絶体絶命! 小論文

さあ四月。いよいよ本当のスタート。

【小論文ネタ】科学

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 幽霊は科学的には存在しない。しかし文化的には存在する。

 これは、世界中に河童や吸血鬼が存在するのと同じだ。物理学の対象にならないだけで、歴史学や民俗学の対象には十分になる。よく「幽霊はいない」と言い切って得意げになってる人や、逆に「幽霊はいるんだって。この目で見たんだから」とか「幽霊がいないと証明できない以上、幽霊がいないとは言い切れない」と言って反論する人は、どちらも短絡的だ。前者は、これだけ多数の心霊話が世界中に存在していて(科学精神発祥の地ともいえるイギリスは最も幽霊を好む国の一つ)、かつ、科学中心主義が蔓延する現在になっても心霊話は語られている、という事実を忘れている。また後者は、人間の知覚能力や記憶を素朴に信じすぎているし(「見た」といっても、単に見間違いや記憶違いの可能性の方が断然高い)、立証責任を放棄している(証明をする責任を負うのは、通説を守る側ではなく、通説に反対する側。ちなみに、「○○はいない」という不在証明はほぼ不可能だから、不在証明を求めるのは、かなりの科学音痴だ)。
 
 M・エリアーデやニーチェが指摘しているように、人間は「無知」「理解不能」に恐怖を感じる。だからこそ神話や歴史が生まれる。神話や歴史の機能の一つは、「何が起きたのか」「なぜ起きたのか」に説明を与えることにある。なぜ春に種を撒くと、秋に収穫できるのか。なぜ猪を無駄に取りすぎると、猪は取れなくなるのか。こうした「謎」に答えを与えるのが歴史や神話だ。ここで気づくと思うが、神話も歴史も科学も単なる「説明体系」に過ぎない。「説明する」という機能の点では、この三者に違いはない。ただ科学は、神話や歴史と比較して、あまりにも応用能力が高く、あまりにも正確だ。あらゆる説明体系の中で、科学だけが突出した地位を築き上げているのは、ひとえに科学が優秀だからである。

 それでは、なぜ人は説明を求めるのか。

 それは「今、何が起きているのか」「今、なぜ起きているのか」「これから何が起こるのか」を洞察するためだ。これから何が起こるのかがわかれば、「生存の可能性」が高まる。人間が学習機能を発達させたのはそのためだ。例えば、地震発生のメカニズムがわかれば、やがて地震を誤差数時間以内で予測できるようになり(現在は誤差数十年といったレベルで、「いつかは起きるけど、いつ起こるかはわからない」程度)、発生直前に避難することも可能になる。まさに「生存の可能性が高まった」といえる。我々人間は、技術を使わない限り、食物連鎖の頂点には立てない弱い存在だ。生存のための能力という点では、間違いなく、ゴリラやオランウータンよりも劣るだろう。クマやトラに襲われれば、あっさり食べられてしまう。インパラの方がまだ食べられない可能性がある。だから人間は学習する。問題を解決し、危機を回避する。そうした経験を知識として社会の中に蓄積することで、同じ危機に遭遇したとき、誰でも回避できるようにする。細菌やウイルスからどう身を守るかは本屋で学べる。どう感染の危機を回避すべきかを自分で考案する必要はない。ただ学べばいい。こうした戦略で人間は「ヒト」という種を存続させてきた。

 だから、説明を求めてしまう。「無知」「理解不能」に恐怖する。ある意味で本能的な反応ともいえる。

 幽霊や妖怪は「説明体系」のひとつだ。シャカシャカと小豆を洗うような音が聞こえたとき。親族や知人が亡くなるのと前後してその姿を夢で見たとき。夜中にピシピシと異音が聞こえたとき。こうした不可解さに遭遇したとき、人は説明を求めたくなる。そこで「小豆荒い(妖怪)」とか、「死者が挨拶に来た」とか、「ラップ現象(心霊現象の一つ)」といった説明を用意する。こうした存在が一度誕生してしまえば、「冗長な部分は削除され、印象的な部分は詳細になる」という「流言蜚語」の原則に従って、話はより詳細に、より印象的に改変されていく。

