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敬愛するI学兄のブログで、「難解風用語」を巡って議論が進み、それが特に「団塊〜ポスト団塊世代」の頭のワルサの標識ではないか、とM親方に出され、M親方がその問い掛けに賛同して「難解風語法の有効性」をおちょくっていた。
しかしその議論の流れ、(大人の背景事情には共感できる面があっても♪)、「誠実な応答!」としては同意するわけにもいかず、コメント用意したら例によってw長くなりすぎ、別のブログ村の日記としたのをここでも再録。久しぶりの日記としてはあまり面白い話ではないのだけど、若い人たちからもこの手の話題は昔も今もよくふっかけられるので、載せてみます。
★1:「難解風用語」を巡って。
上記の文脈では、そうした「難解風語法」がもはや無用の長物ではないか、と議論が進んでいた(また業界系専門家や若いアーティストたちなどからもそうした話はよく聞くのだけれど)。
しかしまず、そこで難じられている背景の有象無象(あそこらへんの評論家や学芸員や美術家たちねw)に関する限りでは(あくまでその限りでは)、
評論家や大学教員や学芸員や美術家などとして安定職を得ている者にとっては、
正に「それ」が「職の糧」となり、ゆえに「腹が膨れ」、「正しさを誇るお道具」で、そのようにして「有効」で、「彼や彼女から見た馬鹿」にとっては「無用の落書き」だし、そうした俗衆こそ「その狭い世間知」を啓蒙してやるべき「お客」でしかないことでしょう。それが、「難解風」なだけで、論理的には無茶だったり苦茶だったりするとしても。
そうした言葉が「難解きどり」に見えるとしたら、いきなりそれが「もはや無効だ」とは言えないけれど、そうした「見え方」には、「世代間差異」がいくらか働いている可能性もあるでしょうね。そこに違和を感じるなら、それが「世代的ジャーゴン(流行語法)」の違いによるという面がある。団塊世代の少し後までは(ましてインテリ層には)マルクス主義の最後の灯火が残っていたようだし、吉本や廣松らの難解な語法が「かっこよい」ものでもあったことは内田樹なんかも書いていた。その周辺で現象学の流行などもあったし、非政治的な人文的語法にも伝統的な教養主義の感性は残っていた。
そしてその後からI学兄あたりの世代までは、ポスト・マルクス主義、構造主義からポスト構造主義の語法が物心付いたころにその魅力を放っていただろうし、さらにその後の世代の「インテリ層」では、そうした語法も一般教養レベルのスタンダードになっている。けれども、時代のグランド様式は出にくくなっている(これもポストモダン風俗現象でしょう)。
で、有象無象の文章でも(むしろそこでこそ)、その時代に魅力を放ったスタイルが共有されてしまいがちなわけで、そのようにして、文章上の時代様式というのは見て取られうるでしょう。
しかしM親方の示唆する「有効性」といった問題は、「難解さ」とは無関係とは言わずとも「別問題」でしょう。今日、様々な文化的環境が、縦方向にも横方向にも細分化されている、そして同時に他方、世俗的にグローバルな文化環境は、絶対的情報量の絶対的な増大にもかかわらず、むしろそれゆえに、均質化している。その均質な大衆文化環境は、そのメインストリームが市場原理(その文化的現象としてのモデルチェンジ・流行原理)によって駆動されている限り、「難解な思考や語法をある段階で不可避とする時間を要する文化」を「無用の長物・有効ではないモノゴト」とする、ということはあるかもしれない。
しかし、そうした風潮に追従する必要もない(抗う客観的根拠もありませんが)ワケで、「一般的」に「有効/無効」などを言い立てるのは、結果的に単に時代の風潮を追従するだけに終わりかねません。
★2:「難解風」とは異なる、いやおうなく「難解」となることについて
ところで他方、事柄についての知を、どこまでも探求しようとすると、常識や世間知で通用する言葉遣いや思考法を、どこかで超えていくことになりがちでしょう(芸術的表現なども同じ)。で、結果的に(「難解風」ではなく)いやおうなく難解な語りや表現に進まざるを得ないこともあるでしょう。
そしてもちろん、そうしたコト自体については、他者がアレコレ文句つけるすじあいのものではありませんよね。それは、学の言葉に限らず、絵画や彫刻やその他のどんな表現行為にも当てはまる。
そしてまた、難解な思考や作業に踏み込むと、そこでしか感じられないお楽しみ(enjoyment)が出てくる。そうしたお楽しみは、敬愛する方々も知ってしまって患っている病の元、でもある。I学兄の文章もM親方やM僧正らのアートもG学姉の文章なども大層ネジくれてらっしゃるしね。
というわけで、あたりまえのことだけれど、不可避な難解さと、阿呆ゆえの難解さや営業用難解さとの差異は、世代の問題には還元できない。ジジでもババでも若者でもアホとそうでない者がいるだろうし、ぴちぴちギャルでも死にぞこないでも素晴らしい慧眼を示してくれる者もいるし、一人の研究者や作家の内にだってアホの契機も天才の契機もあることでしょう。
そこを混同すると、それこそただの阿呆に同化してしまうので、特に世代論や職種論のようなお話では気をつける必要があるでしょう。「世代的スタイル」は抽象できるだろうけれど、それを一般的にバカかリコウかと決め付けることはできないですね。どの世代にも、尊敬できるヤツはいるし、困ったお方は無数にいらっしゃるだろうし。
そしてボク個人の趣味、としては、どんなジャンルであれ、興味をひくものは、必ずどこかで難解なところを含んでいるし、それこそが一層の関心を喚び起こしてくれがちです。具体的には、もちろんその「難解さ」の内容が問題となってくるし、また「難解さ」は、あくまでenjoymentの媒介であるとしても。
