|
図を見て欲しい(原子力図書館げんしろう http://mext-atm.jst.go.jp/ より)。 二酸化炭素排出量で比較すれば、原子力は太陽光発電や風力よりもクリーンとのこと。 原子力発電推進に賛成か反対か。 どう考えますか?
|
【小論文ネタ】環境
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
環境問題の最大の問題は「問題がないこと」である。 正確に表現すれば、「問題がまだ起きていないこと」あるいは「問題が見えにくいこと」だ。地球温暖化、地球温暖化と叫ぶけれども、地球温暖化の被害は、ブラウン管の向こう側にある。しかも出てくるのは、シミュレーションの結果ばかりであって、生の被害ではない。 仮に、アメリカに甚大な被害をもたらしたハリケーン「カトリーナ」や、日本に甚大な被害をもたらした「平成18年豪雪」を、「今、目の前にある地球温暖化の被害」として紹介したとすれば、科学者から袋叩きにされるだろう。そんな確証はないと。実際「豪雪と温暖化の関係はひとまずないと考えた方がよい」とNHKの気象予報士が繰り返し述べていた。そもそも気象は複雑なシステムだから、平均気温の上昇なんて単一の要因で異常気象が起きたりはしない。複数の因子が重なって、ようやく異常気象につながる。したがって「この異常気象は温暖化のせいだ」と短絡的に判断するのは、気象のことをかけらも理解していない小学生並みの判断だ。 目の前にある環境問題には、誰でも迅速に対応する。例えば、日本海近海で重油を積んだタンカーが座礁したりすれば、当然、深刻な海洋汚染が発生する。この場合、大量のドラム缶とひしゃくを発注し、全国からボランティアをかき集めて、海岸に漂着した重油を丹念にすくったりする。もちろんオイルネットを張ったり微生物を撒いたりして、汚染の拡大を食い止めようと努力する。 しかし、夜寝る前に電気毛布のスイッチを入れる行為が地球温暖化を加速させ、100年後には平均気温を5度も上昇させるとは想像したりしない。「北極の氷が解けて、沖の鳥島が沈んでしまうかも。あの豊かな漁場はどうなるの」なんて素っ頓狂な心配をしたりはしない(ちなみに、北極の氷が解けても海水面は上昇しない。コップの中の氷が解けても水面が上昇しないのと同じ。沖ノ鳥島はとっくに沈んでる。今あるのはコンクリートの塊。日本の土木技術があれば、海水面が何メートル上がろうとも、このコンクリートの塊をいくらでも高くできる)。 そのため「環境問題に関心はあるけれども、具体的な行動はしない」という人間が増える。僕もそのうちの一人だ。環境問題について真剣に考えるなら、パソコンで仕事したりはしないし、本も買ったりしない。もちろん数百ページのテキストを作ったりもしない。逆に言えば、普通に生活しているだけで、必然的に環境破壊に加担してしまう。これはどうしようもない事実だ。ロハスを気取ろうが、環境保護団体に所属しようが、文明生活をすれば、必ず環境を破壊する。 僕らが理解できるのは、「○○をすれば、必ず□□が起きる」という一因一果の単純な因果関係だ。「○○をすれば、□□が起きて、すると、△△が起きるから、その結果……最終的に、××になる」なんていわれても、「それは『風が吹けば桶屋が儲かる』と同じ話であって、風が吹いても桶屋が儲かるとは限らない」なんて答えたりする。ところが、風が何万回も吹けば、必ず儲かる桶屋が出てくるのだ。これを「大数の法則」という。例えば、「1000万人に1人の確率で、この病気にかかる人がいます」と言われた場合、「自分がその病気になる可能性はないだろうな」と一瞬のうちに考えてしまうが、これは「1000万にいれば、確実に誰か1人はその病気にかかっている」ということを指す。自分ではないかもしれないが、必ず誰かはいるのだ。 環境問題も同じで、一つ一つの行動は直接的に環境破壊に結びつかなくとも、間接的には、環境破壊に結びつく要因に影響を与えているかもしれない。それが300万分の1の確率だったとしても、同じ行動をとる人間が300万人いれば、必ず誰か1人の行動が環境破壊を引き起こしているのだ。