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儀礼的コミュニケーションの日本的特殊性?
日常のコミュニケーションの大部分は、実は、儀礼的なものだ、ということは、
少し考えれば、なるほどそうだね、と思いいたる場面、多いですね。
2ちゃんねるのウップン晴らしめいた罵詈雑言の応酬も、携帯のメールやミクシィなどの無内容なコメントの交換も、その多くは、コメントのヤリトリで、仲間であることを相互確認し合う儀礼的機能がコアにあるようだし(だからこそ、悪態でなくとも空気を読まない発言は、場違いな荒らし同様、ウザがられる)、冠婚葬祭の物品や言葉の受け渡しなどは、「交感的言語使用」(ヤコブソン)こそがコアにある。
というわけで、コミュニケーションとは内実のある意味のヤリトリだ、と信じていすぎるのは社会的には病んだ態度なんだよと、ジジェクはのたまう(西洋でも、儀礼的応答こそが言語活動のコアだというわけですね)。 もちろん、ジジェク自身は、発言の内容に加重する側、つまり社会病質者の方。ただし、その内容に、外箱の面白さ(儀礼性)から引き込もう、という狙いもあって、あのエキセントリックな表現スタイルとなってもいるのでしょう。
だとしても、日本的なコミュニケーションというのは、特にこの儀礼的な面が重視される、ということもよく言われるし、ジジェク自身、『ラカンはこう読め!』の日本語訳序文に、黒澤明の『羅生門』を枕に、日本人こそこの儀礼性に極端な感受性を持っている、と、お世辞だか皮肉だか分りにくい、それこそ儀礼的な挨拶を寄せている。
まあ実際、引き出物などに典型的な儀礼的交流では、箱の中身より、箱の受け渡しそれ自体が担う重みが大きいですね。そこでは、中身の空虚以上に、その儀礼に参加したかどうか、こそが問われる。参加しないと社会からはみ出しもの扱いされかねない不安が、空虚な儀礼を反復させて、儀礼と作法が支える日常を維持しちゃう。
ここで重要なことは、誰もがその内実の空虚さやバカバカしさを分かってはいても、それでもやってしまう、という点にあった。みんな引き出物もらうたびに、中身のツマラナサに文句言ったりしながら悦んでいる(享楽している)のだもの。文句言いながらも、お互いにやり合っている。ということは、「やらない」ことの方が「嫌」だということで、無意識的にであれ、実は「望んでやっている」わけです。
こうして、王様が裸だということは、子供に言われずともみんな知っているのに、それでも王様はハイファッションであり続けているってことですね。
この王様を支える存在が、精神分析で言う「大文字の他者」、象徴界≒日常規範の代表者というヤツ。
もちろんこの「(大文字の)他者」というのは、神様だとか大儀だとか特定の理念に集中していることもあるし、王様や指導者やヒーローに重ねあわされることも多いけど、けれど、そうした実在や表象がなくとも、「そういう者がいる」と信じているから、それに応じて行為しちゃう、という点が、象徴界をわざわざ大他者という点で特徴付けることのキモ、ですね。
そう信じている誰か(他者)がいるのだから、そうしないわけにはいかない、だから自分は信じていないんだけど、やらなくっちゃ、と信じてみんなやっちゃうから、社会規範が維持される。
クリスマスプレゼントする親は子を、「サンタを信じている主体」と見なす。もちろん子は親のことを、「子がサンタを信じている」って信じてるんだよねウチの親は、と見なして、サンタを信じているフリをする。そうしてプレゼントをちゃっかりせしめて、「サンタさん、ありがとう!」ととぼける。親は親で、それを喜ぶ。
でも、そうであるなら、西欧的コミュニケーションはもっと実質的、というわけでもないね。そして日本的儀礼性というのは、どうもこの基本構造のレベルではなくて、より特殊なレベルに特徴がありそうですね。
そこでは、儀礼的コミュニケーションそのものが、儀礼的に使用される。
