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小論文の題材は、基本的に (1)意見がわかれていること (2)受験生の知的レベルでも反論を思いつくこと になります。「受験生が論じやすい内容」と考えればわかりやすいです。 さらに、作問者が「これは問題だな」と感じたものになりますから、受験生が「これは問題だな」と感じているかどうかは関係ありません。受験生にとっては「何の問題もない」と感じていることでも、知識人の視線で「問題だ」と判断されれば、その題材は出題されます。作問者にしてみれば、「問題があると気づけるかな? ここで問題があるとわからないようでは、知的レベルが低いと見なす」という感覚です。 というわけで「洋装ゆかた」もネタとしては出題しやすいものです。 日本伝統の衣料「ゆかた」を大胆にアレンジしたもので、たぶんミニスカートのような裾が特徴だと思います。もちろん着ている本人たちは「かわいい」と思っているでしょうが、大人の多くは「伝統に対する冒涜だ」と感じているはずです(あるいは「かわいい」と思ったとしても、口では「けしからん」と言っているでしょう)。 こうした「伝統のアレンジ」はしばしば論点になります。 伝統を頑固に守ろうとすれば、その伝統は廃れていきますし、かつ伝統の改変を許してしまえば、伝統が破壊される恐れがあります。それに、そもそも伝統の改変には実害がほとんどなく、単に「気分の問題」だったりしますから、伝統を守る必要性そのものに疑問がわいてきます。したがって「伝統のアレンジ」は、(1)意見がわかれていること、(2)受験生の知的レベルでも反論を思いつくこと、という上の条件に合致します。 というわけで、あの現代風の「ゆかた」、どう思いますか?
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現役講師、小論文を語る
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問題とは、単純に「考察すべき点」である。考えなければならないことはすべて問題といえる。彼が言ってるのは本当かどうか。成績を上げるためにはどうすればいいか。日本の将来はどうなるのか。すべて考えなければならないことだ。こうした疑問もしばしば「問題」と呼ばれているから、ピンとくるだろう。 しかし実はまだ問題ではない。問題発見につながる疑問に過ぎない。 問題は「論点」と言い換えてもいい。例えば、先日、「日本が多国籍軍に参加することはあくまで自国の利益のためであって『国際貢献』と呼ぶから混乱を招く」という優れたコメントをこのブログに投稿していただいた。仮にこの中から「問題」を発見すれば、「本当に自国の利益のためなのか」「仮に自国の利益だとしても、国際貢献と呼んではならないのか」の2点となる。この2点について考察した結果、「自国の利益のためだ」「国際貢献と呼んではならない」と結論できたら、先のコメントに全面的に賛同することになるし、結論できなければ、自分の意見を持つことにつながる。 これが「問題」だ。 まず世界平和の実現=自国の利益という定義が成立するのか。かつて日本はアフガニスタン復興に大金を費やしたが、どれだけ「自国の利益」につながったのか。確かに「国際社会から尊敬された(少々)」とか「アメリカに恩を売れた」とか「NGOの存在意義を国民にPRできた」といった利益はあった。しかし国民にすぐさま還元されるような利益=「わかりやすい利益」はほとんどなかった(アフガニスタン復興の利益を体感できた国民はわずかなはずだ。少なくとも受験生にはほとんどいない)。世界平和の実現は間違いなく自国の利益となる。しかしその利益はわかりにくい。そうならば、それ以上に「紛争当事国の利益となる」という点に注目すべきではないか――そんな風にも考えられる。 次に自国の利益のためなら国際貢献と呼んではいけないのか。そもそも国は「自国の利益に適う行動」しかしてはならない。自国の利益=国民の利益である。自国の利益に反する行動をする権限は、政府にも官僚にもない。国民の不利益だからだ。国際貢献はあくまで「自国の利益」の範囲内で行われる。「国際貢献にも自国の利益にもなる」という両者が重なった部分でしか国際貢献はできない。したがって「自国の利益のためなら国際貢献と呼んではならない」と規定した場合、原則として国家による国際貢献は存在しなくなる。 繰り返すが、多国籍軍への参加は国際貢献とも自国の利益とも呼べる。