一つ一つは環境破壊に結びつくかどうか不明な行動でも、無数の人間が日々大量に同じ行動をしているため、環境は確実に破壊されることになる。僕ら一人一人にとっては、自分の行動が環境破壊に結びつくかどうか不明なため、危機感や罪悪感を抱くことはほとんどないが、こうした行動が無数に集まるため、大数の法則にしたがって確実に環境は破壊される。 環境は、人間を含む無数の生物が参加する複雑なシステムである。だからこそ、僕らには理解できないし、自分の行動がどうこのシステムに影響を与えるのか、その結果を想像することもできない。もちろんシステムが複雑すぎて実証もできない。 結論は二つある。 どう影響を与えるか不明でも、とりあえず環境を破壊する可能性を持つなら、その段階で禁止するか。あるいは、どう影響を与えるか不明である以上、環境を破壊するまで待って、その段階で禁止するか。前者を「予防原則」と呼び、後者を「対症療法」と呼ぶ。ヨーロッパは前者を好み、アメリカは後者を好む。 もちろん、予防原則を採用することは、単純な因果関係しか理解できない人間にとっては難しい。また、支払ったコストの割りには成果は乏しかった、せっかく環境保護活動を熱心にしたのに環境をほとんど保護できなかった、なんて事態はいくらでも起きる。 それでも環境保護を求めますか? 繰り返すが、被害が目に見える場合、アメリカといえども迅速に行動する。ここで問題にしているのは「見えない環境問題」だ。 さあ、どうする?
|
|
LOHASは消費スタイルであって、環境保護活動・人権擁護活動といった利他的な活動に積極的に関与する生き方ではない。ただ人よりはこうした活動に関心はあり、実際に関与することも多い。その関与の仕方は一般大衆よりは深く、NGO・NPO関係者よりは浅いという中途半端なものだから、どちらから見ても鼻につくのでは。一般大衆「なんだ、あいつら、かっこつけやがって」、NGO関係者「なんだ、あいつら、あれで環境に優しい? あれで貧困解決? は? へそがお茶沸かすよ」といったところ。詳しくは「LOHAS (1)」を。ちなみに『ソトコト』が管理する「ロハス」とは無関係の話。 さて、最近気になったのが「消費=悪」という等式がはびこっている点だ。 大量消費社会の罪悪がこれだけ喧伝されているから、消費=悪という短絡的な結びつきが生まれるのもわかる。しかしそもそも消費=悪の図式自体が無効なうえ、この短絡的な判断をLOHASにまで当てはめ、LOHAS=消費=悪という批判をするのは的外れだ。 人は消費しなければならない。消費せずに生きるためには、生活必需品を自給する必要がある。消費=悪と考えた場合、信州の山奥に別荘を構え、週末ごとに新幹線「あさま」で訪れては、畑仕事に従事するようなごく一部の金満ナチュラリストか、自給自足を決め込んだ世捨て人しか、「善」な人はいないことになる。消費=悪なんて論を立てる人間が、コンビニで買ったペットボトルとジャンクフードを並べ、ユニクロで買ったフリースやスウェットを着て、デルで買ったパソコンに向かってブログ更新とかしてたら大笑いだ(デルは受注生産な分、在庫が劇的に少なく、その点ではほんの少しLOHAS気味だけど)。 日々消費している事実を認める必要がある。 したがって、何のコンセプトもなく、単純に「値段」と「満足」だけを考慮して消費行動をする一般人と比較すれば、健康と環境、まれに貧困解決や地域社会の興隆を意識しながら消費行動をするLOHASの方が何倍もましである。もちろん「LOHASは環境に優しいと言っておきながら大規模な消費をするから目障りなんであって、自分はそもそも環境に厳しいから普通に消費していいんだ」なんて自分勝手な論を立てる人間もいるだろうが、これはLOHASの誤解から出発しているから論外だ。何度でも繰り返すが、彼らは環境保護活動家ではない。単に消費の意思決定に「健康」「環境」も加味するだけだ。 次に、消費=悪となるのは、その消費行動が環境破壊とか貧困拡大に著しく加担する場合だけである。エネルギーを消費した時点で環境破壊という論外な論調もあるが、そんな論を立てる人間はパソコンを使ってこの文章を読んでいる段階で失格だ。何をしようが、文明生活を営む以上、環境に負荷はかける。