儀礼と作法が累乗化しながら作り出される高階の儀礼性。
儀礼的なパフォーマティヴそれ自体が、内容になっている、これは日本の伝統美術や文学の構成原理にも見いだされでしょう。
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複雑なのは、中には実際信じている主体も混ざってるってトコだね。
しかも信じてるアスペクトが様々だから、またメンドくさい。
ときには、実際信じてることが周りにバレるとKYってことになるし(~。~)
みんな実は信じてないクセに、っておおっぴらに言うとKYってことになることもあるし
ってんで、日本の儀礼はいまだ源氏物語なみにムズカシイですね=^ω^=
2008/3/13(木) 午後 6:45
>実際信じてることが周りにバレるとKYってことになるし
それが、「原理主義者」なんだそうだ。
チェスタトンの『木曜の男』で、アナーキストたちがおおっぴらの場所で大声で「爆弾●〜*ぶっぱなすぞ〜」とかってしゃべりあってると、周りの人たちが笑ってすましてくれる、つまり、あまりに露骨なので「原理主義者」の本音とは思われずにすむ、という話があったけど、スパイがスパイのフリを大っぴらに装うと誤魔化せるということですね。
でも他方で、実際の原理主義者たちは、極左も極右もだいたい平凡人を装っていることが多い。
学芸員やNHK文化番組的な「善意の啓蒙」の儀礼的発言は、
本人たち自身、信じてるんだか信じてないんだか良く分からない、って感じで、「真理を知ってるはずの人がいるのだから、自分も信じてるフリをしなくては」というレベルの低い自己欺瞞を、相互に確認し合っている、というバカバカしさがある。
源氏物語的仮面の相互関係の、アタマの悪い庶民版、ってとこかな?
2008/3/13(木) 午後 7:41
実際、現代ビジュツなんてドコがいいんだかよくわかんないケド、そんなこと言ったらマズいから黙っとこ、ってレベルのヒトが多いんだろうとは思うでしょ?
でももっとコワイのは、たとえばたまたま自分が入社した会社の製品が、入社前はなんだかな〜と思ってたのが、なんか愛社精神湧いちゃって、スゴクいいモンに見えてきちゃった、という方が多いんだよ〜
というワケで、学芸員さんたちは結構本気でいいモンだと思っているのサ=^ω^=
2008/3/13(木) 午後 7:48
そこが、心底怖いトコ、なんだよね〜。
まあ、オイラが現代美術にそれなりに入り込んだ時も、そうだったけど、
ただあの時は、コンセプチュエルアートって、ナンか不気味なことやってる、っていう、妖怪の正体暴き、みたいな関心が強かった。
しばらくして判ったのは、「ホントに妖怪だった」つまり、魑魅魍魎や憑き物たちの戦場だった、ってこと。人間たちは、それを知らずに呼び出していながら、それに操られて翻弄されていた、という…。
精神分析のような見方が面白いのは、そういったヘンチクリンな快楽に支えられた文化の秘密に触れる、そんな視点を見つけたことかな。
2008/3/13(木) 午後 7:55
そーだね。
そこで「王様はハダカじゃん、みんな何言ってんの?」と訴えたところで、ブラックハウスみたいに抹殺されちゃうダケだから、オトナになって、うまくやってクダサイね〜=^ω^=
2008/3/13(木) 午後 7:59
ここでも微妙なのは、そういうこと↑をちょっとだけ、ほんのチョットだけ言うと、有難味が出る、という微妙さ。
そこがまた、儀礼というか作法っぽいよねぇ。
美術史業界の知的な層では、ここ数年、ナンだかようやくにして、
パレルゴンが流行ってるみたいだし…
今ごろ、今さら、という感じだけど、
まさにその「遅れ」が、作法の作法たるユエン、なんでしょうね^^;
2008/3/13(木) 午後 8:05
そっか。
いつも早すぎるシランちゃんデシタ=^ω^=
2008/3/13(木) 午後 8:07