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う〜ん。最近やった美術館関係のお仕事で思ったんだけど、人々は一般に難解を求めてないよね。
M美術館の学芸員さんが、吉本(興行のほうね)が美術館やったら面白いかもしれないけど面白いだけじゃね、と言ってたけど、文化レベルでいうと、M美術館も吉本もそんなに変わらないようにワタシの目からは見えるんだ。
さっきのHさんのキュレーションも、面白いもの見つけてくるのが上手だなあとは思うし、文化っぽい雰囲気も確かにあるよねとは思う。だから人気なんだろうし、理論的なレベルにはまったく関わってこないところも、かえって一般観衆には親しみやすいところなんだろーな、という気がする。
泣くために小説読むとか映画見るとかいうのと同じレベルで、なんか珍しいもの見るために美術を見るというのが一般観衆の意識なんだろーな。それって、笑うために吉本見るっていうのとかなり近いものがあるよーな…。つまりHさんは敏腕プロデューサーなんだね=^ω^=
2007/12/19(水) 午前 2:48
でもワタシに関して言えば、泣き小説読むのは泣くためじゃなくて、お話の構成の技を見たいワケだし、美術とかも細かい技法はわからなくても、ある種の印象を生み出す技術、いろんな意味での技術が気になって見てるワケだ。それは、つまんないテレビドラマとか見てるときもそうなんだよ。
やっぱり自分で何かを作りたい人と、見て消費して楽しみたいだけの人とでは違うのかもしれないね。
よくわかんないけど、このお話とはあんまり関係なかったカナ=^ω^=
2007/12/19(水) 午前 2:50
>珍しいもの見るために美術を見るというのが一般観衆の意識なんだろーな。
そして、それを「麗しい(雰囲気の)言葉」でレッテル貼ってあげるのが、センモンカの役割、なんだろうね。
イデエさんが、H女史の「啓蒙的」な美辞を、ブットバシてやりてえ、みたいに言ってたんだけど、パンピーとセンモンカの言葉が作るそうした「再帰的」な「お文化空間」自体というより、その「文化ブリ」のウットオシサというのは、十分、共感できる。吉本的ならそれとして認めるならともかく、それ以上の「文化」だと思い込んで、それを否定することは「反道徳的」であるような「信仰」があるってことでしょうね。
2007/12/19(水) 午前 3:09
Hさん、啓蒙的な美辞なんて言ってたっけ?
すごく素朴に、いいもの見せてあげたいと言ってたようにしかワタシには聞こえなかった。
啓蒙とかできるレベルの人だという印象がないせいかな。
むしろ率直でいい態度だと思ってしまったよ=^ω^=
2007/12/19(水) 午前 3:20
アートは「人の心を未知の世界へと開かせ…気付きを与える」とか、「自分の置かれた状況に不満を漏らす事なく、今いる場所をユートピアに変える事だ」……とか聞いて、
「ハイジャックされた旅客機がカミカゼ・アタックをカマす所を心楽しく想像した。」のだそうだ(^^;
問題は、その発言自体というより、
それを支えている「美学」と「倫理」の内実に対する素朴さ……現代美術というカテゴリに嵌るモノであれば、それはアプリオリに上級の良いモノだ、という信仰……、そしてそれを支える権威の政治力が及ぼす問題の方なんだろうなぁ。
現代美術は、趣味や美学の多様性や多元文化性を謳いながら、その実、業界の流行(自然発生的な傾向性)に動かされているわけで、
イデエさんやムラリさんのように業界内部にいる者にとっては、
業界中枢が、知的な見かけを装いながら、その実、知的に閉鎖的で政治権力を発揮するというのは、放ってもおけない気分にはなるでしょう。
2007/12/19(水) 午前 3:37
なるほろ。そーゆーのが啓蒙なのか。
ワタシはああゆう女のヒトを見てると、理論的にムツカシイこと考える余地がない分、迷いなく、面白いものは面白い、コイツは売れる、的な目端が利くので、ああゆう仕事に向いてるんだろーなーと思う。
いわゆるジャンルの違うヒトだよね。
でも、そーゆーヒトとくくり上同じジャンルで仕事しなくちゃならないオジサンたちが非常に困ってしまうのは、とても理解できるよ。
どこの世界でも、ムツカシイこと考えないオバサンのパワーとゆうのはスゴイし、はたが困ることもままある。
でも大衆は、そーゆーパワフルなオバサンの提供するものに満足してるみたいだから、オジサンを含めたインテリの憂鬱は行き場がないよね=^ω^=
2007/12/19(水) 午前 3:57
>いわゆるジャンルの違うヒト
そうだねぇ。
そしてそこから考えると、
「現代美術」というのが一つのジャンルとされていることこそが、
混乱の元凶なんじゃないかなあ、と思えてくる。
一方で、前衛美術が、多様な表現の可能性を開いたことは、それはそれで意義があっただろうけれど、
その制度侵犯的な役割は終わってしまった(何しろ、制度と市場の側が、その「侵犯的機能」を公認したり、原動力としたりするようになってしまったのだから)。
他方、前衛の歴史で、絵画や彫刻とかのゲーム規則が霧散しちゃったけど、
それは絵画や彫刻の意義がなくなったということではない。
ジャンルの制約の解放と、ジャンルの意義の否定は別問題だからね。
で、美術と呼ばれる大ジャンルの中で、
いわば無差別級ジャンルと絵画や彫刻やイラストといったクラス別のジャンル、それぞれの異なった役割を活かせる制度の整備が、必要に思うんだよね。また、カラオケ的な大衆娯楽ジャンルと、高度に知的enjoymentを求めるジャンルなどとかの縦方向や、それが重層するジャンルとか。
2007/12/19(水) 午前 4:33