|
★1:知ることは道徳的にも善いことだって?
モノゴトを知るという営みは、ただ真理を得るという以上に、何か社会的にも良いこと、「善なる行為」なんだ、と言われれば、「ん〜〜まあ、それはそうだろう」、と思うだろう。
にしても、あえてそう言われたら、「ん? ほんとかよ?」 ってどこか怪しい気配も感じるよねぇ。
それでも、「じゃあ、世の中にとって悪いことだと思うかい?」 と重ねて迫られたら、
「まあ、悪いことじゃあないだろうなあ、どっちかって言ったら良いことだよね、フツウ…」
とかってあたりに落ち着きそうだよね。
何かが分ったりするってことは、どこかで人生の役に立つのかもしれないし、世の中にも良いこと、つまり善なる行為、かな、って。
たとえばボクのブログでよく引き合いに出すデリダやジジェクや永井などの哲学の場合。
永井さんの哲学というのは独特のクセがあるので、ある種の人々にはとても反感を起こさせたり、流行などに頓着しない語り口の独特のスタイルは、観点によってはアホっぽく見えて、安直に見下す人もいる。しかしボクの見立てでは、モノゴトのもっともベーシックな次元への論理的追求という点では、高度に徹底している、と判定できたので、あの哲学と絡ませてモノゴトを考えることは有意義だ。
他方じじぇくのテキストは、ラカンという現代思想の中でも超判じ物と古典哲学の牙城ヘーゲルやカントそしてシェリングなどを主要な武器とし、デリダやバトラーなどの現代思想の基礎知識を当然の前提教養としているので、哲学や現代思想の初学者にはキツイ。しかしそうした絢爛豪華な重武装は余計なペダントリーではなく、そのクロスリンクによってこそ見出される論点が、鮮やかに浮かび出る。教科書的な解釈やイデオロギー的な偏見に隠れた思考の潜在的可能性を探り出すその技の切れ味は、たしかに比類ない。それにまた、重装備とはいえその図式化も明解で、同じ例や芸が何度も繰り返されるので、読み返すうちにその軽妙でアーティスティックな面白さに触れられるだろう。
ただ時に技が先走って、ここぞという点では論理が滑っていることもある。だから、院生あたりの小生意気な感性がちょっとバカにしてみる、ということもある。しかし公平に吟味してみると、プロの批判でもその多くはジジェクの水準に至っていない。正しい真理に導く、というよりも、その思考の飛躍や短絡の形が新たな論点を導く、という点では比類ない。
デリダについては、長くなったのでまたいつかm(_ _)m
というわけで、ここらの哲学も、少なくともボクにはけっこう役に立っているワケですね。
ならば、ボクのような他者に役立っている、という意味で、「善なる知」なのか?
★2:「善なる知」の嘘の暴露、にもかかわらず
「善なる行為としての知」という理念は、ソクラテス=プラトンによって確立した。以後、哲学だけでなく、西欧の知の理念となり、あえて疑いを差し挟む余地もない暗黙の指導原理だった(ようだ)。
しかしそれが、実は根拠のない一つの幻想だということを暴いたのが、かのニーチェだった。
そのニーチェの指摘の途方もなさ、というのは、実感としては実はさほど感じられないのだけれど、それはそうしたニーチェ的発想に物心付いたころから慣れているのと、幼少期より、世俗の道徳には何度も異議申し立て教師を困らせていた、という個人的な習性のせいかもしれない。
ともあれ、このニーチェの批判にただならぬ意義を感じた思索者たちは、そのニーチェの知を、ニーチェとは別の形で検討した。そうして、ニーチェの結論を否定する者も数多くいたし、今もいる(センシュウ大の説教者サンなんてアホではないし、彼の師のマルクス主義哲学の大家ヒロマツさんだって、この点はニーチェ側だったのに、ニャンコ先生との論争で依怙地な道徳主義者になっちゃったし)。他方、根拠を問い詰め行くタイプの思索者の多くは、ニーチェの結論を引き受けて、その論証を洗練させていった。そのもっとも洗練された形が、デリダが行き着いた脱構築というものだった。
しかし、その知もまたそれ自体、一つの「善なる知」として、それも、「より一層善なるもの」として捉えられる。このことは、「善なる知」という捉え方の真理性を示しているのか、それともその幻想の強靭さか、あるいはそこで働く何らかの不可避的な力を示しているのだろうか?
