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昔の長者ガ崎の絵葉書。 (右下の虫メガネをクリックすると拡大します)
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今は昔
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鎌倉近辺を昔の写真を元に探索します。
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長谷川町子さんが「サザエさん」の連載を始めた昭和21年頃の、50代半ばのイメージは、磯野波平さん(設定年齢54歳)だが、現在の50代半ばのイージは藤井フミヤさん(波平さんと同じ54歳)だ。
今、サザエさんの連載を開始するとしたら、波平さんのイメージはもっと若くなるのだろう。 この計算だと、波平さんは、54歳÷0.7≒77歳、で納得だ。 それにしても今の高齢者は、容貌だけでなく体力も意識も、昔と比べ若くなっているので、電車の席を譲る側/譲られる側、双方の判断が難しくなっているのも頷ける。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「電車で高齢者に席を譲る」という人が減っているワケ ダイヤモンド・オンライン 1/18(水) 6:00 61%の人が席を譲ろうとして、相手に断られたことがあると回答している実態も ● 若い男性が「どうぞ」と席を譲ったその時…… 電車の中でお年寄りに席を譲る――。そんな当たり前の“常識”が、現在では通用しなくなってきている。席を譲らない人が増えてきているのだ。どうしてだろうか? 先日、筆者が電車に乗っていると、ある駅で高齢の男性が乗り込んできた。 車内は混雑とまでいかないものの、吊り革につかまって立っている乗客がちらほら、といった感じだった。高齢の男性を見るや否や、若い男性が席を立ち、「どうぞ」と席を譲った。車内には、ちょっとした緊張が走った。高齢の男性は見るからに気むずかしく、席を譲られたことに対してプライドが傷つくのではないかと思われたからだ。 高齢の男性は、「次の駅で降りますので」と若い男性の申し出を断った。 車内には、どことなく気まずい空気が漂う。 誰のせいでもない。なのに、なぜ我々はこんな気持ちを味わわなければならないのだろうか。現代における“理不尽”の一つである。 この場合は、当人たちや周囲が気まずい思いをするだけですんだが、電車の席を巡っては、時にトラブルに発展するケースもある(当然、席を譲らなかったことによってトラブルになることも)。「お年寄りを敬うべきだ」という常識の聞こえはいいが、実際には「お年寄り」の線引きは難しく、またお年寄り自身の主観によっても違ってくるため、敬う側が心理的な負担を強いられてしまう事態になるのである。 ●「席を譲るべき」派が2割近くも減少 乗り換え案内サービス「駅すぱあと」を提供するヴァル研究所が2016年11月に発表した調査結果によると、「お年寄りなど優先すべき人がいた場合は、 優先席では席を譲るべき」と考えている人は75.9%で、2013年に行われた同様の調査と比較すると、約17%も減少していることがわかっている。わずか3年で激減した形だ。 また、「優先席以外でも席を譲るべき」と考えている人は全体で57.1%いたが、こちらも2013年調査と比較して約19%も減少している。ちなみに、優先席、優先席以外ともに女性のほうが男性よりも「譲るべき」と考えていない傾向が強いという。 その一因となっているのは、やはり「譲ろうとしたが、断られた」という苦い経験だ。同調査によると、61.0%の人が席を譲ろうとして、相手に断られたことがあると回答している。つまり、半数以上の人が席を譲ろうとした経験があるにもかかわらず、なんらかの形で拒否された経験があるため、「親切にしても、相手か嫌がるなら……」と萎縮して、その後は譲るのを控えるようになったということである。 現代においては、見た目の年齢も、本人が持っている自己イメージとしての年齢も以前の基準では測れなくなってきている。