農村風景を見て「わあー、自然がいっぱい!」なんてはしゃぐ愚を僕らは犯しがちだが、農業の機械化が浸透した現在、手作業が主だった戦前とは異なり、現代農業はエネルギーを湯水のように使いながら農作物を生産している。「工業=環境破壊、農業=環境保全」なんて短絡的等式は先進国にはまったく当てはまらない。工業も農業も、環境に高い負荷をかけるのだ。 環境高負荷商品は安く、環境低付加商品は高い、という単純な原則が成り立つ。コストダウンに機械化が必須である以上(これが20世紀モデルの生産だ)、必然的にそうなる。環境保全にはそれなりのコストがかかる。当然、その分が商品価格に上乗せされる。環境への優しさという観点からは、一般的な消費 < LOHASな消費 < 貧乏人の消費 < 世捨て人の消費、という序列が成立する。金満ナチュラリストは、ウィークデーは都市部で生活しているので、LOHASと変わらないだろう。 金持ちたちには消費してもらった方がよい。 ただしモノではなく、文化やライフスタイルを消費してもらいたい。スーパーリッチがプリウスどころか燃料電池車を数億くらい出して何台も購入すれば、やがてLOHASな人々にも手が出せるくらい安くなる。彼らが使い切れない所得の10パーセントを自動的に人権NGOに寄付したり、途上国のカカオとかコーヒー豆を市場価格の100倍くらいで買ったり、伝統文化を受け継ぐ集団(特に途上国の)に巨額の援助をしたり、環境経営・CSR経営に力を入れている企業の株を買ったり……こうした大胆な行動は、単純にモノ・サービスを「消費している」とはいえないが、確かに「満足」は得ているはずだから、何かは「消費している」。恐らく最も正しい表現は「自分を消費している」だろう。理想の自分を演出するために巨額の費用を払う。一部はLOHASな消費に当てるとしても、残りをこうした寄付・援助に当てれば、環境・貧困の問題はある程度緩和されるだろう。 消費はできるならもっともっとすべきだ。 ただし有形財(形のある商品)ではなく、無形財(形のないもの)を消費する。できれば、環境・貧困問題の解決に役立つ方向で消費する。そうすれば、最高の自己を演出できる。 消費=悪ではない。方向性によっては、はるかに「善」なのだ。 【追伸】
それから、コメント欄でkoolくんが指摘していた「LOHASはビジネスチャンスになる」について補足。どんな事業でも、恐らく「LOHAS」的なものを意識する必要が出てきます。日本の成人男性の3割がLOHASとのこと。これはアメリカよりも多いです。実際にLOHASかどうかは不明ですが(恐らく口先だけがかなり含まれる)、少なくとも吉野家的・マクドナルド的なモノを軽蔑する風潮が生まれているのは間違いありません。吉野家よりも立ち食いそばを、マックよりもフレッシュネス・バーガーやモスを選んでしまう、といったささいな風潮です。同じ商品でも、少し「環境への優しさ」で色づけてみたり、「貧困への配慮」を匂わせてみたりすれば、LOHAS層の忌避を避けられます。そういえば、日清カップヌードルがそんなイメージアップCMを流してますね。ああ、朝日新聞も。 |
|
「ロハス」は登録商標だと今日はじめて知った。 こんな一般用語を登録してしまうとは、『ソトコト』って雑誌、なかなかのやり手。もちろん目的は「金儲け」だろうが(金儲けではないと仮に言い張るなら、必要経費のみで販売してみせて欲しい)、公的には「ロハスという言葉の意味を管理するため」だそうだ。 ある種のライフスタイルを表すコンセプトを「売る」という発想自体に恐れ入る。 「金儲けや社会的な成功を目指さず、あくまで自分らしい自己実現を追求する生き方」を Lifestyles Of Self-actualization And Isolation 通称「LOSAI(ローサイ)」として登録しようかな、と軽く考えてみたりした。労働災害(通称「労災」)とは無関係だけど(ちなみに、LOSAIの訳は「自己実現的・引きこもり的なライフスタイル」。自分らしさを追求した結果、社会から孤立してしまうような生き方を指す)。 