 また人間の記憶は容易に改竄される。

 例えば、「重病の友人が死ぬ直前に彼の夢を見た」の類の話をよく聞くが、三秒くらい考えれば、「夢を見た日や友人が死んだ日をなぜはっきり覚えているのか」「夢の内容をなぜはっきり覚えているのか」「友人の夢を見た日はその日だけだったのか」という疑いを持つはずだ。重病の友人を本気で気にかけていれば、毎日のように彼の夢を見たりするだろう。そんな頃、彼が死んでしまったら、当然、「彼が死ぬ前日に彼の夢を見た」ということになる。毎日見ているのだから、何の不思議もない。しかし、あたかもその日だけ彼の夢を見たように、記憶は改竄されてしまう。

 あるいは、友人が死んだという話を聞けば、そのショックのせいで、その夜、彼の夢を見ることは十分にありえる。友人が死ぬ前日に彼の夢を見た、ではなく、友人が死んだ日に彼の夢を見た、ということだ。ところが、その夢の話をするうち、「印象的な部分は詳細に」の原則に従って、実際は「友人の死→彼の夢」だった時系列を、より劇的な「彼の夢→友人の死」に改竄してしまう。しかも意識的にではなく、無意識的に行ってしまう。これは、「より劇的なもの」「より詳細なもの」がメッセージとして鮮明に伝わる、というコミュニケーションの原則をよく理解しているからだ。避けられない事態である。

 したがって、「幽霊」という文化現象が存在するのは、

 (1) 幽霊で説明した方がわかりやすい現象に遭遇したり、幽霊以外の説明を思いつかない現象に
   遭遇したりすることがある。
 (2) 話を劇的にするため、単なる不思議な話を、劇的な心霊話に仕立てあげてしまう。
 (3) 記憶が改竄され、やがて自分でも心霊話を信じるようになる。

 もちろん「心霊話」という文化がすでに存在しているからこそ、心霊話に飛びついてしまう。リチャード・ドーキンスが「ミーム(=文化を伝える遺伝子)」をウイルスに例えているが、これはかなり秀逸なアイデアだ。ミームを通じて「心霊を信じる文化」に感染しているから、自分も心霊を信じる。不可解な現象を「幽霊」で説明することに何の意味があるかを考える必要がある。

 科学的な説明に基づけば、今後の結果を正確に予見できる。問題も解決できるだろう。しかし「幽霊」で何を予見し、何を解決できるのか。例えば、毎晩、ピシピシという異音に悩まされていた場合、「ああ、ラップ現象だな」と説明し、「霊媒師に除霊させる」という解決策を採るだろう。この問題解決策が有効かどうか考えてみるべきだ。

 もちろん、本人が納得するなら、それで問題はないかもしれない。「科学では説明できません」と言われるよりも、「あなたの先祖がメッセージを発しているのです」と言われた方が幸福な場合もあるだろう。しかし、仮に、ピシピシという異音が天井裏の配線のショート(もちろん火事の原因だ)を伝えていたら、どうだろうか。仮に、抜けきらない体のだるさが糖尿病の発症を伝えていたら、どうだろうか。そんな状況なのに、「地縛霊が悪戯しているだけです」とか「あなたが霊を信じていないから、守護霊の力が弱まっているんです」なんてことを信じて対策を先送りしたら、どうなるか。それでも、「本人が納得するなら、それで問題ない」と放置できるだろうか。

「科学」に対する評価は、たった一点の基準で求められるべきだ。

 科学的説明を信じた場合とその他の説明とを信じた場合、どちらがより便益をもたらすか。「宗教は幸福をもたらす点で科学よりも優れている」という意見をしばしば聞くが、それは本当か。キリスト教が配るパンとワインは実際に空腹を満たすのか。幽霊が現在「文化的に存在する」という事実は間違いないとしても、今後もこの存在を容認し続けるのか。

 さあ、どう考える?



