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見本とまで呼べるかどうかわからないけど、「優れているな」と思ったのが、これ。 新幹線の男性用トイレ。 小便器が新幹線の側面、内側(=通路側)に向かって備え付けられている(したがって新幹線の外側に向かって放水することになる。念のため)。これが進行方向に向かっていたり、その逆だったりしたら、悪いデザインの見本になるところだった。 新幹線は走行中少々横揺れする。放水中は外側に向かって立っているから、前後に揺れることになる。当然、便器に衝突する……と思いきや、そうでもない。新幹線の揺れはそこまで激しくない。前のめりになって「小便器に衝突するかな」というあたりで、また後ろに引き戻される。今度は「背後の扉に衝突するかな」と思う間もなく、また前に引き戻される。絶妙なバランスを取っている感じだ。おかげで小便器に腹を突っ込んだり扉に後頭部をぶつけたりせずに済む(放水中にそんな事故が起きたら、それだけでは済まない。大惨事だ)。 仮にこの便器が進行方向側の壁に備え付けられていたとしよう。走行中は横揺れするから、放水の方向も右へ左へ振られることになる。リアルに想像して欲しいが、バランスを取ろうとして回転運動した場合、射出口付近では大した動きでなくとも、十数センチ先ではなかなかの変動幅になる。当然、壁に衝突してその「おつり」が返ってくる事故が多発していたはずだ(ちょっと大げさだけど)。そのうえ、上り大宮駅到着の五分前とか、下り仙台駅到着の七分前とかには急減速がある。このとき慣性の法則(=止まろうとする新幹線。進もうとする体)はトイレ・ユーザーにも例外なく働くから(特別扱いは受けられない!)、衝突事故のリスクがぐっと高まってしまう。こうしたリスク(おつりリスクと衝突リスク)を現在のトイレは回避しているのだ。 新幹線の男性用トイレの優秀さはそれだけではない。 写真を見て欲しいが、これは通路から撮影したものだ。そう。内部が丸見えである。しかも下半身がちょうど見えるように開口部が設定されている。これでは、何かの拍子で「実は大したものじゃあない」とか「予想以上……へえ、意外だ」なんてことを暴露してしまうかもしれない! ――なんて一瞬思ったりするが、その恐れは不要である。実際に使っている人を見ればわかるが、ユーザーの臀部によって見事に秘部は隠蔽される。大切な秘密を知られる心配はない。知られるのは誰かが使っているかどうかという情報だけだ。個人識別に大切な働きをする顔付近は隠れているので、誰が使っているかすらわからない。とにかく誰かが使っているかどうかだけがわかる。このおかげで、いちいちノックしては「入ってます」と不機嫌な声を聞いたり、扉を開けてしまって「あ……」なんて言ったりする心配はない。 新幹線の男性用トイレは、デザイン的に優れているのだ。 なおトイレを携帯電話で撮影したところ、デッキに溢れていた乗客から不振な目を向けられたことは言うまでもない(撮影はゴールデンウィーク中だった)。
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【小論文ネタ】デザイン
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デザインでは、ユーザーの視野を考えなくてはならない。 人間は何らかの問題――例えば、瓶ビールの栓を抜きたいとか、炭に火をつけたいとか――を解決しようとするとき、まず視野の中にあるものを利用しようとする。なければ、周囲を見渡して使えそうなものを探索する。例えば、冬の山小屋で壁に穴を見つけた場合、そのままでは隙間風に悩まされることになる。最悪の場合は死んでしまう。穴をふさぐための何かを探索しなければならない。ビニールテープがすぐそばにあれば、それを利用するだろうし、新聞を手にしていたなら、それを丸めて詰めるかもしれない。手近なところにそうしたものがなければ、ナップザックをひっくり返し、山小屋のあらゆるところを探って、とにかく穴をふさごうとする。食べ残しのおにぎりを詰めたり、替えの下着を詰めたり。隙間風から自分を守るために、人はあらゆることをするだろう。 それでは、それほど切迫していない状況なら、どうだろうか。例えば、ちょっと明かりが暗いとか、即席麺を食べたいのにフォークしかないとか、少し座って足を休めたいとか。手近なところに問題解決の手段があれば、ただちにそれを利用する。電気スタンドのスイッチを入れたり、フォークをそのまま使ったり、ガードレールや手すりに腰掛けたり。でも、そうした手段がなければ、諦めてしまうのではないだろうか。 写真は宮床ダムのトイレのもの。 便器の前に立って用を足し、いざ水を流そうとしたところ、視野の中に水を流すスイッチやレバーがない。目の前には「必ず水を流してください」という注意書きがあるにも関わらずだ。僕の直前にその便器を利用した人は水を流さず便器を後にした。恐らく自動で水が流れる形式(学校でよく見るあれだ)と思い込んだのだろう。僕は注意書きに気づいたから探索範囲を広げ、少し離れたところに怪しげなボタンがあることに気づいた(一枚目の写真の右端のがそうだ)。 トイレの水を流すかどうかは問題としては非常に軽い。切迫性がない。流す手段が見つからないなら、そのまま流さずすませてしまう。仮に水洗装置に欠陥があって流せない場合、わざわざ外部の蛇口から水を汲んで流す律儀な人は間違いなくいないだろう。 こうした問題の場合、ユーザーにいかに負担をかけないかがデザインの最重要課題となる。何の苦労もなく自然に水洗ボタンを押せるか、あるいは、押さなくても勝手に流れる仕組みにしなければ、人は水を流したりはしない。便器は汚れる一方だ。それが嫌なら、優れたデザインを考案しなければならない。そう考えてから街のトイレを思い出してみれば、自動で水が流れる場合がほとんどなのに気づくだろう。あれは決して僕らのための仕組みではない。管理者のための仕組みだ。トイレ掃除の回数を減らすために、わざわざ設備投資をし、電気代を払って、赤外線センサーを働かせているのだ。 ちなみに、二枚目の写真は手洗い場のもの。蛇口のハンドルが撤去されており、ひねって水を流すことは不可能。右上の少しはなれたところにボタンはあるが、「水洗ボタン」という表示がある。しかも押しても出てこない。ここで何が起きるかは容易に予想できるだろう。ユーザーが手を洗うかどうかは、そのユーザーが用を足したあとに手を洗うことにどれだけ切迫性を感じるかにかかっている。僕は意外にこうしたところでは神経質なので、身障者用トイレの蛇口を利用して手を洗ったが、そうでもない人は……。 というわけで、悪いデザインの見本のようなトイレだった。このデザインのせいで、便器は汚れる一方。そして間違いなく、用を足したのに手も洗わない人を量産しているはずだ。芝生が広がる公園で、昼時にはそこかしこで弁当を広げる家族の姿が見える。おにぎりやサンドイッチをほおばる姿が。そうした家族のお父さんやお兄ちゃんのうちの何割がトイレに行って……なんてことを考えるのはやめておこう。
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