というわけで、アメリカで生まれた「LOHAS」について、「ウィキペディア」によれば、 LOHAS(ロハス)はLifestyles Of Health And Sustainability の略で、健康や環境問題に関心の高い人々のライフスタイルとされる。1998年、アメリカの社会学者ポール・レイ氏と心理学者のシェリー・アンダーソン氏が 15年にも渡る調査で、カルチュアル・クリエイティブス(en:Cultural Creatives)と呼ばれる環境や健康意識が高い人々の存在を確認したことを元に、ポール・レイ氏と起業家のジルカ・リサビ氏(後のGAIAM創立者)が協力して開発したマーケティングコンセプトが"LOHAS"である。
とのこと。さらにウィキペディアには、 アメリカの調査機関NMIが、LOHAS層を"環境と健康に関心、社会に対する問題意識、自己啓発・精神性の向上に関心が高く、実際の行動に移す人々"と定義し、2002年よりその割合を調査している。この調査にはカルチュアル・クリエイティブスを提唱したポール・レイ氏もアドバイザーとして協力している。2005年の調査によるとアメリカの成人人口の23%がLOHAS層だという。(他、LOHAS層に近いが行動に至らないNOMADICS:39%、価値観を特にもたないCENTRISTS:27%、日々の生活に追われるINDIFFERENTS:12%)
ともある。 本場の「LOHAS」概念に関する情報があまり日本に輸入されていないため、概念が雑誌『ソトコト』によってずいぶんと日本風にアレンジされてしまったらしい。そのあたりロハスの誤解とエコプレミアムに詳しく解説してあるので、興味がある人はどうぞ。 さて、このLOHASとは、要するに、教養レベルと生活レベルが高く、時間や金銭よりも、健康や環境保護を重視する生き方を指すらしい。例えば、通常の消費者は「早い、安い、うまい」の三拍子揃った吉野家や「えっ? あの製品がこの値段で?」の100円ショップを普通に愛用する。同じ品質なら、あるいは、少々品質が低くとも「安さ(金銭的コスト)」や「早さ(時間的コスト)」を重視するからだ。ところが、LOHASな人々は違う。少々高くても「健康(身体的コスト)」や「環境」を重視する。吉野家で食事をすれば、余計なカロリーや余計な脂肪分や余計な塩分を摂取してしまう。これでは健康を損なう。100円ショップで買い物をすれば、大量生産・大量消費・大量廃棄という「悪」の連関に関与してしまう(100円ショップの製品は安い分、品質も悪く、すぐに捨てられる運命にある)。これでは環境を損なう。したがって吉野家や100円ショップにLOHASな人々はいない。原則として。 消費行動にはコストが必要だ。経済学ではこれを「フリー・ランチは存在しない」と表現する。どのような消費活動をするにせよ、その消費によって得られる「満足」に応じて、金銭や時間を費やすことになる。高級フランス料理に舌鼓を打ちたいなら、それなりの出費とそれなりの拘束時間を覚悟しなければならない。それだけではない。いくら大好物でも、フォアグラばかりを食べれば、それだけ健康を損なう。つまり健康も「支払っている」。また文明生活のほとんどは地球環境を破壊しながら営まれている。日本で電気を消費すれば、その分、否が応でも「核廃棄物の生産」に手を貸していることになる(日本の発電シェアは原子力発電がトップ)。つまり環境も「支払っている」のだ。 LOHASな人々は、原則として中流以上の生活レベルである。なぜなら中流以上でなければ、金銭的コストよりも健康を優先するなんて悠長なことは言っていられないからだ。例えば、砂漠で遭難して水が一滴もない状況で、目の前にオアシスが現れたとき、「ああ、私、ヴォルヴィックじゃないとダメな人なの」なんていう奴はいない。 またLOHASな人々は、おおむね大卒以上かそれに匹敵する教育レベルでもある。大卒以上でなければ、何が健康に害を与えて、何が健康に役立つのか、あるいは、何が環境に害を与えて、何が環境に優しいのか、といった判断ができないからだ。例えば、食品表示にずらずらと並ぶ添加物を見て、どれが危険度が高くてどれが低いのかわからなくてはならないし、今食べようとしている食物の栄養成分がどうなっているかわからなくてはならない。