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幽霊は科学的には存在しない。しかし文化的には存在する。 これは、世界中に河童や吸血鬼が存在するのと同じだ。物理学の対象にならないだけで、歴史学や民俗学の対象には十分になる。よく「幽霊はいない」と言い切って得意げになってる人や、逆に「幽霊はいるんだって。この目で見たんだから」とか「幽霊がいないと証明できない以上、幽霊がいないとは言い切れない」と言って反論する人は、どちらも短絡的だ。前者は、これだけ多数の心霊話が世界中に存在していて(科学精神発祥の地ともいえるイギリスは最も幽霊を好む国の一つ)、かつ、科学中心主義が蔓延する現在になっても心霊話は語られている、という事実を忘れている。また後者は、人間の知覚能力や記憶を素朴に信じすぎているし(「見た」といっても、単に見間違いや記憶違いの可能性の方が断然高い)、立証責任を放棄している(証明をする責任を負うのは、通説を守る側ではなく、通説に反対する側。ちなみに、「○○はいない」という不在証明はほぼ不可能だから、不在証明を求めるのは、かなりの科学音痴だ)。 M・エリアーデやニーチェが指摘しているように、人間は「無知」「理解不能」に恐怖を感じる。だからこそ神話や歴史が生まれる。神話や歴史の機能の一つは、「何が起きたのか」「なぜ起きたのか」に説明を与えることにある。なぜ春に種を撒くと、秋に収穫できるのか。なぜ猪を無駄に取りすぎると、猪は取れなくなるのか。こうした「謎」に答えを与えるのが歴史や神話だ。ここで気づくと思うが、神話も歴史も科学も単なる「説明体系」に過ぎない。「説明する」という機能の点では、この三者に違いはない。ただ科学は、神話や歴史と比較して、あまりにも応用能力が高く、あまりにも正確だ。あらゆる説明体系の中で、科学だけが突出した地位を築き上げているのは、ひとえに科学が優秀だからである。 それでは、なぜ人は説明を求めるのか。 それは「今、何が起きているのか」「今、なぜ起きているのか」「これから何が起こるのか」を洞察するためだ。これから何が起こるのかがわかれば、「生存の可能性」が高まる。人間が学習機能を発達させたのはそのためだ。例えば、地震発生のメカニズムがわかれば、やがて地震を誤差数時間以内で予測できるようになり(現在は誤差数十年といったレベルで、「いつかは起きるけど、いつ起こるかはわからない」程度)、発生直前に避難することも可能になる。まさに「生存の可能性が高まった」といえる。我々人間は、技術を使わない限り、食物連鎖の頂点には立てない弱い存在だ。生存のための能力という点では、間違いなく、ゴリラやオランウータンよりも劣るだろう。クマやトラに襲われれば、あっさり食べられてしまう。インパラの方がまだ食べられない可能性がある。だから人間は学習する。問題を解決し、危機を回避する。そうした経験を知識として社会の中に蓄積することで、同じ危機に遭遇したとき、誰でも回避できるようにする。細菌やウイルスからどう身を守るかは本屋で学べる。どう感染の危機を回避すべきかを自分で考案する必要はない。ただ学べばいい。こうした戦略で人間は「ヒト」という種を存続させてきた。 だから、説明を求めてしまう。「無知」「理解不能」に恐怖する。ある意味で本能的な反応ともいえる。 幽霊や妖怪は「説明体系」のひとつだ。シャカシャカと小豆を洗うような音が聞こえたとき。親族や知人が亡くなるのと前後してその姿を夢で見たとき。夜中にピシピシと異音が聞こえたとき。こうした不可解さに遭遇したとき、人は説明を求めたくなる。そこで「小豆荒い(妖怪)」とか、「死者が挨拶に来た」とか、「ラップ現象(心霊現象の一つ)」といった説明を用意する。こうした存在が一度誕生してしまえば、「冗長な部分は削除され、印象的な部分は詳細になる」という「流言蜚語」の原則に従って、話はより詳細に、より印象的に改変されていく。 また人間の記憶は容易に改竄される。 