先日のブログ「今日は穏やかな日でした」で、
尺八演奏者は、「○山」と、名前に「山」がついているが何故か?
という質問がありました。
普化宗の虚無僧が、お経の代わりに 尺八を吹いて 全国を行脚したと言われています。それから、明治時代に、中尾都山という方が、都山流を作りました。 それから 都山流の尺八奏者は、準師範は、直属の師匠の一字と自分の一字をつけ、師範で 自分の一字と「山」をつけるようです。琴古流は違うようです。
それに対して、尺八奏者の方から、詳しい説明をしていただきました。
ご紹介します。
尺八には、琴古流 と 都山流があります。
尺八は中国から伝わって、江戸時代の元・武士で、黒沢琴古という人が、禅寺でお坊さんが修行の一環として吹いていた曲(全国のお寺にそれぞれの曲があった)を、収集して、手法や音楽性を高めて制定したのが、「琴古流本曲」です。 ここから楽器として、音楽としての尺八がスタートしました。
これが琴古流です。
大正時代に大阪の中尾都山師が楽器や楽譜を近代的なものにして、大衆に親しみやすいものにして興したのが「都山流」です。都山流は師範名に「山」が付くのが一般的です。
なお、中尾都山師は、宮城道雄師、琴古流尺八の吉田晴風師らとともに「新日本音楽運動」の旗手として、華々しく活躍されました。
「譜化宗」とは?・・・元々、禅の一派で、江戸時代中期に江戸幕府と結びついて、幕府は譜化宗に虚無僧の姿をさせて全国の情報を探らせた、つまりスパイとして活用して、譜化宗を手厚く保護して、尺八は「法器」と称して、一般の人たちの吹奏を禁じたのです。尺八の音楽史の流れから言えば、この時期は尺八音楽の停滞期といえます。
もちろん、当時の虚無僧すべてが、幕府の隠密であったわけではありません。門付けをしながら全国を廻り、禅の修業や尺八の奥義を極めようとしていた、いわばまともな虚無僧さんたちもいたのだと思います。 幕府は全国どこに居ても怪しまれない、虚無僧スタイルを隠密にしたということが言えます。 明治新政府になって、譜化宗も尺八も禁止になるところを、尺八演奏の有識者が新政府に願い出て、ようやく一般の人たちにも尺八が解放されました。この時の有識者の行動が無かったら、いま私たちが尺八という楽器を手にすることも、その音色を聴くこともできなかったのです。 また、譜化宗の中でも、比較的に吹奏活動を行っていた人たちが中心になって楽器としての尺八の継続を願い出たのでしょう。そういう有識者によって、尺八の命が救われたのです。
この時に尺八が一般に解禁されたことにより、三絃・箏(琴)・尺八で合奏する、「三曲合奏」という合奏形態が、その後、大いに流行することになるのです。
尺八の歴史を含めて尺八の事や、日本の音階のことなどを詳しくお知りになりたい方は、拙著の「尺八を覗くと邦楽が見える」をご覧ください。 このテキストの詳しい内容は、田端能明氏のホームページに掲載されているそうです。
ご本人の許可を頂いて ブログにて紹介させていただきました。
ありがとうございました。
ところで・・・・・
三曲合奏とは、曲を三曲合奏しますと言う事ではありません。
三曲合奏というのは、箏・三絃(地歌三味線)・胡弓(または尺八)の三つの楽器で合奏することを言います。 尺八が解禁されるまでは、胡弓を含む三つの楽器でした。
現在では、尺八との合奏が 一般的です。
ところで その2
尺八の長さ、一尺八寸の中二つの漢字をとって 「尺八」と名付けられたそうです。
ところで その3
尺八は、真竹という「たけ」で出来ています。
尺八の値段は?と聞くと
「たけい」です。
ちなみに、箏は 桐(きり)という木で出来ていますが、
値段には、きりがないと 言うことで・・・
失礼しました。おあとがよろしいようで。
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