しかし、当然ながら「お年寄りに席を譲る」という常識は依然としてあるし、それをなくすべきだとは誰も思わない。だからこそ、「席を譲らなくては」という気持ちと、「いや、でも相手が不快な思いをするかもしれない」という気持ちの間で揺れ、居心地が悪くなってしまう。冒頭で紹介したエピソードは、まさにそうした乗客の心理が現れた一例だったと言えそうだ。 また、譲らなかったら譲らなかったで、「なんで席を譲らないんだ」と文句を言われるリスクもある。いったい、どうしたらいいのかと頭を抱えている人も多いだろう。 ● 磯野波平と藤井フミヤが同い年の違和感 今年に入ってから、こんなニュースが世間を賑わせた。 日本老年学会と日本老年医学会が、高齢者の新定義に関する提言を発表したのだ。それによると、従来の65歳以上という定義を改め、「高齢者」を75〜89歳とするという。さらに、65〜74歳を「准高齢者」90歳以上を「超高齢者」と定義した。 両団体は、「高齢者、特に前期高齢者の人々は、まだまだ若く活動的な人が多く、高齢者扱いをすることに対する躊躇、されることに対する違和感は多くの人が感じるところ」とし、「65歳以上を高齢者とすることに否定的な意見が強くなって」いると指摘した。その背景には、「現在の高齢者においては10〜20年前と比較して加齢に伴う身体的機能変化の出現が5〜10年遅延して」いることがあるとしている。 たしかに、筆者の父親も70歳を超えているが、いわゆる“よぼよぼのおじいさん”にはまったく見えない。個人差はあるものの、社会全体が「アンチエイジング」している現在において、高齢者の定義は難しい。 「定年=隠居」というイメージもない。 そもそも、高齢者に限らず世の中の全世代が若返っている印象がある。以前の社会的な年齢のイメージと現在がどれだけかけ離れているかは、「サザエさん」の登場人物の年齢を調べれば一目瞭然だ。磯野波平は54歳であの貫禄だが、同い年の藤井フミヤさんは、まだ若々しい。65歳を准高齢者とする提言にも、頷くことができる。 ● マタニティーマークに批判の声も 「席を譲ろう」という親切心が、相手に対し「私はまだ、老人じゃない」という不快感を与えてしまうのは、なんともやりきれない。また、相手がそう感じる のではないかと忖度し、声をかけるのを萎縮することによって、本当に席を譲らなければいけない人が不利益を被ることがあるのだとしたら、それは由々しき事 態である。 さらに、当然お年寄りだけではなく、妊婦さんにも席を譲るべきだとは思うが、見た目だけでは判断つかない場合がある。「万が一、違ったら失礼になる」と 考える人も多い。妊娠を周囲に知らせる「マタニティーマーク」もあるものの、それを付けていることによって、逆に妊婦さんが不快な思いをする事態も発生し ているという。 なかにはマタニティーマークを見て、「幸せ自慢か?」「妊婦は偉いのか? 」「不妊治療をしている人の気持ちも考えろ」と思う人もいるそうだ(産経ニュース2016年1月1日付)。個人的には妊婦は偉いと思うのだが、どうだろうか。少なくとも批判の対象になるのは、どう考えてもおかしい。 しかし、世の中にはいろいろな考えの人がいるものだ。ますます公共の場での振る舞い方が、難しい時代になっている。 数十年後、仮に自分が電車の中で席を譲られるようになったら、「ああ、自分もついにそういう年齢になったんだな」と自覚して、譲ってくれた若者に素直に感謝したいと思う。しかし、三十代中盤の今、お年寄りに率先して席を譲るかどうかと問われたら、答えに窮してしまう。相手を怒らせてしまって、妙なトラブルに巻き込まれるのは御免だからだ。おそらく見ないふりを決め込むか、もしくは電車が駅に到着したタイミングを見計らって黙って席を立ち、別の車両に移るかだろうと思う。 どちらにしても、相手とのコミュニケーションを避ける戦略だ。なるべく後者を選択したいと思っているが、そんな選択しかできない自分の度量が情けなくもある。 当連載についてご意見がある方は、筆者のTwitterアカウント(https://twitter.com/miyazakid)にご連絡いただきたい。すべてに返信できないとは思うが、必ず目を通したいと思う。 (フリーライター 宮崎智之) |