善なる知の幻想を暴く知とは、その善の善性の嘘を暴くという限りで、当の善の基準からすれば「邪悪なる知」にほかならない。しかし、その邪悪さこそが、従来の善の欺瞞を暴くことにおいて、真に善なるものとして言祝がれるのだから。
ニーチェからデリダにいたる徹底した啓蒙=開明としての脱構築の知は、こうして「善なる行為としての知」の無敵の限界に君臨する。
永井は、「善なる知」の源泉にあたるプラトンの観点を、それは一方で知を過大評価し、他方で過小評価している、と批判した(『<魂>に対する態度』34頁)。過大評価とは、知こそが良き生への唯一の途だとする点で…。過小評価とは、知がもたらすものは善なる生き方だと、知の帰結を善という意義に極限してしまう点で…。たとえば「邪悪なる知」(道徳的善を否定するような知)だってありうるのだし。結局「知は善である」という観点では、知という行為それ自体の意義が、通り過ぎられてしまうことになる、というわけだ。
★3:知のゲームの基準とそのゲームを含むゲーム
知という営み以外の場合はどうか? たとえばスポーツでも他の形のものでも娯楽ゲームは、それに興じる人には、「道徳的な善」をもたらすものではないけれど悦びをもたらす、「悦ばしき行為」だ。しかし、悦びに至る途は、娯楽ゲームに限らない。だが他方、いかなる悦びも与えない娯楽ゲームは、無意味だろう。つまり、娯楽ゲームについて、「悦ばしきゲーム」という言い方は、その核心を記していて、そこに過不足はない。(そして芸術というゲームは、娯楽ゲームの中で特殊な再帰的構造を育んだ、その意味で、高度な娯楽ゲームのジャンルだと言える)。
では、知というゲームは、道徳的価値から分離できるだろうか?
道徳的善に関わらない知、というものは、少なくとも善に直接には関わらない知、というものは、十分に想定できる。上の「ゲーム」には、「知というゲーム」もまた含められるのだから。そしてそこには「善なる知というゲーム」さえ含まれる。さらには「邪悪なる知」というゲームさえ。
ここで詳しく踏み込む余地はないけれど、道徳的価値とは、人々が互いに害を避け、時に互助しあうための、人為的に仮構された価値規範にすぎない。だとしても、そうした価値規範が、世の中にとっては不可欠であることに変わりはない。だから、その根拠は幻想だから、道徳の根拠付けなんて必ず嘘だと判明しても、それに従うのが善いことなのよ、という「善なる嘘」が語られ、信じられ続ける必要もある。
こうして知の探求というゲームは、それ自体では、道徳的善悪とは別のゲームとして成り立っている。ジャンケンすることが、時には世の中の利害に関わり、道徳的な何かに関わることさえあっても、ジャンケンというゲームそれ自体は、グーチョキパーの優劣がそのゲームのコアである。同様に、知のゲームは、知としての正誤や、知的意義の有無や大小(などの価値基準)で測られるゲーム空間で成立する。そして、そのゲーム空間の中での価値の達成は、ヒトに道徳的価値(善)とは別の悦びを与える。
この点から見ると、「善なる知というゲーム」も「邪悪なる知というゲーム」との対立と包み込み合いの全体も、「悦ばしき知というゲーム」のサブカテゴリーであらざるをえないことになる。
このことが示唆しているのは、善も邪悪も、道徳的な善悪などより、はるかに広い意味での「良し悪し」という基準の地平の中にある、ということだ。
★4:道徳の追走vs趣味の逆襲
善悪の基準への問いがどこまでも累進することを、脱構築の知は見出した。そしてその知の優位は、知ることのゲームにおいて測られる。知は善である、という知は、その知には根拠はない、という知に敗北する。知のゲームの基準、真理性においては、知を善に含むことは偽であり、知としては負けなのだ。
だがその知でさえ、「悪ならざる善」こそを求めざるを得ない社会という場に公開される限り、「善なる知」として把握されざるをえない、という面がある。知の言葉は、それが「公開」された時には、他者たちの間で、世の中にとっての意義を測られる何か、となる。
だからといってその意義は、ただちに「道徳的善悪」というわけではない。他者たちの間とはいっても、そこが学究のゲーム空間をなしている場なら、何よりそれは知的価値で計られるゲームの対象だ。知の言葉は、そうした知的ゲームの優劣によって、悦ばれたり悦ばれなかったりするものとして現れる。
しかしさらに、そうした知的悦びや芸術ゲームの作品享受の悦びを、それも他者に悦びを与えるのだから他者への貢献だ、というように、より高次の道徳的意義で決済しようとしたら?