もし「多国籍軍に参加しなければならない」を前提とするなら、説得する対象に合わせて呼称を使い分ければいい。自国の利益しか考えない現実主義者を説得するなら、「多国籍軍に参加するのはあくまでも自国の利益のためです」と言う。高い理念の実現を希求する理想主義者を説得するなら、「多国籍軍に参加するのは大国としての義務です。十分に余力を持つ我々が、死の恐怖から子どもたちを救わなければ、いったい誰が彼らを救えるのですか」と言う。言うまでもないが、「多国籍軍への参加は自国の利益の追求に過ぎないから、その必要はない」という論理は成立しない。利益なら積極的に追求すべきであって、利益を放棄する必要はないからだ(というか勝手に放棄してもらっては困る)。「多国籍軍への参加は不要」というためには、「多国籍軍への参加は自国の利益にはならないし、国際貢献にもならない。飢餓や紛争に悩む小国を救う義務など大国にはない」といった論理が必要だ。 以上のように、「日本が多国籍軍に参加することはあくまで自国の利益のためであって『国際貢献』と呼ぶから混乱を招く」といった優れたコメントに接したとしても、いきなり賛同するのではなく、逐一再検討を加え、同意すべきかどうか考え抜く。これが問題意識だ。考えるべきポイント=問題を発見して、自分の結論を下していく。常に問題を探し続ける意識。そうした意識を持つ人を「問題意識が高い人」と呼ぶ。 問題とは、論点である。問題意識とは、論点を探し続ける意識である。言い換えれば、自分で結論を出そうとする意識である。21世紀の大国は中国か。日本のアジア外交はどう展開するか。日本の国債残高はそれほど問題か。セ・リーグで優勝するのはどのチームか。今年のワールド・カップは盛り上がるのか。こうした疑問について、中国が大国になるとすれば、その要因は何か。小泉に対する各国(アメリカ・スウェーデン)からの注進(「日中友好を望む」。欧米ではどうやら小泉側に問題があると思われているらしい)は次期首相の方針にどう影響するか。日本の国債を保有するのがほとんど自国民という点をどう評価するか(アメリカ国債は大半が外国人の保有)……など、論点を探して自分の結論を下す。 これが問題意識である。
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小論文に限らず、知的生産(論文の書き方とか発想法とか思考法とか)に関する本には、ほぼ「問題意識を持つことが大事だ」とある。「まずは問題意識を持つよう心がけるところから、はじめなければならない」なんてしばしば書いてある。 それでは、問題意識とは何か。 そもそも「問題」という言葉に誤解の余地がたっぷりある。例えば、「俺、なんで女の子に見向きもされないんだろう」は、明らかに問題だろう。異性に好かれるか、好かれないか。人によっては、大問題だ(人によってはそんなに問題ではないけど)。問題とは、通常、「何らかの不満・不利益につながること」、あるいは、「不満・不利益そのもの」と考えられている。女の子に見向きもされないことは不満に直結するから、これは問題だとわかる。 この感覚に従えば、「問題意識を積極的に持つ」とは、「不満・不利益を積極的に探していく」となる。ものすごく後ろ向きな感じだ。度量の広い人間なら不満や不利益なんて感じないはず。問題意識なんか持つ人間はダメだ! 思わず、そう結論してしまう。だからこそ、問題意識の低い人間が多いかもしれない(実際は問題意識を持つためには積極性が必要だからであり、問題意識を持つことに対してインセンティブが働かないから)。 これは誤解である。 問題とは、単純に「考察すべき点」を指す。考えなければならないことはすべて問題である。彼が言ってるのは本当かどうか。成績を上げるためにはどうすればいいか。日本の将来はどうなるのか。すべて考えなければならないことであり、これらも問題と呼べる。 だが、実はまだ問題ではない。問題発見につながる疑問に過ぎない。 本当の問題とは……というところで、今日は終了。ごめんなさい。