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披露山からハイキングコースを辿って、浪子不動へ。
昔の写真に近いアングルがあったので撮ってみた。 右下の道は、かつて有料だった湘南道路、現在の国道134号線だ。 (右下の虫メガネをクリックすると拡大します) 昭和12年の絵葉書。 お堂はずいぶん質素だった。 また、お堂の前には特徴的な松が生えている。 崖下は、すぐ海で車が通れる道はない。(右下の虫メガネをクリックすると拡大します) 浪子不動高養寺(逗子市新宿5) 4travel.jp 旅行時期 2013/12/01 - 2013/12/01 (2013/12/12投稿) http://4travel.jp/travelogue/10837249 逗子市新宿5にある高養寺は高野山真言宗の寺で白滝山高養寺という。 寺伝によると、弘法大師が開山、岩窟内に2尺余の不動尊像を安置したのが寺(不動堂)の起こりであると説いている。本尊は不動明王である。 あるいは、伝承によると、昔、この地の岩窟のわきに大きな滝があったことから、「瀧の澤」という地名が付けられたという。浪切不動という名は、この不動尊が小坪の漁舟を暴風雨から護ったことに由来している。 700年程前、このあたりは東小坪の浜の一角で、夜な夜な、山腹の滝の付近から不思議な光が発せられ、不漁になり困惑した漁師を見ていた僧が、草に埋もれた不動明王を発見。小堂を建立してお祀りし漁場は活気を取り戻したことから、漁師の海上安全、豊漁祈願のお不動さまとして信仰を集めている。 また、新編相模国風土記稿(天保12年(1841年)成立)には、「不動堂小瀧不動と号す、佛乗院持」とあり、逗子町誌(昭和3年(1928年)刊)では、「小瀧不動、白瀧不動、御瀧不動、浪切不動など称す、池子東昌寺の持なり」とある。不動堂はあるが、寺名は記載されてはない。寺名はなかったのだろう。また、江戸末期には小坪佛乗院の不動堂であったが、後に池子東昌寺の不動堂に変わっている。 新宿海岸に面した高台に建つ高養寺の本堂は、裳層(もこし)付きの瓦葺の建物である。現在のお堂は、葉山の真言宗に属していた慶増院という寺院の建物を昭和28年(1953年)ここに移築したものである。昭和の初期、関西画壇の一人、黒住章堂が出家入道し葉山慶増院に入り、時の首相高橋是清(1854年〜1936年)と犬養毅(1855年〜1932年)の援助を受けて本堂を建立し、堂内の天井画と襖絵を描いた。寺名も後援者のそれぞれ一字をとり高養寺と改めた。同じ頃、新宿不動堂のお堂再建計画があり、慶増院の本堂を移築することになった。かくして、本堂を移築した際に寺名も移されたようだ。また、慶増院にあった「沙弥行心歸寂 乾元二年(1303年)七月八日」と刻まれた石造五輪塔(国指定重要文化財)もお堂の傍に遷されたが、昭和51年(1976年)に池子東昌寺本堂の前に再度遷されている。 徳冨蘆花(1868年-〜1927年)の小説「不如帰(ほととぎす)」の舞台となり、主人公の片岡浪子(なみこ)にあやかり、いつしか「浪子不動」と呼ばれるようになった。「不如帰」は、明治31年(1898年)から明治32年((899年)にかけて国民新聞に連載された。なお、徳冨蘆花は今年のNHK大河ドラマにも出てきているが、今度の最終回ではこの話が出てくるかも知れない。 不動堂は古くからあるが、「浪子不動」の名も「高養寺」の寺名も古くからの名ではないことが分かる。 国道134号線沿いの逗子湾を眺める場所に浪子不動高養寺が建っている。 タウンマップ「街の達人」には、海岸側に高養寺、山の中腹に浪子不動が記載されており、2寺あるのかと思ったが、海岸側に浪子不動高養寺が1寺だけあるようだ。無住のようで、連絡先が池子東昌寺ではなく、金蔵院(横浜市磯子区磯子)になっている。 明治以降は変遷があり、中々複雑なお不動さまである。 |
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天気が心配されたが、台風の影響も無く、高円宮家の次女典子さまと出雲大社権宮司の千家国麿さんの結婚式が出雲大社で華やかに執り行われた。