善なる知や善なる文化というイデオロギーは、このようにして、なおも追いかけてくる。
善なることこそが、最高の価値であるとしたがる共感共同体の中で、このブログの見解も、善なる知の一つなのだろうか? その閉塞のイカガワシサを微妙に突きそこなっているけれど、もっと適切に突けたとしても、善性もまた競り上がって、再び知を道徳的善悪の内に捉えてしまうのだろうか?
このボクでさえ、邪悪に善行をしたい、という趣味があることもまた確かなようなのだ。
しかし……この最後の文章は、「趣味」が、善悪基準の、さらに上位に君臨しているじゃないか(^o^)
(ん〜、イマイチ、まだ論理の構成が麗しくないなあ。きっかけが、学芸員的知性に辟易しているシニカルな学芸員や現代美術業界に怨念を抱いている美術家たちとの議論と、他方での反道徳的なアノ哲学者さんとのヤリトリという、ひどくかけ離れた議論に通底する問題からだったんで、異質なものの短絡プロセスが錯綜する。ヨソでほとんど見たことない論理展開であるようには思えるけれども。何か気付いたり感じたりした方いらっしゃったら、コメントくださいませm(__)m)
|
本文中で永井、ジジェクと並べて書き損なったデリダについても、勢いで一言w
フランス系思想や哲学は、パリが20世紀前衛芸術のメッカ、パリ産ゆえに、絢爛な修辞が導く飛躍の面白さは英独系にはないものがある。でも論理的展開は浅かったりする。
その中でデリダは読解の緻密さでは、際立っていた。
あの脱構築というのは、カントが、理性の越権的使用の場面でのみ見出していたアンチノミーを、
根拠付けの言語行為には必ず伴うコトとして見出した、とボクは見ています。
だから実は、デリダが抗っていたヘーゲル弁証法に似ている。止揚なき弁証法。
とはいえ、その点に固執しすぎ、哲学的に積極的な展開はあまりなかった。その意味で意外なことに、分析哲学系の言う「哲学のホコリを払う」という作業がデリダの中心だった。
でもデリダは掃除の仕方が超変態なので、奇妙なホコリを世界中に撒き散らかしてしまった。その微妙さこそ、彼の最大の美点に思えます。
2008/4/1(火) 午後 8:47
ウィトゲンシュタインには純粋さを感じますが、論理実証主義者からは不純さを感じてしまいます。他者の信念を否定することに重点が置かれているような気がするからです。不純なものには美しさは感じられません。
野家さんに関しては「バランス感覚に秀でている」という表現、「そうだな」と思いました。非常に説得力がある。けれども、「その先が知りたい」という欲求をおぼえました。ジジェクの本は読んだことありませんが、永井さんに対する「飛躍」という表現も納得です。永井さんは知りたいことをズバリ言ってくれる感じを受けます。
2008/4/1(火) 午後 11:48 [ よしあき ]
デリダに関してのコメント、勉強になります。ぼくもデリダの「超変態さ」、「微妙さ」、それによる“美”を感じ取れるほどの読解力と感性が身についたらと思います。デリダに対しては本当に興味があるのでこれを機に一冊じっくり読んでみたいと思います。
2008/4/1(火) 午後 11:56 [ よしあき ]
デリダは、哲学学び始めた頃、もっとも分け判らないモノを読めれば、後が楽だろう、という不純な動機で読み出したんですw
もっとも論理的に周到・緻密だと思えた廣松(西田をマッチョにしたような面もありますw)と、もっとも詩的に思えたデリダを両輪として哲学に入り込みました。
そのうち、その両者がけっして捉えられない間隙を素晴らしい精度で突いていた永井さんの哲学の凄さを知りました。
(デリダの案内では、林&廣瀬さんや高橋さんの本がもっとも明快だと思います。斎藤さんのはケナゲな感じ。その後、ジジェクのデリダ批判を読むと、論点が広がるんじゃないかな)。
2008/4/2(水) 午前 0:10
「もっとも詩的に思えたデリダ」、なんかますますデリダに興味が湧いてきました。ぼくは対照的と思えるニーチェとウィトゲンシュタインを両輪として哲学をしようと思っているところです。そういえば永井さんは、ニーチェについてもウィトゲンシュタインについても西田についても本を出していますよね。
2008/4/2(水) 午後 2:10 [ よしあき ]
「なんちゃってという言葉自体は、永井均さんが昔、言語表現の根源的構造として示した「超越論的ナンチャッテビリティ」という言い方の応用です。言語表現は常に「なんちゃって」という仕組みを持っているという見解で、それが「完全な理解」や「完全な共感」などの原理的な不可能性を示している。」