「ビタミンBが豊富だから体にいいよね」なんて言って豚肉をバクバク食べていたり、「カカオ・ポリフェノールって体にいいらしいから」なんて言ってチョコレートをバクバク食べていたりする人間は、ビタミンBやカカオ・ポリフェノールと同時に何を口にしているかわかっていない。 LOHASは「現代消費社会」のカウンター・カルチャー(反消費社会文化)と位置づけて間違いないだろう。彼らにはそもそも金がある。だから金銭的コストを重視する必要がない。安ければ不健康になり、健康になるなら高い、といった場合、どちらを優先するか。貧乏人は否応なく不健康になろうが安さを選択するしかない。しかし金があるなら、「金」よりももちろん「健康」を重視するだろう。 この優先順位の違いが消費行動や生活行動を変える。例えば、毎日のように仕事帰りに飲んで歩いていたり、あるいは、毎日毎日残業をして週末まで仕事をしていたりしていたとしよう。「金」よりも「健康」を重視するライフスタイルを選択しているなら、「酒を飲む」という消費活動を「ジムで汗を流す」に変えるだろう。消費の結果得られるものは同じ「満足」である。どうせなら肝臓を壊して満足するよりも、健康な体を作って満足した方がいい。もちろん後者の方が金はかかる。また「週七日働く」という生活行動も「家族とハイキングに出かける」「友人とテニスをする」に変えるだろう。何せ「金」は十分稼いでいて、もう不要なのだ。働いて健康を害するくらいなら、働かずに健康に役立つ活動を選ぶ。 まさに「モノの豊かさよりも心の豊かさを」だ。受験生が十年前からしつこく提唱し続けてきたコンセプトを、今、アメリカ人の23%が実践している。 これは金銭的に「必要以上に豊か」になった結果、生まれたライフスタイルだ。金がこれ以上あっても仕方がない、というところまで稼いでいるからこそ、健康→時間→金のような優先順位を設定できるのだ。まだまだ貧乏な僕は、時間→金→健康の優先順位だし、金はまったくないけど時間は腐るほど持っていた学生時代は、当然、金→時間→健康だった。 さてLOHAS批判として「このライフスタイルは健康は重視するものの、環境への配慮が足りない」というものがある。LOHASが単なるライフスタイルである以上、この批判は余計なお世話である。健康と地球環境、どちらがより切実かと質問されたら、よほどの偽善者でない限り、健康と答えるだろう。「地球環境を守るためなら死んでいもいい」という天然記念物並みの人は、実際には健康を害していないか、健康を害するということをリアルに考えていないかどちらかだ(健康なうちは健康の大切は痛感できないものだ)。実際に血を吐きながら活動をする人もいるだろうが、もちろん少数派だ。そんな少数派の理想主義者の意見を押し付けられても困る。 LOHASな人々は別に自然保護活動家でも何でもない。単に「レクサス(高級車)とプリウス(ハイブリッドカー)どっちを買うか悩んだけど、どうせ買うならプリウスがいいかな。地球に優しいし」という風に、消費の意思決定に「環境」も加味するというだけだ。貧乏人ならそもそもプリウスなんて「高級車」に手は出せない。LOHASな人々は消費の意思決定に環境を加味するだけましであって、一般庶民はそんなことは端から考えてはいない。繰り返すが、LOHASな人々に徹底した地球環境保護を求めるのは「そんなに金があるなら環境保護にもっと寄付しなさい」と要求しているのと変わらない。環境保護の徹底を求められたら、彼らはあっさりと「そこまでしなければならないなら、環境保護には無関心になります」と方針転換してしまうだろう。LOHASは「ああすべき」とか「こうすべき」といった類のもの(価値判断)ではなく、あくまでマーケティング・コンセプトとして「こういう消費行動を取る人たちが増えている」という「こうだ」とか「ああだ」といった類のもの(事実判断)なのだ。 LOHASの優先順位が、環境→健康→時間→金、となるには、彼らがよほど健康になったときだろう。それまでは、健康→環境→時間→金、となるのも仕方がない。
|
|
環境保全と貧困解決は両立しない。 |
全1ページ
[1]