ところで出雲大社と言えば、以前、巨大な支柱跡が発掘され、太古の巨大神殿が単なる伝承でなく、存在が確認され話題になった事を思い出した。 発掘された本殿の支柱跡(1つの支柱が、柱3本で一組になっている) 上古出雲大社本殿の想像復元模型 (右下の虫メガネをクリックすると拡大します) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 典子さまと千家さん結婚=皇室離れ、出雲で新生活へ―高円宮ご一家ら出席 時事通信 10月5日(日)12時0分配信 高円宮家の次女典子さま(26)と出雲大社(島根県出雲市)権宮司の千家国麿さん(41)の結婚式が5日、出雲大社で行われた。新婦側は母の久子さま (61)、姉の承子さま(28)、妹の絢子さま(24)ら8人、新郎側は千家さんの両親ら13人の計21人が参列。二人は「縁結びの神様」の前で夫婦の誓いを立てた。 女性皇族の結婚は2005年11月の天皇、皇后両陛下の長女黒田清子さん以来。結婚により典子さまは皇籍を離脱し、出雲で千家典子さんとして新生活を始める。 結婚式を終えた典子さまは「滞りなく済みましてほっとしております」、千家さんは「大変心が晴れやかでございます」と笑顔で語った。 午前7時半には千家さんの叔父千家和比古さん(64)が使者として宿泊先のホテルに典子さまを迎えに行く「入第の儀」が行われた。 結婚式は午前11時すぎ、出雲大社の拝殿で始まった。典子さまはおすべらかしの髪形で赤い小袿(こうちぎ)に長袴、千家さんは衣冠姿。典子さまの小袿は祖母の三笠宮妃百合子さま(91)が貞明皇后(大正天皇の皇后)から受け継いだもので、長袴も貞明皇后から伝わる生地で新たに作ったという。両家の意向で媒酌人は立てなかった。 参列者全員がおはらいを受けた後、斎主を務める千家さんの叔父で同大社権宮司の千家隆比古さん(66)が祝詞を奏上。二人に夫婦のあるべき姿についての神々の教えを伝えた。 続いて千家さんが出会いへの感謝と夫婦が協力することを誓う「誓詞」を神前に供えた。二人は玉串をささげて拝礼し、最後に固めの杯が交わされた。終了後は参列者全員で本殿を参拝した。 婚姻届は式後、両家の代理人が出雲市役所大社支所に提出する。6日に宮内庁が皇統譜に典子さまの皇籍離脱を記載する。新婚旅行の予定は特にないという。 6日に松江市内で披露宴、8日に東京都内で結婚を祝う晩さん会が開かれる。 出雲大社 (Wikipediaより抜粋) 本殿 現在の本殿は1744年(延享元年)に作られた。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられる。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。 この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。これは平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎)を元にしている。 16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もあるが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術水準では不可能なものをあえて建築してしまった可能性は否定出来ない。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると推測すれば、不自然では無いという意見もある。高層建築が必要とされたのは別天津神の祭祀と関係があるとする説もある。 古代史を取り巻く謎 出雲大社建造の謎 http://inoues.net/mystery/izumo_nazo.html |
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湘南道路、七里ガ浜料金所付近(昭和30年代)