これについて質問したいのですが、この「なんちゃって」というのは、「そうかもしれない(そうでないかもしれない)」と言い換えてもいい言葉ですか?例えば「神は存在する」と誰かが言ったとき、「そうかもしれないし、そうでないかもしれないね」と言ったり、「「1たす1は2である」かもしれないし、そうでないかもしれない」と言ったり。全く違いますか?「超越論的ナンチャッテビリティ」、気になります。
2008/4/2(水) 午後 2:20 [ よしあき ]
あはは、いろいろ聞かれてしまったw
「ナンチャッテビリティ」は、砕いて言えば、言語行為は構造的に他者の言語の引用だ、ということを示そうとした言い方なんです。
だからモリノヒトさんがおっしゃるように、常に「そうではないかもしれない」という別の言明の可能性を孕んでいる。
そこにデリダの詩的表現も関わるのですけど、説明長くなっちゃったんで、友だち限定で、新しい日記にします(^o^)
2008/4/2(水) 午後 6:50
説明ありがとうございます。言葉の体系が出来上がっている今の世においてはすべて他者の言語の引用になってしまうでしょうけど、最初の人類、言葉を使い出した・創り出した人間においては他者の言語の引用ではないと思いますが、その辺はどうなんでしょうか?
友達限定というのはファン限定ということですか?ぼくもその日記読めますか?楽しみにしてますね(^-^)
2008/4/3(木) 午前 10:25 [ よしあき ]
夕べもうアップしてあります。森の人さんは、読めると思いますよ。
でももうNewのマークがついてないなぁ。Newマーク、こんな早く消えるんだっけ?
書庫の「哲学03:脱構築系」に「ニーチェ・デリダ・永井:女=真理・詩・言語の限界、へのsupplement 」って、もっともらしいタイトルで入ってますw
2008/4/3(木) 午後 3:15
はじめまして。哲学初心者です。とても知的好奇心を刺激される記事ですね!わたしは最近フーコーの入門書を読み(内田隆三著)、知と力の関係が気になっています。。
ニーチェはまだ読んだことがないですが、力=善と考えていたのでしょうか?それなら知を追い求める行為、知のゲームもニーチェ的には善ということになるのでしょうか?
馬鹿な質問でごめんなさい。。
2008/4/4(金) 午後 11:41
花椿さん。ゲストブックの方でもありがとうございますm(__)m
このお返事、今夜は時間が取れないので、少し待ってくださいね(^^;
日曜になっちゃうかもしれない。
ヒトコトだけ先に記しておくと、
ニーチェの善は、普通の道徳的善を否定した上で出されている点、
ニーチェが西欧形而上学を批判したそのやり口を、ニーチェの思想自体に向けるとどうなるか? そのとき、ニーチェの「力への意志」はニーチェ的批判に耐えられるか、という点
この二つが、重要なポイントだと思います。
2008/4/5(土) 午前 1:14
唐突な質問に丁寧に答えてくださってありがとうございます!!
ブログにも訪問していただきありがとうございました!!
勘違い部分。
ニーチェでいうところの知とは、一般的な知(西欧形而上学、わたしのイメージする学問)ではなくて、ニーチェ的知「力への意志」のことなんですね。。闘争は終わり勝ったわけなんですから。。
脱構築!とやってる人たちの知のゲームもフーコー的には権力ゲームで、そのことをニーチェ的に「力への意志」として肯定できるのかとごっちゃにして考えていました。
ニーチェ的超人は現実社会では進んで社会的弱者になるかもしれないですね。。
ニーチェの「力への意志」はニーチェ的批判に耐えられるか?とのこと、、わたしには想像もつきませんが、、どきどきしています。。
これからもよろしくお願いします。
2008/4/5(土) 午前 9:29
えっと、まだ締め切りの仕事が終わらなくて、しかもこれから出かけなくてはならないので、もちょい待ってくださいね。
それから、本格的なお話なんて即興じゃできないから(ニーチェそんなに詳しくないし^^;)、あまり期待されすぎないよう…(^o^)
「哲学03:脱構築」の方の箱もたまたまニーチェ話になっちゃってるんで、そっちの部屋で少しノンビリしててください(…って、仮想世界に引き止めといてどうする(^^;)
2008/4/6(日) 午後 0:18
いらぬプレッシャーみたいなのを与えたみたいでごめんなさい。。
他の記事楽しく読んでます!