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今朝、めざましテレビで、「目玉焼きにかけるのはしょうゆかそれ以外か」というコーナーをやっていた。非常に不服だ。どうやら、めざましスタッフは圧倒的にしょうゆ派が多かったらしい。残念なことに。目玉焼きにかけるのはもちろん塩、あるいは、塩コショウだろう。この点で僕は同じく塩コショウ派だった中野美奈子アナを支持する。僕の周りを見ても、目玉焼きにしょうゆをかける人なんかいない。玉子焼きや生卵なら和食だからしょうゆかもしれないが、目玉焼きは洋食だから、何か液体調味料をかけるとしても、それはソースだろう。 ……なんてとき、「あれ? ほんとにしょうゆ派が主流なのかな」とか「あれ? 僕のうちは全員ケチャップ派だけど、ひょっとしたら少数派なのかな」と疑問がわくはずだ。焼きおにぎりといったら、みそかしょうゆか。ポテトチップスといったら、塩味かコンソメ味か。あるいは、「NHKって見てる人いるんですか?」と無邪気に聞く生徒が毎年いるが、本当に見ている人はいないのか。いないとすれば、なぜNHKが存続しているのか。そんな疑問がわく。僕の周囲では、30代に突入すると同時に、いきなり既婚者・子持ちが増えた。僕は二人兄弟、妻は二人姉妹。周囲を見渡せば、一人っ子よりも兄弟を持つ人の方が間違いなく多い。本当に少子化が進んでいるのか。 こんなとき役立つのが統計である。 以前、勤務実態ゼロの天下り官僚がそれを追求されて、「年収1000万円程度ならたかが知れているし、実務経験のない自分が仕事に口出しするよりは何もしない方がいいと思った」と弁明した。彼は平均年収を知らなかったらしい。日本人男性の平均年収は、給与とボーナスを合わせて550万円前後。もちろん年功序列制が残る日本では、20代・30代前半は低く、40代・50代になってようやく600万円に届く。しかも一部の金持ちが平均年収をぐっと押し上げるから、実際は平均よりも低い年収の人が多数を占める。国民の感覚としては「年収400万円前後で中流」というところだろう。先の天下り官僚は、周囲に年収数千万円の人間がごろごろといたから判断を見誤った。年収1000万円なら低い方と考えてしまった。 こうした判断ミスを避けるために統計データを使う。 僕の周りは塾講師や予備校講師、学校の教師が多いから、景気の感覚があまりない。生徒が少ないか多いかで景気判断はできそうだが、通常は「あれ、生徒が少ないなあ。俺の人気、下がったのかな」と自分の人気度を測ってしまう。そもそも少子化の影響で生徒は減少傾向にあるうえ、最近は現役合格してしまう生徒が激増したから(「大学全入時代=試験を受ければ、どこかの大学には入れる時代」もじき)、全体として生徒が少ないとしても景気のせいとは考えない。したがって僕が景気の判断をしようとすれば、新聞やテレビの情報に頼らざるを得ない。そして新聞やテレビは、自分の論旨に合わせて情報を取捨選択するから、彼らの意図どおりの社会像を描くはめになる。 朝日新聞はかつて「自民党は弱者を救済しすぎている」「都市部の高所得者層の富を地方や中小企業にばらまく自民党政治のせいで、不公平でゆがんだ社会になった」などと自民党を散々批判していたが、今は「自民党は弱者を切り捨てている」「格差拡大を招く構造改革のせいで、不平等でゆがんだ社会になった」などと自民党を散々批判している。まさに「偏りのない視点」。ジャーナリズムの鏡といえる。弱者救済を批判する記事=弱者切捨てを勧める記事も、弱者切捨てを批判する記事=弱者救済を進める記事も、平等に載せている。もちろん体制に迎合するようではジャーナリズムといえないので、自民党批判という姿勢は変わらない。すばらしい。ジャーナリズムの基本に忠実だ。 しかし、こうしたジャーナリズムの基本に忠実すぎる報道のせいで、事実が客観的にありのまま伝わるのではなく、ある程度「ゆがんで」伝わることになる。「ゆがむ」というのは、この場合「事実を曲げる=虚偽を伝える」という意味ではなく、「事実のある側面だけを過度に強調する」という意味だ。要するに、「朝日新聞が見せたい社会」を読者は見ることになってしまう。このケースは、もちろん朝日新聞だけでなく、メディア全般に起こる。コミュニケーションの宿命だ。 周囲の状況やマスメディアによる報道ではどうしても偏りが出てしまう。統計には数多くの欠点があるものの、それでも「まし」である。例えば、「平均年収」というデータにまつわる「一部の金持ちが平均をぐんと押し上げる」という欠点を取り上げ、「統計は実態を必ずしも映さない」と批判したりする。しかし自分の周囲だけを見て「年収なんて200万円くらいしかないんじゃね」とか「最低みんな2500万円は稼いでいるはず」と判断するよりは「まし」だ。誰も「周りの声は実態を必ずしも映さない」と批判しないのは、そもそも周りの声に「実態」を求めたりしていないからだ。統計にそうした批判が起こるのは、それだけ「統計は実態に近い」あるいは「統計は実態そのもの」と前提されているからだ。実態そのもののはずなのに必ずしも実態を映さないから、「統計よ、おまえもうそをつくのか」と非難される。 繰り返すが、統計は完全ではない。例えば、マーケティングに定量調査と定性調査の両方が必須なように、統計にも多くの欠点がある。統計による情報操作も可能だ。統計は完全というイメージがあるだけ、危険性も高い。それでも統計は「相対的に」最も客観的な情報といえる。過度に信じることなく、限界を見極めながら、慎重に使えば、より正確な判断に役立つだろう。