○ 料金所の左奥に七里ガ浜ホテルらしきものが見える。 ○ 七里ガ浜ホテルの後には七里ガ浜高校が出来た。 ○ 現在の鎌プリ・バンケットホールの場所には海水プールがあった。 ○ 西武の七里ガ浜分譲地は造成中か? ○ 134号線から七里ガ浜駅に接続する道はまだ無いようだ。 (右下の虫メガネをクリックすると拡大します) 湘南道路(しょうなんどうろ)(Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%98%E5%8D%97%E9%81%93%E8%B7%AF 神奈川県逗子市、鎌倉市および藤沢市にかつて存在した、日本道路公団所管の有料道路。 概要 現在は無料開放され、全線国道134号の一部として供用している。 「逗子区間」と「鎌倉区間」の2区間があった。 逗子区間 • 起点:逗子市大字新宿 • 終点:鎌倉市由比ヶ浜 • 料金徴収期間:1964年(昭和39年)10月9日-1986年(昭和61年)6月30日 • 事業費:10億9,500万円 鎌倉区間 • 起点:藤沢市片瀬 • 終点:鎌倉市由比ヶ浜 • 料金徴収期間:1956年(昭和31年)7月1日-1975年(昭和50年)2月28日 • 事業費:2億1,500万円 七里ガ浜海岸駐車場は、料金所を駐車場に転用したもの。 変遷 「国道134号」も参照 • 1956年(昭和31年)6月29日 - 二級国道134号横須賀大磯線(後の国道134号)中、藤沢市片瀬東浜から鎌倉市由比ケ浜までを「湘南道路」とし、料金徴収期間は、1970年(昭和45年)3月31日までとする。後の「鎌倉区間」にあたる区間。 • 1956年(昭和31年)7月1日 - 料金徴収を開始。 • 1964年(昭和39年)10月9日 - 国道134号中、逗子市大字新宿から藤沢市片瀬までを「湘南道路」とし、料金徴収期間は、1986年(昭和61年)6月30日までとする。「逗子区間」と「鎌倉区間」の2区間を置く。 • 1975年(昭和50年)3月1日 - 「鎌倉区間」を無料開放。 • 1983年(昭和58年)12月1日 - 通行料を改定。 • 1986年(昭和61年)7月1日 - 「逗子区間」を無料開放。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 1952年、神奈川県道横須賀大磯線が二級国道134号に指定されたが、鎌倉部分が有料化されたため、七里ヶ浜に料金所が設けられた。(1975年まで) 1957年 七里ヶ浜ホテル開業。 1960年代になると鎌倉周辺の大型宅地造成が活発化し、田辺地区の丘陵中腹に西武七里ヶ浜住宅地が開発された。その残土で砂浜の一部を埋め立て、大型駐車場が建設された。 1961年 鈴木療養所、創立50周年を機に鈴木病院と改称。 1963年6月29日 七里ヶ浜海水プール開業。 1963年 七里ヶ浜ゴルフ練習場開業(96打席)。 1964年5月17日 「ボート遭難の碑」建立。 1965年4月1日 二級国道134号横須賀大磯線、一般国道134号となる。 1966年 西武七里ヶ浜住宅地分譲開始。 1975年3月1日 湘南道路鎌倉区間を無料開放。 1975年6月8日 暴走族600人が七里ヶ浜で乱闘(毎日新聞報道)。 1976年4月1日 鎌倉市立七里ガ浜小学校開校。また同日神奈川県立七里ガ浜高等学校が鎌倉高等学校内に開校し、翌年現在地(七里ヶ浜ホテル跡地)に移転した。またこの頃、日本テレビ系連続ドラマ『俺たちの朝』がヒットし、「七里ヶ浜ブーム」ともいうべき現象 が起こった。これに対応するように、国道沿いにはレストランなどが続々と開業するようになった。 1976年4月30日 江ノ電バス藤沢駅?七里ヶ浜東台?藤沢駅、運輸開始。1980年代以降、七里ヶ浜周辺を舞台にした映画、テレビドラマ、コミック作品やゲームソフト、プロモーションビデオ、カラオケの背景、CMフィルムが続々と発表されるようになった。また、大型の集合住宅なども建つようになった。 しかし、丘陵斜面に立地するものが多いため、交通の面が大きなネックであり、成熟した買い回り品商店街がほとんど見られないため、住宅地としては数々の問題点を抱えている。 |