例えば、「重病の友人が死ぬ直前に彼の夢を見た」の類の話をよく聞くが、三秒くらい考えれば、「夢を見た日や友人が死んだ日をなぜはっきり覚えているのか」「夢の内容をなぜはっきり覚えているのか」「友人の夢を見た日はその日だけだったのか」という疑いを持つはずだ。重病の友人を本気で気にかけていれば、毎日のように彼の夢を見たりするだろう。そんな頃、彼が死んでしまったら、当然、「彼が死ぬ前日に彼の夢を見た」ということになる。毎日見ているのだから、何の不思議もない。しかし、あたかもその日だけ彼の夢を見たように、記憶は改竄されてしまう。 あるいは、友人が死んだという話を聞けば、そのショックのせいで、その夜、彼の夢を見ることは十分にありえる。友人が死ぬ前日に彼の夢を見た、ではなく、友人が死んだ日に彼の夢を見た、ということだ。ところが、その夢の話をするうち、「印象的な部分は詳細に」の原則に従って、実際は「友人の死→彼の夢」だった時系列を、より劇的な「彼の夢→友人の死」に改竄してしまう。しかも意識的にではなく、無意識的に行ってしまう。これは、「より劇的なもの」「より詳細なもの」がメッセージとして鮮明に伝わる、というコミュニケーションの原則をよく理解しているからだ。避けられない事態である。 したがって、「幽霊」という文化現象が存在するのは、 (1) 幽霊で説明した方がわかりやすい現象に遭遇したり、幽霊以外の説明を思いつかない現象に 遭遇したりすることがある。 (2) 話を劇的にするため、単なる不思議な話を、劇的な心霊話に仕立てあげてしまう。 (3) 記憶が改竄され、やがて自分でも心霊話を信じるようになる。 もちろん「心霊話」という文化がすでに存在しているからこそ、心霊話に飛びついてしまう。リチャード・ドーキンスが「ミーム(=文化を伝える遺伝子)」をウイルスに例えているが、これはかなり秀逸なアイデアだ。ミームを通じて「心霊を信じる文化」に感染しているから、自分も心霊を信じる。不可解な現象を「幽霊」で説明することに何の意味があるかを考える必要がある。 科学的な説明に基づけば、今後の結果を正確に予見できる。問題も解決できるだろう。しかし「幽霊」で何を予見し、何を解決できるのか。例えば、毎晩、ピシピシという異音に悩まされていた場合、「ああ、ラップ現象だな」と説明し、「霊媒師に除霊させる」という解決策を採るだろう。この問題解決策が有効かどうか考えてみるべきだ。 もちろん、本人が納得するなら、それで問題はないかもしれない。「科学では説明できません」と言われるよりも、「あなたの先祖がメッセージを発しているのです」と言われた方が幸福な場合もあるだろう。しかし、仮に、ピシピシという異音が天井裏の配線のショート(もちろん火事の原因だ)を伝えていたら、どうだろうか。仮に、抜けきらない体のだるさが糖尿病の発症を伝えていたら、どうだろうか。そんな状況なのに、「地縛霊が悪戯しているだけです」とか「あなたが霊を信じていないから、守護霊の力が弱まっているんです」なんてことを信じて対策を先送りしたら、どうなるか。それでも、「本人が納得するなら、それで問題ない」と放置できるだろうか。 「科学」に対する評価は、たった一点の基準で求められるべきだ。 科学的説明を信じた場合とその他の説明とを信じた場合、どちらがより便益をもたらすか。「宗教は幸福をもたらす点で科学よりも優れている」という意見をしばしば聞くが、それは本当か。キリスト教が配るパンとワインは実際に空腹を満たすのか。幽霊が現在「文化的に存在する」という事実は間違いないとしても、今後もこの存在を容認し続けるのか。 さあ、どう考える? 【追加】 ちなみに、僕は「民俗学」もかなり愛好していて、妖怪や怪談、都市伝説の類は好んで読みます(最近は読めないけど)。ですから、全面的に否定しているわけではありません。「妖怪や幽霊とどういうスタンスで向き合うか」という問いかけです。 皆さんはどうしますか?
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