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以前、「ビジョンの見えない『論文のネット公開』」という記事を投稿した。→http://blogs.yahoo.co.jp/syouronbun_taisaku/29862793.html 結論から言えば、この記事は「情報不足によるミス」の典型例となった。 記事全体の論旨から言えば、大きくは外れていなかったのだが、次のコメントが大きすぎる「恥」を招くことになった。 あくまで戦前「中心」なので、ひょっとしたら最新の論文も少しはデジタル化されるかもしれません。僕の所属した学会は、歴史系にもかかわらず、先生方は「雑誌に載る頃にはもう遅い」と言ってました。それどころか「学会発表ではじめて知るようでは情報が古すぎる。誰がどんな研究をしていて、どんな成果を出せそうか。学会発表の前につかめ」と言う先生も。まして理系の学会ならなおさらのはず。
可能な限り素早いデジタル化が望ましいですよね。もう研究の「アイデア」の段階で発表してしまうような。グーグルでは社員全員でアイデアを共有して全員で問題解決に取り組むそうです。これを地球全体できたら素敵だなと僕は思うんです。 「可能な限り素早いデジタル化」はすでに行われている。 科学技術振興機構が開発した「科学技術情報発信・流通総合システム J-STAGE」のことだ。 J−STAGEは、次のように自己紹介している。 日本の科学技術研究を国際的なレベルに保ち発展させていくためには、優れた研究開発成果をいち早く世界に向けて発信していくことが重要です。そのためには、学協会が発行している学会誌,論文誌の発行を電子化し、インターネット上で公開していくことが効果的です。 独立行政法人科学技術振興機構 (JST) が構築した「科学技術情報発信・流通総合システム」(J-STAGE) では学協会の情報発信機能を支援するため、電子ジャーナル出版に必要なハードウェア・ソフトウェアを JST 内に用意し、24 時間年中無休で運用をおこないます。学協会はそのハードウェア,ソフトウェアを利用して、現在発行中の学会誌,論文誌を容易に、かつ低コストで電子化できます。電子化した論文はこのシステムにより、世界中どこからでもアクセスできるようになります。
要するに、J−STAGEに参加した科学技術系の学会に限られるとはいえ、ほぼリアルタイムに論文の電子化がされている。しかも学会の「予稿集」まで電子化されている。予稿集は、学会発表の内容を事前に文書化したもので、研究成果を文書化したものとしては最新になる。これより新しいものといえば、研究仲間に送ったメールとか、研究所の上司に提出した経過報告書とか、非公式で不正確なものばかりとなる。 したがって科学技術振興機構は「可能な限り素早いデジタル化」をすでに実行していた。 「すべての学会ではない」という点は残念だが、そこまで強い権限はない方がよいので、各学会にJ−STAGEに参加するよう粘り強く説得し続けるしかないだろう。 思えば、90年代後半には、僕のいた歴史学分野ですら、「論文の電子化とウェブ上での公開」が検討されていた。WWW(=ウェブサイトを見る仕組み)の開放が93年だから、その数年後にはこのWWWを利用して学術情報を共有するアイデアが出されていたことになる。そもそもインターネットが普及したのは1995年。現在ほぼ独占状態のOS「Windows95」の販売がきっかけだ。それまでインターネットはNSFNET(アメリカ科学財団ネットワーク。1985年設立)として学術情報の交換に利用されていたから、ネットの普及とほぼ同時に、日本で「論文の電子化とウェブ上での公開」が検討されるのは当たり前といえば当たり前といえる。 こんな情報を持っておきながら、科学技術情報の発信がされていないと考えるのは、何とも愚かだった。単一の少ない情報をもとに判断を下せば、いかに間違った結論を出してしまうかがよくわかる事例だろう。 みんなもこんな「恥」をかかないように、情報収集を豆にしておきましょう。
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