのです。
ですから朱熹の「新民」も、「まず自分から改めよう」
という切実な気持ちから発したものなのですが、
それが後世では、民衆、つまり「人を改める」
ということになってしまって、
自分の身をきちんと反省し、修養することがないままに
人を教え導こうという虚偽に堕落してしまったのです。
実際、昔を懐かしんで名文を諳んじながら、
その人の生活を見ると「本当に理解しているのかな」等と
疑念を持たれてしまいますと、
どんなに立派な教えでも本心から人がついていくことはなく、
ましてや「民を新たにする」等ということは到底不可能になってしまうのです。
「親」という字は「したしむ」という意味の他に、
「みずからする」という意味があります。
例えば「親政(しんせい)」という言葉は、天皇自らが政務を執るということで、
この「自ら」が「親」という意味になっているのです。
どこまでも自分自身の問題として考えて、
ようやく本当のことが分かる、ということなのです。
更に厳しくいえば、こんな話を聴いて「その通りだ」などと言って、
為政者や自分以外の誰からの名前を出して、そんな彼らを批判しながら、
その批判の目を自分自身に向けないことは、
最も良くないことだということです。
私自身がそんな虚偽を働かないように、
常に自分を改めていかなければと思っています。
では次に移ります。
次は「致良知(ちりょうち)」という言葉についてです。これまた誤解が多い。
これもまた朱熹の『大学』の解釈に関わる問題からの解説です。
『大学』の中で八条目(はちじょうもく)というものがあります。
身を修めて天下を安らかにしていくまでの一つのプロセス、
あるいは、自分の身を修めることも天下を治めることも
ひとつながりのものとして考え、
身を修める時も天下のことを思い、
政治の場であっても自分自身の反省を忘れない、
そんなことを示す八つの項目であり、
その最初に「格物(かくぶつ)」とあります。
この格物をめぐっての議論です。
この部分は、それこそ星の数ほども注釈があって、
しかも注をつけているのは儒学者だけでなく、禅僧などもいるのです。
その内の代表的な二つが、朱熹と王陽明のそれぞれの解釈なのです。
まず朱熹は「物に格(いた)る」と読み、
いろんな物事の中にある道理、孝行や君臣の道、
そんな多くのことをきちんと学ぶ内に、
それが一つのものになっていって、
最終的に「ああ、こういう事か」と理解出来るようになる、ということです。
一方で陽明は、「格物」を「物を格す(ただす: 正す)」と読み、
自分の心の中を清らかにして、
自分の心の中にある正しい善を見つめることで
道理をきちんと理解できるようになる、ということなのですが、
この解釈の中での忘れがちな問題点こそ、
徐愛が陽明に質問したことなのです。
それは、正しい善を自分の心に求めるのであれば、
おそらく道理を考える際に足りないものが出てくるのではないかと、
つまり朱熹の考えこそ正しいのではないかという質問です。
父への孝、君主への忠、友人への信、
信は信じるここと信じられることの両方です。
この道理をきちんと身につけるためにも、
学習とは大切なことではないか、という質問です。
この質問の中にはそもそも誤解があるのです。
そこを陽明は明快に説いています。
自分の心に求めるとはいっても、
ただ抽象的に自分の心を探って悟るというようなことではない、
と述べて、一方で当時の世の中のそれこそ学問というものは、
実際の父親、実際の君主(あるいは上司)、実際の友人を離れて、
理想の姿だけを学んで名文を暗記してそれで事足りるとしているのだと、
このどちらも正しいわけではないのだということです。
つまり父親への孝や友人への信という場合も、
実際の父親や友人、つまり、
ごく普通の父親、あるいは尊敬をしていたとしても欠点も存在する父の姿、
子どもは欠点もきちんと知っております。
その中で孝行を果たすとはどういうことだと考え、
友人の場合は、親しいながらも喧嘩をすることも多く、
本音で語り合っては互いに傷つくこともある、
そんな友人に対して、お互いに信頼関係を築くとはどういうことか、
君臣の場合の「君」は天皇陛下や総理大臣などの
普段接点のない雲の上の人だけでなく、
目の前の上司、一見分からず屋でいい加減なように見えてしまう、
そんな上司に対してどう接するか、
という切実な問いかけの中で初めて分かるということです。
上司の例ではどんなに不満があっても会社の命令であれば
基本は従わなければならない、
さらに上司の立場に立ってみれば、いろんな人や状況に
配慮しなければならない中で、ただ敬意を表して黙っているだけでは、
自分が述べた全ての事が了解されているものと理解して、
実際に現場ではそうでないことが発覚し、
あなたに責任が発生するようなことになったとしても、
むやみに上司だけを不満に思うだけではいけないのです。
つまりは上司を上司として認め、
きちんと配慮する中でも言わなければならない大切なことは
口頭で伝えなければならない、
こう考えてくると、君主への忠とはむやみな絶対服従などではなく、
もしそうしてしまうと、会社のためにならないどころか、
黙っていることで安全なはずの自分の身の上さえも危うくなる、
こういう事を実際の出来事の中で考えて、
自分の中の善とは何かということを具体的に理解して
正しい道理の把握に到るということ、
これこそが「格物」、「物を格(ただ)す」ということであり、
その結果たどり着いた所が「致良知(ちりょうち)」だということなのだと、
陽明はそのように答えています。
陽明学は決してストイックな聖人、到底実現不可能な聖人の所行でも、
ましてや過激な蛮行などでもなく、
日常の地道な努力の末に得られるごく平凡で大切なことに
気付かせてくれるものだということです。
こういう所に気付いて、目の前の「自分の」問題に
対処していくことが大切なことなのです。
間違ってもこんな言葉を覚えただけですっかり偉くなってしまわないように、
というのが私からのお願いであり、
私がこれからも気をつけて学び、日々を過ごしていこうという意思であり
反省点であると、そう思っています。
これからもしっかりとがんばっていきます。
長文を読んでいただいて、深く感謝いたします。(了)
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