|
わたしはなるべくホラー映画を観るようにしている。
「観るようにしている」とは奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、わたしはそれだけホラー映画を「ためになるもの」と思うから観るようにしているのだ。
さて一般的にホラー映画は「俗悪」の代名詞である。PTAや圧力団体の槍玉に挙げられるのはいつもホラー映 画である。しかしPTAはまだまだ解かっていない。ホラー映画の恐るべき本質を。
さて原始時代、人間にはすべてが恐怖であった。道でばったり猛獣と出会ったら喰い殺される運命であったろう。 また病気になることは死を意味していたに違いない。そして夜の闇の深さ、その暗闇に人間は心底からこの世界全体に対する恐怖を味わったに違いない。
しかし猛獣が動物園に隔離され、ガン以外の病気がほとんど治療可能になり、夜の暗闇も街灯でどこかに追放さ れてしまった現在、人間が自然に対して恐怖を抱くことは難しくなっている。そこで出てくるのがこのような言葉だ。
「人間が一番怖い」
もちろん犯罪や闇金融やヤクザや通り魔は怖い。しかしそのような恐怖が一番怖いと言い切ることはわたしには 人間の傲慢に聞こえる。人間の歴史など宇宙の歴史からみれば1兆分の1もないのだ。その人間が人間が一番こわいと言い切るとは。
「恐怖からの脱走としての人間史」
この主題は一部で有名な本である遠丸立『恐怖孝』(仮面社)のテーマであるが人間というものは恐怖と共に産まれ、恐 怖と共に成長してきたという遠丸氏の意見にわたしは賛成である。わたし自身、トビー・フーパーの衝撃的デビ ュー作『悪魔のいけにえ』でチェインソーを振り回して追いかけてくるレザーフェイスと顔を涙でくしゃくしゃ にさせて逃げ惑う若い女性の姿に深層的な人間の姿も視る気持ちがする。もっともこれはクラスのいじめられっ子でいつもクラスメートの「どぎついほどいやらしい悪意」にさらされてきたわたし自身の経験が大きく影響しているのかもしれぬ。
ホラー映画を観ることは人間の深層意識に眠るスーパーナチュラルなものへの「畏敬」を呼び戻す神聖な行為であるとわたしはつくづく思っている。もちろん多くのホラーファンはそこまで至らないだろう。単なる「恐怖」を娯楽として消費する、そのようなホラーファンが最近多い気がする。特に人間が殺されシーンをげらげら笑いながら観る自称「ホラーファン」。彼らはなぜ自分の 同朋が痛みを感じ、血を流し、無残に屠られてゆく姿を笑えるのであろうか?そのようなシーンはむしろ沈痛に 悲しみながら、心を痛めながら観るものではないのか?
無論、「恐怖」を「畏敬」まで昇華させるにはそれなりの修練がいる。これからホラー映画をじっくり観てみようと思う諸君がいたら、ホラー映画の真に意味する深い部分まで喰いこんで観ることのできる、そんな本物のホラーファンになってほしい。
|