【追加】
 ちなみに、僕は「民俗学」もかなり愛好していて、妖怪や怪談、都市伝説の類は好んで読みます(最近は読めないけど)。ですから、全面的に否定しているわけではありません。「妖怪や幽霊とどういうスタンスで向き合うか」という問いかけです。

 皆さんはどうしますか?
 中ニくらいの話だ。

 僕は小学校の頃、小さなマルチーズ(犬)を室内で買っていた。名前は「ポー」。ずいぶんと仲良しで、散歩に連れて行ったり一緒にご飯を食べたり寒い日には同じ布団で寝たりしていた。

 ところが、小6で引越しするに当たって、ポーを手放すことになった。引越し先では犬を飼えなかったので、知人に託すことになったのだ。もちろん僕は泣いて泣いて泣いて……と言いたいところだけど、なぜかものすごくドライな子どもだったので、あっさりこの別れを受け入れ、その後、ポーを思い起こすこともなかった(自分で言うのもなんだけど、なんて子どもなんだ!)。

 中二の夏、確か夜中だったと思う。

 僕はなんと「九時には寝る」という驚くほど健全な中学生だったので、夜中といっても十時か十一時くらいかもしれない。当時、父親も母親も留守にしがちで(母は入院中だったと思う)、夜中に一人でいることが多かった。その日も、自分の部屋で一人タオルケットに包まって寝ていた。

 カツ、カツ、カツ、という硬い音がして目が覚めた。

 以前、よく耳にした音、ずいぶんと聞きなれた音だった。「ポーの爪が床に当たる音」だった。少なくともそのとき、何の疑念もなくそう確信した。犬は板製の床を歩くとき、爪が床に当たって、カツカツカツという音を立てるものだ。

 その音が台所の当たりからする。「あれ、お父さんがポーを引き取ったのかな」と普通に考えていた。でも目を開けると、家の中は真っ暗だった。当時、僕は3LDKの団地暮らし。自分の部屋を持っていたものの、ふすまは閉めず、戸にはただすだれをかけてあるだけだった(もちろん暑いからだ)。誰か帰ってきて電気を灯せば、確実にその明かりは目に入るはず。

 カツ、カツ、カツ、という音は台所から、カツカツカツとスピードを上げながら、僕の部屋に近づいてくる。そしてすだれの前でピタッと止まった。僕は、昔のようにポーと一緒に寝ようと普通に考えて、すだれを上げようとしたが、そこで気づいた。

「あれ、おかしい」

 誰も帰ってきてないから、父がポーを引き取ってきた可能性はない。そもそも、そんな計画は聞いていない。突然、連れ帰ったりはしないだろう。しかもここはペット禁止の団地だ。……そんな理路整然と考えたわけではないが、何かが「おかしい」という確信だけはあった。

 すだれの向こうに気配はある。カツ、カツ、と足を踏み鳴らす音はする。でも、僕はそのすだれを上げる勇気がなく、そのまま気づかないふりをしてタオルケットに包まって眠った。




 小学校時代の親友から、「ポーが死んだ」という連絡を受けたのは、その翌日の夕方だった。


 さて、これはまぎれもなく実話で、あったことをほとんど脚色なく語ったものだ。何人かの生徒に披露したこともある。簡単に表現すれば、「心霊話」といえる。「きっとポーは僕に最後の挨拶をしに来たのだろう」なんて付け加えれば、ペットと元飼い主との絆に関するハートウォーミングな物語になりかねない。