2008/4/6(日) 午後 2:41
はは、プレッシャーは全然ないのですけど、気になってちょっとマジに考えちゃったら、少し復習したい点が出てきちゃってw、それをササッとする時間がここ数日、取れないので(って、お花見はちゃっかり♡やってきたんですけど(^o^))、で、もちょっとお待ちください。
たぶん、あまり変わんないはずなんだけど、気にしだすと気になっちゃって。面倒な性分で(^^;
2008/4/7(月) 午後 10:02
ニーチェからデリダにいたる脱構築の知は、学究のゲーム空間をなしている場においては、最高の位置に君臨しているけれども、「悪ならざる善」こそを求めざるを得ない社会という場に「公開」された時には、道徳的善悪の基準で、意義を測られる。が、シランクスさんの場合は、「趣味」がさらに高位に置かれている???シランクスさんのブログを全部読ませていただきましたが、「悦び」、「enjoyment」という言葉をよく見かけました。知が悦びを与える行為という感覚をお持ちなのかなと思いました。「邪悪に善行をしたい」というのもニーチェとの繋がりを感じますし、ニーチェも「悦ばしき知識」という本を書いていましたね。デリダもそういったセンスの持ち主なのでしょうか???
2008/4/13(日) 午後 1:11 [ よしあき ]
ブログを全部読ませていただいて、一番興味を惹かれたのは「幻想」という言葉でした。記事の内容と全然関係なく?、幻想という言葉から自分で勝手にいろいろ考えていくうちに、「真理なんてない!すべては幻想だ!」、「真理の“源泉・根源”なんか、分かりっこないし、そんなものなんてない!一からはじまったんじゃなくて、最初から多からはじまったんだ!だから一なる源泉・根源なんてない!」、「源泉・根源への憧憬はもうやめて、幻想を生きるなら、間主観的幻想も捨てて、自分だけの幻想を生きよう!」、なんて、もうそんな感じで、なんかどうでもよくなってきちゃいました。すべて幻想の生なら、せめて悦びとenjoymentの生を生きたいです。マトリックスの映画でいえば、薄暗い地下で生きるのではなく、たとえ幻想であっても明るい地上の世界で生きたいという感じです。
2008/4/13(日) 午後 1:29 [ よしあき ]
もりのひとさん
思いつきや覚書や、一応公開ブログなので、たまたまいらっしゃってくれた方へのあいさつとしてお気に入りの絵や音楽の話などを、気ままに書いているだけだったので、
こんなに一生懸命、読んでいただいちゃうと、嬉しいけれどちょっと困惑しちゃいます(^^;
この日記の末尾にも書いているように、ボク自身がまさに考え途中の未完の思考の断片なので、
幸か不幸か何か刺激になってしまったとしても鵜呑みにはされないでくださいね♪
ただ、気になっているポイントを狭い範囲で公開してみることで、ボク自身が想定外だった問題点などを、他の方が指摘してくださることで、お互い、予想外の思考が進んだりしたら、それこそそれは、楽しくて且つ良いこと、かもしれないし、近頃、もりのひとさんや花椿さんの問い掛けで、予期していなかった思考整理もできました♪
2008/4/13(日) 午後 4:31
花椿さんの呼びかけ、先週、時間がとれずにお応え遅れてしまったけど、
今晩中に、お応えします。
もりのひとさんの、上のコメントについても、
ブログ読んでいただいた経緯からも、ちょっと気がかりな点、責任少し感じちゃうとこ、あるので、ポイント整理しなおしてお応えします。
2008/4/13(日) 午後 4:47
花椿さん、お待たせしました。
ニーチェノート「ニーチェの知と幻想」、ファン限定で書庫「哲学03:脱構築系」にアップしました。あくまで、ノートにすぎませんけど、ご参考になれば…。
2008/4/16(水) 午前 1:21