 ここで誤解を避けるために明言しておくが、幽霊は存在しない。幽霊の存在を実証するには、実験で幽霊の発生を再現するか、幽霊のサンプルを採集するか、どちらかが必要だ。しかしそのどちらもまだ実現していない。またこれから先も実現する可能性は無に等しいだろう。写真やビデオに写っている程度ではもちろん証拠にならない。「点が二つ並べば、それを人間の顔として認識してしまう」くらい人間の脳の情報補正能力は優秀だという事実を忘れてはならない。ただのノイズでもじっと聞いていれば、必ず人の声を聞き取れてしまう。これは、あるメッセージと類似するノイズの塊が耳に入った段階で、脳が補正してはっきりしたメッセージに変えてしまうからだ。「あいあおう」という発音でも「ありがとう」と聞こえたり、「シズキです」と何度発音しても「はい、わかりました。それで、スズキさん」といわれてしまうのは同じ原理だ。

 それでは、「幽霊は存在しない」という科学的な真理と僕の体験とは矛盾することになる。

 こうした矛盾したもの(法則と法則とか、理論と実際とか)を両方とも、何の問題もなく受け入れて、平気な顔をしている人もいるが、もちろんそれでは愚か者とされてしまう。「健康が一番大事だ」といいながら、粉塵だらけの国道沿いをジョギングする人とか(ジョギングしない方がまし)、「動物実験反対!」といいながら、医薬品を口にする人とか(医薬品のほとんどが動物実験の成果だ)、「環境問題もっと考えよう」といいながら、今日もパソコンを立ち上げて執筆活動をする人とか(人間主義に基づいている人は別。環境保護原理主義者はさっさと山に入って狩猟採集生活に戻るべき)、「原発反対!」といいながら、電気を普通に使っている人とか(日本の電気の三割は原子力。「グリーン電力証書」を買えば、自分が使用する分の電力を風力に置き換えられる。そうした努力もせずに原発反対を唱えるのは論外。知らないのはもっと論外)。

 幽霊は存在しないはず。しかし心霊話がこれだけ氾濫しているのはなぜだろう。

 そう考えなくてはならない。「幽霊はいるかも」でも、「幽霊を信じている連中は、全員、知的に何か欠陥を抱えているだけ」でも、どちらも短絡的すぎる判断だ。幽霊はいないし、でも幽霊を見る人たち、幽霊を語る人たちは確固として存在する。先にわざわざ書いて見せたように、僕もそのうちの一人だ。なぜ、こんな矛盾したことが起きているのか。幽霊がいないなら、幽霊を見る人・語る人は原則として存在しないはずだし、幽霊を見る人・語る人がいる以上、全員が嘘つきでないなら、幽霊はいることになる。

 この矛盾を「矛盾ではない」と説明する作業を「整合性を取る」という。論理的に成り立たない場合は、すべて「論理的な整合性が取れていない」と表現する。「痩せればモテる」という論理の場合、「痩せてもモテない人の存在」が矛盾となる。例えば、末期ガンの患者とか、覚せい剤中毒者とか、あるいは、こち亀の両さんではないが、「ブスが痩せても、痩せたブス」というケースもある(これは男女ともに適用できる。僕は体重が増えても減っても、どっちにしろモテなかった。なお体脂肪率1桁まで痩せたから、痩せ方が足りなかったのでは、という反論は却下します)。いずれにせよ、この矛盾を解くのは簡単だろう。「痩身」はほとんどの文化圏で「美しさ」の要素として認識されているが、あくまで一要素に過ぎないのであって、痩身ならそれだけで美しいというわけではない。痩身に加えて、健康な肌とか、目・耳・鼻のバランスとか、整った体型とか、さまざまな要素が加わって美しいかどうか決まる。美しさだけでも、これだけ複雑だ。ましてモテ=「魅力」となれば、外見的な美しさに加えて、話し方、目の使い方、臭い、装身具、人格、社会的地位、趣味・趣向など、さらに複雑な要素が絡んでくる。この段階で「痩せればモテる」という素朴すぎる論理が、いかに当てにならないかわかるだろう。

 というわけで、「幽霊は存在しない」という科学的真理と、それでも「幽霊を見る人・語る人がいる」という事実との矛盾を解いてみよう。両者が成立する意見を考え付けば、それで「整合性が取れた」ことになる。

 さあ、どう考える?

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